「君を愛することはない」と言った夫に呪いをかけたのは幼い頃の私でした
湿った唇に手をあてた気弱そうな男の子の耳元で「初めて?」と幼くも甘い声で囁く。
男の子は無言で頷くことしかできなかった。
「あなたの初めてを奪ったのは、わたし」
6歳になったばかりのリズリィは小悪魔の微笑を浮かべ、真っ赤なルージュをひいた唇を指先でなぞった。
「ほかの誰かと口づけを交わすとき、あなたはきっとわたしを思い出す」
黒と赤のドレスを着せられ、ばっちりとメイクを施されたラッドロー王国の王女リズリィ。
彼女は停戦協定のために訪れたアズハール王国の王宮で、退屈そうにしている男の子を引っ張り出して唇を奪った。
この事実を知っているのは二人だけ。
彼女は記念すべき日に敵国の男児に決して消えない呪いをかけた。
◇◆◇◆◇◆
「君を愛することはない。私は呪われているのだ」
夫婦となった王族の住む後宮の一室。
今日、リズリィの夫となったクライドは冷めた瞳で彼女の腕を見ながら言った。
正しくは目を見ないように視線の行き場を探した結果、リズリィの腕に止まったのだ。
ミルクティーのような優しい色の髪。切れ長の目はどこか憂いを感じさせる。
リズリィは敗戦国の若き王子の侍女として捕らえられた。
ラッドロー王国はアズハール王国の反撃により滅びた。
若き王子――レセウス以外の王族は処刑した、と国民には公表されているが実際はそうではない。
レセウスの専属侍従だと身分を偽ったリズリィは、彼と共に人質としてアズハール王国へと連れて来られた。
アズハール国王は寛大な心でレセウスを迎え入れ、いずれは自分の娘と結婚させると公言した。
そして、レセウスを次代のラッドロー国王として国の立て直しを図ろうとしていた。
リズリィは年の離れた唯一の肉親であるレセウスを守るために必死だった。
覚悟の上で身分を偽り、王宮へ攻め入ったアズハール王国の騎士に降伏の意を示した。
幸いなことにリズリィの正体が明るみになることはなく、王宮での人質生活が始まった。
想像よりもずっと待遇のよい生活に安堵していたある日、アズハール国王は王太子であるクライドとの政略結婚をリズリィに命じた。
政略結婚とはいえ、王太子の妻となれば未来の王妃だ。
ただの侍女が、しかも人質の立場で簡単になれるものではない。
訝しむリズリィだったが、大急ぎで婚礼の儀が執り行われ、あれよあれよと妻になってしまった。
婚礼の儀で化粧を施されたリズリィを見たクライドが一瞬惚けたような気もしたが、それは彼女の勘違いだったのか、すぐに表情を正していた。
儀式の後、本来であれば夫婦としての最初の仕事である初夜を行うべき後宮の一室にて、立派な衣装を脱ぎ捨てたクライドは「君を愛することはない」とはっきり言った。
リズリィとしても違和感はない。
これはただの政略結婚。しかも、クライドは女性嫌いで、どの女性に対しても冷たく接すると聞いていた。
「理解しているつもりです。クライド様も本望ではなかったことでしょう。何も異論はございません」
「私の噂については聞いているだろう?」
「はい。レセウス様のそばにいられるのなら、これ以上の幸せはございません。クライド様にご負担をかけないように精一杯尽くします」
クライドと深い関係になり、万が一にも自分の身分について口を滑らせるようなことになっては一大事だ。
リズリィは公の場でのみクライドの妻を演じ、そうではない場面では距離を置くつもりだった。
リズリィにとって何よりも優先すべきは弟のレセウスであり、自分のことはどうでもよかった。
ただ、自分が処刑されてレセウスをひとりぼっちにさせることは避けたい。そのためには我が身を守る必要もあった。
「レセウス王子は13歳の誕生日にラッドロー王国に戻ることになっている。君もついて行くのであれば、それまで耐えてくれ。その日がくれば可及的速やかに離婚の手続きをしよう」
「お気遣い、痛み入ります」
後宮での生活は人質生活よりも退屈だった。
要するに何もするな、と言われているようなものだ。
夫が後宮に顔を出すのは寝るときだけ。それも寝室は別で顔を合わせることはない。
複数いる侍女たちの邪魔にならないように自室に篭って、王太子妃としての勉強をするだけの生活が始まった。
幸いなことにリズリィは元王女だ。
礼儀作法は身についているから、あとはアズハール王国独自のルールを頭に叩き込めば問題はなかった。
むしろ、侍女としての演技の方が難しかった。
異母姉たちよりも質素な生活をしていた自負はあるが、それでも足りないらしい。
王族専属の家庭教師から「筋がよい」、「侍女とは思えないほどに堂々としている」などと言われる度に冷や汗を流したものだ。
そんなリズリィにとって唯一の楽しみは弟のレセウスと過ごす時間だった。
レセウスは武芸の才能は義兄たちに及ばないが、心優しく何よりも聡明な子だった。
停戦中にもかかわらず父親であるラッドロー国王がアズハール王国に侵攻を開始し、敗戦が確定した日。
リズリィが言った「わたしのことは姉ではなく侍女として接しなさい」という指示に従い、一度もボロを出さない姿は圧巻だった。
昔からレセウスがリズリィのことを「リィ」と呼んでいたことも大きいだろう。
リズリィは「お姉様」などという、つまらない呼び方をさせなかった過去の自分を密かに褒めた。
「リィ! 結婚生活はどう?」
いつも通り、気さくな態度で尋ねるレセウスにリズリィは微笑んだ。
「はい。大変よくしていただいています」
「それはなによりだな。僕の大切なリィなんだから」
屈託のない無邪気な笑顔を見るだけで元気になれる。
それはリズリィだけではなく、アズハール王国の人たちにとってもそうだった。
レセウスを一目見て、不思議な力を感じ取ったアズハール国王は、義理の息子として教育を行き届かさせると約束した。
帝王学のみではなく、レセウスが苦手としている剣術や武術も教え込まれている。
その指南役の責任者がクライドだった。
クライドは王太子でありながら、近衛騎士団の猛者たちの中で腕を磨き、自らも戦場へ赴いて行く武人でもあった。
剣を持って訓練場に入って行くレセウスの後ろ姿を眺め、一息つく。
(嫌々やっているわけではなさそう。クライド殿下の教えが上手だと言っていたから安心ね)
以前は義兄たちからの虐めのような訓練を受けて、剣術を拒否したレセウスがこんなにも続いているのは喜ばしいことだった。
リズリィは自分には見せないクライドの面倒見のよい一面を見てみたいと常々思っていたが、まだそれは叶っていない。
「おかえりなさいませ」
「あぁ。王子は筋はよいが、思い切りが足りない。なにか心当たりはあるか?」
王太子としての仕事とレセウスへの教育を終えて後宮へと戻ったクライドが上着を脱ぎながら聞いてきた。しかも、リズリィの目を見ながらだ。
服を脱ぐだけでこんなにも色気を撒き散らせるのなら貴族女性から引く手数多だろうに、とリズリィは密かに思う。
「義兄との訓練では倍以上のやり返しをされていましたので、トラウマとなっているのでしょう」
リズリィは迷いなく答えたつもりだったが、クライドは眉をひそめながら「義兄?」と唸るような声で聞き返してきた。
「あっ、レセウス様のお義兄様方です。失言でした」
口元を手で隠し、目を伏せる。
とても夫婦の会話とは言えないが、クライドから話しかけられたことに舞い上がってしまったリズリィは小さな咳払いした。
見れば見るほどに整った顔。引き締まった体。冷たくも美しい瞳。
どれもが女性を魅了する。しかし、クライドはこれまでに何度も結婚の話を断ってきた。
今回は王命であり、相手が未来の義理の弟となるレセウスの侍女ということで仕方なく政略結婚に応じたのだった。
◇◆◇◆◇◆
ある日、リズリィは上流貴族たちのお茶会に招かれた。
(どこの国でも淑女の話題は同じようなものね)
当たり障りのない会話を続け、そろそろ席を外そうかと考えていた頃、一人の夫人が遠慮がちに聞いてきた。
「妃殿下。クライド殿下とは、その……」
言い淀む淑女の考えは容易に察しがついた。
彼女たちはクライドの噂が本当なのか知りたいのだろう。
「噂は本当でしたよ。呪いの真偽はわたしには分かりませんけれど」
リズリィの返答が想像通りだったというように、淑女たちは微笑み、憐れむような目を向ける。
「そうでしたか」
リズリィが何度も聞いた噂。
それは、クライドが貴族令嬢や他国の王女など婚約者候補となった者には必ず「私は呪われている」と伝えている、というものだった。
正式な妻となったリズリィも例外なく告げられた。
噂は正しかったが、クライドの言う『呪い』がどのようなものなのかリズリィも知らない。
それを知っているのはクライドだけなのだから、直接本人に聞くしか知る手立てがなかった。
その日の夜。
寝室へ向かおうとしていたリズリィは、廊下の反対側から歩いてくるクライドに気付き、立ち止まって頭を下げた。
「おやすみなさいませ」
「あぁ。……今日も夫人たちとの社交だったそうだな。世話をかける」
初めての労いの言葉に耳を疑いながらも、深く頭を下げたリズリィ。
しかし、いつまで経ってもクライドは立ち去ろうとしない。
「えっと、殿下。おやすみになられるのでは……?」
「きみとレセウス王子は本当に主従の関係なのか? 私にはそれ以上の絆で繋がっているように見えて仕方がないのだ」
嫌な汗が背中を伝ったのが分かった。
自分がレセウスの血縁者であり、しかも実の姉であることを知られてしまったら……。
リズリィは逃げ出したくなる足を必死にその場に押さえつけ、真っ直ぐにクライドの瞳を見つめ返した。
「いつも穏やかな瞳が揺れているな」
ずいっと顔を覗き込まれ、鼻先が触れ合いそうになる。
リズリィは思わず一歩後退った。顔も体も熱を帯びてくるのを感じたが、それは女性を魅了する甘いマスクが目の前にあるからではない。
絶対に知られてはいけない秘密が明かされようとしているからだ。
「王子はまだ8歳だ。せめて成人するまではそういった関係を築かない方がよいと思う」
「は……?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔のリズリィと、大真面目な顔のクライド。
廊下の影から見ると二人が唇を重ねているようだった。
侍女たちが息を呑んで見守っていることに気づいたリズリィはクライドの厚い胸板を押し返し、場所を変えるように訴えた。
クライドの寝室へと案内されたリズリィは立派なソファに腰掛けて、魂が抜けるほどの深いため息をついた。
(わたしの正体に気づいたわけではないようね。この状況、侍女たちはきっと勘違いしているでしょう)
明日の朝一番、今夜のことを弁明しなくてはいけない、とリズリィは密かに頭を抱えた。
「あの、クライド殿下。わたしとレセウス様はそのような関係ではございません。もしも距離感が不適切であれば改めます」
「いや、王子が心から頼れるのは君だけだ。乱れた関係でないのなら、とやかく言うつもりはない」
それならこの話はこれで切り上げてしまおう、とリズリィは立ち上がろうとしたが、クライドの咳払いで逃げ出すタイミングを失った。
「一つ尋ねるが、本当にリズリィ王女は処刑されたのか?」
「はい」
リズリィは迷いなく即答した。
この話題には二度と触れて欲しくない。
そんな感情を込めて、努めて冷たく突き放すように言い放った。
「そうか」
クライドの一言は重かった。
この世の終わりとでも言いたげに肩を落とす姿は少し可哀想に思える。
なぜ彼が王女時代の自分のことを知っているのか、リズリィは不思議で仕方がなかった。
「リズリィ様をご存じなのですか?」
「……あぁ。彼女は魔女だ。幼き日の私に呪いをかけた気高く美しい、悪しき魔女なのだ」
リズリィは首を傾げた。
この人は一体なにを言っているのだろうか。
これまで魔女などという不名誉な敬称で呼ばれたことはなく、誰かを呪った記憶もない。ましてや魔法など使えるはずがなかった。
「その呪いというのは?」
「愛の呪いだ。私は庭園で彼女と口づけを交わし、一生解けない呪いをかけられた。彼女が亡くなって呪いも解けたかと思ったが、やはり他の女性を愛することはできないようだ」
それは呪いではなく、恋煩いというものではないのでしょうか。
リズリィはそんな風に思った。
初恋の女の子を求めていたクライドの耳に飛び込んできた訃報によって、行き場を失った彼の恋心が彷徨っているだけなのだ。
そう解釈したリズリィの頭の片隅で幼い頃の記憶が呼び起こされる。
(待って! 庭園での口づけって思い当たる節がありますよ!?)
政略結婚かつ偽装結婚とはいえ、女性を苦手としているクライドが気遣ってくれているのは伝わってくる。
それに愛する弟への接し方も優しくて好意的だ。
しかし、そこに愛はないと思っていた矢先の出来事だった。
(……ということはクライド様はわたしのことが好きなの!?)
混乱を極めるリズリィは頬を真っ赤に染めて、クッションを抱き締めた。
***
10年前のあの日。
停戦の申し出に応じたラッドロー国王は平和の象徴として実子を連れて、アズハール王国の王宮を訪れた。
その実子というのが6歳になったばかりのリズリィだ。
リズリィはラッドロー国王と第4王妃との間に出来た子で、腹違いの兄や姉よりも王位継承順位が低かった。
だからこそ、争いから離れた所で育てられたリズリィは純粋な子に育った。それが停戦協定締結の場に同席させられた1番の理由だった。
父親たちの難しい話に飽きたリズリィは気弱そうな男の子の手を引いて、敵国の王宮を走り回った。
自分の住む宮殿とは異なる造りに興奮して、隅々まで案内させた。
そして、最後にたどり着いた庭園の影でお礼をしたのだ。
最初はただのお礼のつもりだったが、ふと母の言葉を思い出したリズリィは思わぬ行動に出る。
『王族の娘なら色香で男を殺しなさい』というのは母の口癖であり、リズリィはそれを実践したに過ぎなかった。
***
過去を思い出したリズリィはあの時の気弱な男の子と同一視できないほど、美青年に成長したクライドを見上げ、体を強ばらせた。
何気なく興味本位で交わした口づけと言葉が、呪いとなってクライドを縛りつけている。
彼は王女リズリィによって施された呪いに苛まれながらも、妻となった今のリズリィと向き合おうとしている。
その事実がリズリィの心を締めつけた。
(そんな……。わたしのせいでクライド様が女性を愛せなくなってしまったなんて)
彼の愛が欲しかったわけではない。
1人の男性の未来を奪ってしまったことをひどく後悔した。
「慈愛に満ちた君でも私の呪いは解けないのだろうな」
「……やってみなければ分かりませんよ」
震える唇で言葉を紡ぐ。
私が王女リズリィです、とは言い出せない。そんなことをすれば処刑が待っている。
しかし、クライドを救いたいという気持ちも本物だった。だからこそ、勇気を振り絞った。
「眠り姫は王子様のキスで目覚めると言いますし。物は試しです」
「いや、ダメだ。メイクをした君は彼女にそっくりなんだ。君の唇を見るとリズリィ王女を思い出してしまう。すまない、出て行ってくれ」
「……はい」
リズリィは静かに寝室の扉を閉めた。
◇◆◇◆◇◆
あの夜から2人は一言も話していない。
それどころかクライドがリズリィを避けているのか、顔を合わせることもなかった。
(どうしよう。言うべきかしら? でも、身分を知られるのは困る。……どうすればいいの?)
リズリィは悶々とした気持ちで数日を過ごした。
何をするにも集中できなくて、何も手につかない。
気分転換に廊下を歩いていると、庭園で空を仰ぐクライドを見つけた。
愁いに沈んだ顔を見てしまい、リズリィは胸のもやもやに押しつぶされそうになった。
「クライド様!」
考えるより先に足が動き出し、口が彼の名を叫んでいた。
声に気づき、いつもの冷ややかな目つきに戻ったクライドの手を取ったリズリィは庭園の影への誘った。
「なにを!?」
「クライド様、この場所を覚えていますか?」
ここは色とりどりの花が咲き誇る庭園の中で唯一死角になった場所。
誰からも見られることのない秘密の花園だった。
「……ここは、私が呪われた場所だ」
「もしも。もしも、あの人が生きているとしたら」
「冗談を言うな。彼女は死んだ。最期に好きだった、と伝えられればよかったな」
鼓動が速くなる。
わたしはあなたの目の前にいます! とは言えずにいるリズリィは震える肩を両手で抱いて、うずくまってしまった。
「どうした!? 今日の君はどこかおかしいぞ。具合が悪いのなら医者に診せよう」
「ち、違うのです。あの、わたしが。わたしが……」
わたしがリズリィです。
そう言えれば、どんなに楽になれるか。
好きだと伝えてくれる人がいるのに。その気持ちに応えたいのに。
そう思えば、思うほどに喉が締めつけられるように声が出なくなった。
「言いたいことがあるのなら、ゆっくりでいいから言ってくれ。声を荒げたりはしないから」
「……わたし。わたしが、リズリィ……なんです」
言ってしまった。
一度口から出した言葉は二度と取り返しがつかない。
リズリィは死を覚悟した。
弟が王としてラッドロー王国に戻る姿をひと目見たかったが、それは敵わぬ夢となった。
自らの口で正体を明かしてしまった。
いくら想い人だとしてもクライドが敵国の生き残りである王女を生かしておくはずがない、そう思った。
「本当にリズリィ王女なのか。では、私が婚礼の儀のときに感じた既視感は勘違いではなかったのか?」
「……はい。間違いなく、わたしがラッドロー王国の第9王女リズリィです。あなた様の唇を奪い、一生解けない呪いをかけた魔女です」
大きな瞳に涙を溜めたリズリィにクライドの顔が近づき、背中に手を回される。
(拘束されるのね。でも、これで彼の呪いは解けたでしょう。過去のわたし以外の誰かを好きになれるといいな)
もやもやしていたものを吐き出したことで一気に冷えたリズリィの体を温めるように、クライドが強く抱き締める。
「わたしにとってレセウスは主ではなく実弟です。謝って済むことではありませんが、嘘をついて申し訳ありませんでした」
肩を震わせながら、涙声で必死に訴えるリズリィを更に強く抱き締めた。
「幸せな日々でした。一時とはいえ、クライド様の伴侶であれたことを誇りに思います」
「なにを言っている。俺の呪いはまだ解けていないぞ」
突然変わった一人称と声色。
これまでの穏やかすぎて冷たく感じる声から一変して、必死に自分を抑えつけているような声だった。
抱き締めていたリズリィから離れ、情熱的な瞳で彼女を見つめる。
「場所を移すぞ」
リズリィは手を引かれ、王宮内を小走りに移動する。
そのとき、より強く過去の記憶が呼び起こされた。10年前はリズリィがクライドの手を引いて廊下を走っていたが、今は立場が逆になっている。
ばたんとクライドが自室の扉を閉めた。
クライドは嬉しそうな、それでいてどこか複雑そうに顔をしかめている。しかめっ面だとしても、整った顔には全く影響しない。
リズリィは頬が上気したクライドを初めて見て、これから何が起こるのか想像もつかなかった。
「俺と結婚しよう」
「は……? えっと、もう、しています」
「最初から君を妻として見ていなかった。父上に命じられたから仕方なく、という気持ちばかりだった。それに君を愛することはない、などと血迷ったことを言ってしまった。許してくれ」
「そんなことありません。あなたは心を尽くして、目を見て話してくださいました。それに、レセウスの指導もしてくれた。心から感謝しています」
お互いに立ち尽くし、これまでに隠し続けてきた気持ちをぶつけ合う。
「子供の頃からずっと君に恋していた。ずっと求めていた。俺の想いを受け取ってほしい」
「わたしもあなたのことが好きなのだと思います。多分、一目惚れです。でなければ、出会って間もない人に唇を許すはずがありません」
リズリィはクライドの胸に額を押しつけ、苦しそうに続ける。
「わたしはこれからもレセウスの成長を見守りたい。クライド様と離れたくない。だけど、いずれアズハール国王を治めるあなたの邪魔もしたくない。……死にたくない」
「大丈夫だ」
クライドはリズリィを抱き締める手に力を込めた。
「君を父上の前に突き出すような真似はしない。敵国の王女を妻に娶ったことは由々しき問題だが、バレなければどうということはない」
「そんな! 殿下に嘘をついていただくなんて!」
「これは2人だけの秘密だ。この部屋に招いたときから覚悟は決まっている。もしも、俺たちの秘密が明るみになるのなら、共にあの世へ旅立とう」
「……クライド様」
「好きだ。結婚した日に言ったアレを撤回して、君を愛しても構わないだろうか?」
そっと離れたリズリィはクライドの大きな手を包み込む。
「ありがとうございます。わたしもお慕いしています。あなたが愛おしい」
「リズリィ……!」
初めて名前を呼ばれた。この地では絶対に呼んではいけない名前。
クライドはそれを噛み締めるように何度も何度も囁いた。
◇◆◇◆◇◆
「リィはどこに行ったの?」
「野暮なことを聞いてはダメよ、レセウス様。お兄様とリィお義姉様はお取り込み中なの」
レセウスの婚約者であるアズハール国王の愛娘がしーっとジェスチャーして、最近見つけた庭園の影へと近づく。
そこは誰にも見られない秘密の花園。
「僕、リィに話があるんだ」
「後にしましょう。今はわたくしを優先してくださいませ」
こほんと小さな王女が咳払いすると、秘密の花園から2人の男女が出てきた。
「これは、これはクライドお兄様とリィお義姉様。誰もが羨む円満夫婦のお二人がこのような場所で逢瀬を楽しんでいらっしゃったのですか?」
ぎくっと二人は顔を見合わせた。
「あ、リィだぁ」と純粋な笑顔で手を振るレセウスは、小悪魔の笑みを浮かべる婚約者に手を引かれて、花園へ入って行ってしまった。
「あらら。もう、おませさんなんだから」
「リィも人の事は言えないだろう。リィはもっと幼い頃にアレをしたんだぞ」
「クライド様、その話は人前でしてはいけません」
「ははっ。そうだった。すまない」
あの一件以来、リズリィは夫の悪い噂を払拭し、クライドは妻の秘密を墓場まで持って行くと誓った。
「そういえば、呪いはもう解けましたか?」
「……いや。このまま呪われたままでいい」
小首を傾げるリズリィの頬に手を置き、優しく囁く。
「呪いが解けてしまっては他の女性に色目を使ってしまいそうだ」
「まぁ。それはいけません。もっと強力な呪いをかけておきましょうね」
やがて2人は国王と王妃になり、息子に王位を譲ってからは幸福な晩年を過ごした。
そして、最期までリズリィはクライドの噂の真相を、クライドはリズリィの秘密を誰にも話さなかったという。
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