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愉快犯

作者: 魅涙

「ねえ、」

そんなありきたりな言葉。

そんな、普通の、言葉から始まるのは人生で1度しかない今日という一日で、それを特別とは思わないのが人間だろう。

ただ、そんな言葉から始まる一日が、これから先の人生を支配してしまうことも時にはあるもの。

そして、その時は気づかないもの。


「ねえ、朔月(さつき)?」

襟元の空いた可愛らしいパジャマを着た彼女が目線を落としたまま彼に問う。

「ん、なーに。」

彼も目線を落としたまま答える。

穏やかな、何ともない朝の風景。お皿とフォークが心地いい二重奏を奏でている。

彼女は1口、目玉焼きを頬張ると彼の方を見ないまま「あれ、取って。」と。

「…あれ…」

彼は彼女のいう「あれ」を頭の中で探す。

「ああ、お塩ね。」

彼はその細くて白い指で塩の瓶をひょいっとつまみ上げると彼女に微笑みかけながら「どーぞ。」と渡す。

彼女は、そうしてやっと彼を見る。見る、というか睨んでいる。

「違う。」

「え、」

違う、らしい。彼女が欲しかったのは、それではなかったようだ。

彼は目を丸くして、でも気を取り直して、

「わかった!ちょっとまってて。」

と席を立ち急いで取ってきたのは、醤油。

にこやかな笑顔で彼女に渡す。

彼女はしかし、「違う。」とまた答える。

彼はすっかり悩んだ様子で

「あれ、じゃ分からないよ。」と、とうとう白旗を上げた。その白旗を横目に彼女はため息ひとつをつきながら「マヨネーズ。」といい自分で、冷蔵庫からマヨネーズを取ってきた。

「マヨネーズ!目玉焼きにマヨネーズかける人、僕初めてみたよ。」

「ゆで卵にマヨネーズ、かけるじゃん。」

「ゆでと焼きじゃ、全然違うでしょ?」

「同じ。」

「そう。」

彼らは決して仲が悪いわけじゃない。

互いの違いを認めている、最中なのだ。

そうして沈黙。

また、金属音の二重奏が始まった。

静かなリビング。時計の音だけが…と言いたいところだがデジタル時計しかないのでそれも鳴らない。

「ご馳走様でした。」

彼が先に言う。

「ご馳走様。」

彼女も続けて言う。

「お皿洗うよ。」

彼が彼女のお皿を持ち上げると、彼女はそれを阻止して彼を見つめたまま

「私がやる。やります。」

「え、いいの?」

「仕事でしょ?準備しなよ。わたし今日、遅くていいの、あさ。」

彼は「ああ。ならお願いしようかな。」

と言って彼女のおでこにキス、をする。


彼女はお皿を洗う。

彼は、スーツを着て、髪の毛を整えて、歯を磨いて、すっかりシャキッとした。

彼女が最後のお皿を洗い終わるころ、彼が彼女に後ろからハグをした。

「…なに。」冷たい声の彼女。

「なんだと思う?」陽気な声の彼。

彼女は、何も答えない。

彼女の口は固く、蛇口の栓は緩んだまんま、水が流れる音がする。

と、彼女は突然口を開いて

「…君の元カノは目玉焼きを塩で食べるんだね。」

「え?」

「君の元元カノは目玉焼きを醤油で食べるんだね。」

「…なんで?」

「いやあ、逆のパターンもあるかな。初めての彼女の方が忘れられないものだもんね。」

「…僕何かした?」

一方的な行為。

応えのないやりとり。

「ね。」に「はてな」で返す日常。

「何もしてないよ、何も。」

彼女は最後の1枚を洗い終え、部屋の隅っこに置かれた背の低い木の棚の一番下の段を開ける。この棚は、彼の私物と彼女の私物が入り交じって入っている。

棚から一つ、小瓶を取り出す。

丸みのある、少しくすみのかかった薄紫の小瓶。

「…あ。」

あ、と彼は声を、漏らした。

「あ、じゃないよ。分かりやすいなあ。」

彼女は小瓶を彼の前に差し出しながら言葉を続けた。

「これ、朔月の?」

「…。」

「香水、だよね?」

「…。」

「つけてるとこ、見たことないんだけど。」

「…。」

「つけなよ。あるだけじゃ、勿体ないよ。」

「いや…」

「なんで?」

彼を口篭り下を向く。首筋の後ろを撫でる、彼のくせ。困ったときの、彼の癖。

彼女はそれを見て溜息をつき、彼はその溜息に怯えたように彼女のことを見られない。

でも、意を決したように彼が口を開く。

「嫌がるかなって。」

この静寂な部屋だからやっと聞こえた、そんな声だった。

「なんで嫌がるの?わたしが。そんなに変な、匂いなの?」

はてな。はてな。ねえ、なんで?

彼女はトドメを刺したいと思っていた。

彼を想って、刺さなかった。

トドメをギリギリ刺されなかった彼はもう一度、恐る恐る声を出した。

「…分かってるんでしょ。もう。」

「分からないよ。言ってくれないと。」

「…一緒に買いに行ったんだ。その、元カノと。」

「…ふーんお揃いなんだ。」

「…まあ。」

彼女はちらっと香水を見下してから、それからサッと彼にふきかけた。

「うえ?!ちょ、」彼は驚く。

彼女の行動は奇行だろうか。誰でも、こうしたのではないだろうか。彼女は、強い。

彼の首筋に鼻を近ずけ匂いを嗅ぐ。

「いい匂いじゃん、嫌いじゃないよ。」

彼女はそのままさっさっと彼の鞄をどこからともなく持ってきて、彼の手を引き玄関まで連れていく。靴も、履かせて

「行ってらっしゃい。」と彼の肩にぽんっと両手をかけた。

彼はぽかんと口を開いたまま、まあなんとも間抜けな顔である。

「あ、ああ…でも…」彼は開いた口をそのまま動かしてもごもご。まだ納得いかないみたいだ。彼女の「奇行」に。

彼女はむっと頬を膨らまして可愛らしく拗ねて、みせた。

「いいの!つけなよ!もったいないじゃん!」彼女の、わざとらしい、という癖。

「…わかったよ。」

わかったよ、と彼は優しく呟く。

「でもね、1つお願い。」

彼女には圧倒的に計画があった。

「その香水、これからは絶対に、

彼の首元に腕を回して

「私と

そうして耳元で

ああ、彼は「計画」に呑まれていく。

「えっちする時にだけ、つけてよ。」

ガン。

堕ちる。愛が落ちる音。おもたあい音。

重たい愛が、前頭葉に落ちる。

潰れる。彼の、前頭葉。

呆然と立ち尽くす彼は、体が火照る感覚だけを感じて人間じゃなくなる寸前の、狼男みたいね。

「さ、行ってらっしゃい。…その匂い、絶対に、落とさないで帰ってきて。待ってる。」

彼女は彼をくるりと回し、彼は玄関とご対面。冷たい玄関と、ご対面。

彼はそうして外に押し出される。

ドア1枚。隔てた。

2人の表情は、どう違うのだろう。

今日も、世界は変わらないなんて

ありきたりな言葉が似合う日々に

彼女の計画は

この日のために彼女は

もう1ヶ月も前から、すべて決めていた。

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