マルスの天井亭(3)
怠け者のマルスは空を見るのが大好き。
何べん言っても働かないので、怒った雇い主が納屋に閉じ込めてしまった。
これでは空が見えないと、マルスは天井いっぱいに朝昼夜を描く。
すると女神サイデアが現れた。
「何と見事な腕でしょう。天でわたくしに仕えなさい、その筆で夜空の穴を埋めるのです」
星が夜ごとに動くのは、うってかわって仕事熱心になったマルスが、完璧な空を目指して何度も描き直しているから……
「“マルスの天井”。私の本にも、この話が」
物語が織られたタペストリーを見上げ、アニスがつぶやいた。懐からあの童話集を取り出し、表題をなぞる。
「友人のためのものです。都の外で療養しているのですが、このところ具合が悪くて。できる限り容態を見ようと……」
生真面目な目が上がり、ジャンシールをとらえた。
「調査を蔑ろにしたいわけではないんです」
「いや、よくわかる。そういうことなら急ぐのも当然だ」
ジャンシールは思いやりを込めて答えた。
二人の様子を察したおかみさんが、そっと皿を置き離れていく。湯気を立てるひよこ豆のシチューと、チーズを添えたふかふかの黒パン。
彼らは長いテーブルの端に並び、黙って料理を口に運んだ。
ふと、アニスがジャンシールの手に目をとめた。
「その傷は?」
スプーンを握る親指と人さし指の間に、赤い稲妻のような跡が走っている。彼は甲を撫でて苦笑した。
「光石づくりでしくじったんだ。線状熱傷っていって、未熟者の証さ」
「なるほど。エーテルの力は危険でもあると……」
うなずいた彼女の声には思索の色が浮かんでいた。
「まったくの憶測ですが、ギルーが魔法素質の低下に悩んでいた形跡はないでしょうか」
「素質の低下?」
「ええ。それで非合法の魔導組織に関わった、という筋を考えたのですが」
意外な意見に、ジャンシールは瞳の色を濃くして考え込んだ。
「そうだな、急にエーテルを見失う者もいるとは言うが…… ギルーは直前まで働いていたから、その線は薄そうだ。しかしよく思いついたな」
彼女は魔導全般にうといとばかり思っていたので、ジャンシールは少なからず驚いた。それを悟ったのか、アニスは、
「故郷にいたころは、色々と耳に入りましたから」
とごまかすように食事に向き直った。
見回りの時間があるといい、彼女は早々に席を立った。
それでも店に入る前とは空気が変わっていた。微笑みこそないものの、誠実な物腰で相棒へ振り返る。
「今日こそ行政庁ですね。それでは後ほど」
「ああ、後でな」
いい言葉だ、とジャンシールは思った。まだまだ先があるんだ。
目深に制帽をかぶった彼女が扉の外へ消えると、静かに働きまわっていたロロがスッと寄ってきた。
「兵隊さん、女の人だったんだ! きれいな人だね、水の精霊さんみたい」
と柔和な目をびっくりさせている。
皿を下げにきたおかみさんが「役得ってやつでしょジャンシール、あれじゃあ張り切るわけだわ」と意地悪く言う。
魔導士は泡を食って二人を見た。
「よしてくれ、ただの仕事仲間だ! そりゃ何もないってことじゃないが……」
「大事な相棒さん? そういう感じだったもの」
ロロが楽しそうに笑い声を立てる。
ジャンシールはついつい笑顔を返したり、厨房からのけたたましい警告音に焦ったりと、昼の時間を忙しなく終えることになった。




