マルスの天井亭(1)
「さあ、魂を入れ直そう!」
店の扉を開けたとたん、乾杯の合図が耳に飛び込んできた。このリートスク王国において魂は酒、酒は魂だ。
「あらいらっしゃい、エーテルのかたまりさん。昼間っから飲んだくれに来たの? 大歓迎よ!」
と、振り返ったおかみさんが笑い声を上げる。
中心地から少し離れている“マルスの天井亭”だが、大小並ぶ木のテーブルはすでに埋まりかけていた。にぎやかな会話と食器のふれ合う音、間に広がるあたたかな料理の匂いが小さな店を満たす。
先客たちの頭上を越え、ジャンシールは調理台にかかげられた板書を睨んだ。
「それじゃあ鴨のロースト、香草つきで」
「さりげなくいいもん頼んだねえ。僕は鶉の蒸し物、それから黄ラディッシュのピクルスに南瓜のスープ…」
と、ピオがすでに酔っ払ったような顔を崩す。ノーリックが急いでタマネギ頭をこづいた。
「おい、おごりは一皿までだからな!」
「何だ兄さん、最後までいい顔してやれよ」
先輩の慌てぶりを見て周りの卓までもが笑い出す。
窓からの太陽は優しく、ランタンの光と一緒に大きなタペストリーを照らしていた。天に星を描く男の物語……
“マルスの天井”。
そうだ、これも童話だった。ジャンシールがふと思ったとき、
「お待ちどうさま、黒猫さん!」
と可愛らしい声とともに杯が置かれた。
反射的にふり仰いだ先に、看板娘のやわらかな笑顔があった。
輝く金の髪は丁寧な三つ編み。やや細い目は明るい灰色で、どんな光も鮮やかに映る。ジャンシールはその瞳に笑みを返した。
「やあロロ、久しぶり」
「本当に! あんまり来ないから、通りで見かけて安心しちゃった」
「おっと、よく見つけたな。俺は人混みに埋まるのに」
つい声を上げた魔導士を、看板娘が楽しげにのぞき込む。
「わかるよ、お馴染みさんだもの。素敵なお兄さんと一緒だったね、紺のマントの……」
あれは淑女だと断っておこうか迷ったジャンシールだが、会話の流れを優先した。
「そう、今は騎竜兵と組んでる。特別な命でね」
「それじゃあ、ジャンシールも竜に乗るの!?」
彼女が目を丸くしたとき、「ロアン、こっちできてるぞ!」と野太い声が飛んできた。調理台からじろりと睨んでくる熊のような大男が店主兼料理人、かつロロの父親だ。
慌てた娘が卓を離れていく。皿を滑りこませてきたおかみさんが、
「うちの人ったら、殿方とくればやかましくて」
と取り成すようにささやいた。
愛娘に近づく男で、異民族の魔導士。歓迎どころでないのは痛いほどわかる、が。
大それた野望なんてない、話ができるだけでいいんだ。
だから威嚇もどきに燻製肉をぶった切るのはやめてくれ、親父さん……
ジャンシールはひたすら身を縮めて杯をとった。イェリガルディンの黄金のりんご酒は、甘酸っぱさと苦みをつれて彼を潤した。
飲み喋り、三人があらかた料理を平らげたころ。
「なあ、調査がこけても思いつめるなよジャンシール」
と、ノーリックがしみじみ語りかけてきた。
「あれから証拠も出ないわけだ。事件じゃなくて、突発的な旅立ちで決まりなんじゃないか?」
「何だノーリック、手伝ってくれるって言ってたのに」
ジャンシールが不満げに返すと、相手は「それがさ」と憂鬱そうに丸い顎を支えた。
「親父から小言だらけの手紙をくらったんだ。どうせ魔導の才もないんだから、故郷に戻って商売を手伝えとね。こういう身になると自由なギルーが恨めしく思えてなあ」
「帰らないだろ?」
当たり前さ、と大商家の御曹司が笑う。
「俺の言いたいのはな、望んでここにいる者で楽しくやるのが一番ってことだよ」
「それにしたって、消えた理由を突きとめないと安心できないんだ」
難しい表情で答えたジャンシールの肩に、「そおかいそおかい、がんばってねえジャアン……」とピオのひょろ長い腕が回される。弱いくせに飲みたがるこの友人、今日もすでに沈没寸前だった。
「ああまたかよお前は。おおい、水だ水!」
と、ノーリックが席を立つ。
客足の落ちついた店内を眺め、ジャンシールは心を鎮めて考えた。
俺はギルーを知らない。
探し出せなければ、一度も会えないまま終わってしまう。そう思うとかすかな酔いも醒めるようだった。
「ごちそうさま。また来るよ」
伸びきったピオをノーリックに背負わせ、ジャンシールはロロに声をかけた。卓を拭いていた彼女がにっこりと顔を上げる。
「うん、待ってるね。次は兵隊さんも一緒にどうぞ」
「ぜひそうしよう」
勢いで答えた彼だったが、「なるほど」と納得した。本当にそうしたらいい。謝ってから食事をともにすれば、少しは気まずさも紛れるかもしれない。
問題はいかに誘うかだった。この状況で、あの相棒を。




