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エンジェル・リード  作者: 宝積 佐知
1.水底のマグマ
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⑻傷だらけの正義

 エンジェル・リードの事務所は、東京都の繁華街の片隅にある。寂れた鉄筋コンクリートの三階建てビルの最上階で、下層は全てテナントとなっている。


 シャッター商店街にヤクザの事務所が隣接し、界隈はいつも不気味に静かで、腐臭が漂う。空は鉛色の雲に覆われ、今にも泣き出しそうだった。


 時刻は午後四時半。

 坂田は航に連れられて、エンジェル・リードの事務所へとやって来た。建物は墓場のような印象を与えるのに、扉を開けると生活感の無い室内に、清潔な空気と濃厚な生命の気配がする。それはフロアの彼方此方に設置された観葉植物の為だった。


 パキラやゴムの木などの有名どころから、坂田が名前も知らないような小さな植物が青々と茂り、まるで森林浴でもしているかのような心地になる。微かに感じる甘い匂いは、肩の力を解していくような安心感を与えた。


 玄関を抜けて応接室に行く途中、壁に油絵が飾られていることに気付く。荒いタッチで描かれた繁華街の風景が繊細なグラデーションで彩られた青く澄んだ絵だった。瀟洒な額縁に納められ、作者のサインは見えない。


 芸術のことは、よく分からない。

 けれど、透明な硝子に守られたその絵画はとても美しかった。




「……これも、エンジェル・リードで売り出している作品なのか?」




 坂田が訊ねると、航は猫のような目を眇めた。




「それは売り物じゃねぇ。うちのボスの宝物だ」




 未だ正体不明のエンジェル・リードのボス。

 裏社会に精通し、界隈の情報を獲得する術を持ち、作品を売る為には手段を選ばない。胡散臭い存在である。だが、その青い油絵を見ていると、どうしてか悪い人間には思えなかった。


 不思議な感覚だった。まるで、汚れた夜の街を朝日が切り裂いて行くような、水底に沈んだ古代遺跡を眺めているような形容し難い感動が胸の内に広がって行く。


 航は、天神の名を呼びながら応接室に入った。

 エンジェル・リードの事務所の間取りはよく分からないが、応接室はリビングを改装したかのように広々としていて、明るい。モノトーンのラグの上に、高級感溢れる革張りのソファが置かれ、チョコレート色のコーヒーテーブルには美術関係の雑誌が広げられていた。


 航は応接室の奥にある扉に向かった。

 壁に据え付けられたテレビが騒がしい。連続銃殺事件、警察の怠慢。坂田は、犯人の目的や正体をドラマチックに演出する報道に怒りを覚えた。マスコミの過剰な反応は捜査の妨げになるし、犯罪を美学のように語られてしまうと、同じ真似をする馬鹿が現れる。




「いらっしゃい、坂田さん」




 後ろから声がした。

 天神侑はエメラルドグリーンの瞳を穏やかに輝かせ、気配も足音も無く其処に立っていた。扉に手を掛けていた航は動きを止め、眦を釣り上げた。




「俺は反対したぞ」

「ルールは絶対だろ?」




 天神は薄く笑った。その声には、人生の酸いも甘いも噛み分けて来たかのような底知れぬ凄みがあった。

 坂田は闇の深淵に片足を突っ込んだような心地で、腹に力を入れた。




「お前等、何を知ってるんだ?」




 確証は無いが、確信はある。

 彼等は、自分達の知らない事件の真相を知っている。

 航と天神の瞳がじっと見据える。まるで肉食獣の檻に丸腰で放り込まれたかのようだった。




「まあ、座れよ」




 天神は演技掛かった動作で席へ促すと、自身もソファに腰を下ろした。エメラルドの瞳は作り物のような伽藍堂で、貼り付けられた笑顔は仮面のようだった。


 坂田は初めて彼等と会った時と同じくソファへ座り、航は壁に寄り掛かった。室内は緊張感が糸のように張り詰め、僅かな切っ掛けで何もかもが崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。




「何から話そうか?」

「……お前等の目的から」




 坂田が言うと、天神は口角を釣り上げた。

 天神は長い足を組み、不敵に笑っている。まるで、疑えたければ疑えとでも言っているようだ。




「俺達は将来有望な若い芸術家に資金援助してる。だが、うちが本当に投資しているのは、社会の未来そのものなんだ」

「社会の未来?」

「そうだ。これからは凡ゆる分野にAIが導入され、機械が人を先導するだろう。その中で生き残っていくには感性を磨いて行くしかない」




 天神は膝の上で両手を組んだ。




「だが、感性なんて正誤も無いものをどうやって磨く? 大衆は情報の真偽を確かめもせずに流される。そして、声の大きな意見に任せて、本当に良いものさえも潰してしまう。……この国の芸術家は自己プロデュースが下手糞だしな」




 天神は皮肉っぽく嗤った。

 言いたいことは、分かる。この社会は情報過多であるが、真贋を見極める技術はとても拙い。それこそが現代の抱える歪さであり、闇だった。


 芸術家は純真無垢な存在であり、其処に金銭は関係無い。

 そういう迷信のようなものが社会全体に蔓延している。坂田もそうだった。だから、エンジェル・リードが裏オークションで作品を売り飛ばしていた時には憤りを覚えたし、抵抗を感じた。


 倫理観や、社会の秩序を守る為のモラルは必要だろう。しかし以前、天神が言ったように、本来芸術と社会的尺度は別の話なのだ。正攻法では報われない芸術家がいる。


 壁に寄り掛かっていた航が、僅かに身を起こした。




「俺達は、俺達が良いと思ったものを一番正当に評価する相手と取引する。評価ってのは上辺だけのおべっかじゃねぇ。社会の共通価値ーーつまり、金だ」

「……」

「汚れ役だろうが貧乏籤だろうが、誰かがそうでもしなきゃ新しい芽は伸びねぇ」




 その声には、不思議な熱がある。

 航は着飾りもせず、恫喝もせず、ただ口を開くだけで視線を吸い寄せるような奇妙な雰囲気を持っていた。そして、航が凜然とした存在感を示す程に、天神という男の気味の悪さが際立つ。まるで、光と闇だ。




「……そういう訳で、俺達はどんな芸術家でも相応の援助をする」




 天神は胡乱な眼差しで言った。




「俺達はニューヨークを中心に活動してるんだが、最近、面白い芸術家がいるって聞いて日本に来た。去年の秋だったかな」




 航が流暢な英語で同意した。彼の言葉に訛りがあることや、時々英語を使う理由を理解する。そもそも、日本人ではないのだ。




「仙台のアートバーゼルでその絵を見付けて、俺は天才だと思った。間違いなく売れる作品だと」

「……でも、兎に角、不気味だった」




 心細い声で、航が言った。

 萎れた草みたいに、航は俯いていた。天神は苦く笑った。




「俺達は意見が割れた時には、コイントスで決める。そん時は俺が勝ったから、投資することに決めた」




 坂田は肩を落とした。

 エンジェル・リードは社会貢献のような高い志を持っている。だが、やっていることは刹那的で、杜撰である。それが彼等の未熟さなのか、他人の人生を弄ぶモラルの問題なのかはよく分からない。厄介なのは、それを成し遂げるだけの権力と資金を持っているということだった。


 ナイフを持った子供と同じだ。

 彼等は己の手にあるものの危険性を顧みず、その場凌ぎの快楽を求めて遊んでいる。自分が善人だと信じている大衆と同じように、リスクを、他人の命を甘く見ている。




「何でもかんでも救える訳じゃねぇからな」




 天神の言葉には、深い諦念が滲んでいた。

 この男は、一体、何者なのだろう。物腰は穏やかなのに、まるで炎に焼かれているような狂気を感じる。普通に生きていたら、こんな風にはならない。彼は相応の地獄を潜り抜けている。


 天神は咳払いをした。




「話を戻すぞ。……俺達がその芸術家を見付けて投資を始めたのは去年の暮れで、連続銃殺事件が起きたのも同じ頃なんだよ」




 悪寒が背筋を駆け抜けるのが分かった。

 坂田は刑事の勘というものを信じている。その刑事の勘が、警鐘を鳴らしている。


 東北のダム建設、アートバーゼル。

 エンジェル・リードの投資、連続銃殺事件。

 この不自然な符号の一致には、必ず意味がある。




「俺達はルールの外にいる人間だ。価値があると思えば、それが獄中で描かれた絵であっても評価する。だが、犯罪者の踏み台になる気は無ぇ」

「だから、捜査の協力をしたのか?」

「それも理由の一つだ。俺達はうちの芸術家の情報をアンタにやる。その代わり、アンタの持ってる情報を寄越せ」




 何のことだ。

 彼等はずっとそうだ。まるで、自分が彼等にとって有益な情報を持っているかのように。




「アンタは、情報規制の中で此処まで辿り着いた。俺達の知らない情報を獲得する手段がある」




 天神は身を乗り出して、真正面から睨み付けた。




「アンタを導いたのは、誰なんだ?」














 1.水底のマグマ

 ⑻傷だらけの正義












 水面に映る紅蓮の炎。閑散とした田舎の風景。

 どちらも卓越した技術で描かれた美しい油絵で、透き通るような淡い色合いをしているにも関わらず、まるで脳に直接焼き付けられているかのように強烈な引力を放つ。


 航はその絵を指して、透明な絵と言った。


 天才と呼ぶのならば、正しくそうだろう。見る者を惹き付けて離さない夢魔のような絵画である。素人の坂田にも、これを買いたいと思う人間が山程いて、その為に大金が動くのも納得出来る。ーーただ、薄気味悪い。




「作者は来栖凪沙という。24歳の女だ。アンタも一度会ってる筈だ」




 航が言った。

 それは坂田がエンジェル・リードと取引した日だった。事務所から出た坂田は、一人の陰気な女性とぶつかった。危うく転倒する所だった女性を、航が支えたのだ。


 あれが、来栖凪沙。

 この絵画の作者。


 天神は携帯電話を片手に、退屈そうに言った。




「事務所に来るように伝えてある。……だが、頑固で偏屈な女だからな、来るとは限らねぇ」




 無担保で資金投資してくれる神様みたいな投資家に、そんな尊大な態度を取れる芸術家もいるらしい。航は絵画に布を被せると、どっしりとソファに座った。




「さて、アンタの話を教えてくれよ」

「俺は大したことしてないぞ。ダムのことを調べたのも図書館だし、あとは人伝に聞いたことだ」




 坂田は、或る懸念が拭えなかった。

 エンジェル・リードは、坂田の持つ情報の元を知りたがっている。連続銃殺事件と投資時期の因果関係を疑っているのだ。




「御託は良いから、話せよ。俺達は警察じゃねぇ。証拠は必要無い」




 航の声は冷たく乾いていた。


 ダム建設の黒い疑惑は情報屋から買い、裏付けが取れている。けれど、被害者の情報を教えてくれたのは、ーー早戸ちなみだった。


 航の彼女で、普通の女子高生である。そんな彼女が連続銃殺事件に関与しているかも知れないだなんて考えたくもなかったし、航に伝えるもの躊躇われた。

 今回の事件は拳銃が使われている。指先一つで他人を殺せる凶器だ。体格や性別はもう関係が無い。




「死神が路地裏にいるとは限らねぇぞ」




 航が言った。

 坂田は、拳を握った。


 もしもーー、もしも。

 早戸ちなみが事件の関係者だったら?

 彼女の家族は、航はどうするのか。


 苦い記憶が脳裏を過ぎる。

 数年前、まだ駆け出しだった頃。或る事件を追っていた捜査本部は、犯人逮捕を目前に焦っていた。世間からのバッシング、政治的圧力。前にも後ろにも進めない泥濘の中を駆け回り、犯人を追い詰め、ーー自殺されてしまった。


 犯人は、十代の少女だった。丁度、早戸と同じくらいの。

 坂田が犯人の元を訪れた時には、彼女は自宅で首を吊って死んでいた。


 加害者家族の涙、被害者の嗚咽、仲間達の嘆き。

 真相を語らせることもなく、司法で裁くことも、償わせることも出来ず、捜査の末に犯人を死なせてしまったあの屈辱が、今も悪夢のように蘇る。


 捜査で犯人を追い詰めて死なせてしまったら、刑事も殺人犯と変わらない。だからこそ、決断は慎重に、十分な裏付けを取る。そんな耳障りの良い言葉を並べて、本当は逃げているだけなのかも知れない。


 結婚して子供が産まれ、家庭を持ち、大切なものが増える度に恐ろしくなる。あの日、死んだ少女が掴めなかった幸せが、警察の捜査が潰してしまった未来が耳元で囁いて来る。


 どうして、私を助けてくれなかったの?




「俺は刑事だ。証拠も無しに、市民は売れねぇ」

「Screw you!」

「……はは」




 腰を浮かせた航とは対照的に、天神は晴々と笑った。




「まだいるんだな、アンタみたいな刑事って」




 深い諦念の底から滲み出したような掠れた声だった。

 天神は額を押さえ、溜息を吐いた。




「……うちのボスは、アンタのことを評価してる。判断はボスに任せる」

「ふざけんな!」

「ふざけてねぇよ。それはあいつの仕事だ」




 航はぐっと押し黙り、勢いよく立ち上がった。そのまま床を鳴らして応接室の奥の扉に入ると、音を立てて閉じてしまった。存在感も性格も苛烈で、嵐のような青年である。

 若さ故のエネルギーは、真夏の太陽のように眩しかった。天神ばかりが楽しげに笑っている。




「素直で可愛いだろ?」

「……まあ」




 坂田は苦笑した。

 天神はエンジェル・リードの窓口係で、航はアルバイト。けれど、彼等の関係性や上下関係というものは分からない。坂田が想像しているよりも、フラットな関係なのかも知れない。


 天神は携帯電話を片手にメッセージを作っているらしかった。俯くと金色の睫毛がきらきらと輝いて見える。坂田は何となく気になって訊ねた。




「アンタ等のボスは、どういう奴なんだ?」

「……あー、そうだな」




 天神は顎に指を添えた。




「バグみたいな奴」

「バグ? コンピュータの?」

「そう」




 天神は子供みたいに無邪気に笑っていた。




「毒を以て毒を制するって言うだろ? 俺達のボスはその毒そのものだよ」




 全く意味が分からない。

 天神の携帯電話が鳴ったのは、その時だった。




「ボスから指令が来たぜ。ーーやるなら派手に、纏めて潰すってさ」




 裏社会の住人が言うと恐ろしい。

 壁の向こうでメッセージ受信の音がした。恐らく、航の元にもその指令が行ったのだろう。


 天神は携帯電話をポケットに入れると、立ち上がって背伸びをした。関節の鳴る小気味良い音がする。坂田を見下ろす天神の瞳は、まるで獲物を見付けた猛禽類のように獰猛な光を宿していた。




「さあ、祭の始まりだぜ」

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[一言] 第8章の「彷徨う刃」読ませて頂きました!私が1番好きな初期のメンバーである葵や霖雨、翡翠が登場していて、どこか懐かしい気持ちになりつつ、以前お送りした私の身勝手な要望を聞いてくださったのかと…
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