妖狐の珈琲と女子トーク
歩道橋の先は、街中を帯状に走る『久屋大通公園』だ。ハコニワ化以前は、名古屋テレビ塔を中心とした南北二キロに渡る都市公園だったらしいが、今では境目が分からない程のジャングルと化している。と言っても、歩道は整備されているため、散歩コースとしては人気だ。
街のシンボルだったテレビ塔は、ハコニワ化によって『あめの居城』と呼ばれる水晶のモニュメントへと姿を変えてしまった。あめの居城は、人間が入ることはできない。何故ならここが、日本を統べる神の居城だからだ。東京ではなく、日本のど真ん中である名古屋に居を構えた神……一体どんな神さまなんだろう。
そんなことを考えながら、あめの居城の下をくぐる。あめの居城はアーチ型だ。下から見上げる居城もまた、とても美しかった。
あめの居城から北へ五分も歩けば、丸の内の雑居ビルの中に『喫茶木蓮』がある。
「趣のある建物だね」
ビルを見上げながら呟いたヒメの言葉に、思わず吹き出す俺とチル。これは趣というより、ただのボロビルだ。
「ヒメ、無理に褒める必要はないよ。ここは管理されてない古いビルだから」
そう告げても、ヒメは不思議そうに俺を見て、そうなのねと首を傾げた。もしかしたら、ヒメの感覚は一般人と違うのかも知れない……。
ギイギイと嫌な音を立てる階段を上り、二階の暗く細い通路を進むと、突き当りに小綺麗な扉がある。その扉をそっと押せば、チリリンという可愛らしい音と共に、豊かな珈琲の香りが鼻孔をくすぐった。
「いらっしゃいませ……って、トキか」
カウンターでひとり珈琲豆を挽いていた長身の男性――佐藤蓮司が、そのイケメンに相応しい笑みを浮かべて片手を上げた。彼の頭には大きな耳がピンと立っており、お尻からはもふもふの尻尾が生えている。見ての通り、彼は人間ではない。しかし精霊でもない。ハコニワ化によって半分キツネになった人々――そう、『妖狐』が彼の種族名だ。数は少ないが、現代では珍しくもない種族だ。ある程度大きな街であれば、比較的どこでも見掛けることが出来る。
「やあ蓮司、邪魔するよ」
そう言ってヒメを先に中に入れると、静かに扉を閉めた。雨で冷えた体のせいか、店の中はやけに暖かく感じた。
「その子がヒメちゃん? 取り敢えず暖炉で体を温めようか」
豆挽きを中断した蓮司は、ヒメを連れて奥の部屋へと消えて行った。暖炉に住む火の精霊『サラマンダー』は、濡れた髪や服を一瞬で乾かし、優しい炎で体を温めてくれる。これでヒメは風邪をひかずに済むだろう。
「あ、チルだ。いらっしゃーい」
蓮司たちと入れ替わりに、奥の部屋からフェアリーが二人飛び出して来た。一人は元より蓮司のパートナーだったサクラ。名前の通り、髪も瞳も衣装も桜色のフェアリーだ。もう一人は俺がメンテナンスしたミズキ。白い髪に赤い瞳で、黒のチャイナドレスを着た彼女は、ミステリアスな雰囲気を漂わせている。
「トキヒコ、来てくれたのね」
ミズキは俺の顔を見ると、艶やかな笑みを浮かべた。メンテナンス中もよく懐いてくれたし……美少女しか存在しないフェアリーの中でも、群を抜いて美人なんだよなぁ。
なんて考えていたら、チルに髪を引っ張られた。
「イテテ……何で引っ張るの」
「トキヒコが変顔してるからよ。別に他意はないんだからね!」
――ちなみにツンデレなうちの子が一番可愛いと思っている。
俺は手近な椅子に座ると、テーブルに置いてあるメニューを眺めた。先月来た時は珈琲が三種類に、ケーキとサンドイッチくらいしかなかったのに、オムライスやパスタといった所謂『カフェメニュー』というやつが増えている。何があったのか。いや、だいたい察しはつくのだが……。
「見たか? なかなかの充実っぷりだろう」
奥から蓮司が出て来て、抑揚のない口調でそう言いながら水とおしぼりを用意し始める。
「お前が作ったオムライスとか……食べられる味なのか?」
俺が恐る恐る尋ねれば、
「いや、俺は作らないよ。ミズキが作ってくれる」
「だよね……」
予想通りの回答に、俺は苦笑いしながら首を振った。
蓮司は昔から――俺たちは幼馴染の腐れ縁だ――珈琲を淹れる腕は確かなのだが、料理はまるでダメだった。どれだけ練習しても食べられるレベルにならず、本人はとうの昔に諦めたのだ。サクラは、こう言っちゃアレだが、料理のセンスがない。それは自他共に認めているし、本人も全く気にしていない。となれば、自然とミズキが作ると言う答えに行きつくわけだ。
「へぇ、ミズキは料理が上手なんだ?」
蓮司に続いて出て来たヒメが、笑顔でミズキに話し掛ける。しかし声を掛けられたミズキはと言えば、何故か微妙な表情になった。隣で小さな欠伸をしながらふわふわ浮かんでいたサクラも、ヒメが視界に入った瞬間ビシッと姿勢を正す。
「えっと……ヒメってフェアリーたちになんかしたでしょ?」
「え、なんで? 何もしてないよ?」
笑顔のままそう答えたヒメは、俺の向かいに座ってメニューを手に取る。サクラとミズキは、蓮司のいるカウンターへ逃げるように飛んで行ってしまった。チルはヒメと一緒にメニューを覗き込みながら、作ったような笑みを浮かべている。
「珈琲の種類すっごい」
最初のページにズラリと並ぶ珈琲の種類を見て、ヒメは思わず呟いた。
そりゃあそうでしょう。全部で五十八種、オススメ欄でさえ十二種も書いてあるんですから。全部見るのは諦めてオススメ欄を見る辺り、意外としっかりした子なのかも知れない。
「うーん……じゃあヒメは紫陽花珈琲と、桜ケーキにしようかな」
「あ、紫陽花珈琲は苦いよ~。オススメは三日月珈琲。カフェオレにして貰うと、すっごくおいしいの!」
「そうなんだ? じゃあそれにする」
注文を決めて蓮司に伝えた二人は、何やら女子トークをはじめたので、そっとしておくことにした。
店内は所狭しと観葉植物が置かれている。と言っても、考え無しに置かれているわけではなく、インテリアとして最適な配置になっているようだ。風景によく馴染んでいる。椅子やテーブルには白い木材が使ってあるため、緑の中の白というコントラストが目に優しく、そして美しかった。
ひとまずミズキの状況確認という目的は達成したわけだが……これからどうしたものか。
「蓮司、いつものくれる?」
カウンターで豆挽きを再開した蓮司に声をかければ、目で返事をしてポットを用意しながら、ちょいちょいと手招きした。カウンター席へ来いってことか……つまり、遂に訊かれてしまうわけだ。
俺がカウンター席へ座ると、蓮司はずいっと顔を近付けて――でも慣れた手付きで珈琲を淹れながら――口を開いた。
「で、ヒメちゃんとは?」
「とは? じゃないから」
予想通りの質問に、間髪入れず突っ込む。
「あれは一方的にヒメが……いや、そもそも――」
非常に面倒だが、俺は仕方なく経緯を説明した。
「――ふむ。雨の中、傘もささずに歌いながら歩く美少女ヒメと偶然エンカウントし、当然の如くおじさんと呼ばれ、チルは何故か異様に怯え、しかし風邪を引いても可哀想だから傘に入れてあげたら、ここまで着いてきたと」
「ザッツライト! ……いや、当然の如くって何だよ」
蓮司が簡潔にまとめたので、サムズアップしてイイ笑顔を見せながらも、聞き捨てならないところは的確に突っ込む。
「八歳しか違わないんだよ? おじさんじゃないっての」
「まぁそれはどうでもいい。しかし……うちのフェアリーの反応と言い、彼女には何かあるのかも知れんな」
良くない。
そう言いながらも、後半の指摘には頷く。
「ああ。とは言えこんなご時世だ。根掘り葉掘り訊くのも悪いからさ。悪い子ではなさそうだし、お茶してのんびりしたら家まで送って行こうかなって」
「……何か――いや、何でもない。そうすると良いさ」
蓮司は何か言いかけたが、ゆっくり首を振ると、俺の前にいつもの青いカップを差し出した。
「ほら、いつものだ」
「お、サンキュ」
蓮司が端切れの悪い物言いをする時は、これ以上何も言わない。だから俺もこの話は終わりにした。
青いカップは、所謂マイカップだ。初めてこの店に入った時、カップセレクトで気に入って購入し、そのまま置かせて貰っている。だから俺が珈琲を頼めば、必ずこのカップで出てくるというわけだ。ちなみに中身は、先程チルが苦いと説明していた紫陽花珈琲である。
「……ドライフルーツっぽい匂いだよなぁ」
「えー、うっそだ―」
俺が一口飲んでそう呟けば、いつの間にかやって来たチルが反論する。カップに顔を近付けて小さい鼻を動かし、ウゲッと渋い声を出した。
「何だよそのオッサンみたいな声は」
「う~~~苦い珈琲のにおい!」
「ははは、チルには早いな」
俺が突っ込んで蓮司が笑えば、チルはぷーと頬を膨らまして俺の肩をポカスカ叩くのだった。
「いいなぁ、仲良し」
そんな俺たちを見てヒメがそう言うと、蓮司が微笑を向ける。
「ヒメちゃんは、ここが気に入ってくれたかい?」
「え? ……うん、すごく好き」
一瞬きょとんとしたヒメは、花が咲いたような笑顔でそう答えた。蓮司は優しく頷くと、
「それなら、たくさん遊びに来るといい。トキは毎日来るし、サクラとミズキもいる」
と言って、俺を見やる。
目が『毎日来るよな?』と言っている。
「ああ、そうだな。時間は決められないけど、毎日顔は出すよ」
「ほんと!? じゃあヒメも遊びに来るね!」
口調は子供っぽいが、笑顔は大人のような――そう、少し淋しい笑顔だと、俺は思った。
それから暫く談笑し、俺はヒメを連れて店を出た。
雨はいつの間にか止んだらしく、空には夕から夜、朱から藍のグラデーションが広がっている。
「うわぁ、綺麗!」
ヒメが小走りで階段を駆け下りると、広い歩行者道路の真ん中で空を見上げた。この時間は比較的人通りが多い。道のど真ん中で美少女が笑顔で空を見上げていれば、みんな何事かと立ち止まって空を見上げてしまうというものだ。
幻想化以来、人々の生活は『比較的のんびり』になったと聞いている。とは言っても、ゆっくりと空を見上げる時間がある人は、一体どれくらい居るのだろうか。
「ああ、綺麗な空」
思わず声を零す人がいるくらいには、心の余裕を忘れているのではないだろうか。そんなことを考えながらヒメの隣まで行くと、
「そこにいると危ないから」
と言って道端まで連れて行った。
「これからヒメを家まで送ろうと思ってるんだけど、家はどの辺り?」
「え……」
俺が尋ねると、ヒメは何故か表情を固くした。
しかし、すぐに笑顔に戻ると、
「大丈夫だよ、ひとりで帰れるから。まだこんなに明るいし!」
と言って、もう一度空を仰ぐ。確かに人も多いし、時刻も夕飯前だ。
ヒメは俺の手を取ってぶんぶんと上下に振った。
「じゃあ、ヒメ帰るね!」
そう言って手を離すと、くるりと背を向けテレビ塔の方角へ歩いて行く。
「うん、また明日」
俺がそう言えば、振り返って満面の笑みで手を振ると、そのまま嬉しそうに歌いながら走って行った。
「ヒメの家はこの辺なのかな」
俺がそう呟くと、肩に座ったチルに頬を突かれた。
「女子の詮索はしないの! さ、私たちも帰りましょ?」
絶対に踏み込んじゃいけない香りのするセリフに、俺は苦笑いで応え、そのままヒメとは逆方向へ歩き出すのだった。