その8
「――卒業証書、東屋優芽」
改まった夕凪の声と共に、どこからか小さなピアノの音が聞こえてきた。旅立ちを彷彿させる切ないメロディに、鼻の奥がつんとした。
「貴方が天明高等学校の全過程を修了したことをここに証します。……いつも私とお茶してくれたり、一緒に絵を描いたりしてくれてありがとう。卒業おめでとう、東屋さん」
「……こちらこそありがとう、こころちゃん」
優しい声でお礼を言いながら、あずが卒業証書を受け取った。丁寧に礼をし一歩下がると、彼女は一度目元を拭ってから舞台を下りた。卒業証書に書かれた名前を見つめて微笑むと、あずは席に着いた。
「北原さん」
「よし!……なんか、緊張するなぁ」
柄にもなく緊張した様子の北原が、壇上にあがっていく。緊張している割には、意外にもしっかりとした所作で夕凪の前に立った。
「卒業証書、北原雅。貴方が天明高等学校の全過程を修了したことをここに証します。いつも元気な貴方がいてくれて、本当に楽しかったわ。またいつか、一緒にスポーツしましょう。それから、貴方のピアノ演奏も聞けたらいいな。卒業おめでとう、北原さん」
「へへっ、なんか照れくさいな。アタシもまたこころとバスケしたいな!ピアノだったら喜んで弾くから、いつでも聞きに来いよ!」
得意げに言った北原が卒業証書を受け取り、晴れやかな顔でこちらへと戻ってくる。
次は俺の番だなと立ち上がろうとすれば、隣に座る一吹に服を引っ張られた。
「なぁ、繋は最後にしねぇ?」
「出席番号順にしようって言ったのは一吹じゃん」
「まぁまぁ。繋はリーダーだし、最後の方がなんかしっくりくるじゃん!」
「そうかな……?」
「いいよな、こころ?」
「えぇ。いいわよ」
「夕凪まで……」
「ということで、次はオレ!」
流れで俺が最後になってしまった。急になんか緊張して、背筋が伸びる。
一吹はまだ夕凪に呼ばれていないのに、立ち上がっていた。
「一吹くん」
「おう!」
元気満々に返事をし、一吹は堂々とした足取りで舞台に上がった。
「卒業証書、南雲一吹。貴方が天明高等学校の全過程を修了したことをここに証します。あなたがいると、皆が笑顔になって嬉しかった。この世界に疑問を抱いてくれたことも、諦めずに最後まで頑張ってくれたことにも感謝してる。ありがとう、一吹くん。そして、卒業おめでとう」
「いいってことよ。すっげぇ楽しかったぜ、こころ。最後にとびっきりの思い出が出来た。……ありがとな」
一吹が卒業証書を受け取ると、涙を堪えたような様子で席に戻ってきた。
「……繋くん」
夕凪がしっとりと落ち着いた声で俺を呼ぶ。
終わりが迫っていた。
あの卒業証書を受け取れば、楽しかった学校生活が終わってしまう。死後の世界で過ごした少し不思議な学生生活。
俺は、この世界に来られて本当に幸せだった。
「ほら、行って来いよ」
ゆっくりと立ち上がった俺の背を、一吹が押す。不器用に微笑んで頷き、俺は夕凪が待つ演台の前へと進んだ。
一歩一歩進むたびに、天明高校での思い出が脳裏をよぎった。それこそ、走馬灯みたいに。
初めて夕凪と出会った日のこと。転校初日で一吹と仲良くなり、次の日には北原とあずと打ち解けていたこと。街の外れでキャンプをしたことや、全力でぶつかりあった体育祭。一日中笑っていた文化祭に、一吹の家で行ったクリスマスパーティ。願いを込めた初詣。
たった一年だったけれど、俺にはこんなにもたくさんの大切な思い出が出来た。
「……夕凪」
彼女の前に立ち、いつものように微笑んだ彼女を呼んだ。こくりと頷き、彼女は卒業証書を手に取った。
「卒業証書、西条繋。貴方が天明高等学校の全過程を修了したことをここに証します。……貴方とここで会った日から、全てが始まったのよね」
「……そうだね」
「貴方はいつでも私の手を引いてくれた。迷い込んだ学生たちと一線を引いていた私を、貴方は簡単に皆の輪へと連れてきてくれた。貴方がいなければ、私はきっと今もまだ一人で世界から目を背けていたかもしれない」
「そんなことないさ。夕凪は強いから、俺がいなくても前を向けたよ。……俺の方こそ、夕凪がいてくれてよかった。ここで夕凪に会えたから、俺はこうして真実と向き合うことができたよ。ありがとう、夕凪」
俺は証書を受け取って笑った。
彼女が、知らずのうちに俺に勇気を与えてくれていた。いつだって俺を信じてくれていたから、俺は世界の秘密に辿り着くことができたし、自分の死も認めることができた。
「……本当にありがとう、繋くん。卒業おめでとう」
もう一度礼を言って、俺は丁寧にお辞儀をした。流れていた音楽が余韻を残して消え去っていく。
体育館の姿も、少しずつ薄れつつあった。
「……これで終わりね。形だけの短い式だけど、付き合ってくれてありがとう」
夕凪が俺と舞台の下で待機している三人にそう言った。
「皆はもう校門をくぐれば、その先へ行けるわ」
「あー……とうとうかぁ」
「名残惜しいね」
「お別れ、だね……」
一吹たち三人が卒業証書を片手に、寂しそうに言った。
「卒業証書を筒に入れたら、先に外に出てていいわ。私は、この世界にお別れを告げてから行く。……卒業式は、以上で終了よ。お疲れさま、みんな」
夕凪はそう言って、俺達に卒業証書を入れるための筒をくれた。
「お!高校の卒業式といえばこれだよな!」
「密かに憧れてたんだよね~!」
一吹と北原が小学生みたいに無邪気にはしゃいだ。その気持ちは分かる、と心の中で思っておきながら、俺は演台の前から去ろうとしている夕凪を引き止めた。
「待って、夕凪」
「なにかしら」
「まだ卒業式は終わってないよ」
俺は筒を演台の横に置いて言った。
「私のことはいいわよ?どうせ、皆より後でここを出ていくのだから」
「そんな寂しいこと言わないでよ。全員でここを出て行こう。短い間だけど、ここで過ごした仲間だから」
俺が立ち去ろうとする夕凪に言えば、いつの間にか一吹たちが壇上に上がってきていた。皆も同じ考えのようで、にこりと笑みを湛えて頷いた。
「ほら、早く!」と北原が夕凪の背を押して演台の正面に連れて行く。
「こころちゃんも、せっかくの卒業式だからね」
「そうそう!お前だけ卒業証書授与やらねぇの寂しいし!」
あずと一吹が夕凪の背を押す。夕凪は目を丸くしたまま瞬きを繰り返していた。
俺は夕凪が立っていた場所に行き、最後に残された卒業証書を手に取った。夕凪はそれを見ると、ふと微笑んで一歩こちらに進んだ。
「卒業証書、夕凪こころ。貴方が天明高等学校の全過程を修了したことをここに証する。卒業おめでとう、夕凪」
「……ありがとう、繋くん」
俺が少しぎこちなく読み上げれば、夕凪は笑って素直に卒業証書を受け取った。彼女は慣れているようで、綺麗な所作で卒業証書を受け取ってみせた。
「……私、いつも見送る側だったから変な気持ち」
「寂しいけど、悪くはないでしょ?」
俺が訊ねれば、夕凪は頷いて笑った。
「んじゃ、皆で校門向かうか!」
一吹の声を筆頭に、俺たちは五人でのんびりと歩きながら校門へと向かった。
体育館を出る時に、名残惜しくて一度振り返る。そこには、もういるはずのない『皆』の姿が見えたような気がした。
俺たちの青春を彩ってくれたクラスメイトたち、先生、委員会の後輩。それから、母さんや父さん、近所の人たち。彼らはデータのような存在だったけれど、確かにこの世界での俺の人生を楽しい物に作り上げてくれた大事な人たちだ。
ありがとう。
溢れそうな涙を堪えて、俺は体育館を後にした。
外に出ると、真っ青な青空が俺達を出迎えた。卒業を祝福するかのように、校門に咲き乱れた桜が舞い踊る。
「おわっ、桜だ!」
「綺麗だな。こんな満開なの見たことないかも……」
「私も……なんか、皆がお祝いしてくれてるみたいだね」
旅立ちに相応しい光景だった。
学校の正門までは、もう五十メートルもない。桜が並ぶこの道を歩いていけば、この世界の出口がある。
もっと思い出に浸っていたい。そんな気持ちもあるけれど、終わりへ向かう物語は急速に時を進めていく。
俺達五人は、青空が広がる門の前に並んでいた。
「……いよいよ、だね」
卒業証書が入った筒を握りしめ、呟いた。生温い春風が、桜色を纏って俺達の間を吹き抜ける。
「迷ってても仕方ねぇ!行くぞ!」
「何でアンタはこういう時だけ決断が早いの」
「なんだよ、雅は怖ぇのか?」
「んなわけあるか!」
「ふ、二人共……最後くらい喧嘩はなしにしようよ」
正門前で夫婦漫才宛らの言い合いをする二人に、あずがいつものようにおどおどしながら仲裁に入る。最後の最後まで何も変わらないなと、俺はその光景を見て少し嬉しくなってしまった。
「こころ、此処から出ればもう別の世界なのか?」
「そうよ。私たちは大切な記憶を取り戻したし、卒業式も行った。だから、その門をくぐれば、本当の意味での旅立ちになるわね」
「だよなー……」
「なんだ、アンタもやっぱ怖いんじゃん」
「怖くはねぇよ。やっぱ、寂しいもんは寂しいなって」
一吹は頬を掻きながら言った。
「でも、会えないわけじゃないよね?」
あずが、皆に向けて微笑んだ。
「なんかね、皆とならまた会える気がする。生まれ変わった世界で、またこうして何でもない話をして笑い合っているような気がするんだよ」
「あ、分かるわ。アタシら、生まれ変わっても何も変わらなさそうだもんな」
あずの言葉に北原が頷く。
俺もあずの言葉には同意だった。根拠はないけれど、皆とはまた会えそうな気がする。またこうして、平凡な学校生活を送っている様子が、容易に想像できた。
「そう言われたら、今すぐこの先に行ってみたくなったな」
「お、じゃあ一人で先行けよ」
「え、皆は行かねぇのかよ!」
「一吹が行ったら行こうかなぁ」と俺が冗談混じりに言えば、一吹はしばし考えるような顔で唸った。
「じゃ、オレが一番に行ってやるよ」
「……やっぱ先越されるのは癪だな」
「雅は何でそんなオレに喧嘩売るんだよ!」
「なんとなく」
「雅ちゃん……」
三人が正門へと一歩踏み出し、覚悟を決めたように晴れやかな顔つきになった。
「さて、行くか!あず、こころ。生まれ変わってもまた三人で女子会しような!」
「もちろん!雅ちゃんもこころちゃんも、また一緒にお話しようね」
「えぇ。楽しみにしているわ」
「約束だからな」
涙ぐみながら、北原が思い切りあずと夕凪を抱きしめた。三人とも、泣きそうな顔で別れを惜しんでいる。
「いいなぁ、女子どもは。オレらもああしとく?」
「嫌だよ気持ち悪い」
「辛辣!……なぁ、生まれ変わってもまたオレとダチになってくれるか?」
一吹が照れくさそうに訊ねてきた。
「当たり前。一吹みたいな明るいヤツがいないと、楽しくないしね」
「つ、繋~!」
「抱き着くのはナシ」
「冷てぇ!」
目を輝かせて飛びついてきそうな彼を止める。むくれた顔をしていたが、さすがに抱き着かれるのは勘弁だ。
「……また絶対会おうな、繋」
「うん、絶対」
俺はそう笑って一吹とハイタッチを交わした。
「それじゃ、オレは一足先に行くとしますか!」
一吹は卒業証書を片手に、大きく伸びをした。
「……一吹」
「先に行ってる。……ちゃんとこころと話してこいよ」
「え、何で……」
「見りゃわかるっつーの。細かいことはわかんねぇけど、何かあるんだろ?これが最後なんだからちゃんと話してこいって」
一吹は俺の肩をポンと叩くと、正門へと歩き出した。一吹には俺の記憶に関することは結局話せなかったけれど、彼は察していたようだ。
「……ありがとう、一吹」
泣きそうな声で礼を言えば、一吹は、眩しい笑顔でグーサインを出した。
「じゃ、アタシらも行くか!」
「うん。雅ちゃんが一緒なら私も怖くないから……!」
北原とあずも、一吹の隣に並ぶ。
「……一吹くん、北原さん、東屋さん。本当にありがとう」
夕凪が正門を超えようとしている三人に礼を言って頭を下げた。
「こちらこそ。それじゃ、また来世で!」
一吹が眩しい笑顔で手を振った。
またね。
三人はそう告げて、門の向こうの青空へと歩いていった。その姿が光に溶けるまで、俺と夕凪は見送っていた。
「……行っちゃったね」
「えぇ……そうね」
「俺たちも行かなきゃ」
俺は手にある卒業証書を撫で、門の向こうに無限に広がる青空を見つめた。
長居はできない。俺達もこの門を抜けて、三人の後を追わねばならない。
その前に、俺は夕凪と話をしなければならない。そうでないと、彼女がここにずっと留まり続けた意味がなくなってしまう。
「……俺さ、ちゃんと全部思い出したよ」
隣に立つ夕凪にそう言って、俺は目を伏せた。
「毎日のようにお見舞いって、いろんなことをしたよね。折り紙したり、絵を描いたり、漫画の話をしたり……。俺、すごく楽しかった」
「……思い出してくれたのね」
「時間がかかってごめん。でも、夕凪のお蔭で思い出すことができた」
俺は夕凪に向き直って、彼女の手を取った。
「久しぶり、こころ」
あの時呼んでいたように、名前を呼ぶ。そうすれば、夕凪は泣きそうな顔で微笑んだ。
「……私、繋くんとまた会えて良かったわ」
「俺も。死んじゃったのはあれだけど、こうしてまたこころに会えたから、それでいいや」
死んで良かったとは思わないけれど、死ななければ一吹たちとも会うことはなかったし、こうして夕凪と再び会話をすることもなかった。
これは、いろんな奇跡が重なって起きた出来事。もう二度とおとずれることのない瞬間だ。
「……私はね、ずっとこの青空の下で繋くんと過ごしてみたかった」
夕凪が、舞い散る桜を一つ手に取ってそう呟いた。
「貴方がこの世界に来た時から、もうそれは叶っていたの。……皮肉なものね、死んでから願いが叶うなんて」
花弁を青空へと散らし、夕凪は複雑そうに笑みを零した。
「でも、ありがとう。繋くんのお蔭で、私は何の後悔もなくこの門をくぐることができるわ」
「良かった。俺もこころとまた話せたから、特別後悔はないや」
ただ目先に広がる未来を見つめた。それは今まで見たどの青空よりも澄み切っていて、俺達を祝福しているように見えた。
「さ、行こうか。この先どうなるかは分からないけど、俺はまたこころと会えるような気がする。……そう、信じてる」
俺は夕凪に手を差し出して思い切り笑った。きっと、また会える。信じていれば、きっといつか。
「えぇ、私も信じているわ。必ず、また会いましょう」
夕凪は見た事のないくらい幸せそうに笑って俺の手を取った。
未来への一歩を踏み出す。
何も恐れることはない。俺達は、行くべき世界に行くだけだ。
夕凪は、おそらく心の中でこの世界に幕を下ろしたはずだ。青空に溶けるように、俺達が過ごした学び舎の姿と桜吹雪が消えていく。
俺達は、いつか叶えたかった願いのように、二人で手を繋いで門をくぐる。
青空のその向こうへ、最後の卒業生はみんな旅立っていった。




