その2
*
翌日。
何となく落ち着かなくて早めに家を出た。普段よりも一時間ほど早く家を出る俺を、母さんは不思議そうに見送った。
昨日のことがあったせいか、自然と零された「いってらっしゃい」がひどく胸に突き刺さった。それに加え、家族に対して違和感を覚えてしまった。
母さんは、本当に俺の母さんなのだろうか。俺に向けられた愛情は本物のように感じるが、どうにも本当の母さんじゃないような気がした。顔も俺と母さんは似ていない。こう思うのは失礼だが、母さんは俺と血が繋がっていないのではないかと思う。
それもこれも、世界の秘密を暴いたら分かるのだろうか。
まだ生徒が登校していない学校に到着し、自分の教室に荷物を置いた。さすがに誰も着ていないようで、教室は閑散としていた。
だが、一番廊下側の列の真ん中の席に、見慣れたエナメルバッグが置かれていた。バッグに着けられた可愛らしい熊のキーホルダーは、俺が知る限りでは一人しか所持していない。
どうやら、北原が既に登校しているようだった。いつもは遅刻寸前に教室に駆け込んでくるくせに、今日は随分と早く学校に来たらしい。
彼女も、学校を調査しているのかもしれない。昨日、あんな化け物に襲われたばかりだというのに、全く危機感がない。人がいない時間帯に一人でうろつくのは危ないだろう。
俺は北原を探すべく教室を後にした。この学校は広いから、どこを調査しているか見当がつかない。
……まさか、あの地下室じゃないよな。あとは、生徒会室のあの部屋を見つけて探しているのか。
俺は内心焦りながら、早足で校内を駆け巡った。
三年の教室、職員室、図書室。ざっと見てみるが、職員室に教師がいるだけで他に人は見当たらなかった。
北原に連絡した方が早いだろうか。そう思って携帯を取り出したところで、廊下の先に何かが落ちていることに気がついた。
携帯をポケットに戻し、それに駆け寄る。屈んで拾い上げるとそれは一枚の楽譜だった。たぶん、ピアノ用だろう。俺はピアノの楽譜しか見たことがないから合ってるだろう。
そこそこ長めの楽譜だった。曲名は書かれていない。
不思議なことに、これは手書きの楽譜だった。所々消えかけているが、まだ読めない程ではない。楽譜の右上には、『Kaoru.H』と綺麗な筆記体で刻まれている。
誰かの名前だろうが、心当たりはない。少なくとも三年生にはこのような名前の生徒はいない。
だが、俺はこの楽譜を見て北原のことが浮かんだ。この間、プロ並みの演奏を披露した北原に関係するものではないかと直感的に思った。
北原に見せれば、何か分かったりしないだろうか。そう思って再び北原を探しに歩きだそうとした時、あの日のようにどこからか旋律が聞こえてきた。
きっと北原だ。
俺はまた綺麗なメロディに惹かれて歩き出した。
辿り着いた音楽室からは、少しだけ忙しないピアノの音がした。遠くで聞いている時はただ楽譜通りに正確に弾かれた音色だと思っていたが、近くに来ると感情が込められた熱い音色だった。
「……北原」
中に入ると、北原が無我夢中でピアノに指を滑らせていた。入ってきた俺に気がつかず、少しだけ苛立ったような音を奏でていた。
見た事のない北原だった。ただならぬ気迫に満ち溢れているが、不安定で今にも崩れてしまいそうだった。
途中で集中力が切れたのか、素人の俺でも分かるくらい音が外れた。一筋の光を紡いでいた音色は、一瞬のうちにバラバラに砕け散る。
それから音は聞こえなくなり、滑らかに動いていた北原の手も止まった。
「あれ……繋?」
ようやく俺に気づいた北原が、驚いたように振り返った。
「おはよう、北原。今日は早いんだね」
「あー……何か落ち着かなくてね」
「俺も一緒。昨日で何か大きな一歩を踏み出したみたいでさ」
「分かる。ここ数日でいろんなもの見たけど、昨日のあの変なのが一番印インパクト強かったもんね」
北原は椅子に腰かけながら腕を組む。楽譜台には、相変わらず何も置かれていなかった。
「あのさ、アタシね、何か思い出しそうなんだ」
「大切な記憶のこと?」
「たぶん。昨日、夢を見たんだ。アタシが、すごく綺麗な衣装を着て、どこかのホールでピアノを弾く夢」
北原は白鍵をそっと撫でながら、懐かしむような顔つきで語った。
「中学生くらいのアタシだったと思う。子供には似合わないような高いドレスみたいな衣装でさ、スポットライトがアタシを照らし出して……大きなピアノと一緒に舞台の上にいたんだ」
「ピアノ発表会みたいな?」
「そんな感じ。全く身に覚えはないけどね。でも、不思議と自分が経験したことだっていうのは、なんとなく分かった」
「じゃあ、ピアノを弾いたことが北原にとって一番大切な記憶?」
「いや……そんな気もするんだけど、ちょっと違うというか……」
北原は唸りながら眉間に皺を寄せる。何かを確かめるように何度かピアノを鳴らすが、しっくりこないようでさらに唸り声を上げるだけだった。
「コンクールとか出たことないの?」
「ないよ。前も言ったみたいに、ピアノ弾いたのはあれが初めてだから」
「記憶にある限りは、だっけ」
「そうそう。うーん……どうやって思い出せばいいんだろ。あずみたいに、写真とかあればいいんだけどなぁ」
毛先を弄りながら言う北原の言葉で思い出した。
そういえば、俺はこの楽譜を北原に見せようと思っていたのだ。もしかすると、彼女が言ったように、あずにとっての写真がこの楽譜かもしれない。可能性は低いが、万が一のこともある。
「北原、この楽譜なんだけど……」と俺は廊下で拾った楽譜を差し出した。
「楽譜?アタシは楽譜落としたりなんてしてないけど」
「何か手がかりになるからと思って一応ね。心当たりはない?」
「パッと見ないかな。アタシ、この間ピアノ弾くまで楽譜なんてロクに見たことなかったし……これ、何の曲なんだろ」
北原が難しい顔をして楽譜を凝視する。
「曲名書いてないの?」
「書いてなかった。楽譜が読めれば、有名な曲であれば分かるかなって思ったけど、俺にはさっぱり」
「だよなぁ。アタシもピアノは手が勝手に弾いてくれるようになったけど、相変わらず楽譜は読めないままだし……」
「あ、でも、代わりに名前みたいなのは書いてあったよ」
「名前?」
「ほら、ここ」
俺は首を傾げた北原に、楽譜に書かれた名前を指さした。
「しかもさ、このサインみたいな名前も、音階も、全部手書きなんだよね。学校にある楽譜って、だいたいが印刷されたものなのに珍しくない?」
「……」
「北原?」
突然黙り込んだ北原を不思議に思い、彼女の顔を窺う。
北原は、『Kaoru.H』の文字を見つめたまま固まっていた。丸くなった瞳は時折揺らぎ、その名前をゆらゆらと映し出す。北原らしくない寂しそうで切なげな瞳は、その文字から視線を外すことはなかった。
「北原、その人知ってるの?」
俺が訊ねると、北原はハッとしたようにゆっくりと顔を上げた。
「……波多野薫」
北原が落ち着きを放った声でそう告げた。
波多野薫。
聞いたことのない名前だった。名前だけでは性別も年齢も判断できない。北原が知っているということは、おそらく彼女の知り合いなのだろうが、やけに北原が動揺したような顔をしているのは何故だろう。
「薫さん……」と北原が再び楽譜に視線を落とす。
「知ってる人?」
「……どう、なんだろ。名前がふと浮かんできただけ。でも、なんだかとても大切というか……憧れ?みたいな感じがする」
「……ピアノ関係の人かな?北原がピアノ教室に通っていたとして、そこの講師とかさ」
「んー……かもしれないね。よく、分かんない。思い出したいのに、うざったいくらい頭に霧がかかってる」
北原は苛立ったように立ち上がった。突然立ち上がるものだから、俺は大袈裟に肩を揺らす。ごめん、と北原の短い謝罪を聞いて、俺はその楽譜に書かれたメロディを見つめた。
「北原、その曲弾いてみなよ」
「え?」
「楽譜読めないって言ったけどさ、もしかしたら弾けるかもしれない。その名前を見て新しいこと思い出したんだし、その人が書いた曲なら、重要なものかもしれない」
名前の書き方と、楽譜に所々書いてあるメモは同じ筆跡に見えた。しかも、吹奏楽部が自身の演奏のために書くメモとは違う。
明らかにそれは、作曲者のメモだった。音階の修正や、テンポについて書かれているそれは、あまり奏者側がメモを取ることではないだろう。音楽の知識が皆無の俺には、細かいことは分からないけれど。
「……思い出したら、アタシはどうなるかな」
「怖い?」
「少しだけね。秘密って知りたくてたまらないものだし、手に入れるまでの過程はめちゃくちゃ楽しいんだよ。でもさ、その秘密をいざ知った時、自分が自分でなくなるかもしれないなぁって考えたら、ちょっと躊躇しちゃうっていうかさ」
「あぁ、俺も分かる。知らないことを知るって意外と怖いよね」
「うん。だけど、知りたいっていう感情は止められないんだよな。真実を受け止める勇気がある者が何とかって試すようなこと書いてあったけど、アタシは勇気ある者に絶対なるからさ」
ニカリと歯を見せて元気よく笑うと、北原は楽譜を楽譜台に置く。たった一枚の紙に書かれた夥しいほどの旋律を、彼女は今から初見で弾いてみせるのだ。
「……なんだか、懐かしい音」
北原がぽつりとそう呟くと、最初の一音が音楽室にふわりと浮かんだ。一音の余韻に浸っている間もなく、五線譜に書かれたメロディが次々と形になって朝の校内を踊るように駆けていく。
卒業式とかで流れていそうな、切ないけれど前向きになれるような温かいメロディだった。優しく背中を押してくれるような、春の日差しみたいだった。旅立ちと新たな出会い。桜並木を抜けた先で待っている輝かしい未来が、手招いているような気がする。これに似たような音楽を、どこかで聞いたような気がした。テレビでだったか、実際に直接聞いたかは分からない。有名なピアニストが弾いていた――作曲していた曲にそっくりだ。
それもこれも気のせいかもしれないが、この魂を揺さぶるような旋律を、以前聞いた気がしてならない。もっとも、大切な記憶とやらに関連している気は全くないけれど。
俺は、心に直接語り掛けてくるようなメロディと演奏をただひたすらに聞いていた。必死にピアノを弾く北原の顔は、様々な感情が入り混じっているように見えて、どんな気持ちなのか全く想像できなかった。
その演奏には、北原の魂が込められていた。確かに、強い思いの乗った演奏だった。
感情を爆発させた音は、こんなにも俺の心に激しく語り掛けてくるのに、旋律は驚くほど優しくて、迷いや不安といった感情を全て洗い流してくれるかのようだ。
ねぇ、北原。
君は今、どんな気持ちでこの曲を弾いているの?
いつの間にか演奏は終わり、代わりに誰かのすすり泣く声が聞こえた。俺は演奏が終わったことを遅れて認識し、静かに拍手を送った。
「……繋」
涙声の北原が、ピアノに視線を落としたまま俺を呼んだ。
「アタシさ、憧れの人がいたんだ」
北原はそう言うと、置いてあった楽譜を手に取って抱きしめた。
「幼い頃からずっとピアノやってたから、必然と憧れはピアニストだったよ。有名な人でね、実力があって人望も厚い、おまけに優しくてカッコイイから、ピアノ界隈では名前を知らない人がいないくらいの人だった」
北原が楽譜を抱きしめたまま、ゆっくりと振り返る。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。それでも、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「アタシ、あの人と一緒にピアノが弾きたかったんだ。ずっと、昔からそう思ってた」
北原がそう言って、涙を流しながら笑った。
「……それが、北原の大切な記憶?」
「きっとそう。あずが言ってたみたいに、温かい気分だから。こんなに簡単に思い出せたんだって驚いてるけど、今すごく幸せな気分だ」
「良かった。大切なことを思い出せて……」
「うん。その夢は叶わなかったけど、思い出せただけでも幸せだな」
北原は腕でゴシゴシと涙を拭う。俺がそっとハンカチを差し出せば、北原は照れくさそうに笑ってハンカチを受け取った。
「……この夢、叶えたかったな」
「今からでも遅くないんじゃない?」
「え?あー……うん」
俺が言えば、北原が曖昧な返事をした。
「なんか、もう叶えられないって気がしたんだ。その人が今どこで何をしてるかは知らないけど、なんとなく無理だって気がした。失踪したとかじゃなくて、むしろアタシ自身の問題で無理かなぁって……特に理由はないけど思った」
「そうなの?北原ならできると思うけどなぁ」
「アタシも今からでも当時の感覚を取り戻せばいけるってハッキリ言いたいけど、なんか変な感じ。ま、思い出せたからいいか」
楽譜に刻まれた名前をもう一度しっかり見つめると、北原はふと優しい微笑を零した。
「繋は、何か思い出した?」
「……いや、あんまり」
「そっか。でも繋なら絶対思い出せるさ」
北原は俺の肩に手を置き、励ましてくれた。
正直、ほぼ思い出していると言えば思い出している。ただ、俺にとって大切な記憶が一体何なのか、それが曖昧だ。
死んでいるという確証もない事実のことなのか、病院で誰かと話したあの夢なのか。
どちらにせよ、自分には身の覚えのないことで不思議な気持ちだ。早く記憶を取り戻して、行くべき世界とやらに行ってみたい気持ちもあるが、俺にはたぶんあずや北原が記憶を取り戻すきっかけとなったようなアイテムが存在していない。
たぶん、どこかにはあるのだろうけど。
「何かあったら協力するからな。そして、皆でこの世界を抜け出してやろうね」
北原が気を引き締めるように拳を突き出してきた。
そうだ。俺達はこの世界を飛び出して、まだ見ぬ世界へと行きたいのだ。俺達の仮説が正しければ、この世界に留まるのは危険だ。一刻も早く、外へと踏み出したい。
「うん。絶対、皆でね」
俺は微笑んでその拳に自らの拳をコツンと重ねた。
「あ、二人共ここにいたんだ……!」
ガラッと扉の音が開かれたかと思うと、そこにはへにゃりと気が抜けた笑顔を浮かべるあずが居た。
「おはよう、あず」
「おはよう西条くん、雅ちゃん」
「おはよ。あずも早く登校してきたのか?」
「え?そうでもないよ。確かにちょっと早いけど、十分くらいだし……」
その言葉を聞いて俺は腕時計を確認した。
気が付けば、いつも登校している時間が迫っていた。早く学校に来たが、知らぬ間にかなりの時間が経過していたみたいだった。
「鞄はあるのに二人共いないから焦ったよ……」
「ごめんごめん。ちょっといろいろあってさ」
「いろいろ?」
「北原も記憶を取り戻したんだよ」
「ほんと⁉」
「うん。本当、簡単なことだったんだな」
「良かったね、雅ちゃん!」
報告を受けて、あずが心底嬉しそうに笑った。
「あず、あれから何か調査に進展はあったり、気になることはあったりしたか?」
「ううん、特には……。昨日のあれも、今日は見てないし、何か新しい発見もなかったよ」
「そっかー。繋の力になれたらよかったんだけどなぁ」
北原は「むむ……」と独特な唸りをあげながら腕を組んだ。
「アタシは繋が見つけてくれた楽譜のお蔭で記憶を取り戻せたし、何か力になれないものかね……」
「私も、皆が協力してくれたけど、アルバムを見つけてくれたのは西条くんだったからなぁ……」
「そんなに考え込まなくてもいいよ、二人共」
「いやいや、これじゃアタシが納得しないから。ひとまず、何か繋の記憶に関連しそうなものがあれば、片っ端から報告するわ」
北原はそう言うとビシッと親指を立てた。あずもその様子を見て、控えめにグーサインを出してくる。
頼りになる仲間たちだ。
長いようで短かった一年。友達になったのが彼女たちで本当に良かったと、今心からそう感じている。
「あ、そういえば、西条くん」
「ん?」
「さっき南雲くんと会ったんだけどね、ちょっと元気なくてさ……」
あずがハッと思い出したかのようにそう告げた。
「昨日いろいろあったからね……」
「でも、そのことはもう落ち着いたって言ってたの。また秘密の調査はするし、こころちゃんの事も悪かったって言ってた。でも、何か別のことがあったみたいで……」
「んー、一吹は最近問題児だなぁ」
俺は頭をガシガシと掻きながら溜息を吐く。
今、一番不安定なのは彼だろう。俺達がここで生きる理由も世界の秘密も、一番興味を抱いていたのは一吹だ。それ故に、段々と明らかになっていく事実に惑わされているのだろう。彼は想像力が豊かなようだし、昨日の仮説を信じているのならば、余計に精神が参ってしまっても可笑しくはない。
「俺が話してくるよ。これでも、一吹の親友だし」
「ありがとう、西条くん」
「お前らいつも一緒にいるもんな」
「まぁ、気の置けない仲だからね」
揶揄うように言ってきた北原に苦笑し、俺は音楽室を出ていった。
一吹に「どこに居る?」とメッセージを飛ばせば、すぐに「図書室」と返ってきた。なんでまたそんな朝早くに図書室に居るのかと疑問を抱きながら、俺はのんびりと図書室へと向かった。




