その1
*
頭が酷く痛む。
喉は砂漠の大地みたいにカラカラに乾いていて、目は瞬きすることを忘れた。
俺は、自分のプロフィールが書かれた紙を見つめたまま動けなかった。貼られた付箋に書かれた、自らの死を告げる文字列。それは日本語で、自分が知っている言語のはずなのに、どこか知らない国の文字に見えた。
交通事故。
失血で死亡。
淡々としたその文字を、頭の中で反芻させる。何度噛み砕いても、理解できない。否、信じることが出来なかった。
こんなの、嘘に決まってる。
俺たちが世界の秘密を暴こうとしているから、誰かが怒っているんだ。それか、誰か他の人のページに貼る予定だったものを、間違えて貼ったんだ。そうに違いない。
必死に自分にそう言い聞かせる。だが、どれだけ自分に言い聞かせるように思っても、それは俺を安心させてはくれなかった。
死んだ記憶も、死んでいないという記憶も、俺にはないのだから。何も分からない。確証がなさすぎる。
でも、死んでいるとしたら俺は此処にはいないはずだ。まさか、俺が幽霊だなんてそんな馬鹿げたことあるだろうか。そしたら、一吹や夕凪はずっと幽霊の俺と過ごしていたことになる。北原もあずも俺が見えていたし、今まで普通に学校生活を送ってきた。今更、あなたは死んでいましたなんて言われても信じることなどできない。
それに、俺にとって一番大切な記憶が、自分の死なわけあるか。そんなことあるわけがないだろう。
くしゃり、と紙に皺が入ったことで、頭が少し冷静になる。歪んだ自分の顔写真を見つめて、俺は深呼吸をした。
大切な記憶が、いいものとは誰も言っていない。
俺たちが失った記憶は、大切なものであることはあの文章によれば真実だ。だが、その大切な記憶が幸せなものとは限らない。自分が死んだことだって、見方を変えれば重要な記憶の一つだろう。
あぁ、ダメだ。
何もかも分からない。
俺が死んでいるなら、どうして俺はここに居るんだ。死んだはずなのに、なぜ普通に学校生活を送っているんだ。
俺は、何でここに転校してきたんだ。世界の秘密ってそもそもなんだ。俺にとって一番大切な記憶って、何なんだよ。
行き場のない疑問を、ひたすらに念仏みたいに呟いていた。落ち着きなんてもうどこかへと旅立ってしまった。
俺は、何でここで生きているのだろう。
これこそが夢なのか。今までの学校生活は全て偽りだったのか。
脳が勝手にそんな妄想をして、呼吸を乱れさせていった。
息って、どうするんだっけ。俺、ちゃんと生きてる?
誰か、誰か……。
「繋くん……!」
俺が混乱で気が動転している時、聞きなれた声が聞こえた。顔を上げれば、こちらに慌てた様子で駆けよってくる夕凪。珍しく動揺の色を顔に滲ませていた。
「ゆ、なぎ……?」
「落ち着いて繋くん。ゆっくり息をして」
半ば過呼吸を引き起こしかけていた俺の隣にしゃがみこみ、夕凪は俺の背をそっと撫でる。「大丈夫」と優しげな声音で何度も言われ、脳内を支配していた混乱の渦が少しずつ消えていく。背を擦る夕凪の手は温かくて、しっかりと俺に触れていた。
あぁ、ほら見ろ。俺は死んでなんかいない。
そうもう一度言い聞かせて、俺は息を整えた。
「あり、がと。ごめん、夕凪……」
「大丈夫よ。……何かあった?」
「いや……」
俺は夕凪に問われ、目を逸らした。
話すべきなのだろうか。だが、自分でもまだ不確定なことを、夕凪には話したくなかった。それで、不安感を与えてしまっては申し訳ない。
「かなり混乱していたようだけれど、もう平気かしら?」
「うん。だいぶ落ち着いた……本当にごめん」
もう一度謝罪をすれば、夕凪がどこか悲しそうに視線を落とした。
「ねぇ、夕凪。自分が知らない自分のコトって、あると思う?」
「……唐突ね。あると思うわ。それも、かなりたくさんね」
「絶対に気づきそうなことでも、知らないってことありえるかな?」
「ありえるわ。……もしかして、大切な記憶に関すること?」
その問いに俺は何も答えなかった。
そうすれば、夕凪がいつものように微笑んだ。
「大丈夫よ、繋くん。私は何があっても貴方を信じてる」
未だ紙を握ったままの俺の手を、夕凪がそっと包み込んだ。紙はくしゃりと歪んでいるせいで、細かな内容は夕凪には見えていないだろう。それが今の救いだった。
「信じてるって、どういう……?」
「真実を受け止める勇気。それが、貴方にあるってことを私は信じてるわ」
夕凪は真剣な眼差しで言った。
いまいち、夕凪の言うことが理解できなかった。俺が混乱していたから、励ましの意味をこめてそう言ってくれたのだろうか。
それとも、世界の秘密を知ったうえでの言葉なのか。
夕凪は、俺が死んでいたというこの嘘みたいなことを、知っているのだろうか。俺自身ですら分かっていないこの真実を、彼女は既に理解し受け入れているというのだろうか。
それは、夕凪本人に聞くことはできなかった。単純に怖かったのだ。
自身の死を、信じたくない。
俺には、それが真実だとして、どうすればいいか分からなかった。
「……俺たち、この世界を出たらどうなっちゃうんだろうな」
不意に零したその言葉は、夕凪に届いていた。
不安だった。
自分が自分じゃなくなってしまうみたいで。
でも、真実から逃げようとしている自分はもっと自分じゃないみたいで気持ち悪かった。ぐちゃぐちゃになった感情が、弱音となって吐き出されたのだ。
俺はそれなりに覚悟をもって、世界の秘密を探しに足を踏み出したのだろう?こんなところで打ち砕かれてどうするんだよ、と不安で弱る心を叱責した。
「……諦めるの?」
夕凪が不安げに眉を下げた。見たことないくらい、自信を無くして寂しそうな表情だった。
諦める。
それは俺が嫌いな言葉だった。
中途半端に投げ出すことは好きじゃない。なにより、この調査を始めたのは紛れもなく自分の意思だ。きっかけは一吹だが、決断したのは俺だ。
まだ、これが真実なのかも分からないし、仮に真実だとして受け止める覚悟も、俺にはないかもしれない。嘘だと疑いながらあれほど動揺するくらいだ。
それでも、俺は知りたい。
もう後戻りなんて出来ないのだ。
「……いや、諦めないよ」
夕凪の手をそっと握り、俺はふと微笑を漏らした。
「まだ、怖いし不安だ。しかも混乱しすぎて冷静にもなれない。でもね、俺はやっぱり知りたいんだよ」
自分自身にも言い聞かせるように告げれば、夕凪は驚いたように目をぱちくりさせた。
「俺は知りたい。だから、どんなことでもいつかは受け止めなくちゃ」
「……強いのね」
「夕凪が信じてるって言ってくれたからだよ」
言葉の真意は理解出来てはいないけど、その言葉は不確かなのに妙に俺に勇気を与えてくれた。夕凪は、いつも俺を気にかけてくれる。俺が最初に出会ったのが夕凪だったからというのもあるが、夕凪はやけに俺に優しい気がした。
「……リーダーが繋くんで良かったわ。貴方がなるべくしてなったのね」
「それ、一吹に言ったら怒られるよ」
「事実だから仕方ないわ」
「あははっ、夕凪も言うなぁ……」
安堵したような夕凪に言えば、バッサリとそう言い返される。「何でだよ!」とすかさずツッコミをいれる一吹を想像して、俺たちは笑い合った。
「夕凪、あと少しな気がするんだ。俺たち、だいぶ世界の秘密に近づいている気がする」
「そうね。ここ数日でいろいろ不思議なことが起きたり、手がかりらしきものを見つけているもの。きっともう少しね」
「秘密を知った先に何があるかは分からないけど、あとちょっとだけ頑張ってみるよ」
そう言えば、夕凪はいつものように綺麗に微笑んだ。
きっと大丈夫だ。
たとえ死んでたとしても、俺はまだここに存在している。俺という存在はまだ生きているのだ。
もしこの先消えてしまうのならば、せめて世界の秘密を暴いてから終わりたい。俺がなぜこの世界で生きることになったのかを知ってからじゃないと、死んでたとしても死にきれない。
「繋くん、貴方が強い人で良かった」
「強くないよ。俺はただ、好奇心に突き動かされた普通の高校生さ。強いのは夕凪の方でしょ?」
「私だって普通の高校生よ。ただ、人より少し大人ぶっているだけ。中身はただの女子高生」
彼女は上品に笑むとゆっくりと立ち上がった。差し伸べられた彼女の手を取って立ち上がれば、外から差し込む日差しが夕凪の髪を煌めかせた。
「夕凪、この部屋のことなんだけどさ、やっぱり知ってたの?」
「えぇ、知ってたわ」
「どうして言わなかったの?」
「……別に隠そうとしていたわけじゃないわ。ただ、悩んでいたのよ。この部屋のことを言うべきかどうか」
夕凪は俺に背を向けて俯いた。
彼女はこの部屋の存在を知っていたが、俺達には秘密にしていた。だが、この部屋に入る条件は俺にだけ託してくれている。
それは、俺を信じているからなのか。はたまた、誰でも良かったのか。
その点はよく分からない。
「ごめんなさい、隠すような真似をして」
「ううん。夕凪のことだから、何か考えがあってのことだと思うし気にしてない」
「……繋くんは私を買い被りすぎじゃない?」
「夕凪のこと、何故か信頼できるんだよね。単純に付き合いが長いっていうのもあるけど、長年一緒にいるような感覚でさ」
俺が苦笑しながら冗談めかして言えば、夕凪が何故か苦い顔をした。俺から目を逸らして、何か遠くのものを見つめるような顔をしている。
「……夕凪?」
「ごめんなさい、ぼうっとしていたわ。何でもない」
「大丈夫?俺が言うのもアレだけど、あまり思いつめない方がいいよ」
「えぇ、分かってるわ」
夕凪は髪をさらりと撫でて、気を引き締めるように深呼吸をした。
「そういや、夕凪は何か大切な記憶を思い出したの?」
「……まだよ」
「そっか。俺もまだ微妙」
「さっきの様子的に何か思い出したのかと思ってたわ」
「思い出したっていえばそうだけど……まだ確証はないから秘密にしとく」
自分が死んでいるなんて、嘘でも言いたくない。俺が誤魔化せば、彼女はいつもの微笑を湛えて「分かったわ」と頷いた。
「それじゃ、俺たちも帰ろうか」
「そうね。もう六時になるから」
「え、そんなに?」
「そうよ。気が付かなかったの?」
気絶してたからね。
それは伏せておき、俺は「気が付かなかった」と苦笑した。
「また明日、調査しましょう」
「だね。皆も落ち着きを取り戻してると言いけど……」
「あんな化け物に追われた後だもの、なかなか平常心には戻れないわよね」
「夕凪は落ち着いてるね」
「本で見たことがあったから、驚きこそあったけど受け止められはしたのよ。あれから姿は見ていないし、他の生徒たちも普通に過ごしていたから問題はないと思って」
夕凪と共に白い部屋を出ながら、俺が言うと彼女はそう答えた。やけに饒舌だなぁなんて何となく思っていれば、彼女はさらに続ける。
「この世界は確かに不思議なことが多いわ。でも、あれは常識とは呼べないわね。一吹くんが言っていたけれど、私は青空の件もこの街から出られないことも常識だと思ってる。でも、あれだけは別」
「……そうなの?」
「今まで一度も見たことがなかったもの。もしかしたら、私たちが世界の秘密を暴こうとしているから、神様が天罰を与えに来たのかもね」
俺が拝借した生徒会室の鍵を使って鍵をかけながら、夕凪がぽつりとそう言った。
天罰、か。
あながち間違いではないのかもしれない。一吹の想像通り、俺達が実験体でこの世界が檻だとしたら、自分たちに刃向かう実験体を容赦しないだろう。実験がてら、俺たちを排除することだってありえるのだ。
「繋くんはどう思う?貴方も一吹くんと同じ考え?」
「いや、微妙なとこ。一吹の仮説は正しい気もするし間違っているような気もする。まだ判断がつかない」
「……そうよね」
「夕凪、俺は疑ってないから。確かに夕凪には何か隠し事があると思ってるし、行動や言動も不自然だと思う。だけど、俺達と同じでこの世界で生きる理由を知らないただの高校生だと思うんだ。そうじゃなかったら、俺達に協力しないだろうし」
励ますように言えば、夕凪は複雑そうに微笑んだ。胡散臭かっただろうか。俺は本気で夕凪のことを信じているのだが、言葉では上手く伝えられなかった。
「……ごめんね」
鍵を返しに行くと歩き出した夕凪が最後に言ったのは、謝罪の言葉だった。気を遣わせて申し訳ないという意思表示なのだろうか。それとも、何か謝る理由があったのか。
家までの帰り道、ずっとそれを考えていたが結局分からなかった。




