その5
床に倒れ込むようにして駆け込んだ俺たちは、すぐさま背後を振り返る。冷静さを失いながらも、夕凪はしっかりと扉を閉めて内鍵をかけた。
「これで、大丈夫……なのか?」
一吹がそう言って肩で息を整える。恐怖が貼り付いたその顔は、少し青い。
「……大丈夫とは断言出来ないけれど、廊下にいるよりは安全だと思うわ」
「一時的には助かったってところか……」
北原が汗を拭いながら気が抜けたようにそう零した。
俺はまだ警戒を解くことが出来なかった。あの得体の知れない何かが、すぐ側でこちらの様子を伺っているような気がしてならなかったからだ。
アレが何なのかは分からない。だが、心を凍りつかせるような、『死』を感じさせたような雰囲気は、忘れることが出来ない。旧校舎の地下で見た墓標とは、また違った恐怖を感じた。
「雅ちゃん、大丈夫……?」
「あぁ、意外と大丈夫だよ。あずは怪我ない?」
「うん……ごめんね、私、動けなくて……」
「いいって。それより、そこはごめんじゃなくてありがとうって言ってくれた方がアタシは嬉しい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
床に座り込んだ二人はそう会話すると、緊張感の中でもふと笑みを咲かせた。そのせいか、少しだけ空気が軽くなったような気がする。先程まで聞こえなかなった生徒たちが活気よく部活動に取り組んでいる声も、今は遠くから聞こえてきていた。
「北原、そのままだといけないから手当てしようか?」
「うーん……それがさ、あんな鋭い斧で斬られたのに、今は何ともないんだよね?」
「え、どういうこと……?」
「確かに斬られた時はめちゃくちゃ痛かったし、血も出てるなぁって感じがしたけど、今はそんなにというか……」
北原は赤く染まった制服を見つめながら小首を傾げる。傷を受けた本人が一番不思議そうにしているが、周りでそれを聞いていた俺達も訳が分からないといった顔をしている。
「……雅、ちょっと脱いでみろ」
一吹が神妙な顔つきで言った瞬間、北原の鉄拳が一吹の顔面にめり込んだ。
あれは絶対に痛い。ものすごい音がした。
「てめぇ、セクハラとかいい度胸だな」
「ご、誤解だっての!傷見せてみろって意味だよ!お前が脱いでも何も面白くねぇから!」
「それはそれでなんかムカつく言い方だなこの野郎!」
二人は状況も忘れて大声で言い争いを始める。どう考えても一吹の言い方が悪いだろうに。俺は呆れながら二人を見つめていた。
「ふ、二人とも……」
「……騒いだらあの化け物に気づかれるかもしれないわよ?」
夕凪の一言に、騒いでいた二人もあたふたしていたあずもピタリと動きを止めた。もはや呪文に近い。
だが、彼女の言う通りだった。
今は一時的に逃れられているが、俺達の居場所に気づいたら迷いなくこの扉を蹴破ってくるだろう。
保健室は一瞬にして静まり返り、再び緊迫感が襲った。
「……雅ちゃん、手当てしよう」
「ありがと、あず」
あずが救急箱を取り出して北原の隣にしゃがみこむ。北原は礼を言うと、上着を脱いでブラウスの袖を捲った。
「え……?」
「どういうことだ……?」
あずと北原が驚愕の声を上げる。
「どうかしたの?」
「……傷が無い」
「は……?」
北原の動揺した声に一吹が素っ頓狂な声を上げた。北原が指を指すから覗き込めば、確かに言った通りそこには傷痕が無かった。
本当は怪我などしていなかったのか。
一瞬そう思ったが、制服には明らかに血が染み込んでいる。それに、あの斧が北原の腕を斬りつける瞬間もこの目で確かに見ていた。
それなのに、北原の肌には傷一つついていない。程よく日焼けしたその素肌には、血がべっとりついているにも関わらず、切り傷一つ見当たらなかった。
「お、お前、まさか人間じゃ……」
「馬鹿言うなよ!アタシは歴とした人間だっつーの!」
「分かんねぇだろ⁉もしかしたら知らぬ間に改造されてたとかさ……!」
「そんなことあるわけない!つーか嫌だ!」
青い顔でそう言いはる一吹と、同じように大声で否定する北原。またもヒートアップする二人に、俺が声をかけようとした時、
「ふ、二人共落ち着いて!」
とあずの怒ったような声が響いた。
「あ、あの影が私たちに気づいちゃうよ……」
「わ、悪いあず……」
あずの鶴の一声は、北原にはよく効く。すぐさま謝罪し、呆れたように見つめる夕凪にも一言謝罪していた。
「……さっきのといい、北原の傷の件といい、そろそろ本格的におかしいよね。もう、世界の秘密を探そうなんて遊び半分ではいられないというか……」
俺がそう零すと、皆も同じように曖昧な表情で同意の目をこちらに向けた。
「マジでさっきの何なんだよ……あんなの、現実にありえねぇだろ」
北原が皮膚に付着した血液を拭いながら言えば、扉に背を預けた夕凪が静かに口を開いた。
「……地獄からの使い魔」
「は?」
「え?」
その言葉に、俺と一吹の声が重なった。夕凪の言葉が、あまりに突飛すぎたからだ。
「本で見たことがあるわ。真っ黒く塗りつぶされた奇怪な存在が地獄には居て、彷徨う人間の魂を地獄へと導くって」
「おいおい、こころ。お前そんなフィクションみたいな話信じてるのか?」
「一吹くんだってさっき見たでしょう?」
「そうだけどよ……地獄からの使い魔って、そんなん信じる方が馬鹿げてるぞ?」
「…………そうね」
混乱した一吹が少し語調を強めて言えば、夕凪は案外あっさりと一吹の言葉を受け入れた。
俺には、あながちその話も間違いじゃないと思えた。非現実的なことなんて、自分たちの生きる理由と世界の秘密に興味を持ち始めた瞬間から、少しずつ目にしているのだ。おまけに、この世に存在するはずのない化け物のようなモノに襲われている。
フィクションの世界の話とだけでは、どうにも片付けられないような気がした。
「……世界の均衡が崩れ始めているのかも」
夕凪が、俯いてそう呟いた。
その声は、どうやら一番近くにいた俺にしか聞こえなかったらしい。夕凪の言葉の意味は理解できなかった。
世界の均衡?
崩れ始めている?
夕凪は、この世界についてやはり何か知っているらしい。その言葉もあくまで彼女なりの推測なのかもしれないが、俺には世界の秘密を知ったうえでの発言に聞こえた。
「夕凪、あのさ……」
「あー!オレ分かったかも!」
俺が彼女に訊ねようとした時、一吹の大声が重なる。遮られた俺は彼の名を呼び、苦笑した。
「いきなり大声出すなよ、あずがビビるだろうが」
「す、すみません……」
「一吹、何が分かったの?」
「もちろん、オレたちがこの世界で生きる理由と世界の秘密だよ!」
一吹は自信満々に胸を叩いた。だが、その顔はそれほど嬉しそうではなかった。
「まぁ、あくまで仮説なんだけどさ。さっきの化け物と、北原の傷で思いついたというか、察したというか……。オレたちさ、やっぱ人体実験か何かに利用されてんだよ」
「人体実験?」
あずが震えた声で聞き返した。
「あぁ。おそらく、不死身になるとか、スペックの高い人間を生み出すとかそんな感じ。既に体に何らかの処置は施されていて、今はその実験段階みたいな。北原がアイツに斬られたのに傷一つなかったのは、治癒能力が格段に上がっているか、そもそも傷がつかない……不死みたいな体にされてんじゃねぇかって思って」
「お前、まだアタシが人間じゃないって疑ってんの?」
「そういうわけじゃない。ちゃんとした人間さ。ただ、第三者の手によって少し改造されたね。もちろん、オレたちも同じだ」
一吹は机上のペン立てに入っていたボールペンを手に取った。全員が不思議そうに見ていると、一吹はいきなり左腕にボールペンを勢いよく突き刺した。
「い、一吹⁉」
「大丈夫だって繋。まぁ、見てろよ」
一吹が顔を歪めながら笑う。
俺たち四人は、一吹の突然の行動に驚愕しながらも、彼が指さす腕を見つめた。ボールペンはそれなりに深く刺さったようで、鮮血が傷痕に沿って溢れていく。
しかし、その血が流れて床に落ちた瞬間、スッと傷痕が消えた。段々と溶けていくみたいに、ごく自然に、当然のように消失した。
「マ、マジかよ……」と北原が色のない顔で呟いた。
「な?不死かどうかは分かんねーけど、何かしらオレたちの体に細工がされてんのは間違いないだろ。だって、こんなのおかしいじゃねぇか」
普段のふざけた雰囲気はどこにもなく、一吹は真剣に言った。
おかしいどころの騒ぎじゃない。
世界に俺達が人間である証を否定されたみたいだ。
俺たちが実験体で、俺たちを使って何かをしようとしている輩がいるというのは、もしかしたら真実なのかもしれない。
「あの化け物はさ、たぶん失敗作ってヤツなんだよ。オレたちが成功例で、アイツは悲しくも実験によって化け物になっちまったヤツ。そう考えれば、全部辻褄が合わねぇか?」
「確かにそうかも……あの地下のお墓も、これまで実験に失敗した人の……って考えちゃったら……」
あずが自身を抱きしめるようにしながら、泣きそうに呟いた。
「この街から出られないのも、オレたち実験体を逃がさないため。大切な記憶を取り戻すことが、もしかしたら完全な成功例となる条件か何かなのかも」
「……随分と飛躍した妄想ね」
それまで黙っていた夕凪が、ピシャリと言った。真剣な様子で仮説を語っていた一吹が、その一言で目を吊り上げた。
「こころはそうは思わねぇの?今回のことが全部普通だって言うのか?お前のお得意な、これが常識ってヤツ?」
「……全部とは言わないわ。でも、街から出られないこととかは、昔からそうだから何も疑うことはないんじゃないかしら」
「……あれが世界の常識だって、本当に思うか?オレはもう思えない。いろいろ可笑しすぎるよ。……特に、不自然なことを平然と常識だって謳うこころがな。こころ、お前はオレたちを利用してんじゃね?」
「一吹、ちょっと……」
「繋もそう思うだろ?お前も疑問に思ってたじゃん。こんなことが起きてまだ、あれは常識だって言われて納得できるか?」
一吹が睨むように俺に訊ねる。
そんなわけない。
あれが常識だって言うのなら、この世界で何が起きようと常識となってしまう。不可思議なことが多すぎてもはや何を信じて何を疑えばいいのかは分からない。一吹の言うことも理解できるし、その言い分が真実である可能性なんていくらでもある。
だが、俺は夕凪のことは疑っていない。
確かに、この世界に関して何かを知っているかもしれない。何か意図があって隠しているようにも思える。
その場の感情だけで、夕凪を責めるのはお門違いだろう。
「納得はできないさ。この世界には、常識と呼べるものが少なすぎるよ」
「なら……」
「一吹の話も、可能性がないわけじゃないし、今までで一番筋が通ってる。でもさ、ここで夕凪を疑うのは間違ってるよ。何を常識と思うかなんて人それぞれだし、仮に夕凪が俺達を利用するような真似をしていても、その判断は早計じゃないかな」
「……」
一吹は黙り込んだ。
何かを考えるような、少し苛立ったような表情だった。きっと一吹は、いろいろ葛藤しているのだと思う。世界の秘密の調査をするきっかけとなったのは、彼だから。世界の秘密を探るうちに想像できてしまった展開に、一番責任を感じているのかもしれない。
もしもその推測が真実だとしたら。気づかなければ、俺達は今も呑気に学校生活を送っていただろうから。
「……悪い。カッとなりすぎた」
まだ納得がいっていないようだったが、一吹は夕凪に向き直って素直に謝罪した。
「いえ。私の方こそ、言い方が悪かったわ」
「……別に。なぁ、もし隠し事があるんなら言ってくれよ。オレ、自分の想像が正しいとしたら、お前を疑わざるを得ないよ」
一吹が濁りかけた目で夕凪に言う。ピリピリとした雰囲気は、未だ保健室内に満ちている。北原とあずは、二人の雰囲気に圧倒されてすっかり会話に入るタイミングを見失っているようだった。
「私から話すことは何もないわ。隠していることはないもの」
「……そうかよ」
夕凪が淡々と答えると、一吹はそう吐き捨てて保健室のベッドに腰掛けた。少し乱暴な足取りだったが、表情はどこか悲しそうに見えた。
「この世界は檻だよ。オレたちを閉じ込める檻だ。実験体として、ここで監視されてんだよ」
「南雲くん……」
「そのうち、殺されちゃったりしてな。……早く記憶取り戻して、行くべき世界に行くしかないのかも」
へらりと力なく一吹は笑った。
傷ついたような、疲弊したようなその笑みに、俺は何も声をかけてあげられなかった。
重苦しい雰囲気を抱えたまま、俺たちは安全を確認して解散することになった。あの後、単独行動をする時は気を付けることを約束し、特に会話をすることなく終わった。
頭を冷やす時間が必要だ。
そう最後に告げて、俺は皆と別れた。処理しきれないほどの情報を手に入れて過度な想像を働かせた一吹も、ずっと何かを隠しているような様子の夕凪も、今はゆっくりと落ち着く時間が必要だと思う。北原もあずも混乱しているようだったし、ひとまずは冷静に物事を考えられるようになるまでは、チーム・コンパスの活動は一旦中止だ。




