黒猫
嘘。
「僕は漆黒の闇を凝り固めた結晶になりたい」と、その頃の猫はそう考えるようになりました。その頃、というのは彼が「ドウコク」とか「アイレン」といった響きに、何か胸の中を掴まれるような、高所から地面を覗き込むようなひんやりとした感覚を覚えるようになった頃のことです。誰からも忘れられたような路地裏の、そのまた隅の一角、誰かが置き去りにして久しい壊れた洗濯機の下で、猫は昼間中、そのことだけを考え続けます。太陽が空にある長い長い時間を、ひんやりとした金属に身を添わし、瞳だけを世界に向けながら。
猫は──彼には決まった名前がないので、ここでは猫としか呼べないのですが──その猫は決して、漆黒の躯をもっているわけではありません。むしろその逆に、猫の毛色は白銀の雪の中から掘り出してきたかのように、真っ白でした。その長く伸びたヒゲも、ピンと張った尾も、すっと伸びた小さな鼻も、それから本来ならば薄い皮膚のために薄紅に染まるはずの耳も口も、すべてが白く輝いていたのです。産まれたばかりの猫を知る人ならきっとこう言うでしょう。その姿はまるで、朝日に照らされたマイセンの人形のように艶やかで眩しかったと。そうしてこうもまた言うでしょう。昔と今の彼で唯一同じものは、その瞳の抜けるような白さだけだとも。
猫の生まれや育ちや環境や、別離とその後の批判や蔑み、空腹と乾きと寒さ、温もりと痛みと別れ、歩いた道程の長さと見上げた空の眩しさと哀しみなど、ありきたりなお話はここでは省略させていただきます。生い立ちの悲劇など、この世界には砂の数ほど転がっていますし、それをいちいち語ったところで、猫は少しも喜びはしないからです。
ここで大切なことは今まさに訪れようとしている夜の、その深まり続ける闇に、猫がいいしれない親しみと、それから畏怖をも感じてもいる、ということです。昼間にため込んだ不満を吐き出すかのように、暗闇は徐々に勢力を増し街を包み込もうとしています。その姿を猫は不安と期待の入り交じった瞳で見つめるのです。真っ白な瞳で、見つめるのです。
そうして闇がその広さを街中に知らしめるのを待って、彼は暗がりに、そっと足を延ばしました。長い長い、そしていつもと変わらない夜が、始まったのです。
しっとりと濡れたような闇の中を、猫は静かに進んでいきます。通り慣れた家々の隙間を潜り、塀を飛び超し灌木を滑るように抜けると、そこは寂れた公園でした。お決まりの遊具が何の工夫もなく並んでいる、何処の街にでもあるような公園です。猫はきょろきょろと辺りを見回しました。そして、暗がりの向こうに探していたものを見つけました。
老人は今夜も同じベンチで横になっていました。公園の一番端っこにある、そこだけ電灯の当たらない場所です。猫はいつも通りその足下までいって、小さく「にゃー」と鳴きました。老人もいつもと同じように、幾分か難儀そうにゆっくりと起き上がると、これもまたいつもと同じように「ミケかい、ようきたねぇ」と呟きました。そうしてそのほっそりとした腕を差し出すと、そっと猫の喉元に触れました。
老人は長い時間をこの公園で過ごしているようでした。恐らく生活用品一式が入っているだろう袋からは、横差しの傘がはみ出しています。ベンチの後ろには段ボールの束が、隠すようにして置いてあります。垢だらけの服と同じように、薄汚れた指先であっても、猫はただ嬉しそうに喉を鳴らします。その暖かみを感じながら、老人は溜息混じりにこう言いました。
「ミケや、ごめんねぇ。今日はあげられるもの、ないんじゃ・・・・」
老人の言葉はいつも同じでした。きっと明日も同じでしょう。けれども別にそんなものを望んでいるわけではない猫は、気にしないでと「にゃー」と答えます。そうすると老人は申し訳なさそうに、そしてよりいっそうゆっくりと、何度も何度も彼を撫でるのです。
猫は老人が好きで、そしてキライでした。目やにがこびりつき薄くしか開かないまぶたも、その奥の濁った瞳も、そうして皺だらけでカサカサの指先は、もっと。それが触れる度に、彼の躯の中にはなんだか黒くて冷たいものが、溜まっていくような気がするからです。
老人と別れた猫はそのまま公園を抜けて、幾つかの路地を曲がり商店街の近くへやってきました。商店街、と言ってもこの時間になるとほとんどのお店にはシャッターが降りています。本当は昼間も同じように、ほとんどのお店は閉まっているのですが、昼間ここに来たことがない彼はそれを知りません。しんと静まりかえった道を迷わずまっすぐ進むと、商店街の一番奥に小さく灯された看板が目に入ってきます。女の人の名前が付いたその店の裏口まで来ると、猫はまた小さく「にゃー」と鳴きました。
三回目に猫が鳴いたのと、裏口のドアが開いたのは同時でした。そこから現れたのは女の人でした。目に鮮やかなピンク色の服と、濃い口紅が暗がりにネオンのように輝いています。けれども袖口から伸びた白い手は、痩せていてまるで木の枝みたいです。
「ミー、来たの」とその女の人が嬉しそうに言ったのと同時でした。奥から大きな声が響きました。どうやらその人を呼んでいるようです。その声には答えずに、女の人はそっと猫の毛を撫でました。その手は痩せ張っていて、そうしてひどく冷たいのです。
けれども十秒もしないうちに、また奥の方から今度は怒鳴り声が響きました。女の人はびくっと身を強張らせると、「ミー、ごめんね。今度はご飯をあげるからね」と呟くと扉をぱたんと閉めました。名残惜しそうにぱたんと閉めました。猫はその「今度」が永遠に来ないことを知っているのですが、ご飯をもらいにここへ来るわけではないから気にしないで欲しいと「にゃー」と鳴きました。答えないドアに向かって「にゃー」と鳴きました。
猫は女の人の指先が好きで、そしてキライでした。その袖口からチラチラと覗く、火傷跡と裂傷はもっとでした。それを見る度に、躯の中になんだか黒くて切ないものが溜まっていく気がするからです。
それから猫は軽い身のこなしでブロック塀に飛び乗ると、そのまま塀伝いに歩き始めました。月明かりの下を迷いなく、ずんずんと進んでいきます。ひんやりと躯を包み込む闇が、奇妙にも心地よく感じられます。
あとどれぐらいこれを吸い込めば、結晶になれるんだろうと、猫がそんな風に考えていた時でした。ふいに「おい」と声をかけられて、猫はビックリして立ち止まりました。気がつけばいつもの家の庭先まで、辿り着いていたのです。おい、と声をかけたのはこの家に飼われている老犬で、芝生の上にぺったりと寝ころんだままこちらを見ています。ここもまた、彼の馴染みの場所なのです。
「今日も、来たんだな」と老犬は唸るように低く呟きます。
「うん、また話を聞きに来たよ」
猫は塀から庭へぴょんと降りると、そう答えました。そうか、そうか、と老犬は何度かうなずくと、喉を潤すように吠えた後、唸るように話し始めました。
それは昔の話でした。老犬がまだ若く、たくましい頃に行った、大きな公園の話です。老犬はこの家に住む一人息子とともに、そこを訪れました。そして、目一杯駆け回ったのです。キーキー揺れるブランコや、砂場や、ふわふわした芝生や、高く高く突き出たジャングルジム・・・。それらがいかにすばらしく輝いていたか、自分がどれだけ高く飛べたか、また一人息子がどんな顔をして笑ったのかを、老犬は事細かに話し続けるのです。
「な、どうだ、うらやましいだろう?」と話の間に老犬は何度も尋ねます。
「うん、そうだね、うらやましいよ」とその度に猫も答えます。
「な、お前は独りぼっちだから、きっと寂しいのだろう?」と老犬はそうも聞いてきます。
「うん、そうだね、独りは寂しいよ」とその度に猫は答えます。
永遠に続くかと思われた老犬の話も、やがて終わりが近づいてきます。老犬の話はいつも、ジャングルジムで遊んでいた息子の笑顔でぱったりと終わります。それから先どうなったかを、猫が聞いたことは一度もありません。そこまで来ると老犬は、何かを思い出すようにきつく目を閉じると、二・三度顔を振るわせて、決まって「・・・お前もな、いつかその公園に行くといい。きっと楽しいだろうよ」と、話を終わらせるのでした。そうして難儀そうに頭を下げると、話疲れてしまったせいか、はたまた別の理由か、静かに目を閉じてそのまま眠りにつくのでした。
猫は老犬が好きで、キライでした。老犬の話はいつもいつも同じ、一度しか行ったことのない公園の話でした。そして老犬の言う息子など、猫は一度だって見たことはないのです。公園の話をする犬の、しっとりとした瞳を見つめる度に、躯の中に黒くてじくじくしたものが、溜まっていく気がするのです。
猫は老犬の、溜息のような寝息を聞きながら、耳元で「そうだね、いけるといいね」と囁くと、それからぴょんと塀に飛び乗り、また闇の中へと歩き始めました。
老犬の家を出た時には、夜は深く、そして絡みつくほどに濃くなっていました。ひっそりとした住宅街も、そのほとんどの家は真っ暗です。たまにカーテンの隙間から漏れる光があっても、それはまるで佇むような静けさで、僅かに猫を照らすだけです。その中身を透かすようにして家々を覗きながら、この家の人たちは一体どんな生活をしているのだろう、暖かな布団に包まれて一体どんな夢を見ているのだろうと、猫はいつもそんな風に思うのです。
猫には「幸せ」という言葉の意味が、よく分かりません。なんだか遠い昔に触れたような、そんな淡い暖かさを感じるだけです。「幸せ」というものが何なのかも、猫にはよく分かりません。なんだか遠い昔に失ってしまったような、そんな淡い切なさを感じるだけです。けれどもこうして通り過ぎる家々の全てに、猫が想像も出来ない「幸せ」というものがびっしりと詰まっているような気がして、その白い瞳に映らない場所にこそ「幸せ」というものがある気がして、ここを通る度に彼は、とても嬉しいような、とても哀しいような、不思議な気持ちになるのです。
暗闇はずっと続いています。猫の後ろにも、そして先にも、暗闇はずっと続いています。その中を縫うようにしながら、そうしてためらいがちに何度となく振り返りながら、猫は道の先へと、暗い方へ暗い方へと進んでいきます。
この先に、またもう一つ、猫が毎日向かう場所があるのです。彼はその場所が一番好きで、一番キライなのでした。だから猫はこの道を通る度に、確かめるように何度も何度もも振り返らざるを得ないのです。
そうして、猫は辿り着きました。彼が毎日やってくる、一番深い場所へ。
そこは街外れにある一軒家でした。一見すると何の変哲もない、塀と庭に囲まれた二階建ての、何処にでもあるような普通の家です。けれどもよく見ると、庭は雑草が生い茂っているし、郵便受けは新聞紙で溢れていて、窓ガラスは所々割れてテープで留めてあります。玄関も壁も真新しいのに、よく見れば壊れた物ばかりが転がっています。深夜だというのに赤々と電灯が点っていて、そうして酷く騒がしいのです。猫は幾分かためらいがちに辺りを見回して、それからようやく決心して、門の隙間に躯を滑り込ませました。
・・・少女は今日も庭にいました。ぱっちりとした両目を大きく開けて、塀の方をぼんやりと見つめている様子です。庭に入ると騒音がいっそう激しさを増して猫の耳に届きます。少女はそれを無視するように、ただじっと立っています。薄明かりに佇むその姿は、置き忘れた人形のように見えました。
けれども少女の姿は可愛い人形にはほど遠いのです。上着は袖口が不揃いですし、スカートはつぎはぎだらけです。右足はプリント入りの子供靴なのですが、左足は大人向けのサンダルが申し訳程度に引っかかっています。ぼさぼさの髪は所々がばっさりと切られていてでこぼこで、髪留めのリボンも注意して見ないとボロ切れと間違いそうです。そうして、その全てが酷く汚れているのです。少女の躯も顔も、泥だらけです。
猫は少女の側へ駆け寄ると、小さく「にゃー」と呼びました。けれども少女は塀を見つめたまま、ぴくりとも動きません。部屋の中からは、男女が言い争うような怒号が響いています。文字にするのもはばかれるような、汚い言葉の群れです。少女は何も聞こえていない様子で、ただ暗闇を見つめているばかりです。
もう一度、猫は「にゃー」と呼び、それから少女の傷のない方の足にそっと触れました。その瞬間、大きな怒鳴り声が響いたかと思うと、ガシャン!という音がして、窓ガラスが割れました。
少女の、真っ黒な指先が、微かに猫に触れました。
「・・・石になりたいの」
少女が微かに呟きました。
それは、誰宛でもない言葉です。
少女が言葉を零します。
「・・・あたし、石になりたいの」
それは、答えられない言葉です。
そうして、猫を強く強く抱きしめました。
猫は静かに「にゃー」と泣きました。
どれぐらい時間が経ったでしょうか、聞こえていた怒号もようやく収まりかけた頃、ひとしきり大きな声で少女を呼ぶ声が響いてきました。金縛りが解けたかのように、少女はびくっと躯を振るわせます。少女を呼ぶ声は段々と、叫び声に近くなっていきます。それに引きずられるようにして、少女はゆっくりと歩き始めました。
猫は少女の手からするりと抜け出すと、逃げ出すように家路を急ぎ始めました。
猫は少女が大好きだから、大キライなのでした。少女の全てが大好きだから、大キライなのです。少女を見る度に、その真っ黒な指先に触れる度に、躯の中に真っ黒くて冷たくて切なくてじくじくして辛くて重くて苦しくてたまらない何かがたくさんたくさん溜まっていく気がするのです。
だからそこから去るときにはいつも一目散に、絶対に少女を振り返らず帰るのでした。
振り返った時、もしも少女が石になっていたらと思うと、猫はその場に一刻も、立ち止まってはいられないのです。
・・・しんしんと、夜は積もって行きます。
そうして猫は今朝もまた、洗濯機の下で思うのです。「僕は漆黒の闇を凝り固めた、結晶になりたい」と。
なぜなら結晶になれば、あの老人の指先も女の人の火傷跡も、キライにならなくてすむからです。あの老犬の話だって、何度でも楽しく聞けるはずです。幸せが何かだなんて、知らなくても歩いていけます。そうしてあの少女に抱きしめられても、何も思わなくてすむからです。ただ笑顔だけを持って、みんなに会いに行ける気がするのです。
暗い暗い結晶に、繰り返される夜と同じ結晶に自分がなってしまえば、少女の大きな瞳を見つめて、大好きだよと言える気がするのです。
そして真っ黒な結晶になった猫を、あの少女がその大きな瞳で見つめたら、
もう二度と、「石になりたい」だなんて、きっともう二度と、言わないはずだと──
だから今日も猫は、そっと暗闇に足を伸ばします。胸一杯にそれを吸い込めば、いつかきっと、この闇を凝り固めて、朝に変えられるだろうと信じながら。
キミガイルカラ
キミガイルカラ