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肌寒い風が吹く中、マイは鼻歌交じりに歩いていく。
あちらの世界に比べればデザインは良くないが、それでも寒くないと言う所では、かなり上等な物を着ている。
薬師として働くようになり、タカヒロが城で働くようになって、さらにリベルテの家に住まわせてもらっていることが大きく、冬用の良い服を買えたのである。
マイが上機嫌なのは、新しい服を着ているからというだけではない。
年末が近いためか、タカヒロの休みが少し前に比べれば多くなっているのだ。
朝と夜は揃って食事を取るようにしているのだが、たまに泊り込みになったり、夜の遅くに帰ってくる日も少なくは無はない。
こうして休みの日に一緒に出かけると言うのも久しぶりで、嬉しかったのである。
ただ、タカヒロはそこまでの感動は覚えていないらしい。
「う~、寒い……。あ~、はしゃいで転んだりしないでね」
マイが機嫌よく前を歩いている所に、まるで小さな子どもに注意でもするように言ってくる。
マイは少しむくれてみせる。
タカヒロのこういった部分は不満だった。
タカヒロはなんだかんだ面倒くさがりながらも、実際には面倒見が良い。
なんとなくレッドも似たような性格だと考えた所で、レッドが嫌そうな表情になるのが浮かんでくる。
マイは初めてタカヒロに会った時、最初に話をしたのは当然、向こうの世界についてであった。
誰でも良いから、同じ価値観で、同じ考えで話せる人が欲しかった。
小さなことから何でも話をしたものだが、同じくらいの年齢だと言う事に二人して驚いたことは、今でも思い出してクスっとしてしまう。
そしてそんな会話の中で、どんな仕事に就きたかったのか、どんな仕事をしてたのかなんて言う話もしていて、そこでタカヒロは保育士になろうとしていたと言っていた。
面倒くさがり屋ではあるが、優しさを持っているタカヒロは、今なら良い保育士になっていたのではないか思っている。
そう言うマイは、どこかの会社の事務に就きたいと思っていた。
どうしても事務員になりたい、と言うものではなくて、逆にこの仕事に就きたいと言うものがなかったのだ。
それなりに働いてお金をもらって、あちこちの美味しいお店を調べて食べに行ったり出来れば良いな、くらいの考えだった。
そんな今は、こちらの世界で薬師になって働いている。
多くの人を助けたい、と考えて動いた結果だ。
ただ、薬師になったから多くの人を助けられる、とまでは今でも思ってはいない。
マイ自身も、自分がそんな凄い事が出来る人間だとは思っていないし、この世界に来た時に持っていた不思議な力も、もう無くなっている。
それでも手が届く所で何もしないで居るのは、きっと後悔ばかりになると思ったのだ。
そしてそんな後悔してばかりでは、食べるご飯も美味しくないと考えた結果でもあったりして、リベルテにこそっと話したら、マイさんらしい、と言われていた。
まったく何も分からない場所に来て、それが違う世界なんだってわかって、もう帰れないかもしれないと言う事が苦しくて、悲しくてどうしようもなかった。
そんな中で同じ境遇のタカヒロに会い、そしてリベルテたちに会えたことで、今はここで生きていくのも悪くないかもと思えてきている。
いろんな物で溢れていたあちらの世界に比べたら何も無いし、不便だと思うことも多いけれど、そういうのもひっくるめて、楽しいこととか気付かなかったことに気付けるようになってきていたのだ。
あちらの世界に居た頃は、手元を見ていることが多くて、常に見ていないと不安なくらいだった。
手元にある物が無くなったら、独りになってしまうように思ってしまっていたのだ。
でも本当に違う世界に来て独りになって、そこから手を引いてくれる人に出会えたから、マイは本当の意味で顔を上げて世界を見られるようになった。
空は綺麗だし、森や丘は緑や花の色が見えて鮮やかだし、ちゃんと生きてるって人たちの顔が見える。
だからこの世界では、こうして散歩をする時間がマイにとって、とても楽しい時間になっていた。
「今日はあっち行ってみようよ」
マイがタカヒロの手を引いて、まだ通った覚えが無い道を進んでいく。
あちらの世界の街に比べれば、王都と言っても人の数は断然少ないと言えるが、それでもこの世界は王都と言うだけあって狭くは無い。
時間を見つけて、さすがに一人で出歩いたりはしてないが、まだまだ通ったことの無い横道や抜け道があり、その先はどうなっているのかワクワクしてしまうのだ。
「ちょっ! へんなところ行ったら危ないから」
「そうなったら、タカヒロ君が守ってくれるんでしょ?」
マイは少し上目でタカヒロを見つめると、タカヒロはグッと黙ってしまう。
マイ自身も少しずるかったかな、と思うが嘘は言っていない。タカヒロは強いのだ。
レッドも強くて頼れる人であるが、マイが困った時に、大変な時に助けてくれるのはタカヒロであり、だからこそマイも頼ってしまう。
レッドに頼るのもあるのだが、レッドはリベルテの一番の人だと分かっている。
リベルテを応援したいマイは、レッドに不必要に距離を近づけないように気をつけていることもレッドにあまり頼らない理由だったりする。
反論も出来なくなったタカヒロの手を引いて、横道を駆け抜けていく。
少し困ったような顔をしながらもちゃんとついて来てくれる足音に、マイはまた笑顔になっていくのが自分でもわかっていた。
二人が抜けた先は奥まってる場所だった。
そんな場所であるが、人が住んでいるのがわかる。
張った縄に掛けて干している布や服があって、水甕もあれば誰だって分かるものだ。
ただ、こんな奥まった場所で生活している人となると、孤児であったり、家が無くて宿も借りられない人たちと考えられる。
ふと、マイは自分たちならこのような場所で生活していけるのだろうかと考え、改めて今の自分たちは恵まれた生活を送れているのだと実感する。
今もリベルテの持ち家という屋根があり、それぞれの部屋までつけて住まわせてもらっているのだから、恵まれている。
そのことに感謝するようにぎゅっと手を握り締めていると、タカヒロがマイの手をひっぱった。
「ここはこれ以上見るものでもないでしょ。戻ろう?」
タカヒロの言葉にマイもコクリと頷いて、来た道をゆっくりと引き返す。
横道や抜け道を抜けた先の視界。
今まで見てきた景色と違う景色が見えるので、マイはそれが好きだった。
今までの一つだけしか見てこなかった世界がもったいなかったと、世界はこんなにも違った顔をいっぱい見せてくれるのだ、と気付いたからだ。
しかし、見える世界は全てが楽しく、綺麗なものばかりではない。
時折、今先ほどのように悲しい思いになってしまう景色もあるのだ。
この世界では、先ほどのような景色を見ることは少なく無い。
むしろ、あちらの世界に比べれば多いと思えてしまうくらいだ。
でも、マイはあちこち見に行くのを止める気は無い。
見ないままでいるわけにいかないんだ、と思うようになったからである。
何も知ろうとしないで、ただ守られているばかりでは、何も出来ないままで、何も変わらないことをあの事件の時に知った。
あのまま、タカヒロに背負わせ続けるだけじゃダメなんだと考えたから。
それでも、周りの人まで急に考えを変えるわけでもない。
タカヒロはマイがあのような光景を見て表情を曇らせるのを嫌って、今みたいに手を引いて歩いていく。
その気持ちは嬉しくもあるが、甘えてばかりではいられない。
マイは無かったことには出来ないから、せめて目に焼き付けておこうと振り返ろうとした時、甕が割れる音が響いて、ビクッとして足を止めてしまった。
大きな音は先ほどいた場所から聞こえたようで、マイは向かおうとするが、タカヒロに手を掴まれたままで動けない。
思わずタカヒロの顔を見てしまった。
タカヒロはマイの想像以上に力強く引っ張ったため、マイはタカヒロに抱きかかえられる状態となった。
タカヒロが意図してこのように引っ張ったことはわかり、こんな時に!? とマイは思わざるを得なかったが、そんな風に思えたのも束の間だった。
通りの方で人を殴る音とくぐもった人の呻き声と、怒声が聞こえてきた。
「キストの教えなんか守るやつが、この国に居るんじゃねぇよ!」
「そんな邪教信じるなんて!」
「その教えによって動いたやつらが何をしたかわかってんのか!?」
耳に入る怒声で事態がわかる。
先ほどまでの場所は、キストの国の教えを守っている人が生活していたのだ。
隠れるように暮らしながらも、隠れ続けたまま生活は出来やしない。
何かを買うために通りに出て見つかってしまったのだろう。
このオルグラント王国にとって、先の騒乱を起こしたキストは敵以外の何者でもない。
キストの教えに参加した人は、魔の薬によって普通の人とは言えないような様子で暴れ回ることになったし、そもそもの聖職者たちは高額なお金を払わないと治療をしてくれない人たちだった。
だからこそ、聖職者を信じる人は少なく、薬師が出てくるようになり、マイも人を助けるためにと薬師になっている。
マイであっても、キストの国の教えを信じようと思う気にはなれない。
なれないが、信じるなと言う考えもない。
あちらの世界は自由だったのだ。
誰が何を信じようとも自由なのである。
この国で生きているのだからと思うけれど、マイたちはこの国の王様たちなら信じられるか、と聞かれたら信じられるとも答えられない。
何を信じるかは自由だし、何を信じないかも自由な生活を送ってきていたからだ。
そんなマイたちだからこそ、キストの教えを信じる人のことがわからなくもない。
オルグラント王国も、今の王様に代替わりしてから事件が起きたと言う声もある。
この国の王様たちを信じられなくなっている人たちも居ると言うことだ。
では何を信じたいのか。
何に縋って、救いを求めようとするのか。
そうなったら、人が縋るのは神様であり、宗教になる。
だから、マイはキストの教えは信じられないけれど、その教えに縋りたい人たちが居るなら居ても良いとは思うのだ。
しかし、この世界は不自由ではないが、あちらの世界ほど自由でも無い。
何より、多くの被害者を出したのは、キストの聖職者たちとその教えを信じる人たちだったのだから。
好んで耳にしたくない、人を傷つける音が聞こえてくる。
怪我をしている人たちを助けたいから薬師になることを選んだマイだから、怪我人を助けに行きたいと思うが、タカヒロがそれを許さない。
何も出来ないまま聞き続けるのは苦しくて、マイは今だけ、とタカヒロに抱きかかえられるまま、目を閉じ、耳を塞ぐ。
何もしないままではいられないと思っていても、何かを出来るほどの力は無い。
違う世界であれば、その世界の決まりが存在する。
それはあちらの世界で生きていた自分たちの思いだけで、批判したり変えたりしてはいけないものだ。
きっとあの人は亡くなってしまうのだろう。
あの事件が無かったら、こんなことは起きなかったのだと思う。
しかし、もうすでに起きてしまった後なのだ。
あの事件によって亡くなってしまった人たちのことを思えば、それを引き起こした人たちの教えを信じ続けることが、どれほど危険で難しいことか分かるはずだった。
その教えを信じて良いか疑問に思っても良いはずだった。
それでもあの人が縋ったのは、この国を治める王様たちでも周囲の人々でもなく、この国で多くの人の命を奪った事件を引き起こした国の教えだったのだ。
肩を叩かれて目を開けると、優しい顔をしたタカヒロが目に映る。
「もう、大丈夫だよ」
マイはそれに頷いて良いのかわからなく、そっと耳を塞いでいた手を下ろす。
「……この世界に慣れてきたかなって思ってたけど、そうじゃないんだね」
自分たちが生活している周りに慣れてきていただけだった。
この世界で人々はどのような思いで生きているのか。
国同士はどのような思惑でいるのか。
自分たちの生活から一歩外に出た先はどうなっているのか、
自分たちはまだちゃんと分かっていない。
タカヒロがポンとマイの頭に手を置いて、それからマイの手を引いて歩き出す。
マイもタカヒロも生きている。
立ち止まる時はあっても良いけれど、立ち止まり続けるわけにはいかないのだ。
マイはぎゅっとタカヒロが握る手に力を入れる。
握り返された手はとても温かかいものだった。
ここまでお目通しいただき、ありがとうございます。