9、蛍明さんの彼女
朝早くに別宅を出て、九時頃には蛍明の引越し先である街についた。遠くに高校らしき建物が見える。まずはあそこを目指し、果樹園と川にも寄ってみよう。
そう決めて、そして日花は途方に暮れる。
その過程で蛍明が見つからなければ、これからどうすればいいのだろう。勢いだけでここまで来てしまったが、今度は蛍明の家を見つけたって昨日のように突撃するわけにはいかない。さすがに家族に嘘をつき通すのは無理がある。
タブレットに表示した地図を見ながら、とぼとぼと高校を目指す。
この、砂漠の中からたったひとつの小石を探すような無謀な行為。
日花はひとつ決心する。今日一日蛍明を探して、もし見つからなければ諦めるということだ。蛍明の言っていたことを信じて、数日たっても日花のマンションに帰ってこなければ無事に成仏できたと、そう考えよう。
深く俯けていた顔を、前から聞こえた明るい声に思わず上げる。私服を着た高校生くらいの女の子ふたりが前から歩いてきていた。
蛍明の妹の蝶子は確か今年で十八歳、高校三年生だ。この子達と同じくらいなのだろう。前から歩いてくる二人組をさり気なく見る。当たり前だが別人だ。さすがにこんな偶然はないようだ。
隣を通り過ぎてから、マップを確認するために立ち止まる。そう言えばと目指している高校の制服を検索してみた。
なるほど、確かにこれは可愛らしい。
マップに画面を戻してタブレットから顔を上げた、その時。
「蝶子!」
通り過ぎた二人組のうちのひとりのものと思われる大きな声に、日花は体を強張らせた。
古いロボットのような動きで後ろを振り返る。
手を振る二人組に向かって大きく腕を振りながら近付いてくるのは。
よく日焼けしていたSNSの写真からは見違えるほど白い肌になっていたが、それ以外はあの写真のままの、桐原蝶子だった。彼女が着ているのは、さっき見たばかりの可愛らしい制服だった。
「蝶子、今日補習やっけ? 時間大丈夫?」
「いや、補習行っとったんやけどさ、親から連絡あって病院来いって。今から着替えて向かうとこ」
友人たちはその言葉に絶句して、何も言えないかわりに蝶子の手をそれぞれ握り締める。
蝶子は友人のその行為にぐっと唇を噛んで、それから歪みかけた顔を笑顔に作り変えた。
「ごめんなぁ、暗くしてもて! 大丈夫やで! まだどうなるか分からんし!」
彼女は握り締められた手を握り返してブンブンと握手するように振る。
「頑張ってな、蝶子……」
「うん、ありがと! じゃあ行ってくるわ!」
手を振って三人は別れる。二人組は道路の向こうへ渡っていって、蝶子は浮かべていた笑顔を消して、目元を何度も乱暴に擦ったあと少し俯いたまま日花のそばを通り過ぎた。
「あの、すみません!」
思わず呼び止める。振り返った蝶子を見て、一気に血の気が足元まで落ちた。
声なんかかけてどうするつもりだ。
蝶子はマップの表示されたタブレットをちらりと見て道でも聞かれると思ったのか、「はい、何かお手伝いしますか?」と蛍明によく似た屈託ない笑顔を日花に向けた。
こうなればもうヤケだ。口を開く。
「あの、桐原蝶子さん、ですよね?」
その途端、笑顔が消えその顔にまざまざと警戒の色が浮かぶ。
「……どちら様?」
どうにか怪しまれないように、なんてもう手遅れだ。
「私、花岡と言います。あなたのお兄さんの蛍明さんの……その……彼女、なんですけど」
咄嗟に出た嘘で自分の頭や視界がぐるぐる回り始めたのが分かった。もし蛍明に蝶子が知っている彼女がいたらどうしようか今さら肝が冷えたが、その心配はなかったようだ。
「え!? お兄ちゃん彼女おったんか!」
そしてこんなに簡単に突然現れた不審な女を信じて大丈夫なんだろうか。
「……突然声をかけて、驚かせてしまってごめんなさい。蛍明さんに、妹さんの写真を見せてもらっていたから。さっき名前が聞こえて、もしかしてと思って……」
できるだけ不信感を抱かせないように、苦手な愛想笑いを浮かべる。蝶子はまじまじと日花を見つめながら、またほんの少し警戒を含んだ声色で尋ねた。
「ここらへんの人とちゃいますよね?」
「ええと、東京なんですけど」
「東京……あれか! 就職前に二週間研修受けに行っとった時の!」
もしかしてと、蛍明が何となく覚えがあると言っていた東京の地名を言ってみる。
「そう! そこで研修するって言っとった!」
ようやく謎が解けた。
彼があの場所を知っていたのは、たった二週間だけ訪れたことがあったからだ。
「そうです。その時に出会って、その……お付き合い、というか、そんな感じになって……」
この嘘は、できれば蛍明には知られずに彼には成仏してもらいたい。絶対にからかわれる。
「蛍明さんが帰られたあとも連絡をとっていたんですが、最近になって突然メッセージが返ってこなくなって……何かあったのかと……」
冷や汗で体が冷えていくのが分かった。
随分と物騒な設定の女にしてしまったなと自分でも思う。二週間の研修の間に出会って付き合うことになり、研修から帰って遠距離恋愛になったら音信不通だ。
普通なら遊ばれていたと思うだろうに、わざわざ東京からここまでやってきて当てもなく本人を探しているなんて、完全にヤバい女だ。
それなのに蝶子はその顔に同情を浮かべる。
「ごめんなさい、メールでやり取りしてる人には連絡したんですけど、メッセージの方はお兄ちゃんロックかけてて見れなくて……」
なんて純粋無垢な女子高生だ。それとも自分の兄が女遊びをするなんて露ほども思っていないのだろうか。確かに蛍明のあの性格なら、女遊びなんてできなさそうだ。
「連絡……?」
素知らぬふりをしてそう尋ねる。
蝶子は俯いて、なんと言えばいいのか分からないという顔をする。彼女を語る女に、兄は死にましたと伝えるのはそれはそれは勇気のいることだろう。
酷なことをさせてしまっている状態に罪悪感を抱く。
「何か、あったのなら……覚悟はできています」
できるだけ彼女の心労を取り除こうとする。蝶子は顔を上げ、日花の顔を見てもう一度俯いた。
「お兄ちゃん……仕事中に事故に遭ったんです。上から落ちてきた物が頭に直撃して……」
そこまで言って、彼女は唇を引き結んで鞄を漁った。取り出したのは可愛らしいメモ帳で、そこにさらさらと何か書いてちぎって日花に差し出す。
「ここに……」
蝶子が言葉を切ったのは、声が震えて涙が落ちたからだ。何度か嗚咽を上げて、袖口で涙を拭って、彼女は絞り出すように続ける。
「ここに行ってあげてください。声、掛けてあげてください……」
日花がメモを受け取って、すぐに蝶子は深々と頭を下げた。
「お願いします……!」
そのまま彼女は、日花の顔も見ずに駆け出して、あっという間にその姿は見えなくなった。
「今でも充分、足、早いけどな……」
日花は手の中のメモを握り締める。
仕事中の事故。もし蛍明がまだ成仏していなければ、これを伝えればきっと思い出すだろう。
気怠い手でメモを持ち上げる。そして目を見開いた。
蝶子が渡してくれたメモは、墓の住所だと思っていた。
しかし書いてあるのはとある施設の名前と、三つの数字。
「なん、で」
理由を考える。
考えても考えても、それ以外思いつかない。
「……蛍明!」
堪らずに叫んで駆け出す。少し走って、すぐに立ち止まった。
蛍明はどこにいる。
彼はまだどこかにいる。必ず、どこかに。
「落ち着け……」
彼がいそうな場所は。
もし自分が蛍明なら。
辿り着いた住所が昔の住所だと気付き、もし新しい住所を思い出せたのなら、もうこの辺りにいるだろう。しらみ潰しに探すしかない。
しかし、もし思い出せていなかったとしたら。
日花は顔を上げる。
確証なんてひとつもない。ただの勘だ。
地図アプリを開いて、行き先を決定する。電子音声に従って、日花は走り出した。