7、もう二度と会えませんように
「行こうか」
そう言って日花が立ち上がると、蛍明は訝しげに「……どこに?」と尋ねた。本気で行き先が分かっていないようだ。
「兵庫。ついていく」
彼はぽかんと口を開け、何度か日花の言葉を頭の中で反芻したらしい。
徐々にその顔が険しくなっていく。
「いやお前、兵庫やぞ」
「うん」
「うんやない。行くなら新幹線やぞ? いくらするか知っとるか? それにこんな田舎、こっから三時間四時間では着かへん。行って帰られへんなったらどうすんねん。ホテル泊まるんか? どんなけ金かかんねん」
蛍明の心配ももっともだ。しかし日花には彼のその心配を解消するものがあった。
スマートフォンをいじって、とある画像を表示する。
「これ、うちの実家」
「…………何やこの豪邸」
呆然と蛍明が呟く。東京の高級住宅街に建つ実家だ。今は両親がふたりで住んでいる。
次にソファのそばに置いていたカバンを膝の上に持ち上げる。そして財布からカードを取り出した。
「でね、これが何でも勝手に買っていいよって親にもらったクレジットカードで」
「え……黒……」
次に取り出したのはキーケースだ。
「これ、兵庫の芦屋にあるうちの別宅、の鍵」
キーケースから一本の鍵を取り出して、蛍明の前でぷらぷらと揺らしてみせる。それらが何を意味しているのか蛍明はすぐに気付いたようだ。彼は唇を震わせて叫ぶ。
「お前、ええとこのお嬢さんかよ……! いやおかしい思とってん! ここ女子大生がひとりで住むマンションにしてはデカすぎやって! 兄ちゃんもえらい上品やったし……!」
なぜか悔しそうにしている蛍明を見やる。
彼を納得させるためにこんなものを見せたが、実を言うと奨学金で上手くやりくりしているし、親から好きに使えと預かったクレジットカードも使ったことはない。
ただ、マンションは親の所有物だし今日のように頻繁に食べ物が送られてくるので、バイトが禁止されてるとはいえ他の一人暮らしの大学生よりは生活はずっと楽だろう。
それらは黙ったままキーケースを鞄にしまう。
「用意するから待ってて」
二泊することにはならないだろうが、万が一があってもあちらの別宅には洗濯機もある。着替えは一組でいいだろう。管理してくれている人が定期的に掃除をしてくれているはずで、家具家電もそろっている。あとは化粧品と、充電器、それから他には。
「日花」
名を呼ばれ、いったん考えることをやめて振り向く。
珍しい、真面目な顔が日花を見上げていた。
「俺ひとりで行くわ」
固い声で放たれた言葉に、眉を寄せて不服だと伝える。
「俺だけやったらタダで新幹線乗れるし、お前が一緒に行く意味がない」
「そんなことない。何か役に立てる」
「日花、お前がおらんくたって、この住所行って家ん中入って家族の話聞いたらそんまま成仏できるやろ。金持ちや言うても、親の金をそんな無駄に使ったらあかん」
「……うまく成仏できないこともあるかもしれない。何か、不測の事態が」
「この住所行ったら絶対家族がおる。そうしたら絶対何か思い出す。あとはもう俺ひとりでもできる。ここからは、お前の日常に支障が出る範囲や」
ぐっと唇を引き結ぶ。分かっている。もし兵庫に行くなら新幹線代は生活費を削る必要がある。痛いすぎる出費には違いない。
でも、ここまで協力してきたのだから、最後まで。
「……兄さんが言ったことは気にしなくていいって言ったでしょ」
「ちゃう。兄ちゃんがお前に関わんなって俺に言うて、これ以上お前を関わらせんのを躊躇したのは確かや。でもな、それ聞いてなくても兵庫行きは断った」
「蛍明」
「よう考えろ。お前、自分で言うたんやろが。幽霊助けは生活に支障のない範囲でしかせえへんって」
「蛍明、私は」
「あかん」
強い口調と目線に肩を震わせ、しかし負けじと蛍明を睨み付ける。彼はすぐに目を逸らして深い息をつく。諦めてくれたかと思ったが、違った。
蛍明は日花の顔を覗き込み、子供に言い聞かせるように、しかし突き放すような笑顔を浮かべた。
「日花、ありがと。でもな、ここでバイバイしよ」
小さく首を振って彼を見て、ぎゅっと唇を噛む。なぜ、どうして、こちらが突き放されなければならない。まるでお前はまだまだワガママな子供だと言われたような気がした。
立ち上がった蛍明を、もう止めることはできそうになかった。
「もし、万が一何も手掛かり見つけられへんかったら、またここに戻ってきてもいい?」
「……もう蛍明なんか知らない」
「ごめんって。何日経っても戻ってこんかったら、うまいこと成仏できたって思ってよ」
黙ったまま、玄関に向かう蛍明の背中を追う。
「行ってくるわ」
「……うん、行ってらっしゃい……っていうのはおかしいか。バイバイ、もう二度と会えませんように」
「はは、そやな。もう会わんで済むように祈っとくわ」
少し皮肉を込めたのに、彼は気付かずに笑うので罪悪感がこみ上げる。
「世話になったな。お前がおってくれてほんまよかった。追い出さんと、最後まで面倒見てくれてありがとう」
まだ最後じゃないと、掠れて声にならなかった。
「全部お前のおかげや。何か……閻魔様とかそういうんおったら、お前めっちゃええ奴やでって紹介しとくわ」
「……そんなことしなくていいから、ちゃんと成仏してきて」
あははと蛍明が声を上げて笑う。うるさくて、随分と耳に馴染んでしまった声だった。
「分かった。お前ええことしたから、絶対何かええことあるで。楽しみにしとき」
返事ができずに玄関の扉を開く。「すり抜けられんのに」と笑って、蛍明は手を振る。
何か別れの言葉を言いたかったのに、声を出したら表情が崩れてしまいそうだ。
「日花」
名前を呼ばれて、俯けていた顔を上げた。蛍明は随分と困った顔をしていた。
「何でお前が見捨てられたみたいな顔しとんねん。お前が俺を見捨てなあかんねんで」
ああそうだ。ついさっき見捨ててやるなんて豪語した。じわりと視界が滲む。溢れたものを蛍明に見られてしまう前に俯いた。
「バイバイ」
「……うん、じゃあな、バイバイ」
何度か躊躇して、彼の足が踵を返したのが俯いた視界に見えた。
少し待って、顔を上げる。
涙がいくつか落ちた視界には、もう、蛍明の姿は映っていなかった。
扉を閉めて、リビングに戻る。
ソファにゴロリと寝転んで、広い部屋でたったひとり、よく分からない喪失感に打ちのめされていた。この喪失感は、蛍明が成仏する姿を見届けることができていたら消えたのだろうか。
腕で目元を覆ってじっとする。
切り替えなければ。
蛍明の言う通り、家に帰り家族に会えば彼の記憶は戻るだろう。蛍明は無事に成仏できるはずだ。大丈夫、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせてから起き上がる。まずは部屋中に散らばった地図を片付けて、図書館に返しに行こう。
ふと目に入ったパソコンを閉じようと手を伸ばす。蛍明の実家の写真を消し、周辺地図の表示されたブラウザも消そうとして気付いた。本当に家の前に、蓮見川という川が流れているようだ。何気なく見える範囲を広くして、日花の指が止まった。
蛍明が言っていたはずだ。家の近所には大きな川と制服の可愛い高校、そして小さな果樹園があると。それなのに一番近くの高校でも家から直線距離で五キロは離れているし、そもそも市内に果樹園らしきものはない。
ざわっと背中が鳴った。眉間を寄せる。
何かがおかしい。
それほど大きくない市内をくまなく見て、もう一度蛍明の家を表示する。何か手がかりはないだろうかとズームして、そして気付いた。
家の表札が「桐原」ではない。「市橋」だった。画像はぼやけているが、決して見間違いなどではない。
蛍明は確かに「俺の家」だと言った。記憶違い、さすがにそんなことはないだろう。
どういう理由があるだろう。親が離婚、いや、家族は両親と妹の四人だと言っていた。何かわけありで母親の旧姓などを名乗っているだとか、実は結婚していて奥さんの名字だとか。それなら妹の名前を思い出した時に「桐原蝶子」とは言わないだろう。
それよりも、ここに住んでいたが引っ越したという可能性のほうが現実的だ。
そしてそれを、蛍明はまだ思い出していないだけだとしたら。
ノートパソコンを勢いよく閉めて、立ち上がってそしてたたらを踏む。
もしこの家まで行って他人が住んでいて、何も思い出せなかったら蛍明はここに帰ってくるだろう。どうにもならなかったら、きっとまた頼ってくれる。それなのに、すれ違いになる危険を犯してまで彼を追いかけるべきか。
少し考えて、日花はずしりと重たくなった心臓の辺りを手のひらで押さえた。
蛍明はまた、頼ってくれるだろうか。
ずっと、これ以上日花の迷惑にならないようにと動いていた蛍明。彼はもう何があっても、ここには帰ってこないのではないか。
混乱した頭を落ち着かせようと残っていたイチゴを食べて、それが驚くほど酸っぱくて嫌な予感が倍増した。
腰をまた座面に戻す。蛍明を追いかけるために、今まで守ってきたルールを破るのか。今回は、数日前のバス代数百円とは比べ物にならない金額がかかる。
蛍明のために。追いかけたって会えないかもしれない彼のために。たった五日一緒に暮らし、もうすぐ成仏して跡形もなく消え去ってしまう幽霊のために。
「……違う」
わざと口に出して否定する。
「違うの」
そう、違う。今回の兵庫行きは、別に蛍明を助けに行くわけではなく。
「ちょっと、あれだ。……別宅に遊びに行くだけ。旅行に……そう、旅行に行くって兄さんに言ったし……」
誰にともなく言い訳をするようにひとりごちて、勢いよく立ち上がる。
大きめの鞄に着替えとポーチと諸々を押し込んで、日花は部屋を飛び出した。