6、あなたには私しかいないでしょう?
顔を覆っていた手を下ろす。いつまでもこうしているわけにはいかない。
日花は部屋に戻り、いまだに固まったまま正座している蛍明に声をかけた。
「ごめん、やっぱり外で待っててもらったらよかったね。兄さんの言ったこと、気にしなくていいから」
できるだけ明るい声で言う。蛍明はぎごちない動きで日花を見て、顔を引きつらせたまま尋ねた。
「兄ちゃんも幽霊とか分かるん……?」
「兄さんは何となくそこにいるのが分かるってくらいかな。はっきり見えるのは私とお母さんだけ。もうひとり真ん中の兄さんがいるけど、そっちは全く。理解もなくて、私達を気味悪がって家に帰ってこないくらい」
冷蔵庫を開ける。立派なイチゴが入っていた。二個さっと洗って皿に入れて、ソファに座った。
いつまでも部屋の隅で正座をしたままの蛍明に向かって、ぽんぽんと隣の座面を叩いてみせる。ようやく立ち上がって近付いてきた彼は、どことなく遠慮がちに隣に腰を下ろした。
その原因はさっきの兄との会話だろう。
「……あれやな、東京の兄妹ってあんなんなんやな」
「うちのはシスコンだから参考にしないほうがいいよ。私がひとり暮らし始めたのを心配して、わざわざ追いかけてきて近くに住んでるくらいだから」
「マジか、すげーな……何かお前のために命かけとるみたいな感じやったもんな」
傍から見たらそんな感じに見えるのだろうか。イチゴをひとつ摘んで口の中に放り込む。甘くて美味しいイチゴだった。
「日花、実の兄ちゃんにもあんな感じなんやな」
もうひとつ口に運ぼうとしたイチゴを、その言葉に思わず止めた。
「……どんな感じ?」
「何か一線引いとるというか、他人行儀というか」
背もたれに体を預けて、蛍明はぼそぼそと呟く。
「お前、最初はあんまり生きとる人間に興味ないんやと思っとったんやけど、ちょっとま一緒におって見とったら、むしろ人とおるの好きそうやなって思って。それやのにすぐに自分から距離取ろうとするやろ」
一瞬、息が詰まったような錯覚に陥った。言葉が出ずに口を開いて閉じる。
蛍明がそれに気付く前に顔を俯けて、長い髪で表情を隠した。
「だって幽霊が見えるなんて、他人から見たらただの頭がおかしい人でしょ。深い仲になればなるほどボロが出る。誰にも知られたくないの」
じっと視線を感じていたが、蛍明の顔を見ることはできない。
「……でも兄ちゃんは知っとんのやろ? お前が幽霊見えること」
「知ってる。知ってる上で兄さんは私を大切にしてくれるし幽霊だって信じてるっていうけど、でも彼には実際に見えるわけじゃないし、それが本心なのかは私には分からない。真ん中の兄さんには幽霊関係で思い出すのも嫌なくらい暴言吐かれてるし暴力も振るわれたし。気持ち悪い、嘘吐くなって。血が繋がってるからって何もかも全て受け入れてもらえるとは思ってない。信じきって……捨てられるのが怖いの」
こんなにも大切にしてくれる実の兄すら信用できないのに、赤の他人を信用することなんてできるはずがない。この体質に気付かれる前に、嫌われて離れていってしまう前に、自分から距離を置くようにしていた。
きっと心を開けるのは、同じように幽霊が見える人か、幽霊になった経験のある人だけだろう。前者は母親しか知らないし、後者はそもそも何だ。幽霊は幽霊でしかない。
そんな日花の内心に気付いているのかいないのか、蛍明はため息をついてソファにぐったりと体を預けた。
「はぁ……日花も色々複雑で大変なんやなぁ。俺なんか……」
そこまで言って彼は言葉を詰まらせる。
「俺……なんか……?」
思わず体を起こして、何か思い出そうとしている蛍明の邪魔にならないよう黙る。
頭を抱えてじっと足元を見ていた彼は、ようやくポツリと呟いた。
「……思い出した。俺、妹がおるわ。五歳離れとって、すっげー生意気なやつ。あと両親と、四人暮らしで」
五歳離れた妹。ここまで詳細に記憶を思い出したのは初めてかもしれない。
「名前は? 分かる?」
机の上に置いていたメモ帳を取る。
いつまでも返事をしない蛍明の顔を見上げると、彼は珍しく表情を押し殺していた。
「お前さ、家族も認めるお人好しなんやな」
「幽霊限定でね」
「……生きとる人間にも優しくせえや」
「生きてるのなら自分のことは自分でどうにかできるでしょ。周りに助けを求めることだってできる。でも幽霊は何もできない」
それは蛍明が一番よく分かっているはずだ。
「誰かと話すことも何かに触ることも、何もできない。それがいつまで続くのかも分からない。ずっと見てきたの。体験したわけじゃないけど、それがどれだけ辛いことか他の人よりは分かってる」
ソファの座面に手をついて、彼の顔を覗き込む。
「……さっきの兄さんの話、気にしてるの?」
蛍明は視線をそらして返事をしない。もう一度彼の顔を追いかける。
「あれは兄さんの主観。私が感じてることや思っていることとは違う。自分を大人だとは思ってないけど、でも子供でもないつもり」
それでも視線を合わせない蛍明にさらに近付く。突然の至近距離に驚いた彼が逃げるように後ずさりソファの肘掛けにもたれかかったが、それでも構わず詰め寄った。
ほとんど押し倒しているような格好だ。手も足も重なっている。
「私は私なりに自分の限界を決めてやってる。最初に言った通り、もう無理だって、もうどうにもできないってなったら、私はあなたを見捨てるから」
その顔が、見捨てるという言葉に凍りついた。
彼の黒い瞳が潤んだように揺れる。縋るような視線が纏わりつく。それなのに、彼は見捨てないでと言わない。
「……あなたには私しかいないでしょう?」
彼の肩の辺りにめり込んでいる手をぎゅっと握る。
まだ見捨てたくない。まだ限界なんかじゃない。無理をしていない、といえば嘘になるかもしれない。
でも、できるのなら、本当の最後の最後まで見届けたい。
蛍明を救ってやりたい。
「……お前、ほんまに辛ないん?」
「辛くない。少しずつ記憶は戻ってきてるし、ちゃんと前進してるから」
それよりも、蛍明がどうすることもできずに途方に暮れて、ひとりぼっちで絶望している姿を想像する方が辛い。なんて言ったら調子に乗りそうなのでやめておく。
眉を垂らして見上げてくる彼の頭を撫でるように手を動かす。そして、胸元に置かれている彼の手に手を重ねた。
「蛍明、もう少し一緒に頑張ろ」
安心させるように微笑む。
すると彼の顔が驚愕に染まり、その両目が挙動不審に左右に動く。
彼は赤くなった顔を隠すように両手で顔を覆った。
「ちょっと待って……普段全然笑わんクールな女の突然の笑顔ヤバない……? 俺が少女漫画のヒロインやったら、完全に今から抱かれるやつやん……」
「で? 妹さんの名前は?」
「ツッコめや」
日花が上体を起こすと、蛍明もそれはもう不服だと言う顔をして起き上がった。まだ赤らんでいる頬をごしごしと撫でながら、それを誤魔化すように彼は唇を尖らせる。
「お前のボケ殺し怖いわ」
「なら抱いてやろうか。脱げよ」
「脱ぐかアホ!」
スーツの胸元を手繰り寄せながら叫ぶ彼を、今は構っている暇はない。
「名前は?」
繰り返すと、蛍明は無言でスーツのしわを撫でつけてから恨みがましそうな視線を日花にやった。
「……妹は桐原蝶子。両親は……出かかってるんやけど、あとちょっと思い出せん」
「どんな漢字?」
「虫の蝶に子供の子」
ノートパソコンを開いて検索してみる。珍しい名前なので、出てきたら確実に本人だ。こんな時は、検索結果が表示される一秒間すら長く感じる。
ようやく表示されたのは、二件。
「……あった」
ひとつ目はSNS。もうひとつはとある小学校のホームページの、ニュースや行事の報告を載せるページのようだ。
まずSNSを開く。最終更新は二年前。投稿されたものも数件しかなく、すぐに飽きたことがうかがえる。学校帰りに食べたクレープだとかそんな日常の写真ばかりだったが、一枚だけ彼女の顔が写ったものがあった。それほど鮮明な画像ではなかったが、それでも兄妹だと分かるほどには蛍明と雰囲気が似ている。
「蝶子」
呟いた蛍明の指がその写真に触れる。
何度も何度も、撫でるように指でなぞる。
「……俺、今日初めてこいつのこと可愛いって思ったわ」
「蛍明とそっくりだね」
「マジか。じゃあ俺めっちゃ可愛いやん。もう一個の方も見せて」
言われた通りもうひとつの小学校のホームページを開く。かなり昔の記事だった。
「今から七年前、小学五年生の時に陸上競技大会で短距離走の大会新記録を出してる」
今までの記録を大幅に塗り替えるものだったらしいが、そのニュース以降、ネット上には彼女の名前は見当たらない。
蛍明がテーブルに手をついて身を乗り出す。
「……そうや、あいつめちゃくちゃ走り早いねん! 一回、蝶子が好きな男に作ったバレンタインのチョコ間違って食べてもて、近所追いかけ回されてボコボコに……」
うわ言のように呟きながら蛍明が前髪をぐしゃりとかき上げる。
「近所……そうや、高校が近くにあって……そこの女子の制服がめっちゃ可愛いねん……ちっちゃい果樹園もあった。手伝ったら売りモンにならんような果物ようくれとって……あとおっきい川が……」
昔を懐かしむように、蛍明の視線が斜め上を向く。
「小学生の時とかよう川岸で遊んどった。蓮……そう、蓮見川や。兄妹揃って川に足ぶら下げて黄昏れたりとか。俺が初めての彼女にフラれた時とか、蝶子が足故障させてもう走れんなった時とか……ずーっとふたり並んで座って、もらった果物食べながら、川見とって……」
語尾が少しずつ小さくなっていく。それに合わせて彼の眉間のしわも深くなっていく。
「何か時系列が混乱しとる……川……おっきい川……」
思い出している順番がバラバラなのかもしれない。
ページをトップページに移動させると、彼は大きく表示された小学校の名前に声を上げた。
「俺も通っとった小学校や……! ここの住所教えて!」
表示されたのは兵庫県の都会からはずっと離れた辺り。パソコンの画面を蛍明に向ける。彼はそれを覗き込んで、目を見開いた。
「知っとる」
蛍明が早口で住所を口走る。それは小学校の住所ではない。
言われた通りに入力して衛星写真に切り替え、ズームして見えたのは白い壁に緑の屋根の家だ。
ディスプレイに手を当てて、蛍明は呆然と、しかしはっきりと確信を持って言った。
「俺の家や」
形容できない音を立て、日花の心臓が強く鳴る。
住所まで思い出すことができたらしい。あと少しだ。あと少しで、蛍明は。
時計を見る。時刻は一三時過ぎ。迷っている時間はなかった。