5、見えないふりをしたらいい
「休講……」
構内掲示板を見つめ、日花は呟く。
午後の授業を受けに大学まで来たが、見ての通りの有様だ。大学のホームページを見ても休講の知らせは出ていない。出してくれていたら、今日は家でゆっくりと蛍明の出身地を探すことができたのに。
別の授業を受ける友達と別れ、帰路につく。その足は自然と早歩きになった。
蛍明と出会ったのが月曜日。そして今日はもう金曜日だ。彼が家に来て五日が経った。
それなのに蛍明の記憶はほとんど戻っておらず、細々と思い出したことも彼の個人情報を特定するには至らない。
ふたりで色々と案を出し合ったが、やはり地名を見ていくのが一番ではないかと意見が一致した。
なので外へ出たがる蛍明を連れて図書館へ行って、関西の地図やら旅行雑誌を貸出冊数ギリギリまで借りてきた。
まずは大阪、次に兵庫県の神戸を中心とした都会部。京都奈良の人口が多い都市をくまなく見てみても、彼は何も思い出せない。
蛍明はいつも明るく騒がしい。ずっとにこにこと笑っていて、馬鹿な冗談を言ったりテレビと会話したりしている。だからこそ時々浮かぶ不安気な顔が痛ましく、普段の笑顔も強がりなのだと思い知らされる。
早く助けてあげたい。早く楽にしてやりたい。そう思えば思うほど焦り、焦りから日花が無理をするのを蛍明は嫌がった。
夜ふかしはしなくてもいいと口酸っぱく言われ、日花が蛍明のために友達の誘いを断って帰ってきたのを知った時、彼はひどく落ち込んだ。
日常生活に支障がない範囲でしか協力しないと言った最初の言葉を、蛍明は頑なに守ろうとした。
ここにいると日花が無理をするからと出ていこうとする彼を、それは効率が悪いからと何度も引き止めて、まだこの奇妙な同居生活は続いている。
今日は兵庫県の中部北部の都会から離れた地域を確認しようと朝に話をした。もう彼は地図を見始めているだろう。
マンションの入り口が見えてきた頃、日花はぼんやりとした黒いものがその付近に見えることに気付いた。目を細める。
入り口の近くにある花壇の脇に座っているのは、どう見ても蛍明だ。辺りを見渡したが人影はない。
「蛍明」
呼ぶと彼は日花に気付いて、驚いたあと少しバツの悪そうな顔をした。
立ち上がった彼は尻をはたいて、日花と目を合わせようとしない。
「どしたん、早いやん」
「午後の授業が休講になったの。どこかに行くの?」
「ああ、いや……」
歯切れの悪い彼を手招きして、マンションのロビーの目立たない場所に移動する。もう一度見上げると、彼は観念したように話し出した。
「……今、お前の部屋に男が来とって、何かおりづらくて」
「……男?」
「合鍵で普通に入ってきて、台所でゴソゴソしよる」
蛍明は気まずそうに、両手の人差し指を無意味にくるくる回している。
「何やその、ごめんな。彼氏おるって聞いてなかったから、下着見たりベッド上がったりして」
「……それって彼氏いるいない関係なく彼女でもない女にしたら駄目なことだからね」
「すみませんでした」
ため息をつく日花に、蛍明は往来を顎でしゃくった。
「俺ちょっとま出とくわ。彼氏といちゃつくんやったら邪魔やろ」
「彼氏じゃないよ。いないもん」
「えっ、じゃああの男……」
「ついてきて」
十中八九そうだろうと思うが、確信は持てないので名前は出さずにエレベーターに乗り込む。蛍明はその後ろをとぼとぼとついてきていた。
部屋について鍵を開ける。
玄関にきちんと揃えて置いてあるのは、やはり見覚えのある革靴だった。つい一週間ほど前にも来たので、もう当分来ないだろうと油断していた。
「兄さん、ただいま」
「え、兄さん……!?」
部屋に向かって呼びかけると、後ろで蛍明が素っ頓狂な声を上げる。
「絶対に近付かないように、部屋のすみにいて」
小さな声でそう蛍明に言って前を向き直す。
それと同時にリビングの扉を開いて顔を出したのは、やはり八歳年上の一番上の兄だった。彼は目を細めて笑う。
「お帰り。今日は早かったんだな」
「午後の授業、休講になったの」
「そうか。ちょうどよかったよ、今日土曜日だって勘違いして来てたから。スマホ見た?」
鞄からスマートフォンを取り出す。着信が二件とメッセージが一件。
「今見た」
「馬鹿」
「金曜と土曜を間違える人に馬鹿って言われたくないな」
笑い合いながらリビングへ入って、彼は冷蔵庫を親指で指した。
「母さんからの荷物、冷蔵庫に入れておいたから。あとで見ておけよ」
「いつもありがとう。少し前にも送ってくれたのに」
「美味しいイチゴをもらったらしいから、せっかくだからおすそ分けだって」
「そうなの。お母さん、私に直接送ってくれたらいいのに」
「俺がお前の様子を見に行く口実を作ってるんだよ。ちゃんと連絡とってるか?」
「とってるよ。週に一回は」
「毎日とってやれよ」
「あのね、私もうすぐ二十歳なのよ」
もう飽きるくらいくり返したやり取りをしながら、蛍明がそっと部屋の隅に移動して正座したのを視界の端に捉えた。
「で、この地図の山、何?」
その蛍明に気付くことはなく兄が指差したのは、ローテーブルからダイニングから、机の上や床に広げていた地図や旅行雑誌やらの山だ。
蛍明はページをめくることができない。なので、日花が外出している間はこうやって様々な本の様々なページを開いて彼に順番に見てもらっていた。
咄嗟に考えた言い訳を、得意の無表情のままうそぶく。
「友達と旅行に行くの。場所が決まらないから、地図を広げて投げた物が当たった所に行こうかって話してた、その残骸」
「……旅行? どこの誰と行くんだ」
「大学の女友達。兄さん、私もうすぐ二十歳よ」
呆れた声で同じ台詞を繰り返すと、さすがに過保護が過ぎたことを気まずく思ったらしい彼は頭を掻いた。
「旅行に行くなら、いつどこに行くかくらいは俺か母さんに教えろよ」
「分かってる」
「それじゃあ帰るよ」
気付かれないように安堵の息をつく。これ以上嘘をつくとボロが出始める。どうにか早く帰ってもらえるよう考えていたところだった。
「うん、気を付けてね」
玄関に向かう彼のあとに続く。
ホッとしたのもつかの間、兄が思ったよりも蛍明の近くを通った。驚いた蛍明が壁にべったりと背中を張り付ける。それでもその距離の近さにまずいなと思ったが、案の定兄はしかめた顔を上げた。
「……何かピリッとした」
そう言って彼は蛍明のいる辺りを睨み付ける。慌てていることがばれないように、平静を装ったまま小首を傾げて見せた。
「何もいないよ」
ちらりと目に入った蛍明は、驚いた顔のまま体を硬直させていた。
「……お前、また変なことに首突っ込んでないか?」
「してない」
無表情で隠した焦りを見透かされているのか、それとも日花の言葉なんて信用されていないのか。彼は表情を変えない。
視線を逸らして、肩をすくめてみせた。
「母さんがずっとお前の心配をしてる。日花は優しすぎるから、何でもかんでも首を突っ込んで、いつかひどい目に遭うんじゃないかって」
「何でもかんでもじゃない。ちゃんと選んでる」
「日花」
少し強い口調で名前を呼ばれる。思わず強張った肩に彼の手が触れ、顔を上げさせるためにその手が肩を押した。
「お前みたいな子供が、ちゃんと選べるとでも思っているのか?」
思わず兄の手を強く振り払う。
分かっている。大人ならきっと、こんな言葉にももっと余裕をもって対応できるのだろう。
少しの間睨み合って、先に目をそらしたのは兄の方だった。
「ごめん、カッとなった。言い過ぎた」
返事をせずに視線を下げると、頭の上から深いため息が聞こえた。
「日花……見えないふりをしたらいい。聞こえないふりをしたらいい。それは冷酷なことでも卑怯なことでもない。お前だけが大変な思いをすることはないんだ」
「はい」
「彼らに同情するな。肩入れするな。この世に強い未練を残すような壮絶な経験をしている彼らに同調し続ければ、いつかお前の精神が壊れてしまう」
「はい、兄さん」
これもまた数え切れないほど繰り返してきたやり取りだ。機械的に返事をする日花に、兄は息を吸って何か言いかけて、結局漏らしたのは弱り切った小さい声だけだった。
「お前が心配だ、日花……」
全身を打ちのめすような響きだった。
「……ごめんなさい」
それ以外に言える言葉がない。
兄が手を伸ばす。ギクリと体を震わせた日花の頭を、彼はそっと撫でた。それから壁を見る。蛍明がいる方だ。
「もし誰かいるなら、頼むからこの子を危険な目に遭わせないでくれ。大事な妹なんだ」
その言葉を受け止めた蛍明の表情を見ることはできない。そこにいると兄に教えるようなものだ。頑なに俯いたままの日花の頭を、彼はもう一度撫でた。
「帰るよ」
「……うん」
「困ったことがあったらすぐに連絡しろよ。いつでも、どこへでも行くから」
「分かった。ありがとう」
玄関まで彼を見送る。まだ何か言いたそうにしていたが、日花の顔を見て兄は諦めたように手を振って扉を閉めた。
鍵をかけて扉に手をついて、足音が遠ざかっていくのを確認する。
そのまま日花は、罪悪感と反抗とその他色々複雑な感情を処理しきれずに、扉に背を預けて顔を両手で覆った。