4、昨日は激しかったね
「おはよ。昨日は激しかったね」
寝起きのぼんやりした頭で聞いたのは、蛍明のそんな声だった。
彼の顔が目の前にある。語尾にハートマークでも付きそうな甘い猫なで声で言って、蛍明は「キャッ」とシーツに顔をうずめた。
これはなかなか最悪な目覚めだ。蛍明の顔が目の前にあるということは、彼はベッドに上がって日花の隣で寝転んでいる。
「……関西人ってボケないと息できない病気を患ってるの?」
「関西人に対する激しい風評被害やわ」
「誰のせいだよ……」
「ごめんって。夜中に醜態を晒して恥ずかしいんを誤魔化しよんねん。分かれや」
「分かるか……」
起き上がろうと腕を突っ張ったが、力が入らずシーツの波に逆戻りした。
「お前寝相悪すぎやろ。気い付いたら俺の顔面にお前の腕が刺さっとってビビったわ」
「お前って言うな……」
「てかホンマにアラーム鳴ってもピクリともせえへんねんな。ようそんなんでひとり暮らししようと思ったな」
彼の声を聞きながら、すっと意識が遠くなる。このまま幸せな二度寝へと旅立ちたい。
「起きいや日花、今日大学やろ。もう起こさへんで」
「……お母さんあと五分……」
「誰がオカンや」
呆れた声に旅立ちを邪魔され、気だるいまぶたを持ち上げる。同じく呆れたような顔で見下ろしてくるのは蛍明だ。その顔をじっと見上げる。
もし蛍明がいつもと同じように好みのイケメンの姿で目に映っていたのなら、昨日会ったばかりの男にベッドの上で起こされるというこの状況も楽しめたのだろうか。
「あーあ……何でイケメンじゃないんだろ……」
寝ぼけた頭でつい口が滑った。彼の眉間に深いしわがいく。
「……それさ、初対面の時も言っとったけどさ、クッソ感じ悪いぞ。何なん、東京のコンクリートジャングルに住んどったら心が荒んでそんなんなるん?」
「東京に対する激しい風評被害」
「誰のせいや」
さすがに気を悪くしたらしい蛍明がベッドから降り、リビングへ続く扉の向こうへ消えた。
のろのろと起き上がってそれを追う。
「蛍明」
名を呼んだが、ソファにどっかり腰を下ろした彼は返事をしない。その目の前に立つ。
「蛍明、ごめんなさい」
彼はちらりと日花を見上げ、唇を尖らせた。
「……すぐ謝るくらいやったら、悪口なんか言いなや」
「ごめん」
彼の隣に座る。拒絶するような素振りはなかったので、そのまま昔話を始めた。
昨日もした昔話だ。母親も幽霊が見えること、その母親に教えてもらった幽霊を怖がらずに済む方法。それらを仏頂面で聞いていた蛍明だったが、幽霊を怖がって外に出られなくなった小学生の時の話をすると、すぐにその表情は同情を含んだものになった。
「だから、私の目に映る幽霊は生前の姿は関係なくみんな美男美女に映るの」
どうやら納得はしてもらえたらしい。深刻そうに頷く蛍明の顔を覗き込む。
「それなのにあなたは……普通」
「普通……」
幽霊は鏡に映らないし、蛍明は記憶をなくしていて自分の顔すら覚えていない。
その顔をじっと、彼が居心地が悪そうに視線を揺らすくらい見つめる。
「髪はこげ茶の猫っ毛だよ。ちょっとだけ癖がある。眉毛は整えてるみたい。目は奥二重で大きくもなく小さくもなく、吊り目でも垂れ目でもない。鼻は普通に高くもなく低くもなく、唇も特に分厚くもなく薄くもなく。黒目が大きいから、どっちかって言うと可愛らしい系の顔かなぁ」
パーツが偏ったりもない。太っていたり痩せすぎていたり、背が低すぎることもない、平均か少し上か。
「どこからどう見ても普通」
そうとしか言いようのない顔だ。
馬鹿にしているつもりはなかったが、蛍明の顔はますます自信をなくしたように沈んでいく。慌ててフォローする。
「いやまあ、悪いって言ってるわけじゃないよ。中の上? 合コンとかでいたら当たりの方だと思う」
「……何や自分、合コンとか行くん」
「そういえば行ったことないな」
「信憑性皆無の例えやな」
「ま、人間顔じゃないよ」
「腹立つなお前。お前に言われたら余計腹立つわ」
「お前って言うな。……よし、勝手にベッドに上がったことと相殺しよう。オーケー、仲直り」
特に不満の声は上がらなかったので、この話は終わりだと立ち上がる。
伸びをして、彼を見下ろした。
「大学行ってくる」
「ついていってもいい?」
「駄目。つい目で追っちゃうし、友達にこんな体質だってバレたくない」
「……分かった」
しゅんと肩を落とす姿は、まるで置いていかれる犬のようで少し罪悪感がある。昨日の真夜中、ひとりになりたくないと、怖いと泣いていた蛍明がチラリと脳内に浮かんだ。それを無理やり頭から追い出す。
約束は約束だ。日常生活を壊されるわけにはいかない。
「この部屋で待っとっていい?」
「いいよ。テレビつけておく?」
「いや、ええわ。電気代もったいない。あんま寝れんかったし、日花が帰ってくるまで寝とく」
「あんまり寝過ぎたらまた夜に寝れなくなるよ」
「分かっとる。……時間大丈夫か?」
時計を見上げる。もう家を出る三十分前だ。
慌てて朝食をとり化粧をする。着替えをする時は蛍明は自主的にクローゼットの小さなスペースに入っていった。
持ち物を確認して、時計を見る。何とか遅刻はせずに済みそうだ。パンプスを履いて扉を開いて、見送りに来た蛍明を見上げる。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
笑顔で手を振る彼には、もうさっきのような寂しそうな感情は浮かんでいない。少し安心して手を振り返して、扉を閉める、その直前。
細い隙間から見えた蛍明が俯く。その不安に押し潰されそうな表情に、思わずもうほとんど閉まっていた扉を開いた。
驚いて顔を上げて、しかし彼の顔に浮かんだのは取り繕った歪な笑顔だ。
「何? 忘れもん?」
「……今日は午前中で授業が終わるから。お昼過ぎには帰るから、もし外に出てもそれくらいの時間には戻ってて」
「うん、分かった」
歪な笑顔がいつもの笑顔に形を整えたが、日花は気付いてしまった。昨日から見せていた笑顔は、今のような作り笑いだったのではないだろうか。
ひとりになった部屋で、彼はまた泣くのだろうか。そう思うと足が動かなくなる。
「大丈夫やで、日花」
その声に少し俯いていた顔を上げた日花に、蛍明はにこりと笑いかけた。
「下着のタンス、覗いたりせえへんから」
パタンと扉を閉める。「ちょっ、まっ!」という声を無視して鍵をかけた。
「嘘やって! 嘘やから! いや、ちゃう、覗かへんのはホンマ! ちょっとボケただけやんか!」
心配して損した。
扉の向こうからまだ何か叫んでいる声が聞こえたが、日花は軽蔑の視線を扉に投げかけてからその場を離れた。