番外編、怖がりな彼女 後編
日花は相変わらずむっすりとしかめた顔を窓の外に向けている。
今日は蛍明のマンションで彼女が夕飯を作ってくれると約束していたが、もしかするともう家に帰ると言い出すかもしれない。
帰す気はさらさらなかったが、彼女は特に帰るとも停めてとも言わず、レンタカーを返してから荷物を半分持ち、蛍明の前をずんずんと歩いてさっさと蛍明のマンションに向かい、渡していた合鍵で部屋の中に入ってしまった。
そのまま彼女は手を洗って蛍明のエプロンを身に着け、むすっと顔を顰めながらもせっせと料理を作っておそろいの皿によそい、机に運ぼうと近付いた蛍明に思わず「ありがとう」といつものように言ったあと、はっと気付いて唇をむずむずと震わせる。
その顔には怒りと共に気まずいという感情がちらちら見え隠れしていた。
そこでようやく気付く。
喧嘩に慣れていない彼女は、蛍明を無視しているという今の状況に気まずさと罪悪感を覚え、もうどうすればいいのか分からなくなっているのだ。
思わずにやけそうになった口元に力を籠め、漏れてしまった「んふっ」という笑い声を咳払いで誤魔化す。
もう可愛くて愛しくて仕方がなくて、さっさと喧嘩なんてやめてしまいたかったが、原因を解決せずにうやむやにして仲直りしても意味がない。
彼女が正面に座ってから手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
せっかくの日花お手製の好物も、こんな雰囲気で食べては台無しだ。
「日花」
彼女がちらりと目だけを上げる。
「ご飯食べてお風呂入ってから、もう一回話しあお」
「……泊っていいの?」
「泊っていって。喧嘩したまま家帰したくない」
「……分かった」
明日が日曜日で助かった。
蛍明が皿洗いを担当して、その間にシャワーを浴びた日花と入れ替わってシャワーを浴びる。ドライヤーで乾かした髪を指で梳きながら部屋に戻ると、彼女はベッドの上で正座をして待っていた。黙ったままその目の前に座る。時々ぎいぎいと不快な音を立てるセミダブルのベッドの上で向かい合った。
「私は真剣に蛍明の体のことを考えてる」
先制は日花だ。蛍明も負けじと口を開く。
「寝相悪い悪い言うけど、そんな一緒に寝るたび毎回蹴り落されとるわけちゃうからな」
「三回に一回は何かしらやらかしてると思う」
それは否定できない。
喧嘩腰は一旦やめて、蛍明は気になっていたことを聞いた。
「一回確認やけど、お前が別々に寝たいのって、お前の寝相とマットレスの固さの問題だけであって、俺に何か問題があるわけではない……?」
「それはないよ。蛍明はびっくりするくらい静かに寝るタイプ。何度か生きてるか確認したことがあるくらい」
「起きとる時と正反対やな」
「普段はうるさいって自覚あったんだ」
言い返そうとしたが、今はそんなことで言い争いをしている場合ではない。
「蛍明はどうして、そんな目に遭ってまで私の隣で寝たいの?」
「お前の寝顔見るの好きやから」
日花の目が細められる。その表情は呆れ以外の何者でもない。
「待って、聞いて。これはただの惚気でも下心でもない」
できる限り真剣な顔で言うと、彼女は一旦呆れの表情を仕舞ってくれた。
この思いが伝わるように、しかし彼女が色々と思い出して落ち込んでしまわないように、言葉を選びながらゆっくりと言う。
「俺が幽霊やった時、正直もう発狂寸前やってん。寝ても寝ても眠いし、体も日を追うごとにしんどなってくるし」
全てを覚えているわけではないが、あの景色が徐々に灰色になっていくようなつらい日々は忘れられない。
「そんなギリギリの状態の時に、お前が毎晩寝室入れてくれて、触られへん俺の手握りながら寝てくれたの、どんだけ心強かったか分かるか? そこら辺の神様よりもお前に一番に救われた。お前の寝顔眺めながら寝入る時だけが、唯一安心できたんや」
徐々に眉尻を垂らしていく日花の頬をつつく。
「どんな嫌なことがあっても、お前の顔見たら元気が出る。お前が幸せそうに寝とるの見たら、安心できる。やから、離れたくない」
何も知らない人間が聞けば、そんなこと、と思われるのだろう。
日花の枕をぽんぽんと叩く。寝転がった彼女の肩までタオルケットをかけて、その隣に寝転んだ。
彼女は顔のそばで手をぎゅっと握り、蛍明と目を合わさずに小さな声で呟く。
「私の寝顔を眺めるのなんて、そんなのすぐ飽きるよ。一緒に暮らし始めて少ししたら、関係も落ち着いてくる。いい意味でも悪い意味でもね」
思わず言い返そうとして、力を込めた指先がシーツを引っ掻いて音を立てる。日花はそんな小さな音にすら怯えた様子を見せた。
意地でもこちらを見ない彼女が、何を考えているのか想像する。
彼女の両親は仲がいい。話にも聞いていたし、実際に何度か会ってそう実感した。彼女の父親はひと回り年下の妻を溺愛と言ってもいいほど大事にしているし、母親も夫に愛されているという自信を持っていた。あのふたりの元で育ったのなら、世間が言う結婚は人生の墓場だとか、それが全てだとはきっと思わない。
何を心配しているのだろう。
何に怯えているのだろう。
彼女は怖がりだ。いつも誰かに――嫌われることを恐れている。
「……察しのいい俺がお前の気持ちを代弁したろか。悪い意味で関係が落ち着いてマンネリが始まった時、すこぶる寝相の悪いお前を俺が煩わしく思って、嫌われるんちゃうかって心配しとる?」
日花が顔を上げる。その目は真ん丸に見開かれている。正解か、当たらずといえども遠からずだったのだろう。
「……蛍明の体のこと、心配してる。……あと、それもある」
彼女は顔を隠すようにわざと髪を乱した。
「……蛍明って私の心を読んでるんじゃないかって、時々思う」
「日花が俺のこと大好きすぎて、俺の前でだけ感情ダダ漏れなだけや」
赤く染まったふくれっ面を指先で撫でて、その黒髪をなぞる。
「変なとこでビビリやなぁお前は。俺ら知り合ってばっかりの時も仲良かったし、友達の時も仲良かったし、恋人になってからも仲良かったし、同棲しても結婚しても、じいちゃんばあちゃんになっても、ずっとずっと仲いいに決まっとる」
彼女の髪を指に絡めてくるくる回し、引き寄せて自分と同じションプーの香りを嗅いだ。
「俺らずっとふたりで生きていくねん。なーんも変わらん、ずっとこのまま楽しいまんまや」
それにはそうなってほしいという希望と、きっとそうなるだろうという予想が混ざっている。
今回のようにたまには喧嘩をしながら、お互いの意見や思いをすり合わせていけばいい。
彼女に恋焦がれ、触れることすら怯えていた頃は、彼女に選ばれることなどないと思っていた。でも今は違う。
今はお互いにとってお互いが唯一無二の存在だと自覚がある。自信がある。
「もし何かあったら、嫌いになる前にちゃんと話し合えばいいねん」
「ん……」
「なあ、日花。心配せんでええよ」
「うん……」
小さい返事だったが、思いは通じたはずだ。
ようやく日花の潤んだ瞳が蛍明を捕らえる。
シーツの上をそろりそろりと近付いてきた手を引き寄せて、握り締めた。
結局、ベッドはふたりの意見の中間をとって、シングルベッドを二台とそれぞれの体に合ったマットレスを買って、くっつけて寝ることになった。
明日こそ買いに行こうと約束をして、ようやく喧嘩は終了だ。
安心したのかすとんと落ちるように眠った日花にタオルケットを巻きつけ、きっと蛍明も疲れていたのだろう。目をつむった瞬間、眠りの海に真っ逆さまだった。
温かい、いや、じんわり暑い。
薄っすらと目を開くとカーテンの向こうはもう明るかった。
「やば……何時……?」
蛍明は枕もとのスマートフォンを探そうと身じろぎして、動きを止めた。
胸元に熱源がある。
冷房は効いているとはいえ初夏から夏に移り変わるこの時期の暑い朝に、日花がぴったりと蛍明の胸に寄り添って眠っていた。
ぎゅうっと心臓が鷲掴みにされたようだ。出会って四年、付き合って三年。飽きるほど一緒にいたのに、飽きるどころかまだまだ彼女を好きになる。
頭をそっと撫でる。もう少し真正面から寝顔を見てみたい。
彼女がこの程度で起きるとは思っていないが、ベッドが揺れないようにそっとシーツに肘を立てて上半身を僅かに起こす。そのまま後ろに移動しようとしたが、思っていたよりもベッドの端に追い詰められていたらしい。
「お、わっ!」
腕は宙を切って、上半身からベッドの下へ落ちる。慌てて頭を庇ったが、その必要はなかったようだ。日花が敷いてくれていた大きなビーズクッションふたつに、蛍明は背中をうずめた。
「……柵のあるベッドにせなな」
呟くとずるずると何かが這ってくる音がして、ベッドの縁から日花が顔を出して蛍明を見下ろす。
「今回は俺が勝手に落ちただけやで」
「……う…………」
何やら呻いた彼女がベッドの縁にうずくまり、目をつむった。
「起きよ、日花。ベッド買いにいこ」
僅かに顔を上げた彼女に手を伸ばし、左右に乱れた前髪をかき上げてやって、開いているのかどうか分からない目を覗き込む。
「おはよう。コーヒーにする? 紅茶にする? それとも俺のキ・ス?」
「……ぃ……は……あ……」
「何言っとるかひとっつも分からん」
さらに呻いた日花がベッドから体を乗り出し、ずるりと蛍明の上に滑り落ちてきた。笑う蛍明に抱きとめられた彼女は、のそのそと這い上がって蛍明の首筋に顔を埋める。
キスをしてくれると思って期待していたのに、耳元で「りんご……たっぷり……入った……野菜スムー……ジー……」と今にも消え入りそうな声が聞こえて。
「せめて三択から選べよ」と笑って、蛍明はまた寝息を立てはじめた彼女を強く抱き締めた。