24、最高の旅行
日花はゆっくりとまぶたを持ち上げる。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。
見上げるとシートベルトの着用サインは消えていて、そのままぼんやりと窓の外を見た。
離陸した飛行機は今は海の上を飛んでいる。美しい島々はもう見えない。
隣に座る蛍明は、乗り込んですぐに寝てしまった。激務の合間の旅行だったし、ずっと運転をしてくれていたし、疲れてしまったのだろう。
日花も体は疲れ切っていたが、一度起きてしまったせいかもう眠気はきそうもない。
スマートフォンを取り出して、写真のアルバムを眺める。
釣った魚を抱え大きな口を開けて笑う蛍明や、海の中を撮ったもの、泳ぐ姿や、ホテルから見えた夜景。
その後の写真は二日目のものだ。変わらず満面の笑みをカメラに向ける蛍明。その隣に不自然に空いた空間には、何も、誰も写っていない。
今心を満たしているのは、充足感と物悲しさだ。
やはり幽霊を助けたあとは、こんな切ない気持ちにさせられる。
本当に天国なんて場所があるのかは分からないが、もしあるのなら、彼女はきっと今頃家族と過ごしているのだろう。
朱色の美しい城のことを、大水槽を悠々と泳ぐジンベイザメのことを、陽の光でキラキラ輝くガラスを、海に沈む夕日のことを、家族に聞かせてあげているはずだ。
勝手に涙が滲んできて、何度か瞬きをする。今までならひとりじっと耐えていたが、今は違う。
蛍明の肩にそっともたれかかる。起こさないようにしたつもりだったが、彼は小さく呻いて細く目を開いた。
「ごめん、起こしちゃった」
「ええよ」
寝起きの掠れた声で言って、それから彼は日花の頭に頬を擦り付けた。
「寝てていいよ」
「うん」
そう返事をしながらも、蛍明は肘掛けにのせていた日花の腕を撫で、指を絡める。
「はぁ……最高な旅行やったなぁ……」
「うん、そうだね」
色々あったし、色々悩んだ。それでも、概ね上手くいったはずだ。杏は救われた。そして、こうやって蛍明と気兼ねなく触れ合える関係になれた。
何も後悔はない。何も。
「……あ」
思わず声を上げる。
思い出してしまった。たったひとつだけ、後悔していることを。
「何?」
「あのね、やっぱり買っておけばよかったなって、あのピアスの色違い」
一日目の夕方、迷いに迷って結局ひとつしか買わなかったあのピアスだ。
蛍明の言っていた通り、飛行機代やホテル代が浮いた分で少しくらい羽目を外せばよかった。
昨日の夜に通販をしていないか見てみたがしていないらしく、おそらくもう二度と手に入らないだろう。
それを聞いて、蛍明がふっふと笑う。
「それじゃあやっぱり、お前の今回の旅行は完璧で最高やったはずやで」
どういうことだと訝しむ日花の前で、蛍明が座席のポケットに入れていた鞄を手にとった。そこから取り出したのは見覚えのある小さな紙袋だ。
「……まさか」
手渡された紙袋を開き、中から小さな箱を取り出す。その箱に入っていたのは、案の定買わなかったほうの陶器のピアスだった。
「いつの間に……!」
「お前がレジしとる時に、その後ろで店の人にジェスチャーでこれ欲しいって伝えて、お前が見えへんとこでお金渡して包んでもらってん。店員さんもノリノリでやってくれたで」
全く気付かなかった。
確かにあの時、日花と蛍明の買う買わないの押し問答を、店の人はそばで見ていた。
「ほんとに、もう……」
「ええやろ、彼女にプレゼント買うくらい」
「あの時はまだ付き合ってなかったけどね」
「細かいこと気にすんな」
笑う蛍明を見上げて息をついて、それからその腕にぎゅっとしがみついた。
「ありがとう、嬉しい。最高の旅行になった」
「うん。お礼はちゅーでええで」
「家に帰ってからね」
伸びてきた唇を手で遮って、日花は早速ピアスを持ち上げた。
「今日の服に似合うよね。つけていい?」
「もちろん。つけたるわ」
元々つけていたピアスをとって箱にしまい、もらったピアスを蛍明に手渡す。彼が慎重に通してくれたものにキャッチをつけて、それから髪をかき上げて両耳が見えるようにした。
「どう?」
「うん、天才的に可愛い」
「ありがとう」
日花はこっそり辺りを見渡す。蛍明の隣、通路側にはもうひとり乗客がいたが、アイマスクをして眠っているようだ。客室乗務員も近くにはいない。
蛍明の腕を引く。「なに?」と聞いた唇に一瞬唇を押し当てると、すぐに離れた。
少し気恥ずかしくて、ぶっきらぼうに言う。
「お礼」
蛍明は瞬きをして、状況を理解してからでろりと顔を溶かした。
「ふひっ、ふへへ……あかん、変な笑いでる……」
「家に帰ってからって言ったけど、それじゃ先になっちゃうから」
東京に戻り、最寄駅に着けば、そこからバスは別々だ。二泊三日一緒にいただけで驚くほど離れがたいが、お互い片付けもあるし特に蛍明は疲れている。家に来てだとか行きたいだとか、そんなわがままは言えない。
「あ、俺帰りお前の家寄るで」
言えないと思っていたが、蛍明はあっけらかんとそう言い放った。
「俺のスーツケースん中にお前のジンベイザメ入っとるやろ」
そういえばそうだった。お土産を買いすぎて、日花の上半身ほどの大きさがあるぬいぐるみがスーツケースに入らなくなってしまい、蛍明に運んでもらっていたのだ。
「……でも、蛍明疲れてるでしょ? 預かってくれてたら、別の日に取りに行くよ」
それとも、蛍明の家に寄ってぬいぐるみを受け取って、少し恥ずかしいが抱えて帰ってもいい。明後日からまた激務へと戻っていく蛍明を気遣ったつもりだったが、彼は唇を尖らせてぼそぼそと言った。
「もうちょっと一緒におるための口実やったんやけど、あかんの……?」
顔色をうかがう上目づかいに、ぎゅんと心臓が強く鳴る。
「……別に、蛍明が疲れてないなら、好きにすればいいけど……」
思わずいつもの可愛くない態度が出てしまって後悔する。これなら蛍明のほうがよっぽど素直で可愛い。
今からでも一緒にいたいと言おうか迷って顔を上げると、満面の笑みの蛍明と目が合った。その顔はきっと、日花の何もかもを見透かしているのだろう。
「それじゃあ行くから、家着いたらもう一回しっかりお礼してもらお」
「……昨日いっぱいデレたから、今日はもう売り切れだからね」
「そんなことない、もっとデレれる。お前はやればできる子や」
ニヤニヤとした顔で嬉しそうにそう言うので、もう居たたまれなくなって蛍明の肩に頭を押し付けた。
「……着いたら起こすから、寝てていいよ」
「そう? 寂しない?」
「ない」
「じゃあ頼むわ」
蛍明はくあっとあくびをして、押し付けている日花の頭にキスをする。それからあっという間に寝息を立て始めた。
穏やかな呼吸音をそばで聞きながら、また窓の外に目をやる。
太陽の光を反射してキラキラ輝く海が見える。今日もきっと一日中晴天だろう。
やっぱり少し寂しくなって、今度こそ起こさないように、そろりと彼の膝の上に置かれた手に触れる。指を差し込んでそっと握って、顔を見上げてもその目はぴくりとも開かない。
上手くいったと目を閉じようとした時、突然その肩が揺れた。見上げた先に、ぱっちりと目を開いた蛍明がいた。
思わず離そうとした手をぎゅっと握って、彼はにんまりと目を細める。
「ほらな」
――こうなればお望み通りいくらでも甘えてやる。
繋いだ手を、蛍明が「いてて」と笑うまで強く握りしめた。