23、一番
「お前……逃がす思とんのか? どれだけこの時を待ちわびた思とんねん……」
ドスのきいた声に思わず後ずさったが、すぐに両手首を掴まれ引き戻された。
「逃がすかいや! 観念せえ!」
「……完全に悪役の台詞なんだけど」
手首を掴む手を振り払おうとしたが、拗ねきってしわの寄った顎を見てやめた。
もちろん、何も言わずに逃げたりはしない。
「……ねえ、蛍明。しっかり考えて。私と付き合うのなら、今回みたいなことがもうないとは言い切れない」
「……日花、何度でも言うたるけど」
「今回はたまたま、幽霊がすごく良い子だった。成仏もさせてあげることができた。こんなに上手くいくことなんてなかなかないの」
手を引いたが、彼は意地でも離そうとしない。
「……成仏させてあげることができるのなんて、半分もいない。残りの幽霊には、私は恨まれるしかない。蛍明ならわかるでしょう? あなたが幽霊だった時、私には手に負えないってその場を去っていたら、私を恨んだでしょう?」
彼の視線が下がる。じっと黙ってあの時のことを思い出していたらしい蛍明は、ぽつりと呟いた。
「……恨みはせえへんけど、見捨てられたみたいな気分になって、悲しくはなっとったやろな」
「うん。そうやって悲しませたことだってある。怒鳴られたり、罵られたり、付き纏われたりすることだってある。上手くいったって、今回みたいに別れを悲しんでいつまでも落ち込んでることも」
彼の視線を避けて窓の外を見た。
「そうなるって分かってるくせに、私は同じことを繰り返すの。放っておけない、私になら救えるかもって、中途半端な正義感と自己満足で……自分で決めたルールすら守れずに」
今回だって、蛍明のことだけを考えれば関わらないことが一番だったはずだ。何も知らせずに、何もいないふりをして。そうすれば彼は、火事で家族を亡くし自身も幽霊になり、半年もの間ひとりぼっちで泣いていた少女がいるなんて、そんなこと知らずに済んだ。その少女との永遠の別れを悲しむことだってなかった。
分かっていたのに、救いたいという自分の気持ちを優先した。
「その自己満足を満たすために、私は周りを、あなたを巻き込んでしまった。私はまだ、蛍明を一番に想ってあげられない。きっとまたあなたを傷付ける」
もう顔を上げることができない。彼がどんな顔をしているのか見るのが怖い。
「……それに、この体質は遺伝する。もしかしたら子供にも遺伝して辛い思いをさせるかもしれないし、蛍明も大変な思いをするかもしれない。普通ならしなくてもいい苦労を、いっぱいさせてしまうかもしれない」
まだ蛍明は両手を離さない。握り締めたまま彼は微動だにしない。
そばにいて欲しい、この手を離して欲しくない。そう願うのに、こんな人生に彼を巻き込みたくもないとも考えてしまう。
「だから蛍明、よく考えて……」
少し待っても、彼は返事をしなかった。震えはじめた手を、一度ぎゅっと握っただけだ。
意を決して、日花は顔を上げる。そして言葉を失った。
その顔が予想に反して、へらへらと緩みきっていたからだ。
怪訝に眉間を寄せた日花に、蛍明はなんとか顔を引き締めようとしているようだが、口角がぴくぴくと震えている。
「あのさ……日花」
照れたような声でぼそぼそと言って、蛍明は耐えきれなかったように噴き出した。腹を抱えてひいひい笑い出した彼を見下ろす。
そんなに大笑いするような面白い話をしただろうか。
笑いやむのを待っていたが、あまりにもいつまでも笑っているので、真剣な話をしていた自分がなんだか馬鹿らしくなってきて、体の力を抜いて窓にもたれかかった。
ヤンバルクイナをもう一羽増やそうと伸ばした指を、蛍明が「ごめんごめん」と押し止める。
濡れた前髪をかき上げて、彼はようやく日花に向き合って笑いながら言った。
「あのさ……お前さ……俺の子供産む気満々なん……?」
目を丸くした日花を見て、蛍明はさらにぶはっと噴き出した。
「断ろうとしとんのかプロポーズしとんのかハッキリせえよ!」
「ちっ、ちが……!」
いや、確かにふたりの子供の話をした。ただそれは可能性の話であって、もし付き合うのなら上手く続けば結婚につながるだろうし、世間一般的に結婚すれば子供はどうするだとかそういう話出てくるはずだし、だからその話をしただけで、別にプロポーズをしたわけでは。
心の中でつらつら言い訳を並べたが、結局何も言えない。
一気に顔に熱が集まってきて、それを誤魔化すため未だに笑い続ける彼をキッと睨んだ。
「こ……この歳で付き合うなら、念の為、念の為よ、念の為結婚を視野に入れるのは別におかしくないでしょ……」
「そうやな、一生俺のそばおってくれんねやったら嬉しいけど」
大笑いした時に離された手を、彼がもう一度掴む。思わず視線をそらしてしまった。
それこそプロポーズみたいだ。
熱い顔を上げられない。完全にさっきと立場が逆になってしまった。
「日花」
囁くような声とは裏腹の、少し荒い指が頬を挟んで無理やり顔を上げさせる。目の前には完全にペースを掴んだ自信たっぷりの蛍明の顔があった。
「お前がアホがつくほどのお人好しで自己犠牲的なんは、俺がよおおおお知っとんねん。それで命救われたんや俺は。ていうか何を今さら言うとんねん。そんなん幽霊の時から知っとるわアホ」
「……アホって言うな……」
か弱い抵抗の声を、両頬を揉まれて遮られる。
「そういう人やって知っとるから好きになったんや。知っとってもう一回会いたかったんや。ひとりで危なっかしくて見とられへんから、そばにおりたいって思ったんや。今回やって、何も偶然居合わせたからじゃあしゃーない協力したるかってやったんちゃう。ずっとこうやってお前を助けたいって思っとった。ようやくその時がきたって満を持して協力して、それが運良くいい方向に解決できてホッとしとる」
頬を掴む手が離れる。
もう視線を固定するものはなかったが、目を逸らすことはできそうにない。
「俺は何にも見えへん。霊感なんか一ミリもない。……でも」
必死な顔がぐっと近付く。
「見えんくたって、お前の隣に立ってお前を支えることはできる。今回で証明できた」
目を見開く。どうして、どうしてわざわざ、そんな辛い道を歩もうとするのか。
「お前が好きやから……お前が幽霊と関わりたいって思うなら今回みたいにできる限り助けるし、関わりたくないって思うなら、幽霊なんか目に入らんくらい一緒に楽しいことしたらいいし、楽しいとこ連れてったるし。お前が怯えとんなら抱きしめたいし、迷うことがあったら一緒に考えたいし、選択を間違えたんなら一緒に反省したい」
視界が滲む。何度瞬きをしても、彼の顔はすぐにぼやけてしまう。
「子供も、その、そういうこと悩むくらいまで関係が進んだなら、その時真剣に話し合お。今とそん時で絶対にふたりの考えも変わるやろうし、どうなるか誰にも分からん未来をあれやこれや決めつけて、今お前と離れるのなんか絶対に嫌や」
持ち上げた手を、蛍明は両手で握り締める。そしてそれを唇に押し当てた。
「好きや、日花。今度は俺がお前を助けたいねん。俺を一番に想って俺のために生きろなんか言わへん。お前が誰かに助けてもらいたいって思った時、一番に俺を思い浮かべてくれて、一番に駆け付けられる場所におらしてくれんなら、それだけで嬉しい」
ぽとりと涙が落ちた。
次々と溢れて頬を伝い、胸元を濡らしていく。
こんなことを考えてくれていたのか。ずっと見守ってくれていたのか。
蛍明は覚悟なんかとうの昔に決めていて、そしてそばにいたいと願ってくれていた。
ずっと靄のかかっていた未来が、少しだけ晴れたような気がした。彼の言うとおり、未来がどうなるかなんて誰にも分からない。ずっと幽霊を助け続けるのか、それともいつかそれをやめる時が来るのか。それは日花にも分からない。
それでもその未来を、彼は一緒にいてくれると言ってくれた。
悩むことなんてなかったらしい。
蛍明が困ったように眉を下げる。
「泣かんといて」
ぐずっと鼻をすする。それは無理だ。ここまでしてもらえて、こんなに想ってもらえて、嬉しくて泣かない女なんてきっといない。
彼が手の甲で頬を撫でて涙を払う。二、三回繰り返してようやく流れ落ちる涙がなくなって、ぎゅっと握り締められた手の向こうで蛍明が真剣な顔をした。
「俺の彼女になってください!」
浴室にその声が響く。
我慢したが、もう無理だった。
「……ふ、ふっ」
「……何やねん、笑うなや」
「ごめ……っ、ふふっ」
空いている手で腹を押さえ、なんとか笑いを収めようとするがそう思えば思うほど笑いがこみ上げてくる。
笑うほど面白いことがあったのではなく、おそらくこれは照れ隠しだ。
痺れを切らした蛍明が二の腕を掴んで、ぐらぐらと揺らした。
「返事は!?」
「言う! 言うから待って!」
まだ笑いながらなんとか呼吸を整えて、彼と向き合う。途端に緊張を露わにしたその顔に、勢いのまま言った。
「うん、彼女にしてください」
ぶわっと、元々赤かった彼の顔がさらに赤くなる。
「……うん」
その顔も声も、今にも泣き出してしまいそうだった。
両手が伸びてきて、頬を包み込む。その手が何度も頬を撫でる。
「……ずっと触りたかった。海で泳いどる時も、今日の朝、寝顔眺めとる時も。今までふたりで一緒におった時も、幽霊の時から、ずっと」
「うん、知ってる」
そっと彼の手に両手を重ねる。
「私も、触って欲しかった」
吸い込まれるように近付いて、触れるだけのキスをする。
顔が離れて、でも視線を合わせるのが恥ずかしくて俯くと、彼も照れているのか何も言わずもぞもぞと日花に近付いて、そっと背中に手を回して抱きしめた。
幸せだ。でもお互い水着を着ているせいで肌同士が触れ合っていて、それはなんだかくすぐったい。
背中に当てられた彼の手が熱くてたまらないなとぼんやり思っていると、ふいに蛍明の体がぴくりと強張った。
「なあ日花……俺えらいこと気付いてもた……」
「……何?」
深刻そうな声に、思わず体を離してその顔を覗き込む。
「ジャグジーで遊んでから交代ごうたいで体洗って出よって言うとったやん?」
「うん」
「先に体洗う方、全裸見られるやん……」
言われて気付いた。そういえばそうだ。
もうふたりは恋人同士になった。すぐにでも全裸を見せ合う仲になるだろうが、初めてが体を洗う姿だというのは少し恥ずかしい。
ひとりが体を洗っている最中に、もうひとりは後ろを向いているしかない。
右手を差し出す。
「じゃんけんで負けたほうが先に」
「ちょっと待って!」
叫んで言葉を遮って、蛍明はそっと何も身に着けていない胸の前で両手をクロスさせた。
「もし負けた時の……心の準備が……」
これはボケているのか、それとも本気で恥ずかしがっているのか分からない。どうツッコもうか少し考えて、面倒くさくなってやめた。
「じゃあ私が脱ぐね」
水着のホルターネックを解こうと首に手をやると、蛍明はぎょっと日花に視線をやり、それから慌てたように両手で顔を覆った。
「待ちい! おまっ、ほんま、ちょっと待って、心の準備が……!」
目に見えて狼狽え慌てる蛍明に、むくむくといたずら心が湧いてくる。
「ほら、脱ぐよ」
「はあ!? 男らしすぎるやろ!」
少しの間の後に、おそるおそる蛍明が声を出す。
「え、ほんまに脱いだん……?」
「見ないの?」
「見いひんからはよ体洗って出て……」
そう言って彼は、顔を覆ったまま体を反転させベンチの上で体育座りをして、日花に背を向ける。
にやにやと笑いながら、背後から彼の耳に唇を寄せた。
「ねえ蛍明」
「ひぎっ!」
「私達、恋人同士になったんでしょう?」
その肩に触れると、彼はこの熱い浴室の中で、まるで凍り付いたように体を強張らせる。
「見てもいいよ」
覗き込んで横顔に囁きかけると、長い時間をかけてゆっくりと蛍明が顔を覆っていた手を離す。その唇がぐっと引き結ばれて、それから彼は意を決したように日花を振り返り、肩を掴んで。
「に、ち……」
「まあ脱いでないけどね」
脱ぐよとは言ったが脱いだとは言っていない。
蛍明はまるで裏切られたとでも言いたげな顔で、日花の顔と胸元を交互に見ている。
そして両手で顔を覆って、それはそれは悔しそうに叫んだ。
「俺は一生こうやってお前の手のひらの上でコロコロされながら生きていくんや……!」
次回最終話です。
 




