22、九割と五割
「あー……最高…………」
そう絞り出したのは蛍明だ。
窓から見える外は真っ暗で、もう時計の短針は九時を過ぎている。
今ふたりがいるのはリゾートホテルの広い浴室の、蛍明が六人くらい座れそうなほど広いジャグジーの中だ。蛍明はのんびりと足を伸ばしていて、日花はその足元に座って、彼の足の裏をマッサージしていた。
もちろんふたりとも必要最低限の水着を着ている。
「何これ……人生の絶頂か……? リゾートホテルのジャグジーに浸かりながら、水着の美人女子大生にマッサージしてもらっとんねんで……」
「……煽ててもあと三分で終わりだからね」
「ちょっと満更でもないくせに」
元々約束をしていた。旅行中ずっと運転をしてもらうのは悪いという日花に、蛍明がそれじゃあマッサージサービスをつけて欲しいと提案していたのだ。それがどうなったのかこうなった。
少し延長して、さすがに疲れてその足をぽんぽんと叩く。
「はい、時間ですよお客さん」
「えぇ……お姉さんもうちょっとサービスして」
「お金とるよ」
「余裕で払うわそんなん」
「馬鹿」
水面をデコピンして、蛍明の体に少し水をかける。それに彼が二倍返しして、日花が十倍で返して、お互い頭のてっぺんまでびしょ濡れになるまで水をかけ合ってから日花は「ストップ!」と声を上げた。
「熱い、ちょっと涼む……」
「のぼせんの早すぎやろ」
「お湯熱くし過ぎた」
ジャグジーの隣には壁一面の出窓がある。その出窓はベンチになっていて、防水のクッションがいくつか置かれていた。それに腰を下ろして涼む。
蛍明は壁のスイッチを操作してジャグジーを止め、お湯に浸かったまま日花のそばに寄って浴槽の縁にもたれかかった。
「はぁ、すごい旅行やったなぁ……まあ俺は何もしてへんけど」
「そんなことない。蛍明が車を運転してくれたから、ゆっくり話もできたし色んな所を回れたんだよ」
公共機関やタクシーを使っていたら、あんな風にたくさん話をすることはできなかっただろう。
「あー、やっぱまだちょっと寂しいな」
そう呟いた彼を見て、水平線を見やるその横顔から視線をそらして俯く。
彼には姿は見えなかったとはいえ、一日中一緒にいて会話をして仲良くなった少女が、もうこの世にはいないのだ。それは杏にとっては救いだったが、それでも残された人間が感じるのは、もう彼女と会うことも話すこともできないという途方もない寂しさだった。
別の人と旅行に来ていたのなら、彼はこんな思いをせずに済んだのだろう。
「……ごめんね」
「何で謝んの」
蛍明が浴槽の縁に手を付いて体を乗り出す。
「寂しいけど、それ以上に楽しかったで。予定しとったとこも全部行けたし、買いたいもんも全部買えた。何より杏はもうこれ以上寂しい思いせんでええし」
うんと頷きながらも、顔は上げられない。
「やっぱり、私のそばにいたらこういう目に合わせちゃうんだなって、改めて思った」
「そんなん気にすんな」
ジャグジーから立ち上がって、蛍明もベンチに座る。
その横顔を見つめたが、彼は慰めようとしてくれているのか、何かを言葉にしようとして考えあぐねているようだ。日花は、水を吸った水着の裾を弄る指を見つめて、それからまた窓の外に視線をやる。
曇ったガラスを指でなぞる。その向こうに満天の星空が見えた。
「……何描いとん」
「ヤンバルクイナ」
「どこからどうみても足の生えたサツマイモにしか見えへん」
「ちゃんと首も生やすよ」
「足と首の生えたサツマイモやん」
「渾身の力作なのに……」
「普段クールなくせに絵が下手とかギャップ萌え狙っとんか?」
「……また全身ずぶ濡れになりたいの?」
冷たいガラスをなぞって冷えた指先で、彼の頬をぐいぐいと突く。
「やめ、やめえ」
その指を掴まれ、振り払われるのかと思いきや彼はぎゅっと掴んで自分の膝の上に置いた。
「さっきの話の続きやけど」
何の話をしていたか咄嗟に思い出せない。そう思ったのが顔に出たのか、「お前が、私のそばにいたらこんな目に合わしちゃうって言って、俺がそんなん気にするなって言った話!」と蛍明が懇切丁寧に説明してくれた。
「お前を……!」
叫んで、彼は大きく息を吸ってそれから吐いて、まだ掴んでいた日花の手を引いた。
「お前を……! その……お前を……好きになって、そばにおりたいって思った時点で、今回みたいなこともあるやろうって思っとったし」
日花はぱちぱちと数回瞬きをして、それから目を見開く。
完全に油断していた。
だって、完全に、愛の告白をするようなそういう空気ではなかった。サツマイモにしか見えないヤンバルクイナなのに。
蛍明は一度日花から視線を泳がせて下を向いて、しかし意を決したようにまた日花を見つめた。
「俺がお前のこと好きやって、気付いとったやろ」
「……九割くらいそうかなって思ってた」
「何でやねん、どこからどう見ても百割ベタ惚れやったやろが」
まあ確かに、十歳の女子小学生にもバレバレだった。赤い頬をごしごしと撫でて、蛍明はそっぽを向く。
答えなければいけない、彼の言葉に。私も好きだと。そしてきちんと話し合わなければ。
衝動のまま受け入れて、いっときの幸せに浸らないようにしなければ。
それは――私も好きだと抱きついてそのまま押し倒さないようにすることは、余りにも理性をフル動員しなければならないことだと、日花は初めて知った。
離れていこうとした彼の手を握り返して、その顔を覗き込むように見上げる。
「じゃあさ、私が蛍明のこと好きって、気付いてた?」
蛍明の時間が止まる。少し待ったが、彼は完全に硬直してしまったようだ。
ぽとぽととしずくの滴る彼の前髪を指で横によけると、ようやくその顔が動き出す。
赤く染まってから、口が開く。そのあとぎゅっと噛み締めたのは、きっとにやけた笑顔を噛み殺そうとしたせいだ。目が泳いで、戻ってきて、それから今にも泣きだしそうなくらい眉が垂れ下がる。
そうだ。こうやって感情のままにころころと変わる表情も、彼を好きになった要因のひとつだった。
わなわなと震える唇から、「ご……ご……」と意味不明な言葉が漏れる。
「ご?」
「ご……ごご……五割くらいそうかなって思っとった」
「少ないな」
「旅行決まるまでは二割やで。俺と一緒に旅行に行きたいって言ってくれて三割になって、昨日の夜で四割まで上がって、今日車の中で付き合う男の見た目の優先順位低いって聞いて五割になった」
そこまでいっても五割だったらしい。まさかそんなに低いとは思わなかった。
「好きでもない男とふたりでお風呂に入るような女だと思ってたの?」
「幽霊とはいえ知り合ってばっかりの男を家に上げて一緒の部屋で寝るような女が何言うとんねん」
うっと口をつぐむ。ぐうの音もでない。
「それは……まあ……あれだよ……。でもあんなことしたの蛍明が最初で最後だし」
次に口をつぐんだのは蛍明だ。目に見えて平静を失って、おどおどと唇を尖らせた。
「や、やってお前、普段俺とおってもイケメンの話ばっかしよるし」
「そんなことないよ」
「そんなことある。イケメン俳優がどうのこうのずっと言っとった。一緒におる時も、ようイケメン目で追いかけよるし」
それは、あったかもしれない。でもずっとではないはずだ。多分。
「昨日海におった時も、俺がちょっと目え離した隙に何人か声かけられよったやん。ほとんど塩対応やったのに、イケメン外国人だけは自分で追い払わんかったし」
「いや、違うの。あれは……違うの。あれはその……腹筋を見てただけで」
「体目当てか!」
「やめてその言い方。……だって、蛍明だって胸の大きい人が目の前にいたら思わず見ちゃうでしょ」
「俺は昨日お前の胸以外視界に入れてない」
またしても口ごもる。一途な発言に一瞬ときめきかけたが、それはつまり『お前の胸だけをガン見していた』ということだ。それは特に胸を張って言う台詞ではない。
「お前の恋愛対象はイケメンだけやと思っとった。俺はお前の秘密知っとる気許せる男友達くらいなんかなって。やから気持ち打ち明けて、そんなつもりじゃなかったのにってフラれて、この関係が崩れるんが怖かった。せっかく……近くにおれとんのに」
その目が伏せられる。
「お前美人やし、何だかんだ優しいし、おまけに金持ちやし。そこらへんのイケメンくらいコロッと落とせそうやし。俺の出番なんかないんやって思っとった」
言いたいことはたくさんある。しかし先に蛍明の言い分を全て聞いてからにしよう。そう思っていたのに、彼はそこで口を閉じて、何か言うことがあるのなら言ってみせろと言う顔で日花を見下ろした。
「……それだけ?」
呆然と尋ねる。
「一年も私にせっせと尽くしたのに、好きだって言わなかったのはそれのせい?」
「……なんか他にある?」
「私の、幽霊が見える体質のせいだとか」
蛍明は眉を寄せて小首を傾げる。
「そんなん気にしたことないわ」
あっけらかんと言い放たれたその言葉は、日花に気を使ったものではなく心から言ったもののようだ。
蛍明がこの中途半端な関係を終わらせるための一歩を踏み出さなかった理由。それがこの、生きていくために身につけた面食いが原因だったなんて。
ショックを受ける日花の隣で、蛍明もハッと目を見開いて唇を震わせた。
「……待って……俺ら、もしかして、両思いなん……?」
「そうだよ」
「じゃあ、付き合う……?」
おそるおそるのその言葉に、口を引き結ぶ。その日花の反応に、蛍明も浮かれかけていた口角を下げた。
「日花」
名を呼ぶ声に、ぴくりと震えた手を引く。ずっと繋いでいた手を離そうとしたが、それに蛍明の指が絡まって引き戻した。