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21、杏の貝殻




「ねえ、夕日が海に沈む瞬間見たくない?」


 もうすぐ日没の時間だった。海沿いを走る車内で日花がそう提案し、それに蛍明と杏が賛同する。

 カーナビで見つけたビーチの駐車場に入って車を停める。雲ひとつない空にぽっかり浮かぶオレンジ色の夕日は、日花たちが到着するのを沈まずに待っていてくれた。

 杏が指をさした貝殻を拾いながら、浜辺を三人で歩いていく。夕暮れのビーチはまだ観光客が多く、人を避けてビーチの奥まで来てしまった。

 もう海には入れる時間ではないが、服を着たまま足首まで浸かってる観光客がちらほら見える。それを羨ましそうに見ていた杏が意を決して波に素足を浸けてみて、その体は濡れないことに気付いたらしい。


「すごい、濡れない!」


 はしゃいでどんどん深い方へ向かっていく杏に、はらはらとした視線を向ける。

 それに気付いた彼女が、満面の笑みを日花へ向けた。


「大丈夫だよ! 杏、死んじゃってるから、溺れたりしないよ!」


 その言葉に、日花の顔が凍りついた。

 そうだ。彼女はもう生きていない。例えばこのまま深海まで歩いていくことだってできる。

 それなのに、杏のくっきりとしたその輪郭が波に隠れる度に恐怖を感じる。

 彼女はもう死んでしまっているのだ。彼女のほうがよっぽど現実が見えている。

 日花の顔が強張ったことに気付いたのだろうか。腰まで海に浸かっていた杏が、浅瀬に戻ってきた。

 その途中で、足元を見てパッと顔を輝かせる。


「キレイな貝殻がある」


 しゃがんだ彼女のすぐそばに、大きな貝殻が落ちているのが波の隙間から見えた。

 日花は自分の足を見下ろす。海水で傷むような高価なサンダルではない。鞄にハンドタオルも入っているし、濡れてもどうにかなるだろう。

 波に足を踏み入れようとして、慌てた蛍明に腕を掴まれた。


「入んの?」

「うん、杏ちゃんが見つけた貝殻を取りたい」


 指をさすと、蛍明もすぐに大きな貝殻を見つけたらしい。


「よっしゃ、俺がとったるわ」


 ハーフパンツをふくらはぎまで捲り上げて、蛍明はなんの躊躇いもなく波に足を踏み入れた。


「あー、冷たくて気持ちいい……」


 その言葉に羨ましくなる。


「……やっぱり私も入りたい」


 そっと爪先で、水温を確かめようと水をつつく。その瞬間大きな波が押し寄せて、一気に足首まで海水に浸かった。水が跳ねて、慌ててスカートをたくし上げる。


「冷た……」

「はは、結局みんな入ったな。……お、このピンクのやつか」


 蛍明は足元に流れてきた貝殻を拾い上げ、もう一度波に浸して砂を落として、そして杏がいる方向に差し出した。


「杏、これ?」

「これ! ありがとうお兄ちゃん」

「それで合ってる。ありがとうって」

「どういたしまして。日花に渡しとっていい?」

「うん」


 受け取った貝殻は大きくて傷も欠けているところもない。今まで拾った分と一緒に手のひらに乗せる。ピンク色の貝ばかりだ。杏はピンクが好きなようだ。

 裏返したり持ち上げたりすると、それを彼女は嬉しそうに覗き込んでいた。


「きれいだね」

「うん、きれい」


 落とさないようにしっかり手で包んで、波打ち際をわざと波に足を浸しながらさらに貝殻を探して奥へ進む。

 とうとうビーチの端に辿り着いてしまった。ここまで来るともう周りに観光客の姿はない。

 砂浜から海に突き出した岩に蛍明が上り、杏がそれに続く。


「カニや! カニがおる! 杏、こっち来て!」

「蛍明の目の前にいるよ」


 彼女はもう蛍明の前で、その手の中のカニを覗き込んでいた。


「いてっ、うわ、こわ! こいつめっちゃ挟もうとしてくる!」


 蛍明の悲鳴と杏の大笑いが響く。

 日花も一緒に笑って、ふたりにスマートフォンのカメラを向ける。そして杏が映らない画面のシャッターを何度か切って、顔を上げて明るい声を出した。


「ふたりとも、そろそろ沈むよ」

「はーい」


 カニを逃がして下りてきた蛍明と、杏を挟んで三人で並ぶ。今か今かと陽が沈みきるその瞬間を待った。

 蛍明がボソリと言う。


「……思ったよりも遅いな」

「でもじわじわ沈んでるの分かるね」


 また少し黙って、その無言に杏が耐えられなかったという風に笑った。


「沖縄に来てよかった」


 その笑顔を見下ろし、「うん、私も」と返事をする。


「何て?」

「沖縄に来てよかった、って」

「おおそうかそうか、よかったなぁ。俺も来てよかった。休みもぎ取った甲斐があったわ」

「ほんとにね。仕事大変そうだったけど、蛍明と行きたいってわがまま言ってよかった」

「……別にわがままやと思ってないし。俺やってお前と来たかったって言うたやん」


 蛍明のぶっきらぼうな声に、杏の「ぶふっ」と噴き出した声が被った。


「はー、夕日が真っ赤やなぁ、杏」

「そうだね、お兄ちゃんのお顔みたいだね」

「ほんとにね」


 小さく笑い続ける杏の声を聞きながら、また水平線に目をやる。ぼんやり波の音を聞いていると、視界の端で杏が何やらゴソゴソと動いていることに気付いた。彼女は日花の手をそっと握ろうとしていたようで、見下されていることに気付いてさっきの蛍明と同じように顔を赤くした。

 笑って手のひらを開く。彼女は日花の顔と手のひらを交互に見てから、おずおずと手に小さな手を重ねた。

 もちろん感触はない。慎重に指で包み込んでも、その暖かさは感じられない。

 それでも杏は顔いっぱいに喜びを滲ませ、「えへへ」と恥ずかしさを誤魔化すように笑った。


「えぇ、兄ちゃんはぁ?」


 気付くと蛍明もふたりを見ていて、不満そうな声を出す。日花の動きだけでふたりが何をしていたのか分かったようだ。

 杏が「お兄ちゃんもちゃんと繋ぐよ」と手を差し出す。


「蛍明、手のひら出して。そう、そのまま握って」


 日花と同じように手のひらを差し出した蛍明が、重ねられた手をふわりと優しく握り締める。


「大丈夫? あっとる?」

「大丈夫だよ。ちゃんと握れてる」

「よしっ、杏、そのまま動かすなよ……!」

「オッケー、大丈夫!」


 手が離れないようロボットのようにぎこちなく前を向いたふたりを見届けて、日花も海の向こうを見やった。

 繋いだ手は目を離すとすぐにズレてしまいそうな不安定なものだったが、それでも充分だった。


「はぁ、楽しかったねぇ」

「うん、楽しかったね」

「そうやなぁ、楽しかった」


 呟いた三人の間を夜の始まりを告げる少し肌寒い風が通り抜けて、掴めないその手をぎゅっと握り締めた。

 もうじき夕日が沈む。黙ったままそれを見つめる。

 海に映った長い夕日はオレンジ色の橋のようで、渡っていけばここから空に登れそうだ。

 その橋が、どんどん短くなる。夕日が細く小さくなる。

 あと少し、あと数ミリ。最後に淡い緑色の光を撒いて、夕日は海の中へと沈みきった。


「おー最後きれいやったなぁ。杏、沈む瞬間見れたか?」


 蛍明の言葉に、彼女の返事はない。

 ゆっくりと隣を見下ろす。

 何となく、予想はしていた。

 小さな手を握り締めていたはずの手は、もう何も掴んでいないことを。

 きっと杏も分かっていたのだろう。

 辺りを見渡す。この広い砂浜に、杏の姿を見つけることはできなかった。


「……日花?」

「もういない」


 力の抜けた手から、杏のために拾った貝殻が滑り落ちていく。

 耐えられずにその場に座り込む。唇を噛んだが、ほとんど無意味だった。次々と溢れ出す涙を止めることはできそうもない。


 もう二度と、永遠に、彼女に会うことはないだろう。


 蛍明も隣に腰を下ろす。


「杏ちゃん、いい思い出になったかな……」

「なったから成仏できたんやろ」


 落とした貝殻を拾い、日花の手のひらにのせながら蛍明が言う。


「そろそろ家族に会えた頃やで。杏はもうひとりぼっちの世界におらんでええんやから、喜ばな」


 その声が少し震えていて、もう耐えられなかった。ハンカチに顔を押し当て、声も出さずに泣く。

 最後に見た杏は笑顔だった。

 これでよかった。杏は救われた。

 でも、それでも。


「やっぱり、寂しい……」

「そやな、俺も寂しい」


 のそりと顔を上げ、蛍明を見る。彼の視線は海の向こうのまだ赤い空だ。


「だって、バイバイも言われへんのか……ちゃんとさよならできたら、まだ……」


 黙ってしまった蛍明と、どちらからともなく体を寄せ合う。日花は蛍明の足に触れ、蛍明は日花の背中に手のひらを当てた。

 じっと黙って、寂しさの大きな波が通り過ぎるのを待つ。

 日花の嗚咽が止まるまで、蛍明はずっと背中を撫で続けていた。




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