20、危険なトライアングル
館内をひと通り見て回り、土産コーナーとイルカショーを堪能した三人は、後部座席に大きなジンベイザメのぬいぐるみを乗せて水族館を出発した。
海沿いを走らせて次に訪れたのは有名な琉球ガラスの店だ。
店内は色とりどりのガラス製品に埋め尽くされている。客は多いが、それでもそのカラフルな光景に圧倒される。
「じゃあパッと探してくるから、お前らも見て回っとき」
「分かった」
蛍明は母親に花瓶を土産に頼まれたらしい。
花瓶コーナーへと向かった彼とそれについていった杏を見送り、日花はひとりでふらふらと店内を回る。
グラスや花瓶の他に、ガラスで花を模したものやコースター、オーナメントなどもある。
買うつもりはなかったが、眺めていると欲しくなってきた。いくつか手に取って値段を見ていると、蛍明に引っ付いて店内を見て回っていた杏がそばに駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、何か買うの?」
「うん、可愛いグラスがあったら買おうかなって思って」
「そうなんだ」
杏は辺りを見渡して、それから口角を上げて自信満々に笑った。
「じゃあ杏もペアのコップ一緒に探す!」
「ペア?」
「だって、どうせ付き合うんでしょ? 蛍明お兄ちゃんと」
さも当たり前のように言うので、思わず苦笑いに近い笑みを浮かべる。杏はそれに不満そうに唇を尖らせた。
「だってお兄ちゃん、お姉ちゃんにベタ惚れだもん。杏でも分かるよ。小学生にもバレバレ。お姉ちゃんを見る目が完全にホレタオンナを見る目だし、時々お姉ちゃんにさり気なく触ろうかなどうしようかなって手をフラフラーってさせて、やめるし」
よく見ているものだと「ふふっ」と噴き出して、すぐ隣を通り過ぎた客に怪訝な目を向けられる。口元に手を当てて笑顔を隠す。
「お姉ちゃんも、嫌いじゃないんでしょ? お兄ちゃんのこと」
好き合っているのならそばにいる、きっとそれが恋愛の真理だと思っているであろう無垢な顔を見て、それから辺りを見渡した。蛍明は遠くにいるし、今は周りには他の客もいない。
たまには素直になってみてもいいかもしれない。
「そうだね。好きだよ」
「それってライク? ラブ?」
「ラブ」
「ひゃああ」
声を上げて、照れて赤くなった頬を両手で押さえたのは日花ではなく杏だ。
「やっぱり、やっぱりねぇ」
分かっていたとでも言いたげに、杏は何度も深く頷く。そしてずっと詳しく聞くことを我慢していたようだが、とうとう耐えられなくなったらしい。
興味津々な瞳で、彼女はぐいっと体を乗り出した。
「ねえ、お姉ちゃんたちが付き合わないのって、何か理由があるの? 例えば、すごい身分差があるとか、お姉ちゃんに別に婚約者がいて親に反対されてるとか……!?」
捲し立てるように彼女が言うのは、まるでドラマや漫画の中の話のようだ。
時代が違えば身分差というか家柄の違いはあるかもしれないが、今のこの時世にそんな差別的なものは、もっと上のごく一部の界隈にしかないだろう。現に両親の所有する土地の大半を継ぐであろう長兄の彼女は、ごく一般的な家庭で育った人だ。
しかし杏の興奮は冷めない。
「杏が読んでた漫画で見たことあるの! 危険なトライアングルって漫画なんだけど、ヤクザのひとり娘と組員と、ひとり娘の婚約者の三角関係のお話! そのヒロインが夢那ちゃんっていってクールで長い黒髪の人で、組員の人が泰生くんっていう関西弁を喋る人なんだけど、お姉ちゃんとお兄ちゃんにすごく似てるなって、会った時からずっと思ってて……!」
漫画の『ような』話ではない。実際に漫画の話だったようだ。
この興奮しきって早口になる話し方をどこかで聞いたことがある。そうだ、推しの話を蛍明や友人に聞かせる時に、よくこういう喋り方をしていたような気がする。それは日花をクールだと勘違いしている杏には絶対に見せられない姿だ。
クールぶっている仮面を脱ぐわけにはいかないし、期待を裏切るのは心苦しいが、嘘をつくこともできない。
「残念だけど、ただの女子大生とただの会社員だよ」
少し幽霊が見えたり、少し過去に幽霊になったことがあるだけだ。
杏は心底残念そうに「なぁんだ」と肩を落とした。話を変えるように尋ねる。
「杏ちゃんはどっちのヒーロー推し?」
「もちろん泰生くん! 郁人くんはイケメンだしお金持ちだけど、夢那ちゃんの気持ちを考えずに無理やり自分の恋人にしようとするから、ちょっと苦手」
その郁人くんがひとり娘の婚約者なんだろう。イケメンに釣られないなんて、どこかの女子大生よりもよっぽどしっかり物事を見ている。
「結局夢那ちゃんはどっちとくっついたの?」
「それがね、杏、最終巻を読む前に死んじゃって分からないんだよね」
「え……気になるね……」
低年齢向けの恋愛漫画なら本命らしい泰生と結ばれるだろうが、それでも気にはなる。ネットで最終回の感想を探せば見つかるだろうか。それとも本屋の前を通ったら寄ってみようか。
思案する日花を置いて、杏はひとり納得したように何度か頷いた。
「まあ漫画の話はいいや。むずかしいことは分からないけど、杏はお姉ちゃんとお兄ちゃんはお似合いだと思うよ。ふたりとも一緒にいたら、すごく幸せそうだし」
思わず目を開いて、それから伏せる。杏にはその顔が悲しそうにでも見えたのか、彼女は慌てたようにそばによって、触れられない日花の手を両手で包み込んだ。
「ごめんね、お姉ちゃん。杏、勝手なこと言って」
「ううん、違うの。ありがとう杏ちゃん」
そうだ。彼のそばは居心地がよくて安心できて、そして幸せになれる。
そばにいたい。ずっとだ。
しかしそれが叶わない未来もある。
それでも、例えどんな結果になったって、この気持ちはしっかりと伝えたい。「よし」とわざと声に出す。手のひらをぐっと握ってもう一度言った。
「よし。……じゃあ杏ちゃんにペアのグラスを選んでもらって、背中押してもらおうかな」
その顔にぱっと歓喜が浮かぶ。
杏はぴょんぴょんとその場で何度か跳ねてみせた。
「任せて! 杏、センスあるから!」
駆け出した彼女にぶつからないように気を付けてと言いそうになって、口をつぐむ。
つい忘れそうになる。一緒にいればいるほど、その輪郭が濃くなっていく。彼女は幽霊、彼女は幽霊なんだと自分に言い聞かせながら、一応商品棚や人を避けながら進んでいく杏を追いかけた。
「お姉ちゃんのイメージカラーは水色かなぁ。お兄ちゃんは赤とかオレンジとか……これはちょっと高いなぁ……」
ぶつぶつと呟きながら店をぐるりと回って、杏はようやく納得のいくものを見つけたようだ。
ころんとした丸いグラスの底に、まるで花びらを広げたような模様がついている。ひとつは淡いオレンジ、もうひとつは水色で、お互いの色が差し色として使われている、まるで夕暮れ時の空のような一対のグラスだった。
「きれい……」
一目見てしっくりときたそれを持ち上げて、窓から差し込む光にかざしてみる。
「ほんとだ。そうやったらキラキラでキレイだね」
そう言って眩しそうに笑う杏の瞳は、太陽もそれを反射したガラスの光も何も映っていない。それなのに、その笑顔は眩しい。
「ありがとう、すごく気に入った」
「……ホントに? 値段も大丈夫?」
「うん予算内だよ。それに、このお店の中で一番きれい」
そばの買い物かごを取って、グラスふたつをその中に入れる。もう絶対にこれに決めた。たとえ杏がほかのグラスを勧めてきてもだ。
杏は嬉しいときにその場で飛び跳ねる癖があるらしい。今回は跳ねるのは我慢したようだが体を上下に揺らし、頬を赤くして笑った。
「ちゃんとね、お姉ちゃんとお兄ちゃんがずっと仲良しでいられますようにってお願いしながら探したから」
「うん、ありがとう」
これで百人力だ。心強いことこの上ない。
ふと顔を上げた杏が「あ、お兄ちゃん」と笑う。振り返る前に弱りきった声が聞こえた。
「日花、助けてぇ。花瓶全然決まらん」
少し疲れた顔で近付いてきた蛍明が、日花の買い物かごに気付いて覗き込む。
「あれ、お前も買うの? 可愛いやん」
「いいでしょう、杏ちゃんが決めてくれたの」
「マジで? 杏センスあるやん」
買い物かごからグラスをそっと持ち上げて、蛍明はふたりがしたようにそれを陽に透かせて笑った。
「ペアで買うん?」
「そう」
「……ほーん」
微妙な返事に首をかしげたが、大笑いした杏の「大丈夫だよお兄ちゃん! お兄ちゃんの分だからね!」という言葉で、蛍明がグラスの片割れを誰が使うのかを気にしたのだと知った。
もちろん杏の声は聞こえていないので、蛍明はかごにグラスを戻し取り繕ったように笑う。
「杏、俺のも決めてよ。三つまで絞ったんやけど、そん中で一番ええやつ選んで」
「いいよ!」
「いいよ、って」
「よっしゃ、こっち来て」
それから蛍明の花瓶も無事に杏が決め、会計をして駐車場の車へ戻る。陽はだいぶ傾いていて、ホテルに戻るころには辺りは暗くなっているかもしれない。
シートベルトを締めながら、日花はふと思い出して蛍明を振り返った。
「本屋に寄る時間あるかな?」
「本? 行こう思たら行けるやろうけど、何買うん?」
「杏ちゃんが最終巻だけ読めなかった漫画があるらしくて」
「えっ」と、後部座席で杏が声を上げる。
「なんて漫画?」
「危険なトライアングル」
「お姉ちゃんいいの。わざわざ買わなくても、ネットで調べたら最終回の感想とか出てくるだろうし、それを教えてくれたら」
「待てよ、俺それ知っとるわ。ヤクザのやつやろ。読んだことある」
杏の声を遮るように蛍明が言う。その返事に驚いた顔をした杏が、次に浮かべたのは不信感だ。
「少女漫画だよ……? 何で知ってるの……?」
「少女漫画なのに何で知ってるのかってドン引きしてる」
蛍明が漫画をよく読むことは知っていた。しかし少女漫画までカバーしていたとは知らなかった。
蛍明は何度も首を横に振る。
「ちゃう、ちゃうちゃう、ちゃうねん、そういう趣味があるんやなくて、蝶子や蝶子!」
「誰?」
「蛍明の妹さん」
「前に実家帰った時に居間のテーブルの上に最終巻が置いてあって、何とはなしに読んで、気になって蝶子から全巻借りて……その……読んだだけで」
結局全部読んだらしい。
「面白かった?」
「……なかなかおもろかった。最近の少女漫画すごいな、色んな意味で」
成人男性だということはさておき、杏に好きな漫画の読者友達ができた。杏はようやく不信を顔から消して、興奮して叫ぶ。
「じゃあ夢那ちゃんがどっちを選んだのか教えて!」
せっかく実物を読めるチャンスがあるのに、聞いてしまってはもったいないような気がする。
「いいの? 誰を選んだのか聞いちゃって」
「最終巻だけやったら買ったんで。ホテル帰ってから読んだらいいし」
その提案にも杏は首を横に振った。
「いいよ。杏、ネタバレとか気にしないタイプだから。本屋さんによる時間があるなら、そのぶん海を見に行きたいし」
遠慮しているのだろうかと彼女を見たが、彼女が気を遣っている時にする首を竦める仕草もない。それならしたいようにしてあげようと、蛍明に「教えてあげて」とお願いした。
「そうなん? 欲のない子やな」
「本屋に行く代わり海を見に行きたいんだって」
「おお、そういうことやったらええで」
蛍明は杏に向かってぐっと身を乗り出した。
「じゃあ言うで。最終巻で、夢那は、なんと…………」
ふたりはじっと見つめ合う。杏のわくわくした顔が、見つめ合って五秒を過ぎたあたりで次第に焦れてわなわなと震えだす。
「早く!」
「泰生とくっつきました!」
「やったあ!!」
叫んで立ち上がった杏の顔は車の屋根を突き抜けて見えなくなったが、嬉しそうな声は聞こえてくる。
「喜んどる?」
「喜んでるよ。杏ちゃん、泰生くん派だったから」
「そうかそうか、よかったな」
「蛍明はどっち推しだったの?」
「泰生に決まっとるやろ。イケメンは敵や」
つんと唇を尖らせて、蛍明は車のエンジンをかける。杏が座席に座ったことを教えると、蛍明は車を発進させた。
「私だったらイケメンの郁人くんを応援してたかな」
「いや、結構嫌な奴って描き方されとったから、さすがのお前も絶対泰生派やったと思うで」
駐車場を出て大通りに合流してから、蛍明はぼそぼそと呟く。
「日花、お前、紙の中とかテレビの中やったらええけど、リアルで顔ばっかりで選んどったらいつか痛い目あうで」
「大丈夫、ちゃんと区別してる。現実で付き合う人は顔よりも内面とか性格の相性重視だから」
世の中のイケメンという存在は日花にとっての救いだが、彼らは目を合わせたり触れ合ったり冗談を言い合ったりできる存在ではない。
「ほ、ほーん……?」
今のほーんの意味は分かる。一気に固まった蛍明の隣に、おそらくふたりのやり取りを聞いていなかったのであろう杏が飛び出した。
「ねえお兄ちゃん、最終巻はどんなお話だったか教えて!」
「蛍明、最終巻の内容を教えてだって」
「……オッケー」
「お兄ちゃん、声裏返ってるよ」
それから蛍明は最終巻の内容を、お芝居付きで杏に語ってみせた。
郁人に罠に嵌められた泰生を助けるために夢那が行方不明になったりとなかなかハードな最終巻だったようだが、無事にふたりは結ばれ、組織からも抜け出し駆け落ちし、外国で幸せに暮らしたそうだ。
「そっかぁ、幸せになれたんだね……」
手のひらを合わせ、杏がうっとりと言う。
「知れてよかった……杏、もう思い残すことない……」
ぎょっとする。もしかすると消えてしまうのではとその姿を見守ったが、彼女の輪郭は揺らぎもしなかった。
ホッとした後、いやいやと首を振る。彼女には消えてもらわなければならない。楽しんで、もう思い残すことはないと満足した後、消えてそれから家族のものに行ってもらわなければ。
最後は杏の笑顔でなければならない。
しかし日花はもう気付いていた。
彼女との別れはどんな形であれ、日花と蛍明にはきっと辛いものになるであろうことに。