18、男と女がふたりきりで一晩同じ部屋で過ごしたのに
聞き慣れたアラームが鳴り響く。日花はのそりと手を動かしてスマートフォンを探しあて、目を閉じたまま画面を何度かタップしてアラームを止めた。
いつもならこのまま二度寝しているが、今日はなんといったって。
「おはよ」
声が聞こえて、ようやくまぶたを上げる。視線を巡らせて、ぼやけた視界に蛍明を捉えた。
おはようと口を動かしたが声は出ない。その様子を見て、ツインベッドのもうひとつに腰を掛けている蛍明はにっと口の端を上げて笑った。
「結構あっさり起きたな。どう叩き起こしたろかって色々考えとったのに」
「……楽しみ、だから」
「遠足の日の小学生か」
返事もできずにのそりと起き上がって、乱れた髪をかきあげる。体に巻き付いていた薄手の布団を剥ぎ取ると、蛍明が悲鳴を上げた。
「うわっ、ちょお待ち、お前下にちゃんと服着とる?」
慌てたように顔をそむけた蛍明から自分の体に視線をやる。
羽織っていた浴衣は開けてずれ落ちて、腰紐は辛うじて腰に絡みついているだけで用をなしていない。
絶対に寝乱れると思って、その下にパジャマ代わりのタンクトップと短パンを身に着けていた。下着は見えていない。
「大丈夫……パジャマ着てる……」
眠気でまだ気怠い腕で合わせを整える。それで力尽きてシーツへ逆戻りすると、呆れたような顔が覗き込んできた。
「お前ホンマ寝相悪いよな……どうやって寝たらそんな大惨事になるん。寝とる時もミノムシみたいやったし」
自覚は全くなかったが、家族や友人にはよく言われていた。布団を蹴落としてしまうので、体に巻きつけて眠る癖があるくらいに。
大きく伸びをして、蛍明が冷蔵庫から持ってきてくれたペットボトルの水を礼を言って受け取った。からからの喉に水を流し込んで、ようやくまぶたが完全に開いた。
「杏、来とる?」
尋ねられ、部屋を見渡す。
「杏ちゃん」
その姿はどこにも見当たらない。
「いないね」
「じゃあ来るまでに準備しとこか」
「うん」
大きな洗面所でふたり並んで顔を洗って歯を磨く。日花は引き続き軽く化粧をして着替えて、部屋に戻ると蛍明ももう着替えを終わらせていた。
「なぁ、もっと派手なんなかった?」
両手で広げた花柄のシャツに視線をやったまま蛍明が問う。
二日目は手持ちの洋服の中で一番夏っぽくて派手なものを着ようと約束していた。蛍明の荷物を詰めたのは日花なので、それは日花が選んだシャツだ。
確かにそれより派手なものはあったが、今回それを選んだのには理由があった。
シャツから日花に視線を移して、思わず笑った蛍明もその理由に気付いたようだ。
スカートを手で広げて、くるりとその場で回ってみせる。
「私のと少し似てるなと思って」
花の種類は違うが、日花も黒地に白い花のノースリーブのワンピースを選んでいた。
「そういうことな。ペアルックやん」
「リンクコーデって言って」
「そんなハイカラな呼び方知らんわ」
「やだ、おじさん」
「はー? 俺とお前たったの三歳差ですけどー?」
鳥のように唇を尖らせて呻く蛍明に、笑いながら「ごめん」と謝った。
そして部屋を見渡す。しかし杏はまだいないようだった。
「まだ来てへんか」
「そうだね」
「先ご飯食べに行こ。どのみち杏はレストラン連れてかれへんのやし」
「うん……」
しかし、部屋に来たときにふたりの姿がなかったら不安に思うだろう。
考えて、机の引き出しから紙とペンを取り出して、朝ごはんを食べてくるから待っててねと書いたメモを残してレストランに向かう。
朝食バイキングを堪能して部屋に帰ると、部屋の真ん中にぽつんと杏の姿があった。
メモを覗き込んでいたらしい彼女が顔を上げる。不安げなその顔が、日花たちを見てほっと緩んだ。
「おはよう、杏ちゃん」
「あ、おるの? おはよ、杏」
明後日の方向に手を振る蛍明に少し笑って、彼女はやっぱり昨日のように頬を赤らめてはにかみながら、恥ずかしそうに「おはよう」と挨拶を返してくれた。
「さあ、準備ができたら出発しようか」
「うん!」
「オッケー」
元気なふたりの返事を聞いて、日焼け止めを塗りたくって荷物を整理したら準備万端だ。
ホテルを出て、三人で空を見上げる。今日の天気も快晴だ。
意気揚々と車に乗り込む。日花は助手席だ。杏は後部座席に乗ったが、運転席と助手席のシートの間から顔を出して、わくわくした顔で日花を覗き込んだ。
「ねえ、付き合うことになった?」
彼女の顔を見て、静かに首を横に振る。
「ええ!? 男と女がふたりきりで一晩同じ部屋で過ごしたのに!? 何もなかったの!? お揃いの服着るような仲なのに!?」
その、『何も』の『何』の意味を分かって言っているのだろうか。最近の子はませているなと無言を返事にする。
そのやり取りを見ていたのか、シートベルトを締めながら蛍明が言った。
「日花、ちゃんと通訳してよ。俺やって話混ざりたい」
「分かってるよ」
返事をしてから杏を見て、にっと口の端を上げる。今の話はふたりの秘密だと、そう言いたいのを分かってくれたのだろうか。彼女もにんまりと笑って、そして静かに首を縦に振った。
「そうや。日花、杏に今日はどんな予定なんか教えたって」
「了解」
昨日それぞれシャワーを浴びたあと、ベッドに転がってふたりで計画を練り直した。
付箋が貼られ色々と書き込まれたガイドブックを取り出す。それに杏が目を輝かせた。
「私もね、こんなガイドブックを買ってもらって、行きたい場所に付箋を貼ってたの。付箋だらけになっちゃって、こんなにいっぱい行けないよってお母さんに笑われたけど」
思わず言葉が詰まった。それを思い出して杏は悲しくならないだろうかとその顔をちらりと見たが、浮かんでいるのは純粋な期待と喜びだ。この感情は杏にとっては余計なお節介だと知って安心する。
彼女に見えるようにガイドブックを広げて、意外とまめな蛍明が細々と予定を書き込んでいるページを見せた。
今日の主な予定は、首里城と水族館と有名な琉球ガラスの店、時間が余れば他にも通り道にある店に寄りたい。
「こんな感じ。他にも行きたい場所はある?」
「ううん、私が絶対に行きたいって思ってた所ばっかり!」
「そう、じゃあ決定ね」
信号で停止した蛍明が後部座席を振り返る。
「杏、オッケー?」
「うん、オッケー!」
「オッケーだって」
「よっしゃ、じゃあ安全運転で行くで」
まず最初は、ホテルから一番近い首里城だ。
運良く近くの駐車場に停めることができた。
時間の関係で首里城は建物には入らずに正殿を外から眺めただけだ。それでも杏は喜んでくれたし、それと同じくらい初めて見たらしい蛍明も喜んでいた。
それから車を二時間ほど飛ばして、北部の水族館へ向かう。
車の中で主に喋っていたのは蛍明だ。日花をも陥落させたその人たらしなお喋りで、まだ少し遠慮がちだった杏も、水族館に着く頃には随分打ち解けて話をしてくれるようになった。
車を停めて外に出る。濃い花の匂いと微かに海の匂いがして、二時間のドライブの疲れが吹き飛んだ。
さすがに沖縄最大の観光地のひとつなだけあって、周りは観光客でごった返していた。外国人が多いが、むしろ好都合だ。杏と話をしていても、言葉がわからなければただの盛大な独り言にしか聞こえないだろう。
万が一迷子になった時の集合場所を決めて、いざ館内へと足を踏み出す。その次の瞬間、団体の観光客に巻き込まれ日花は蛍明を見失った。隣で杏が「お兄ちゃああん!」と叫ぶがもちろんそれは彼の耳に届くはずもなく、館内に入って五分で早速集合場所が役に立つことになった。
「何でお前早速おらんねん」
「ごめん」
息を切らして探しにきた蛍明に謝る。
「杏もちゃんとおる?」
「いるよ、私のすぐ隣に」
杏の肩を抱くように手を回すと、彼ははあと大きな息をついた。
「お前らが後ろにおるもんや思て、めっちゃひとりで喋っとったわ」
「ごめんごめん」
「ごめんなさい」
手を繋げない杏を気にしていると、つい蛍明の姿を追うのが疎かになる。杏には蛍明の後ろをついて行ってもらって、それを追いかけるようにしたほうが見失いにくいだろうか。
色々と思案する日花の前に、蛍明は羽織っているシャツの裾を差し出した。
「……また迷子なったらあかんから、俺の服掴んどき」
少しぶっきらぼうに言うのは、照れ隠しだろうか。「ありがとう」と素直に手を伸ばし、いや、とぴたりと止める。
いっそ手を繋いでしまおうかと考えたが、昨日の夜とは違う明るい場所ではやはり少し恥ずかしい。
そっと裾を掴むと、蛍明ははにかんで前を向く。そのやり取りを見ていた杏は、心底不思議そうに眉を寄せた。
「何で付き合ってないの……? お揃いの服着てるのに……」
潜めた声で尋ねる彼女の耳元に顔を寄せ、日花は小声で答えた。
「大人にも色々あるの」
「ふーん」
その顔には興味がありありと見て取れる。幽霊が見えるというこの体質を彼が気にしているかもしれない。そんな理由を幽霊である杏に伝えることなんてできない。
そんなふたりのやり取りを遮ったのは、「あっ!」という蛍明の叫び声だった。
「見て! ナマコ! ナマコ触れんでナマコ!」
彼が指差す方には人だかりができていて、その隙間からちらちらと低い水槽が見える。中に入っている黒いものはナマコらしい。
「触るの?」
「普通に触るやろ!」
ぱっと駆け出した蛍明を呼び止めようとしたが、この距離で迷子になったりはしないだろうと黙って見送った。
「ああいう子供っぽいところが駄目なの?」
隣に立つ杏がそう尋ねてきて、思わず噴き出す。女子小学生には充分子供っぽいらしい。
「ううん、むしろああいうのは可愛いと思うよ」
「お姉ちゃん、大人だね」
「日花! 杏! ヒトデもおる!」
叫びながら手招きする蛍明に笑って、杏を見下ろした。
「行こう、離れないでね」
「うんっ」
「蛍明が触ってるの、一緒にそばで見ようか」
「うん! 見る!」
駆け出した杏を見失わないように、日花はその背中を追った。