17、みんなで、みんなで
日花は部屋の電気を付けて、一直線に少女の元へ進む。ソファの後ろを覗き込むと、彼女はまだぼんやりとした目を窓の外に向けていた。
驚かせないようそっと隣に腰を下ろす。ようやく目が合って、にこりと笑いかけた。
「こんばんは」
少女は目を真ん丸に見開いて、それから辺りを見渡し、また恐る恐る日花に視線を戻した。
「お姉ちゃん、見えてるの……?」
「うん、見えるよ」
その返事に、可愛らしい顔がぐしゃりと歪む。
「ど、どうして……今まで、誰も、あ……わたしのこと、気付いてくれなくて」
どれほどの孤独と恐怖だっただろう。みるみる真っ赤になった目元から涙をいくつも落とし、彼女は何度かしゃっくりを上げた。
「わ、私……本当に幽霊になっちゃったの……?」
「……そうね」
「そんな……いやだ……いや……」
しがみつくように伸ばされた手を取ろうとしたが、掴めない。少女は何度も日花に触れようと手を動かして、それが叶わないと知って大声で泣きながら地面に突っ伏した。
つられて泣くなと自分を叱咤する。泣けば彼女はもっと不安になるだろう。じっと、彼女の気が済むまで黙ったままそのそばに寄り添う。
何分経ったか、泣き声がだんだん小さくなる。彼女は疲れ切ってしまったようだ。深い息を吐いて鼻をすすって、ようやくのろのろと顔を上げた。
袖口で顔をゴシゴシと拭う。そしてまだしゃっくりの止まらない真っ赤な顔に、気を遣うような、あまり子供らしくない愛想笑いを浮かべた。
「泣いてごめんなさい」
「いいんだよ」
その警戒を解きたくてにこりと笑う。
少女は皺が寄ってしまった袖を撫で付けながら、おそるおそる日花を見上げた。
「どうしてお姉ちゃんには私が見えるの……?」
「どうしてかは分からないけど、生まれつきなの」
その目が、日花の隣ではらはらと見えない成り行きを見守っている蛍明に向けられる。
「お姉ちゃんの彼氏も見えるの?」
「ううん、この人は見えない。あと彼氏じゃない」
「家族?」
「違う、友達」
少女が驚いたように目を丸くする。
「えっ!? ただの男友達とふたりきりで旅行に来てるの!?」
「今はその話はやめましょう」
何を話しているのか察したらしい蛍明も、どことなく気まずそうだ。
会話を切り替えるようににこりと笑う。
「明後日には帰らないといけないから、ここにいる間だけだけど、お話し相手くらいにはなれるから」
蛍明の言うとおり、成仏を手伝うと言ってもし駄目だった時に絶望させたくない。
それでも彼女は真っ赤に腫れた目のまま、嬉しそうに笑った。
「人とお話するの久しぶり。多分、半年ぶりくらい」
「そうなの」
幽霊になってまだ半年。いや、幼い子供がひとりきりで過ごすには長過ぎる期間だった。
立ち上がって少女を手招きする。こんな暗くて狭い場所にいる必要はない。そばのソファに座って隣をぽんぽんと叩くと、彼女はおずおずと近寄って、遠慮がちに日花の隣に腰を下ろした。
蛍明がスツールを引っ張ってきて日花のすぐ隣に座ったのを確認して、また少女に向き直った。
「沖縄に住んでいたの?」
「違う。家は千葉県」
「千葉県……」
訛りのない話し方に予想はついていたが、やはりここの出身ではないらしい。
「どうしてここにいるのか、心当たりはある?」
尋ねると、彼女はうんと小さく頷いて、俯いた。
「家族で旅行に行こうって言ってたの。お父さんとお母さんと私と妹と。沖縄に行こうって決めて、日にちも決めて、準備して。みんなで楽しみにしてたら、出発する何日か前にアパートが火事になって、私もみんなも気付いたら死んじゃってた」
ずしりと胸が重くなる。半年前、幼い子供ふたりを含む一家が犠牲になった火事。調べたらすぐに記事が出てくるだろう。
「幽霊になって、夢見てるみたいにずっとぼんやりしてて。私達のお葬式見て、おじいちゃんとおばあちゃんがずっと泣いてるのが悲しくて、ここに来たらもしかしたら家族の誰かがいないかなって……」
そして今ひとりぼっちだということは、家族は見つけられなかったのだろう。
「……沖縄旅行、楽しみだった?」
「すごく楽しみだった」
少女の声が震える。
「お父さんずっとお仕事忙しくて、夜中まで仕事して朝早く出かけて、休みも全然なくて。でも転職して、お休みがいっぱい取れるようになって、それで生まれて初めて家族旅行に行く予定だったの」
その顔が、また悲しみに染まる。
「みんなで一緒に、きれいな海が見たかった。大きな水族館でジンベイザメも見たかった。赤いお城も見たかった。お母さんと一緒にきれいなガラス屋さんも行こうねって話してたの。おじいちゃんとおばあちゃんの、なんだっけ、ルビーコンシキ? そのお祝いに、お揃いのガラスのコップを買ってプレゼントしようねって。一緒に探そうねって、約束して……」
せっかく止まっていたしゃっくりがまた始まって、それでも彼女は言葉を続ける。
「飛行機に乗るのも初めてだったの。お泊りのお出かけも初めてで楽しみで……ずっと、楽しみにしてたのに……! みんなで、みんなで……!」
耐えきれなかった涙がぼろぼろと座面に落ち、少女も同じように日花のひざに崩れ落ちた。
その触れない体を抱えるように手を回す。
彼女の未練は、家族旅行だろう。家族みんなで、初めての旅行に行くことだ。
彼女の家族はもういない。
その未練が消え去ることは、ない。
息を吸って、震えそうな声を宥める。蛍明を振り返り小さな声で彼女の状況を説明した。
途中で少女は顔を上げ、ぐずぐずと袖口で涙を拭っていた。
話し終わって、日花と蛍明の間に沈黙が落ちる。
もし彼女が望むのなら、千葉の祖父母の家まで連れて行ってもいい。いや、まだ半年。彼女の祖父母は、まだ深い悲しみの中にいるだろう。その姿を見せてもいいのだろうか。
どうすればいい。
本当にこのまま、二晩話をするだけで終わってしまうのか。どうにか、他に方法は。
「うん」
何かに納得したように声を上げたのは蛍明だった。
見上げるのと同時に、蛍明はぱっと満面の笑みを浮かべた。
「じゃあさ、明日兄ちゃんらと一緒に観光行く?」
驚いて目を丸くする。それは少女も同じだったらしい。ふたりの視線を受け止めて、彼は飄々と続ける。
「明日はちょうど水族館行く予定やったし、花瓶を土産に頼まれとるから琉球ガラスの店も行くし。兄ちゃんら車借りとるから、近くやったらどこでも連れてったるで。首里城もチラッとなら行けるやろ」
「え、え……でも、あの」
「一緒に行くのが兄ちゃんらで悪いけど、でもひとりで行くよりは絶っ対三人のほうが楽しいって。んでいっぱい楽しんで、それから天国のお母さんらにお土産話しに行ったり」
蛍明の視線は少女とは合っていない。しかしその言葉は、彼女の運命を変えたかもしれない。
暗い絶望を浮かべていた目に、一筋の希望がさしたように日花には見えた。
胸元で手を握り締め身を乗り出した少女は、しかしギクリと体を強張らせる。
「でも……でも、私」
怯えたような、伺うような視線を少女は日花に向ける。安心させるために、それに微笑みを返した。
「一緒に行こう」
「……いいの……?」
「いいよ。お名前を教えてくれる?」
狼狽えたまま彼女は胸元の手に視線を落とし、小さな声で呟く。
「杏。果物のあんずの杏」
「そう、杏ちゃん。私は日花、この人は蛍明よ」
日花と蛍明の顔を交互に見て、杏はうんうんと頷く。戻ってきた視線に、目を細めて笑った。
「明日、楽しみだね」
「うっ……うん……!」
みるみる彼女の顔が赤くなる。それからいくつか涙が落ちたが、口元に浮かんでいるのは耐えきれない笑みだ。
彼女は小さな震える声で「ありがとう」と呟いた。
「どういたしまして」
その目が蛍明にも向けられる。
「あの、蛍明お兄ちゃんも、ありがとう……」
「蛍明お兄ちゃんもありがとう、だって」
杏の言葉をそのまま蛍明に伝えると、彼も照れたように小首を傾けた。
「ええんやで」
返事を聞いて杏は嬉しそうに飛び跳ねるように立ち上がり、きょろきょろと辺りを見渡す。
「じゃあ私、明日の朝になったらここに来るから!」
「えっ」
玄関の方へ駆けていく背中に慌てて声をかける。
「いてもいいんだよ!」
「だって、ふたりの邪魔しちゃ悪いでしょ!」
そう言い残して、杏は止める間もなく扉をすり抜けて外へ出ていってしまった。
「行ってもたん……?」
心配げな蛍明の声に首を横に振る。
「明日の朝に戻ってくるって」
「そうなん? おったらええのに……」
立ち上がって、さっきまで杏が座っていた場所に蛍明が腰を下ろす。
少し黙って、それから彼は不安そうに眉を下げた。
「俺、勝手に決めてもたけど、大丈夫やった……?」
「うん。多分、これが最善だと思う」
少し緊張していた体からようやく力を抜いて、日花はソファの背もたれに全身を沈めた。
「彼女の未練は、家族と一緒に旅行に行きたかったことだと思う。でもそれが、もしかしたら蛍明の言葉で、旅行を楽しんで天国へ行ってお母さんたちに話を聞かせてあげることになったかもしれない」
「そういうこともあるん?」
「うん。要は本人がこの世に未練がなくなるくらい満足できるかどうかだから」
幽霊になってしまうくらい強い強い未練を代わりの何かで埋めるなんて、そうそうできる事ではないだろう。しかし杏はまだ幼く、きっと周りの大人に影響を受けやすい。そう願おう。
彼女を助けたくて始めたこの行為が彼女を傷つけることがないよう、全力を尽くそう。早く家族に聞かせてあげたいと強く願うくらい、楽しい一日にしてあげればいい。
「うん、ま、やってみな分からんか。運転は任しとき。予定もちょっと組み直そか」
いつもの笑顔を向けてくれる蛍明を見る。
今までずっと自己中心的でそして孤独だった幽霊を助けるというこの行為に、蛍明が手を差し伸べてくれた。
その存在の、なんと頼もしいことか。
「……うん」
なぜかじわりと涙が滲んで、我慢できずに彼の胸に頭を預ける。
「蛍明、ありがとう。そばにいてくれて心強かった」
「うん」
随分ひっくり返った声が聞こえた。
少しして、おっかなびっくりという風に彼の手が日花の後頭部を撫でる。
「何かさ……色々思い出したわ。俺が幽霊ん時、日花に会った日の晩……ちょっと泣いたやん?」
「ちょっとではなかったと思うけど」
「……あの時、俺のこと慰めとった時も、お前こんな顔しとったなって思い出した」
ふふと笑う。よく覚えている。
あれ以上寂しい思いをさせたくなかった。ひとりぼっちで泣かせたくなかった。
きっと蛍明も、そんな気持ちで協力してくれているのだろう。
「あの時は、一年後にこんな風に一緒にいるだなんて想像もしなかったね」
「せやな」
日花の髪を弄っていた蛍明の手が背中に触れる。控え目だったのは最初だけだ。強く強く、体をぴたりとくっつけるように背中を引き寄せられ、それに答えるために日花は彼の背中をそっと撫でる。
「日花……」
名前を呼ばれて顔を上げる。十数センチの距離で目が合った。
声も出せずに見つめ合う。
彼の唇が少し開いたのは何か言おうとしたのか、それとも、何をしようとしたのか。
背中の手に力がこもって、さらに引き寄せられて。
そしてその時近くから聞こえた「カタ」という物音に、蛍明は踏みつけられた猫のような声を上げて後ろへ飛び退いてソファから転げ落ちた。
「あ、ああああ、杏?」
悲鳴のような蛍明の声に思わず部屋を見渡す。しかし広い部屋に彼女の姿はない。
「違う、いない。杏ちゃんは物に触れないから音を立てられないし」
ただの家鳴りか、荷物か何かが倒れた音だろう。地面にひっくり返ったまま、蛍明は「……そうやったな」とため息をついた。
尻を打ったらしい彼に手を差し出して立ち上がるのを手伝う。
「はー、焦った焦った」
笑う蛍明にどうして焦ったのか聞いてみたらもっと焦るだろうか。もちろんそんな意地悪をするつもりはなかったが、じっと見上げる日花に彼はふと笑いを引っ込めて数秒硬直して、目に見えて狼狽えて顔を赤くして、それからしどろもどろに言った。
「さぁ、明日も早いで。ジャグジーは明日のお楽しみにして、今日は早よシャワー浴びて寝よか」