16、お前には俺しかおらへんやろ?
肌を打つ音が響いて、はっと我に返る。振り払われたまま固まっている蛍明の手を見て、日花は呆然と彼の顔を見上げた。
「ご、めん……びっくりして」
硬直していた顔は、その言葉に少し強張った笑顔を作った。
「ううん、俺こそごめん。……荷物広げよか」
逃げるように踵を返してスーツケースに向かった彼を慌てて追いかける。
「蛍明、あの」
振り払ったのは嫌だったからじゃない。でもじゃあどうしてかと聞かれたら、今ここでは話せない。
真っ白な頭は上手く言葉を紡げずに、何度か唇を開いては閉じる。
「日花」
名を呼ばれ、びくりと体を震わせる。彼はスーツケースに視線を落としたままだ。
「先に風呂入っておいで。お前のほうが風呂入ったあと髪乾かしたりとか色々時間かかるやろ」
「うん、でも……」
この部屋には、海を見ながら入ることのできるジャグジーが備え付けられている。彼はそれを楽しみにしていたはずだ。
「ジャグジーはどうする?」
「うーん……俺も疲れたし、今日はさっとシャワー浴びてもう寝よ」
「あ……でも」
準備は私がするからと言おうとして、彼に近付く。その肩に触れようとしたが、手は宙を切った。
「洗面所どこかな」
立ち上がった蛍明は、日花を見もせずにふらりと部屋の奥の扉に向かった。
今、おそらく、わざと避けられた。
いや違う。避けられたのではなく、彼は触れられる事を拒絶した日花に気を使って、きっとわざと距離をとった。
洗面所の扉の向こうに蛍明の背中が消える。
ひとりきりで大きな部屋に取り残され、何だか目眩がするような気がした。どうしてこんなことになってしまったのか。
幽霊の小さな背中に視線をやる。
どうして、よりによってこんなところにいるのか。他にもたくさん部屋はあるのに、どうして。
一瞬頭に浮かんだのは苛立ちで、そしてすぐにそれを覆い隠すくらいの罪悪感に、日花は横っ面を殴られた。
今、一体何を考えたんだと顔を覆う。
幽霊は好き好んで幽霊になるわけではない。ましてや彼女は子供だ。そんな子に今、一体どんな自分勝手な感情を向けた。
すぐそばの椅子に座って、顔を覆ったまま罪悪感に押し潰されそうな体を支える。
「……日花?」
洗面所から戻ってきたらしい蛍明に名前を呼ばれたが、顔を上げることはできない。情けなくて仕方がなかった。蛍明が小走りに近付いてくる音が聞こえた。
「大丈夫か? やっぱり体調悪いんか?」
「ごめん、違う……大丈夫……」
「大丈夫に見えへん」
手を下ろして、ほんの少し顔を上げる。日花を覗き込んでいるのは、ただただ心配そうな顔だ。
黙っていれば彼は何も知らずにいられる。知らずにいる方が幸せだ。
それなのに。
助けて欲しいと、そう願ってしまった。
縋りたくて手を伸ばそうとしたが、今のふたりの距離では指先は到底届かない。
「……蛍明、海見たい」
視線をまた落として呟く。それに戸惑った返事が返ってきた。
「今から?」
「今から。プライベートビーチ、ホテル出てすぐの」
「でも、お前調子悪そうやし、もう遅いし……明日の朝にでも」
「今行きたい」
彼の声を遮って言う。
蛍明なら様子がおかしいことに気付いてくれるはずだ。少し間をおいて、それから明るい声が聞こえた。
「仕方ないなぁ。分かった、行こか」
顔を上げると、蛍明の笑顔も少し強張っていた。様子がおかしい理由にも、彼は気付いたようだった。
ふたりで部屋を出て、黙ったままエレベーターに乗って一階へ降りホテルを出る。
目の前に広がるのは宿泊客しか入ることのできない海だ。空はもうほとんど藍色だった。
入り口の近くで親子連れが遊んでいる。彼らから離れたところまで黙々と歩いて、日花は小さな岩に腰を掛け項垂れた。
「……ごめん、蛍明……」
「もしかして、おった?」
「……いた」
額を手で撫でて、もう一度「ごめん」と呟く。
「言わないほうがいいのは、分かってるの……」
「ええよ、気にすんな。お前だけ見えとんのしんどいやろ。俺別に怖いとかないし」
「……ごめんなさい」
「謝らんでええって」
蛍明が隣に腰を下ろす。
その優しい言葉と、いつもより遠いふたりの距離が辛くて仕方がない。
今誤解を解いておこう。解いておかなければならない。時間が空けば空くほどふたりの距離はさらに遠くなる。
「蛍明」
そっと手を伸ばして、彼のTシャツの袖に触れた。
「子供の幽霊がいたから……だから、あの時思わず手を振り払っちゃったの。蛍明に触られるのが嫌だったからじゃないから、だから」
袖をほんの少し引いた。
「もう少しこっちに来て」
顔を見ることができず、俯いたまま呟く。
沈黙が落ちたあと、袖を掴む手に蛍明が微かに触れた。
「うん、分かった」
返事をして、彼は人ひとり分空いていた距離を縮めた。日花も体をずらして、その汗ばんだ体にぴたりと寄り添う。
深く大きく息をつく。安堵のため息だ。誤解は無事に解けた。
これで、目下の悩みは幽霊だけになった。
「子供の幽霊がおるの?」
「うん……十歳くらいの女の子。部屋の隅で、私達のこと気にしてる様子はないけど……」
それを聞いて、蛍明の声が落ち込んだように低くなる。
「……小さい子か。聞いただけでもしんどいな」
「うん……子供の幽霊ってほとんど見たことがなくて。ずっと寂しそうにしてるから……」
見ているのが辛い。
もしかすると彼女を救ってあげられるかもしれない。その傲慢で無責任な思いが、さらに日花を苦しめる。
「どうする? お前がしたいようにしてええで。話しかけてもええし、無視してもええし」
そう言ってくれるだろうと思っていた言葉に、ぎゅっと膝を抱いた。
「でも、話しかけてもし私の手に負えるようなことじゃなかったら……」
「別の部屋に替えてもらうとか?」
「この繁盛期にこんないいホテルの部屋なんかなかなか空いてないよ。ついてくることだってあるし」
「金かかるけど、空いとる他のホテル探すって手もある。俺は寝れたらどこでもええし」
首を横に振る。それは駄目だ。これ以上蛍明にこの体質のせいで迷惑はかけられない。
「いらん心配せんでも、幽霊以外のことは俺がどうにかしたるから。お前、ほっとかれへんねやろ?」
「でも……私、誰かといる時は幽霊と関わらないって、決めて……」
「んなもん臨機応変にいけばええねん」
「……でも」
「お前らしくないデモデモダッテやなぁ。お前いっつももっとスパーン! って色々決めれるやん」
それは自分の問題の時だけだ。今は蛍明がいる。自分の行動ひとつで蛍明に影響が出る。迷惑がかかる。
自嘲もできない。一番最悪なパターンになってしまった。
幽霊を見捨てることもできず、ひとりで解決することもできず、ずるずると蛍明を巻き込んだ。最悪だ。
俯いて顔を上げられない日花に、蛍明はふうっと息を吐いた。
「俺のこと気にして決められへんねやったら、じゃあ俺が代わりに決めたるわ」
立ち上がった蛍明に腕を引かれ、無理やり立たされる。
「声かけるぞ」
そのまま歩き出した彼に腕を引かれ、為す術もなくその後ろをついて行った。
「何も成仏させたる、って声かけんでもいいやん。お前じゃどうにもならんかった時にガッカリさせてまうの嫌やろ? ここにおる間しか話されへんけど、って前置きしてさ」
入り口近くの親子連れの姿はもうなかったが、何組か夫婦かカップルが増えている。彼らに聞こえないように声を落として蛍明が続ける。
「幽霊にとって、お前の存在は救いやで。自分の姿が見える人がこの世におるっていうのはめっちゃ心強いし、お前以外にも何人も見える人がおるかもしれへんって生きる希望になるし。まあもう死んどるけど」
とんだブラックジョークだ。横顔を見上げたが、その顔は至って真剣だった。
「お前ドがつくほどのお人好しのくせに、声かけんかったら確実にいつまでも後悔するやろ。百パー後悔する。絶対や。俺の貯金全額賭けてもいい」
「……いくら?」
「結構あるで。親がお年玉貯めとってくれたやつと、死んだじいちゃんばあちゃんが俺が家出る時のために貯めとってくれたやつと、大学でバイトしとった時に貯めたやつと、一年社会人して貯めたやつ」
手を引かれたままホテルに入りエレベーターに乗り込む。階数ボタンを押して彼は日花の手を離したが、今度は日花が彼の手を取って握り締めた。体が触れそうな距離まで近付いて見上げると、蛍明はあからさまな動揺を顔いっぱいに浮かべたが、それを気にする余裕はなかった。
彼の言うとおりだ。声をかけなければ絶対に後悔する。いつまでも、何年も、心の片隅にその後悔が残るはずだ。
しかし、幽霊の少女に声をかけるのなら。
想像して、日花の脳内を支配したのは、恐怖だ。
「……私、辛かったの、蛍明と離れて」
彼が幽霊だった時の話だ。
五日間同じ部屋で過ごし、ひとりで大丈夫だと出て行く蛍明を見送った、あの時。
「蛍明はきっと成仏できるって思ってても、離れるのが辛かった。本当は生きてて意識も戻って、でもきっと私のことを思い出すことはなくて、もう二度と会えないだろうって思った時も……悲しくて仕方がなかった」
幽霊と深く関われば関わるほど、永遠の別れが辛くなる。
それを知って、あの日以来幽霊とは必要最低限の会話しかしていない。冷たい人だと言われたこともある。でもそれは身を守るためだ。
「小さな女の子と二晩一緒に過ごして感情移入して、私はきっと蛍明の時と同じことを繰り返す」
その手を強く強く握り締める。
「ひとりになるのは寂しい」
呟いたその瞬間、日花は蛍明の腕の中にいた。
「……ごめん。辛いことを無理やりさせたりせんよ。辛いならやめとこ」
ぽんぽんとあやすように背中を撫でて、蛍明は体を離して顔を覗き込む。
「俺……お前にむちゃくちゃ無理させて命助けてもらったことは棚に上げるけど……いや、宇宙ステーションの棚くらいに上げるけど……そこら辺の幽霊より、俺は生きとるお前が大事やで」
目が合って、彼は慌てたように付け足す。
「お前の家族やってそうやろ? 誰もお前が傷付くことなんか望んでへん。やから、今回は……気付かんかったことにしよか。普通に部屋戻って風呂入って寝よ。明日は早めに出て遊びに行こ」
優しい声だった。きっと日花がそれに同意したって、彼は欠片ほども責めたりしないだろう。
そうすればあの幽霊の少女はこれから何年も、もしかすると何十年もひとりきりだ。仕方ない。仕方ないと思わなければならない。自分に言い聞かせる。幽霊のために自分を犠牲にする必要なんてない。
何度も言い聞かせるたびに、体が重たくなって顔を上げられなくなった。
「……どっちにしろ、お前は辛い思いしてまうんやな」
「……ごめん」
「謝んなって。お前が悪いなんかいっこも思ってへんから」
繋いだ手を蛍明が指で擦る。くすぐったかったが、手を離したくなかった。
「俺、お前のお人好し過ぎる性格好きやけど、お前にとってはただただ難儀な性格やな……」
思わず顔を上げる。それと同時にエレベーターの扉が開いて、そちらを向いた蛍明の顔は見えなかった。
手を引かれてエレベーターを出て、部屋に帰るのかと思いきや彼はエレベーターホールの隅にあるベンチにどさりと腰を下ろした。腕を組んで考え込む蛍明の隣に、日花も浅く腰掛ける。
「じゃあさ、ひとりやなくて、誰かと一緒やったらええの?」
その言葉に、彼を見上げる。
「俺が一緒に関わるわ。それでその子が成仏するか、それとも成仏させれんくて明後日バイバイすることになるか、どっちになるか分からんけど、それが辛かったら俺が一緒に泣いたるし慰めたる。お前の気が済むまでな。それやったら耐えられる?」
驚いて彼を見つめる。
蛍明には幽霊は見えない。それなのに日花を介して幽霊と関わろうというのか。そして、その後の感情も共有しようと。
もちろん、それほど心強いものはない。しかし。
それは蛍明にも、同じ思いをさせるということだ。
日花が口を開く前に、蛍明はにんまりと笑って畳み掛けるように言う。
「こんな家から遠いとこで、頼れんのは俺だけやろ? お前には今、俺しかおらへんやろ?」
どこかで聞いた台詞だ。思い出して、目を細める。
「……それは辛くて大変なことだよ」
「お前がひとりぼっちで泣いとるよりは何億万倍もマシ」
その笑顔に、目元がじわりと熱くなった。
「……イケメンなの……?」
「せやろ!? お前もようやく気付いたか! 俺のこの隠れたイケメン力に!」
立ち上がった蛍明に手を引かれる。今度こそ部屋に帰るようだ。
「……ありがとう、蛍明」
「ええよ」
蛍明はにこりと笑って、そして辿り着いた部屋の扉にカードキーをかざした。
解錠した音が聞こえる。
唇を引き結んで前を向く。蛍明もこう言ってくれている。覚悟を決めよう。
「声かけるなら、全力でどうにかしたろか。ふたりで解決法考えたら何とかなるなる」
今まで何度も助けてくれて、どうにかしてくれた明るい声が背中を押してくれる。
日花は意を決して、部屋の扉を開いた。