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15、その頬に触りたい




「あぁ疲れた!」


 ホテルの部屋の扉を閉めてオートロックを確認して、蛍明が本当に疲れているのか疑いたくなるような元気な声で叫ぶ。

 しかしその内容には概ね同意だ。体はもうくたくただった。

 玄関ホールで室内履きに履き替えて部屋への扉を開いて、そして次の瞬間、ふたりはその疲れを一気に吹き飛ばした。


「めっちゃ広いな!」

「すごい……!」


 三十帖ほどの空間に、南国風のソファやチェスト、ドレッサーなどが品よく置いてあり、天井ではシーリングファンがゆったりと回っている。部屋の奥は天井から吊るされた天蓋に仕切られ、その下に大きなベッドがふたつ並んでいた。

 ふたりで泊まるには広すぎるくらいの豪華な部屋だった。


「蛍明、窓の外見て! 全面海だ!」


 思わずはしゃいだ声を上げて窓に駆け寄って、それからその幼稚な態度を少し恥ずかしく思ったが。


「ほんまや! すっごい! 真っ暗なる前に写真撮ろ写真!」


 日花の十倍ほどはしゃいだ蛍明にスマホを向けられ、もう気にしないことにした。

 一緒に写真を撮ってそれぞれ風景を撮って、ようやく落ち着いて少しの間ぼんやりとそれを眺める。夕日はすっかり沈んでいたが、水平線にはまだオレンジ色が残っていて明るかった。


「きれいだね」

「……きれいやな」


 視線を感じて蛍明を見る。目が合って、彼は少し狼狽えたのを誤魔化すように笑った。


「お前、ちょっと焼けたな」

「ほんとに? 気を付けてたのに」


 頬を両手で押さえる。確かにほんの少し熱いかもしれない。


「鼻のてっぺん赤いし」


 視界の端で、蛍明が手を持ち上げる。鼻に触るのだろうかと待ったが、ふらふらと宙をさまよった手はまた彼の体のそばへと戻っていった。


「荷物、玄関に置きっぱなしや」


 大きな動作で視線を外して、彼は玄関へ向かう。その姿が扉の向こうに消えて、日花は体から力を抜いた。

 急に緊張してきたような気がする。

 楽しさのあまりすっかり頭の片隅に追いやられていたが、今から明日の朝までふたりきりだ。それも今までとは違う、素面のままで。

 もう一度窓の外に目をやる。

 できれば思いを伝えるのは明日の夜にしたい。もし駄目だった時に、明日一日気まずく過ごすのは嫌だ。

 もし、駄目だった時。

 その言葉に心臓がずしりと重くなる。

 だってこの体質は、何も見えない人に負担を強いるものだ。

 蛍明を好きになり、離れたくないと強く願うようになって、ようやく理解することができた。同じく幽霊の見える母親が、見合い結婚を経て長男である兄を妊娠した辺りで幽霊に関わることを一切やめる決意をした理由を、だ。

 自分だけの問題ではなくなるからだ。

 ずっとそばにいたい人ができて、守らなければならない人が増えて、赤の他人である幽霊にかける時間がなくなってしまう。自らの身を危険に晒してまで、幽霊に関わることができなくなるのだ。

 母親と同じ決意を、日花は今はまだきっとできない。蛍明のそばにいたいという自分のために、ひとりぼっちでさまよう彼らを見捨てることは。

 そしてもうひとつ、最大の懸念は、これが遺伝する体質だという事実だ。

 もし蛍明が、日花が自分の時間や蛍明との時間を幽霊に充てることを嫌がった時。そして遺伝する体質だということを受け入れられなかった時。

 その時はもうこんな風に、ふたりで出かけることはできなくなってしまうのだろうか。

 今日一日、とても楽しかった。彼のそばはやっぱり居心地が良くて、こんなにも満たされる。

 もし駄目だった時、その全てを失ってしまうのだろうか。

 ぎゅっと唇を引き結ぶ。

 彼に何も言わずに好きだと伝えたらどうなるだろう。考える間も与えずに押し倒して、有無を言わせずにそういう関係になってしまえば。

 次々現れる負担を前にして、蛍明は日花のそばにいることを後悔するのだろうか。


「……駄目だ」


 頭を振って、日花は顔を上げる。

 こんな風に彼の気持ちをいくら想像したって、正解など出るわけがない。

 お互いの気持ちを曝け出して、話し合うしかない。うんうんと自分を納得させるように頷く。一度悩みを頭から追い出そう。

 そして、荷物を取りに行くために振り返ろうとした。

 その時だった。


「っ……!」


 日花は喉の奥で悲鳴を上げ、体を凍りつかせる。

 ベランダへ出る大きな掃出し窓の前、ちょうどソファの後ろで死角になっていた場所だ。

 そこで、女の子が膝を抱いて座っていることに、日花はその時初めて気付いた。

 数歩ふらりと後退った日花に気付かなかったらしい彼女は、ちらりとも視線を寄越さず可愛らしい顔をぼんやりと窓の外へ向けている。


「日花、ソファんとこ置いとくで」


 その声にハッと顔を上げる。

 ふたり分の荷物を持って戻ってきた蛍明が、少女の近くにどさりと荷物を下ろした。彼女はそれに驚いたように体を震わせて、怯えた顔で小さく体を縮める。蛍明はそれを気にした様子はない。やはり、見えていないようだ。

 彼女は、幽霊だ。

 蛍明を見て、しかし口を噤む。

 言えるわけがない。もしすぐに成仏させてあげられなければ、二晩一緒に過ごすことになる。

 蛍明の前ではまだ、幽霊と関わったことはない。

 人前では絶対に関わらないと決めていたし、彼は知る必要がない。

 ここに、ひとりきりで誰にも気付いてもらえない哀れな少女の幽霊がいる、そんな悲しい話を彼は知る必要なんてないのだ。

 唇を噛んで、もう一度少女の横顔を盗み見る。歳はおそらく十歳前後、小学校高学年くらいだろうか。

 その寂しそうな顔に、胸が締め付けられる。子供の幽霊に会うことはほとんどない。これまでの人生の中で片手で数えられるほどだ。なので、余計に――。


「日花?」


 名を呼ばれ、日花は体を震わせて視線を上げた。目の前に蛍明の顔があった。


「どしたん?」

「え、ううん、何でもない。荷物ありがとう」


 「うん」と返事をして離れようとした蛍明が、動きを止めてからもう一度訝しげに日花の顔を覗き込む。


「……ほんま大丈夫? なんか顔色悪い気ぃするけど……」

「何ともないよ。……まあ、はしゃぎ過ぎてちょっと疲れたのはあるけど」


 心配をかけないように、わざとおどけたように言う。蛍明は声を出して笑った。


「お前にしては珍しくめっちゃ騒いどったもんな」

「珍しかった?」

「推しがおらん時にあんなけ騒ぐんは珍しいわ」


 蛍明には何度か、一緒に参加した推しの試写会やイベントで絶叫する姿を見られている。

 でも今日はさすがに絶叫はしていない。


「推しの映画見とる時くらい楽しかった?」

「もっとずっと楽しかったよ」


 そもそも比べるものではないが、どちらかと聞かれればそうだ。


「え……じゃあ、推しの来日イベントとどっちが楽しい?」


 それは少し悩む。いや、僅差で。


「蛍明との旅行のほうが楽しい」

「……そーか」


 呟いて、蛍明はそっぽを向く。少し間があったことを怒ったのかと思ったが、その頬はほんのり赤い。顔を隠すように彼が頬を掻く。

 唐突に心臓が高鳴って、息が詰まった。その原因は愛しさだ。

 体の奥底から衝動が沸き起こる。その頬に触りたい。その熱いであろう頬に。

 大きく息を吸って、乱れそうな呼吸を意識的に整える。

 ちらりとソファの向こうの少女に視線をやる。

 それはそれは残酷なことを考えてしまった。

 ――気付かなかったことにしたら。見なかったことにしたら。ここに、幽霊の少女なんていないことにしたら、どうなるだろう。

 そんなことが自分にできるのだろうか。

 視線を蛍明に戻す。真正面から目が合って、唇が強張る。

 目が合ったからではない。彼の手がそっと頬に触れたからだ。

 少し震えた指が、つつと熱い皮膚を撫でる。ずっと、今まで触るのを躊躇っていた手が、初めて顔に触れた。

 蛍明はきっと、決死の覚悟で日花に触れた。

 がちがちに強張っていた彼の唇が、そろりと開く。


「あのさ」


 この顔を知っている。


「日花……俺」


 そしてこの言葉のあとに続くものも。

 駄目だ。

 やっぱり駄目だ。

 他人が、子供が見ている。聞いている。

 そう考えたのと同時に、日花は蛍明の手を強く振り払っていた。




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