13、一緒に行きたかった
喫茶店を出て、バイトに向かう友人と別れる。
日花はこれから蛍明と合う約束をしていた。今日は早めに仕事が終わるらしい。外で落ち合ってから彼の家に向かう。
そして、旅行が当たったことにすっかり動揺し、外食してしまったせいで食べそこねた素麺を、今日こそ食べる予定だった。
合流する前に本屋に寄る。買ったのは、推し俳優が出演している新作映画が特集されている雑誌二冊と、あとは旅行雑誌だ。
これを一緒に見ながら、どれだけ旅行を楽しみにしているか伝えよう。
もしこの想いが――幽霊が見えるというこんな特異体質が最終的に蛍明に受け入れられなかった時には、この旅行はきっといい思い出になってくれる。
「日花!」
聞き慣れた明るい声に顔を上げる。こちらに駆け寄りながらぶんぶんと手を振っているのは、蛍明だ。
笑顔を返して近付いて、日焼けした顔を見上げる。
「ごめん遅なって。暑かったやろ」
「ううん、ついさっきまでそこの本屋で涼んでたから大丈夫」
「そう、よかった」
満面の笑みを見ながら、自分が少し緊張しているのが分かる。別に今日どうこうするわけではないのにと、日花は視線を進行方向へ逃した。
「行こうか」
「おう」
十五分ほど歩いて、着いたのはもう何度も来たことのある蛍明のマンションだ。そのワンルームの片隅に、自己主張の激しい大きな箱が置いてあった。
最新式らしい流しそうめんだ。ウォータースライダーのような見た目をしている。
「すごいね、大きいのが当たったんだ」
「せやろ、二等やで」
「持って帰ってくるの大変だったでしょ」
「うん……当たったときは嬉しかったけど、帰りの新幹線でこれ抱えて真顔になったわ」
ふふと笑う。社員旅行のビンゴで当てたそうだ。
日花が素麺を茹でて具と薬味の準備をしている間、蛍明はそれを洗って組み立ててくれるらしい。部屋着に着替えた蛍明とふたり、キッチンに並んで立つ。
「ホンマにさぁ、お前とおるようになってからめっちゃクジ運ようなったんよ。今までビンゴとか当たったことなかったし、クジとかも絶対ベベやったし。お前の運吸い取ってもてないか心配やわ」
「吸い取られてたら沖縄旅行当ててないよ」
「それもそやな」
洗い終わった器具を布巾で拭きながら、蛍明は背後の座卓へ移動する。
素麺を食べながら旅行の話をしよう。食べ終わったら買った旅行雑誌を一緒に見よう。
沖縄へは家族旅行で一度行ったことがあるが、幼かったのであまり記憶はない。定番の観光地は行きたいし、せっかくだから海でも泳ぎたい。水着も買わなければ。
考えれば考えるほど楽しみになってきて、ついつい口元が緩む。頬を何度か揉んでいつもの無表情を取り戻して、何食わぬ顔で蛍明を振り返った。
「用意できたよ」
「マジか……ちょっと待ってな……これ難しい……」
パーツを両手に持ち唸る蛍明に近付く。ミニウォータースライダーこと流しそうめんの建設は半分ほど終わっているが、どことなくグラついているような気がする。
「仕事でも似たようなことしてるんじゃないの?」
「俺は設計。ていうか現場の人も全然関係ないって言うと思う」
「これ、方向があるんじゃない?」
余っているパーツをくるくると回して確認しながら呟く。裏に何か意味深な矢印もある。蛍明はそれと説明書を見比べながら「……ほんまや、お前天才やな」と呟いた。
それからはあっという間に組み終わった装置に素麺を流してみる。
ふたりではしゃぎながら流して食べていたが、結局後半は面倒くさくなって、下の方の取りそこねた素麺が貯まる場所にどっさり素麺と氷を入れてすくって食べた。一応まだその中でぐるぐる流れているので流しそうめんだ。
「胡麻ダレも美味いなぁ」
「二種類あったら飽きなくていいね」
「せやな」
「今度はちょっと辛いのも作ってみようか」
「ええな。まだ茹でてないやつ余っとるし、またやろか」
「次はこの下の部分だけでいいね」
「ほんまに」
そう笑う蛍明の顔をチラリと見る。
彼はいつも通りよく食べるしにこにこ笑っている。でも何か違和感がある。どこか、元気がない。
仕事がなかなか忙しいと言っていたし、疲れているのかもしれない。余り長居はしないようにしなければ。
ちらりと時計を見て、それから蛍明に視線を戻すと目が合った。
「なあ……日花」
聞こえてきたのは、今日一番元気のない声だった。
「沖縄旅行の話やけど」
心臓がびくっと跳ねて、それを悟られないよう何でもないふりをして小首を傾げる。
対して蛍明は、少し気まずそうに視線を下げた。
「行く日付、元々すごい選択肢少ないやん? そのどれも仕事忙しい日ばっかりでさ。俺、三日連続して休み取れそうにないねん」
彼が何を言おうとしているのか想像できてしまって目を見開く。俯いている蛍明はそれに気付かない。
「やから、旅行券お前にやるから、友達とかと行っておいで」
持ち上げたそうめんが箸からするりと器に落ちた。何も言えなくなって、ちらりと顔を上げた蛍明がこの顔を見て狼狽える。
突き放されたような気分だった。楽しみにしていた分、その落差が酷い。
「……どうしても、休み取れない……?」
箸を置いて、膝の上でぎゅっと両手を握る。
「私、蛍明と一緒に行きたかった」
呟いて、すぐに我に返る。額を押さえて頭を振った。何を言っているんだと自分に呆れる。
「ごめん、仕事なら仕方ないね。わがまま言った」
もう一度箸を持ち上げて、めんつゆに浸かった残り少ない素麺を見つめる。
「元々は蛍明の抽選券だし、蛍明が誰か、ご両親にプレゼントしたらいいよ。きっと喜んで」
「いや。やっぱり、何とかして休み取る」
その言葉に驚いて顔を上げる。蛍明は唇を引き結んで、じっと日花を見つめた。
「一緒に行こ」
もちろん、一緒に行けるのなら嬉しい、が。
「無理してない?」
「大丈夫」
「絶対無理してる。蛍明、私のわがままに付き合わなくていいから。お願いだから、無理しないで」
「お前のわがままに付き合っとるんちゃう。俺がお前と行きたいねん」
流し素麺のスイッチを蛍明が切る。モーター音が消えて、テレビも付いていない部屋に静寂が落ちた。そのおかげで、横を向いてぼそぼそと呟く蛍明の声も何とか聞き取ることができた。
「俺やって、お前と行きたかってん……お前がそんなん言ってくれるんやったら、どうやったって一緒に行きたくなるに決まっとるやん」
ぎゅっと、心臓が縮んだのが分かった。おそらく今のはときめきだ。何も言えずにその横顔を見つめる。
今日、今、旅行に行く前にふたりの関係をはっきりとさせたらどうなるだろう。
想いを伝えて、話し合って、上手くいったら――。
「日花」
名を呼ぶ声に、いつの間にか下がっていた視線を上げた。
蛍明は見たことがないような真面目な顔で日花を見つめている。強く引き結んでいた唇を緩めて、そして少し震わせながら開いて。
「日花、俺」
心臓が強く跳ねて、一瞬時が止まったようだった。
スカートをぎゅっと握り締めて言葉の続きを待ったのに、「俺」のあとに続いたのは、蛍明の声ではなく彼のスマートフォンの着信音だった。少し離れた地面に置いてあるそれを、蛍明がスライディングして鷲掴み、叫ぶ。
「誰やアホォ!! 空気読めやボケェ!!」
そしてディスプレイを見て一気に脱力したようだった。一度地面に顔を伏せて、それから力なく日花を見上げた。
「ごめん、会社から……ちょっと出るわ……」
「うん」
彼が耳にスマートフォンをあて、日花はようやく強張っていた体から力を抜いた。
あの雰囲気に、あの蛍明の表情。俺、のあとに続く言葉を想像できないほど鈍感ではない。
ホッとしたような、いや、やっぱり残念だった。いやでもやっぱり、怖い。
「……はい……はい、……えっ、それ不味くないですか?」
電話の向こうから大声で謝り倒す声が日花にも聞こえる。あまりいい内容の電話ではないようだ。眉間に深いしわを寄せた蛍明は、仕事用の手帳を引っ張り出してきて長い間問題の解決策を話し合っていたようだが、あまりいい案は出ないようだ。
日花は残っていた素麺をそれぞれの皿に分け切って、小さなウォータースライダーは解体して洗ってから、静かに電話が終わるのを待つ。
がしがしと頭を掻いた蛍明が、ふと日花の顔を見る。目が合って、そして何を思いついたのか彼はニヤッと笑ってみせた。また視線を手帳に戻す。
「分かりました。じゃあそれ、手伝わせてもらいます。……その代わり、お願いがあるんですよ。俺、沖縄旅行が当たったって言ってたじゃないですか? それ来月の上旬予定なんで、その辺りで三日間休みとるの協力してもらえませんか?」
返事はよく聞こえなかったが、蛍明の表情から同意するような返事をもらえたらしい。短くやり取りをしてから、蛍明は電話を切って深く息をついた。
「ごめん日花、今から仕事」
「今から?」
さらに忙しくなるのだろうと予想していたが、さすがに今からだとは思わなかった。
「先輩がどえらいミスして、徹夜でその尻拭い。その代わりに旅行の休みとるの協力してくれるらしいから」
残りの素麺を一気にすすって、蛍明は「ご馳走さま」と両手を合わせて立ち上がった。
「お前送っていってからそのまま会社戻るわ」
送っていくという言葉に迷ったが、日花のマンションへはそれほど反れずに行けるはずだ。素直に甘えることにした。断ってもきっと聞かないだろう。
「分かった。片付けておくから、その間に準備して」
「ありがと、頼むわ」
着替えを持った蛍明を浴室に見送り、手早く片付けを始める。
もう彼はあの言葉の続きを言うつもりはないらしい。やはり気持ちを伝え合うのは、旅行に持ち越しかもしれない。
リゾート地の雰囲気にやられて口が軽くなるだろう。その後の話し合い、本当にこんな体質の女と付き合えるのかという話は、きちんと雰囲気に流されないようにしなければ。
洗い終わった皿を水切りかごに入れて振り返る。泊まりの荷物を詰め込んだ鞄を蛍明が持ち上げたのは同時だった。
「行こうか」
「オッケー、行こか」
彼の仕事の愚痴を聞きながら部屋を出て、近くのバス停へと向かう。
蛍明のマンションから日花のマンションまではバスで数駅だ。一度ふたりで下りて、それから彼は駅に向かうバスに乗り換える。
「送ってくれてありがとう」
「いや。ごめんな、慌ただしくて」
首を横に振る。その拍子に鞄の中で本屋のビニール袋がカサリと鳴って、ようやくその存在を思い出した。
「そうだ、蛍明」
ビニール袋から本を取り出す。しかしそれは旅行雑誌ではなく映画の情報誌で、表紙を飾る海外俳優に日花が熱狂していることを知っている蛍明は目を細めてみせた。
「違う、これじゃない」
改めてもう一冊取り出すが、それも同じ俳優のイケメン過ぎるドアップだ。
「はー……ヤバ……イケメンすぎ……」
「なんやねん、お前の好きなイケメンばっかりやん」
ぶうたれた声色に我に返った。いそいそとそれを鞄にしまい、最後の一冊を取り出し、「これ!」と蛍明の眼前に突き出す。
「これ、買ったの。また一緒に見よう」
自分ばかり旅行にはしゃいでいるようで気恥ずかしくて、何となく雑誌に顔を半分隠す。
「旅行楽しみにしてる。でも、無理はしないでね」
ぱちぱちと真ん丸の目を何度か瞬いて、それから蛍明は満面の笑みを浮かべた。
いつも触れそうで触れない手が、今日は一瞬だけ日花の頭に触れてすぐに離れた。
「うん、分かった」
彼の背後にバスが停まる。いつも数分遅れてくるバスが、今日に限って時間通りに来たことが少し恨めしい。
「また連絡するわ。行きたい所目星つけといて」
「分かった。気を付けてね」
「うん。またな」
「また」
手を振ってバスに乗り込んだ蛍明は、日花が見える場所に座る。
窓の向こうで手を振る彼に振り返して、出発したバスが曲がって見えなくなるまで、日花は雑誌を胸に抱き締めたまま彼を見送った。