10、私がついてるから
すぐに辿り着いたのは大きな川だった。
蛍明が以前住んでいた家からも続いている、蓮見川だ。川幅は十数メートル、もしかしたらそれ以上あって、これなら蛍明が大きい川と言ったのも頷ける。
欄干に駆け寄り、川岸を見やる。
蛍明があの住所を訪れそれから何の手がかりも得られていなかったとしたら。
彼は記憶にある大きな川を探すために、川沿いを下流に向かって移動してきているのではないか。日花はそう予想していた。
歩けば恐らく四、五時間かかる。寝ずに移動していたらもう着いているだろうし、途中で休憩したり寝たりしたのならまだ歩いているかもしれない。
彼はとにかくよく寝ていた。昼寝もよくしていたくらいに。寝ずに移動するよりも、どこかで眠ってから移動しはじめた可能性が高い。
とにかく、今思いつくのはここくらいしかない。新しい住所を思い出していたって、この川沿いにいる可能性は充分ある。少し歩いてみて見つからなければ、次にどうすればいいかを考えよう。
見渡してみたが川岸に人影はない。ここは草が多くて腰をかけられそうな場所もない。遠くの方まで見える下流も同じだ。
日花は上流に向かって歩き出す。少し歩いたところで、整備された川岸とそこに降りる階段が見えた。ちょっとした散歩道になっているようだ。
その散歩道を、対岸も見ながら蛍明の姿を探して歩く。
早歩きで歩いて、息が切れ始めた頃だ。もう高校は見えなくなって、ずいぶん遠くまで来たことを知る。
じわりと滲んだ涙を拭う。泣くにはまだ早い。
諦めるには、まだ早い。
もう少し歩いてみようと「よし」と自分を奮い立たせるために声を出して顔を上げた時だった。
こちら側の岸に、今まで背の高い草で見えなかった黒い人影が見えた。
ぼんやりとしていた黒い影は、近付くにつれ形を鮮明にする。
川岸に腰を掛け、川を眺めているその横顔は。
「け、い……」
間違いない。間違いない。
周りを確認する余裕なんてなかった。
「蛍明!!」
悲鳴のような声に、蛍明は驚いたように顔を上げ振り向く。彼は立ち上がって、そして目も口もぽかんと開いたまま体を固まらせたようだった。
その体に駆け寄る。
ようやく、ようやく会えた。
「日花……おま、お前、嘘やろ、何でここに……」
「いいから来て!」
そう言って彼の腕を引こうとするが、それはするりとすり抜ける。忌々しく自分の手を見つめてから、しがみつくように蛍明を見上げた。
「分かったの、あなたの体の居場所が!」
大きく息を呑む音が聞こえた。
「蛍明、あなたの体、まだ死んでないかもしれない……!」
その言葉に、彼は初めて会った時と同じように目玉が落ちそうなほど目を真ん丸に見開いた。
「……どういうことや」
「とにかく歩きながら」
ひとりで歩き出した日花に、蛍明が小走りで追い付く。
「ちょっと待って、一晩中川のそば歩いてきて、もうくたくたやねん」
「這ってでもついて来て」
くたくたはお互い様だ。早く行かなければ。本当に死んでしまう前に。
蛍明はぜいぜいと肩で息をする日花を見下ろして、黙ったまま隣に並んだ。階段を駆け上って、息を整える間もなく歩き出す。
「蛍明、さっき」
「待て日花。お前ひとりでペチャクチャ喋っとったら不審者やと思われんぞ」
辺りを見渡す。今のところは人はいないが、もうすぐ大通りに出る。
「……電話してるふりをしておく」
スマートフォンを耳に当てる。これで怪しまれたりはしないだろう。蛍明の顔は見ずに俯いたまま話し出す。
「さっき、あなたの妹さんに会ったの」
一瞬彼の息が詰まったのが分かった。
「……な、んで」
「あなたが最初に目指した家、他の人が住んでいたでしょう? そこの隣に住んでる人に聞いたの。蛍明の小学生の時の友達だって言ったら、この街に引っ越したって教えてくれて」
ちらりと見上げると、彼の眉間に盛大にしわが寄っているのが見えた。構わず続ける。
「この街で、あなたが言ってた高校と果樹園と大きな川がある場所、その近くにあなたの今住んでいる家があるはずだって探してたら、偶然妹さんに会った」
「そんな……そんな奇跡みたいなことあるんか?」
「蛍明が言ったんでしょ。いいことしたからいいことが起きるよって」
大通りに出てようやく立ち止まり、車道を見渡す。
「思い出せる? あなたは仕事中に落下してきたものが頭に当たって大怪我をした」
「仕事中……?」
蛍明は呟いて、自分の足元に視線を落とす。長い間そうしていて、それから頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「せや……仕事、現場で研修するって……ヘルメットもないんかいって同期と話しとって、危ないって声が聞こえて、……そっから記憶がない」
どうやら思い出したようだ。しかし彼の姿が消える気配はない。
それはやはり、体が生きているからだ。
「妹さんが教えてくれたの」
そう言ってメモを差し出す。
そこに書いてあるのは、病院の名前と、そして「505」という数字。
「五〇五号室、死んだのなら病室にいるはずがない。あなたの体はまだ生きてる」
ようやく見つけたタクシーに手を上げる。乗り込んで、反対側のドアをすり抜けて蛍明が乗り込んだのを確認して、病院名を告げた。
胸を押さえ、荒れた息を整える。
実際は十分ほどの距離だったが、会話もなくじっとしているせいなのか時間がすぎるのが恐ろしいほど遅い。
蝶子が友人に言っていた「補習に行っていたけれど親に病院に呼び出された」「まだどうなるか分からない」という言葉。聞いた時は何のことだか想像もしなかった。
病院には蛍明がいる。そして、補習を中断させてまで家族を病院に呼び出すということは。
あの川岸まで辿り着いていた蛍明は、どれほど時間がかかるかは分からないが、周辺を歩き回れば自宅を見つけることができただろう。家の中で家族の話を聞けば記憶を取り戻せたかもしれない。
でももしかしたら、そこに辿り着くまで彼の体はもたなかったかもしれない。
支払いをしてタクシーを飛び降りて病院に向かう。
「なあお前、何でこんな無茶したんや」
病院のロビーを横切りながら、ようやく頭が回るようになったらしい蛍明が低い声で言う。患者が多いので答えない。
エレベーターに乗り込み、二階で同乗していた人が降りる。ようやくふたりきりになって蛍明の顔を見上げた。彼は険しい顔のまま同じ言葉を繰り返す。
「何でこんな無茶したんや。実際に会ったこともない男のこと嘘ついてまで探し回って、下手したらどうなっとったか分からへんぞ」
分かっている。自分でも無茶をしたなと、思い出すだけで足が震える。でも。
「だって」
蛍明に向かって手を伸ばす。触れられない胸に手を添わせる。
「だって、ひとりにしたくなかった。助けたかったの、蛍明」
寂しい思いをさせたくなかった。
泣かせたくなかった。
そして、もう一度会いたかった。
滲む視界の中で、蛍明が日花の手に触れようとする。もちろん触れ合うことも、お互いの温度を感じることもない。
「……なんで」
その手が日花を抱きしめるように背中に回される。目前に迫った体は、思っていたよりもずっと大きい。
「なんで、触られへんのやろ……」
首筋にうずめられている頭に頬を擦り付ける。
背中に手を回し、引き寄せられない体に縋り付く。
彼のためにここまでしたことに後悔はない。
蛍明は息を吸って、それから吐息と共に囁いた。
「ああ……匂い嗅ぎたい……」
「……私のトキメキ返してよ」
やっぱり蛍明は蛍明だ。
少し安心して、彼を置いたまま開いた扉からエレベーターを出た。目の前のナースステーションにはふたりの看護師がいて、とても忙しそうにしている。
「すみません。桐原蛍明さんに面会できますか?」
看護師は日花の顔をチラリとだけ確認して、視線を手元に落としてから面会簿を差し出した。
「こちらにご記入ください」
「はい」
無事に面会簿を渡され安堵する。あまりにも容態がひどいのなら、面会できないかもしれないと思っていたからだ。
面会簿に名前と生年月日、職業学校欄には大学の名前を書いていく。
「そんなんバカ正直に全部記入せんでもええやろ」
手元を覗き込んでいる蛍明の言葉にそれもそうかと住所は空欄にして看護師に差し出すと、彼女は確認すらせずに「五〇五号室です。三十分以上の面会はご遠慮ください」と言った。
「分かりました」
軽く頭を下げて病室へ向かう。蛍明はそのすぐ横を歩いていた。
「なあ」
チラリと見上げてそれを返事にする。
「俺、体に会ったら……ちゃんと戻れんのかな」
それは分からない。日花にも初めての経験だった。
蛍明が立ち止まる。それを振り返った。
「……ちょっと怖いな」
まぶたを伏せたその顔は、いつかも見た顔だ。ベッドのそばで怖いと俯いていた、あの時の。
「もし戻れんかったら、俺、このまま消えるんかな」
あの時は何も言えなかった。死んだ人は生き返らないからだ。
でも今は違う。彼はまだ生きている。
「大丈夫だよ」
視線を上げ、蛍明が日花を見る。
にこりと笑って、手を差し出した。
「私がついてるから、大丈夫」
蛍明が目を大きくする。それから「何それ、勝利の女神様かよ」と噴き出して笑った。
繋げない代わりにハイタッチするように手を合わせて再びふたりで歩き出す。
「何でそんなに頼もしいん。マジで惚れるねんけど」
「ここだね」
「……お前、あとで覚えとれよ」
「いくよ」
ノックをして、扉を開く。個室のようだ。
誰かいるだろうと思っていたが、人影はない。
日当たりのいい窓辺の、ベッドを半分隠しているカーテンを引く。
そこに横たわっているのは、蛍明だった。
様々な機械に囲まれ酸素吸入のマスクをつけて、彼は微かに腹を上下させていた。
表示されている心拍も血圧も弱々しい。でも彼は生きている。
こんなことがあるのか。彼は幽霊ではなかった。
「幽霊じゃなかったんだね。何だろう、幽体離脱とか、生霊とか? だから見た目が変わらなかったのかな。幽霊とは別物なのかな」
呟いた言葉に返事はない。
隣を見上げると、そこにはもう、蛍明はいなかった。
彼のことだ。カーテンの後ろに隠れて驚かせようとしているんじゃないかと勘ぐったが、カーテンを引いてもベッドの下を覗き込んでも、もう蛍明の姿はどこにもなかった。
「……ほらやっぱり、ちゃんと戻れたでしょう?」
ひとりごちて、その顔を覗き込む。
返事をするようにそのまぶたが震えた。
ゆっくりと、蛍明の目が開く。少しの間ぼんやりと天井を見上げていた瞳が、左右に動いて日花の姿を捉えた。
唇が微かに動くが聞き取れない。首を傾げると、さっきよりももう少し大きく口が開いた。
「……だ……れ?」
掠れてほとんど音になっていない声に、日花は目を丸くする。
「覚えて……ないの……?」
唇を震わせて、ベッドに手をつく。名前を言おうと開いた唇をぎゅっと噛んで、そしてすぐににこりと笑いかけた。
辛かった記憶なんて、なくなってしまったほうがいい。
「ただの通りすがりの、お人好し」
彼はまた何か言ったようだが、聞き返さずにナースコールに手を伸ばす。すぐに『どうされました?』と返事が聞こえた。
「桐原さんが目を覚ましました」
『……すぐに行きます!』
通話が切れて、パタパタと廊下を小走りする音が聞こえた。邪魔にならないようにベッドの足元に下がる。
ノックと同時に、さっきまでナースステーションにいた看護師がふたり入ってくる。ベッドの横に張り付いて蛍明に何か話しかけていたが、彼はそれに辿々しいが受け答えできているようだ。
「ご家族は……お母さん来てるはずやね。どこか行くって言うてた?」
「いや、聞いてない」
「トイレかな。私探してくるわ」
そう言って看護師がひとり出ていった。それを見送って、日花はもうひとりの看護師を見る。
「外で待ってます」
「はい、ナースステーションの前にソファがありますから」
「分かりました、ありがとうございます」
最後にもう一度蛍明を見る。
酸素マスクでその視線がどこにあるのかは分からないが、顔は日花の方へ傾いている。見えているかどうか分からないが、手を振った。
そして病室を出て、廊下を歩き出す。
「蛍! 蛍!!」
背後から悲鳴のような声が聞こえて、振り返ると女性がひとり蛍明の病室に飛び込んでいくのが見えた。大声で泣く声と、「よかった、よかった」と繰り返す声が聞こえる。そのあとに続いてさっきの看護師が病室に入り、中途半端に開いていた扉が閉まって、その声が小さくなった。
背中を向けて、空っぽのナースステーションに近付いた。受け付けに置きっぱなしになっている面会簿の一番上をさり気なく取って、自分の名前を確認してからクシャクシャに丸めてポケットに突っ込んだ。
小さな待合室を通り過ぎてエレベーターに乗り、病院を出て、立ち尽くす。
これでいいんだ。
いつもと同じ、いいことをした充足感と物悲しさ。
いや、今回は物悲しさではなく寂しさだ。この喪失感は、彼が成仏ではなく体に戻れたって消えるものではなかったらしい。
ただただ、蛍明がそばからいなくなったことが、悲しくてそして寂しかった。
首を振って涙を振り落とす。
彼の意識は戻った。怪我がどれほどなのか、どの程度まで体を回復させられるのか分らないが、まあ蛍明なら何とかやるだろう。
そして日花も、休みの間に全てを解決することができた。あとは今日中に東京に帰り、日常に戻るだけだ。
終わった。もう何も心配しなくていい。
いいことをしたのだから、また何かいいことがあるかもしれない。
「……美味しいもの買って、兄さんに謝りに行こう」
あと、友人にも連絡してみよう。明日予定が空いているなら、約束していた店に行くのもいい。ようやく約束が果たせる。
日花は顔を上げる。
そしてバス停に向かって歩き出した。