1、東京怖い
「俺が、見えるのか?」
気怠い月曜日の、午後三時。
大学前で友人と別れ帰路についた日花に、ひとりの男がそう話しかけてきた。
辺りを見渡す。人はいない。
「見えますよ」
男に向かってそう返事をする。
昭和のドラマに出てきそうな渋い男前は、その返事に感極まったように唇を震わせた。
「ようやく……ようやくだ……」
祈るように握り合わせた両手を額に押し当てて男はそう呟く。それから顔を上げ、鬼気迫った様子で一歩日花に迫った。
「……頼みが、あるんだ」
「内容を聞いて、私にできそうなことでしたらお手伝いします」
日花にとってはもう何度も口にしている言葉だったが、彼にとってはその返事は意外なものだったらしい。
狼狽えたような顔をした男は、拳をぎゅっと握り、縋るように日花を見つめた。
「手紙を代筆して、届けて欲しい」
「どこへ届けるんですか?」
男が答えたのは、ここからバスで一時間もかからずに行ける場所だった。
腕時計を見る。行って帰ってきても、明日には影響はないだろう。ちょうど封筒と便箋も持っている。
「いいですよ」
「……本当にか?」
「はい、お手伝いします」
希望通りになっただろうに、どこか呆然と彼は立ちすくむ。
何年、何十年と頼みを聞いてくれる人を待っていたのだろう。ある日突然現れてあっさり頼みごとを引き受けた日花を前にして、拍子抜けしてしまう気持ちはよく分かる。
「どこかに座りましょう」と声をかけ、ふたりで近くの公園のベンチに座った。
ゆっくりと、ぽつりぽつり呟かれる彼の言葉を便箋に書き写す。
それは来月には帰るということ、土産に買ったもの、長い間待たせてすまなかったという謝罪と、帰ったら結婚しようという内容だった。
愛の告白を記したその手紙にシンプルな白い縦封筒はなんとも味気なかったが、言われた通りに宛名に女性の名前を記す。
封筒に封をしながら、日花は隣の男を見上げた。
「それじゃあ、行きま」
「あ! やっぱり日花だ!」
遠くから名を呼ばれ、言葉を切って顔を上げる。公園の入り口から笑顔で手を振って歩いてくるのは、先ほど別れた友人とは別の友人だった。
「こんな所でひとりで何してるの?」
「手紙書いてた」
手に持っていた封筒を持ち上げて見せる。友人は「何でこんなところで」と笑った。
「すぐに出さないといけないの」
「そっか。じゃあ出しに行った後、どこか寄ろうよ」
「ごめん。頼まれごとしてて、今からバスで行かないと」
友人が唇を尖らせる。
「日花はいつも忙しいなぁ」
「ごめんね」
「いいよ。今度暇な時教えてよ。そうそう! 前に一緒に雑誌で見たパンケーキのお店、この近くにできたって知ってる?」
「え、知らない」
「絶対並ぶけどさ、一緒に行こうよ」
「分かった。時間ができたら連絡する」
「楽しみにしてるからね!」
手を振って彼女を見送る。道路の向こうにその姿が消えたのを見届けてから、隣に座る男を見上げた。
「お待たせしました。行きましょう」
「……すまないな」
「構いません」
先に彼の頼みを聞くと約束をしたのだから、気にすることはない。
公園の前の停留所に着くと、いいタイミングでバスがやってきた。洗車したばかりなのかピカピカの車体に、日花の姿がぼんやり映る。しかしすぐ隣に立つ男の姿は映らない。
それは彼が、体が死んだ後に残った魂だけの存在、いわゆる幽霊だからだ。
乗客のほとんどいないバスに乗り、ふたりで一番後ろの席に少し離れて座る。長旅になる。鞄から小説を取り出したが、しおりが挟んであるページを開く前に男が話しかけてきた。
「随分と落ち着いているんだな。……俺が怖くないのか?」
ちらりと視線をやると、彼は窓枠に肘をついて外を見たままだ。
日花は手に持っていた本を膝の上に置き、下を見たまま答えた。
「怖くありませんよ。すごくイケメンだし」
「イケ……?」
「とても男前です」
少しの間があって、返ってきたのは訝しむ声だ。
「生前は一度も男前だなんて言われたことはなかったな」
口元だけで笑って見せる。
「私が見ているあなたの外見と、あなたの生前の姿は別のものですよ」
「……それはなぜ?」
ううんと唸る。
「受け売りなんですけど……幽霊って実体のない不確かなものだから、見る人によって姿かたちが変わってくるんじゃないかって。だから見る人が想像する姿、望む姿で見えるんじゃないかって思ってます」
「それで君には、男前に見えると」
「そうしたら、怖くないでしょう?」
そう言うと沈黙が落ちて、男を見るとやはり彼は仏頂面をしていた。
確かに自分の見た目を勝手に変えられるのはそういい気分のものではないだろう。しかしこれには深い訳がある。
「私、物心ついたころからずっと幽霊が見えていたんです」
昔話を始めると、彼は背もたれに体を深く預け――実際には幽霊は僅かに浮いているのでそう見える格好をして、顔を少しこちらに傾けて話を聞く体勢になった。
「それが普通じゃないって知ったのは、小学生になってからでした」
人の形をしているのに人でないものが皆には見えていないことや、そしてそれが恐ろしいことだと知ったのもその時だ。
「ずっと彼らは、まるで風景のように私の近くにいて、私にとってはそれが当たり前でした。だから怖いだなんて思ったこともなかった。でもそれが普通の人には見えないものだと知って、ある日突然恐ろしいものに見え始めたんです」
怯えた顔を向けることで日花には姿を見ることができるのだと気付いた幽霊が、血を流し、目玉や歯をポロポロと落としながら近付いてきて尋ねるのだ。
「俺が」「私が」「見えるのか?」
怯えて外に出られなくなった日花に、父親や兄達は学校で虐められているのではないかと考えたようだが、母親だけは違った。
「怖くて部屋からも出れなくなって、でも母親だけはその理由に気付いたんです。母親にも、幽霊が見えていたから」
布団にくるまる日花を抱き締めて、彼女は初めて日花に自身の秘密を打ち明けた。
お母さんもおばけが見えるのよ、と。
「人間の脳は単純だから、怖いと思ったら怖いし、可愛いと思ったら可愛いし、男前だと思ったら男前に見えるんだって、母親は言いました」
母親と同じ位置に幽霊が見えているのに、日花にはそれが血まみれの生首を腕に抱いた幽霊に、母親には当時ブレイクしていた女性アイドル似のそれはもう可愛い幽霊に見えていた。
「だから、私が幽霊は怖いものだと思い続けていたら、一生怖いものにしか見えないんです。そんな生活は耐えられないと、幽霊を怖くないものにするための特訓の日々が始まりました。最初は母親が隠し持っていた秘蔵のイケメンアイドルDVDを見て」
「デーブイ……?」
「実際にコンサートにも行ったりして」
「コン……」
毎日毎日アイドル漬けだ。その時初めて、母親が隠れアイドルオタクだと知った。
幽霊がこんなにカッコよかったら、可愛かったらいいのになと思い込みなさいという洗脳に近い特訓が功を奏して、少しずつ恐ろしい外見をした幽霊は減っていき、日花は立派なアイドル好きとして日常生活へと戻っていった。
時が経ち、いつの間にか母親は二次元のアイドルグループに、日花は海外俳優に興味をシフトし、お互いの健闘を祈りつつ別々の道を歩んでいたが、母親のこの特訓がなければ日花はいまだに普通に生活することもできていなかったかもしれない。
「そうやって私は幽霊は美男美女だって思い込んで、実際にそう見えるようになって、だから今もあなたとこうやって普通にお喋りができるんです」
「……よく分からない言葉もあったが、つまり幽霊が見目麗しい男女に見えるおかげで、今の君の世界は平和なんだな」
「そういうことです」
「納得した」
この世に未練を残し苦しみ続ける幽霊を美男美女に仕立て上げ、眺めて楽しんでいるわけではないと分かってもらえたらしい。
彼がまた窓の外を見たので、日花も膝の上の本に視線を落とした。
本を読んでいるとあっという間に終点の目的地だ。運賃を支払って外に出て、去っていくバスを見てから幽霊を見上げた。
「住所は分かりますか?」
「こっちだ」
そう言って歩き出した幽霊の後を追う。少し歩いてたどり着いたのは寂れた大きな墓場で、ああと納得する。その中に、全く手入れされていない大きな慰霊碑があった。彼はその前で立ち止まって、もう読めない名前の窪みを指で撫でる。
「この人だ。……先に死んだのは俺なのに、ひとりでさっさと、行ってしまって」
そう言って彼は喉を詰まらせる。
日花は黙ってしゃがんで、慰霊碑の周りに生えている草を抜き始めた。
「……そこまでしてもらわなくてもいい」
「全部は無理だけど、前面くらいはしますよ。せっかくここまで来たんですから」
幸い前日までの雨で草は抜きやすい。
「……手伝えんのが、もどかしいな」
「だったら、お話を聞かせてもらえませんか? 私の話もしましたし」
顔を上げずにそうお願いする。幽霊がたじろいだのが気配で分かった。
何の話と言わなくても、彼は分かってくれたのだろう。少し悩んだようだが、結局彼は控えめな声で語り始める。
「彼女は……家が決めた許嫁で、幼馴染だ。なんだ、まあ……想い合っていたよ。俺は体があまり強くなく兵役は逃れたんだが、代わりに国から仕事を充てがわれて、家と彼女と離れて暮らしていた」
許嫁、兵役。彼はとても昔からいる幽霊のようだ。
指先が痛む。雑草で手を切ったかも知れない。話の邪魔をしないように黙々と草を抜き続ける。
「ようやくその仕事が終わって、もうじき帰れるというところだった。嬉しくて、親兄弟よりも先に彼女へ手紙を書いて、それを投函しに行く道すがらだ。何度も起こしていた発作を起こして倒れて、病院へ運ばれて。結局生きて病院を出ることは叶わなかった」
彼は日花の隣に腰を下ろす。
「気付いたら発作を起こした時に落とした手紙のそばにいた。誰にも気付いてもらえず手紙は朽ちて土に帰ったというのに、俺はいつまでもそのままだ。ようやくそこを離れて故郷に帰る決心をつけたが、たどり着いたそこにはもう村はなかった。その時初めて、空襲で村が焼け野原になったと知ったんだ。家族も、彼女も生きていないと分かって、それなのに俺は……いつまでも……」
何度も大きく深呼吸し、彼は息を詰めた。大声で泣いてしまえばいいのに、男の人は大変だ。
「しかし、ようやくだ。ようやく今日、会いに行ける。ようやく、会える……」
草引きは一段落ついた。彼の顔を見ないように振り返る。
「お水を汲んできますね」
墓場の入り口近くに備え付けられている桶と柄杓を借りて水を汲む。頭上はもうほとんど緑になっている桜だ。あぜ道にはたんぽぽが咲き乱れている。ないよりはマシだろうと、たんぽぽを花束になるまで摘んた。
慰霊碑に戻ると、幽霊はもう何でもないという顔で立っていて日花を振り返った。
日花の持つたんぽぽに視線をやるので、持ち上げてみせる。
「すぐそこに生えていたものですけど」
「充分だよ。ありがとう」
呟いて、幽霊はまだ少し赤い目を細めた。
汲んできた水をかけて慰霊碑の汚れを落として、竹でできた花瓶に水を入れてたんぽぽを生ける。そして鞄から手紙を取り出した。
男がぽつりと問う。
「……君はなぜ俺に協力してくれたんだ?」
「ただの人助けです」
「君には何の得もないんだろう?」
「ありません」
むしろ、今回は数百円とはいえバス代で赤字だ。
「なぜ、そこまでするんだ?」
「人助けをしたら、あとで自分にもいいことが返ってくるって言うじゃないですか」
完全な善意ではない。見返りを求める心も混じっている。この行為を偽善だと言われたら反論もできないだろう。
「……君は、自分を偽善者に仕立て上げたいようだが」
一瞬心を読まれたのかとぎくりとして、封筒を握り締めたまま彼を見上げる。
「君は優しい人だ。……お人好しとも言うかな」
あまり褒める時には使われない言葉に、日花はふふと笑ってそれを返事にした。
「ひとりで帰れるか?」
「大丈夫ですよ。今は便利なものがいっぱいある時代ですから」
そう言ってポケットからスマートフォンを取り出す。幽霊は少し首を傾げて、それから何度か頷いて笑った。
「気をつけて帰ってくれ。心優しい君にこれから幸運があるように。本当に、ありがとう」
にこりと笑い返して、慰霊碑の前にしゃがむ。手紙を供え手を合わせて、どうかふたりが天国かどこかで出会えますようにと念じる。
顔を上げて隣を見ると、そこにはもう、誰もいなかった。
桶と柄杓と引いた草を片付けてバス停へ向かう。それほど多くないバスがちょうど向こうからやってくるところだった。運がいい。バスの時間が合わなければ、同じ街に住む兄に迎えに来てもらおうと思っていたが、助かった。
バスの窓枠に肘をついて夕暮れの空を見る。いいことをした充足感と、物悲しさがごちゃまぜだ。
幽霊の成仏を手伝ったあとは、いつもこんな気分にさせられる。
本を読む気になれずぼんやりしていたせいで、いつの間にかウトウトとしてしまったようだ。車内放送の「終点です」という言葉に、日花はハッと顔を上げる。慌てて膝の上の本を鞄にしまった。
降りようと立ち上がって、その時初めてすぐ近くにスーツ姿の若い男が座っていることに気付いた。その男が立ち上がり、バスを降りようとする。通路で鉢合わせて目が合って、日花は先にどうぞと手のひらで通路を指した。
それを見て、男は目玉が落ちそうなほど目を丸くする。
そしてわなわなと唇を震わせて言った。
「姉ちゃん……俺が見えとんの?」
「……え?」
この辺りでは聞き慣れない関西弁だが、その内容はよく聞くものだ。と言うことは。
男を上から下まで見つめる。そしてその顔を見つめて、日花は呟いた。
「あれ、何でイケメンじゃないの……?」
男の顔が驚愕に変わる。
「あ、ごめん」
つい口に出して言ってしまった。
でも、だって、幽霊にしてはその顔はあまりにも――普通で。
ショックを隠そうともしない顔と絶望しきった声で、関西弁の男は呟いた。
「もう嫌や……東京怖い……」