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カモシカ

作者: 阜太郎

地下鉄のプラットホーム


自動販売機にコインを飲み込ませる。ペットボトルに入った不味いコーヒー飲料をマシンから吐き出させる。毎日、毎日。味もしなければ香りもない泥水をカフェインを摂取して体を覚醒させるためだけに飲む。怖ろしい苦味とすし詰になった朝のラッシュアワーに吐き気を覚えながらも出社しなければいけない。

三年近く繰り返したが、全く未だに意味が見出せない。

いや、見出せなくなったのはここつい最近だろう。それまでは働くことなんかどうでもよくて、ただ収入さえあれば苦ではなかった。

会社に残れば残るほど残業手当が貰え、年二回の賞与もあり、上長やパートナーの会社に窘められても、土日には忘れればさえすればいいのだ。

「傘!傘!傘!」

「はい?」

不意に車内で目の前の初老の派手なお姉さんに大声で怒鳴られた。

「傘ちゃんと持って!」

カバンとコーヒーと傘ごちゃごちゃに持っているせいで濡れてた傘がひざに当たって濡れてしまったらしい。

周りにあまり悟られないよう、小さく謝り、気まずくなったので、途中で降りた。

そのまま、ぼーっと次の電車を待った。



今まで観た映画


人生でどんな映画をどれだけ観ればいいのだろう。

本屋に「人生で観るべき映画ベスト」とか「決定版ベスト映画」だとか読んで映画を探したもので、ありきたりなものしか観てこなかったのだろう。

他の人がヨーロッパの知らないお洒落そうな映画の話を聞くとそう思う。

映画が好きだと言っても、所詮底の知れている知識では太刀打ちできない。

他の人が知らないようなとっておきの映画の話があれば良いのだが、いかんせん、「あぁ、あれね」と済まされてしまうのだ。

「人生で一番面白かった映画」

この質問が苦手で、いつも答える口が重たくなる。

映画は好きだけど、あまり映画の話はしたくない。



ジャズ喫茶


行ったことがない店に行きたくなった。

ファミレスでもない、エスニック料理屋でもなく、落ち着けるところに逃げ込みたくなった。

会社から出るとすっかり雨が上がり、冷たい冬の始まりの風が首にひんやりとさわる。

 突然浮かんだのが、昭和の小説家や芸術家がジャズ喫茶にたむろしている場面。

 音楽の知識は皆無だが、イメージした雰囲気に酔ってみたくなり、近場でないか探した。



偏った映画の好み


アメリカ的なマッチョイズムではなく、「タクシードライバー」のロバート・デニーロのようなアンチヒーローの格好良さに憧れがあった。日本の映画でいえば、松田優作の「最も危険な遊戯」。

 それまでの正義でなく、今まで許されなかったことが映画では許され、主人公は私刑を行使する。

 弱い自分にはない魅力を持つ主人公に憧れた。

まずまず、賛同してくれる友達はいなかった。周りは青春を謳歌し、その参考になるようなものしか興味がない。

 ずいぶん偏った好みだった。



ビールとチキンライス


客層は学生らしき男女が五、六人。適当に言っているのは腹も減っていて、頭の中から仕事が抜け切っておらず注意力が散漫だからだ。

 ソファに座りたかったが、先客がおり、ずいぶん楽しそうにおしゃべりしてる様子を横目で見つつ、奥のテーブル席に向かった。

「お飲み物は先にお持ちしましょうか?」

「いっしょでお願いします」

 ニット帽とジョンレノンみたいな丸メガネのマスターにビールとチキンライスをオーダーし、おしぼりで恥じらいなく顔を拭いた。熱いおしぼりを瞼にあて、今日の朝から入店までの間を二秒くらいに圧縮させて瞼の裏に再生させた。

 瞼を閉じたまま耳を凝らすと「ジャズ」という音楽が入っていき、中枢神経に染み渡っていく。

 音楽に全く無知な自分にも、とりあえずジャズ喫茶に来たと、その気になれた。

 薄くトマトケチャップの衣を纏い、細かく刻まれた鶏肉とニンジン、タマネギが散りばめられたシンプルなチキンライスとシャンペングラスがそのまま中ジョッキ大に大きくなったようなグラスに注がれたビールが木製テーブルに置かれた。

おそらく美味しかったのだが、チキンライスの味もビールのアルコールも、深いだるさからは通り抜けることはなかった。

 音楽もだんだんと聴覚を通して脳に働きかけるアルファ波から、音というものの認識するための信号とシフトしていってしまった。


感性の豊かさを養いに来たつもりが、何一つ馴染めず、電磁石に極を急に入れ替えたようにあっという間に求心力を失い、席に着き、食事をし、音楽を聴き、客として存在しているはずが、居場所をなくした感覚に陥った。

そして、じっと耐えるのが苦痛に変わる直前まできたところで、ケータイを清涼剤代わりに取り出し、ジャズ喫茶に来たことを否定するがごとくいじり始めてしまった。

 画面を見るとメッセージが入っていた。メッセージの表示を見たことによってもう、この豊かさに満ちた空間とか完全にシャットアウトし、ケータイ画面の世界へとシュートインした。

 落ちた先で、内容を確認すると時間が昨日の夜に巻き戻された。あまりどうでも良い内容だったので、今の今まで忘却の彼方へ追いやっていたのだ。

 むしろ昨日は、部屋で一人で酔っていたので断片的にしか覚えがない。

 パズルのピースを埋めるがごとく読んでいないメッセージを開いた。

 メッセージの送り主は女だ。もう一年は会っていない。内容はその女の別れた彼氏のこと。


「ねぇ、彼と大学で会ったらどうしよう?」

「睨まれたりとかしないかなぁ」

「どうしたらいいのさぁ?」

 などなど、全くもって力にはなってあげられなさそうだ。

 とりあえず昨日のメッセージ分を読み直し、ピースの細かい部分を合わせていく。

 思い出してきたのは、大喧嘩をしたこと、相手に殴られたこと、殴られたのにも関わらず警察を呼ばれ責任を押し付けられたこと。

「もし話をしなければならないことになったらどうすればいい?」

「また殴られたらどうしよう」

「怖い」


 過去を読み返している間にも、続々とメッセージが無尽蔵に送られてくる。

 向こうにどうやらこちらがメッセージを読める状態と悟られたようだ。

 早く何か返事をしなければ、不安のスパイラルから抜け出せなくなった者から無限に生み出されるさらなるスパイラルに巻けれ本当に抜け出せなくなってしまいそうな気がして、 とにかく助け舟の針路のプランを考えた。

 この場合は何を言ってやるべきなのか、どうすれば救ってやれるのか?

相手のこと、相手の相手のこと。



あの女


 メッセージの主とその相手のことは顔馴染みだ。向こうはどう思っているかわからないが、決して友人ではない。もしかしたら向こうも思っているのかもしれないが。

 あまり深い関係ではないのだ。初めて会ったのは主の方だ。卒業した大学の研究室の研究発表会のイベントに招かれ、そのイベントの来場者として来ていた彼女と知り合った。歳が同じなのと家が近かったこと、専攻していた分野が近かったこともあり、やたらと話しかけてきたのだ。

 正直言ってイベントも半ば強制的に教授から手伝いも含めて駆り出されたようなのもので、折角の土日休みも潰されたこともあり、帰ってビールを飲みたい欲求から生成される脳内アルコールが発酵していた。

 そのときの酔いと今の酔いがリンクしていった。

「大丈夫?」

 ありきたりだが、結局こんなのしか返せなかった。

「大丈夫じゃないから連絡してるんでしょ!」

 即座に返事が返ってきた。しどろもどろ言葉を選んでいった。

「今も連絡くるの?」

「ううん、こないけど」

「じゃ、大丈夫なんじゃない?学校で向こうから何か言っているわけでもないんでしょう?」

「うん。そうなんだけど、怖いの」

「気にし過ぎだよ。思ったより相手は何にも思ってないって」

 返ってくるメッセージにかわるがわる返事していった。

「だけど怖いの」

 怖い、人が人を怖くなっていく瞬間は自分にも経験がある。あるというよりは経験したのだ。

 突然人に怖がれてしまう。これほど嫌で信じられなくなることはない。

 三ヶ月前のことだ。三年間お付き合いしてきた彼女にあっさりと振られてしまった。もちろん突然とは言っても、前ぶれのような予感はあった。

 どこに行っても、そこにいっしょにいるのだけれども、彼女は別の世界に心が行っていた。会話も仕事の愚痴ばかりでそれも、相手に共感を求めるニュアンスの愚痴ではなく、お互いの世界の違いを指し示すニュアンスだったのであろう。

 そして、僕の誕生日を祝ってくれた一週間後にさっくりと切り出されてしまったのだ。ローストビーフのサンドウィッチが美味しいカフェで極めて無色透明なお祝いをしてもらった。プレゼントはちょっと高いボールペンでいつもならバースデーカードがいっしょに入っていたけど、もうそんな必要はないと思ったのだろう。ボールペンも今までの感謝のつもりか、謝罪の品か、今となってはもうどちらでも構わない、と思うしかない。

良くなかったのはそのあとだ。最初は冷静でいられたのだが、日が経つにつれて、喪失感からくる寂しさ、悲しみから、怒りをひねり出してしまい、彼女に当たってしまった。可能性はあまりないことはわかっていたが、恋人ととしては解消してしまったが、改めて友人として関係を保てたかもしれない。

 取り返しがつかないことをしまった。客観的に見ればもう終わったことなのだから次に進めばいいことなのだ。仕事や趣味に専念し、新しいことや新しい出会いを探すことの方が人として前進できることは間違いないし重々自分でもわかっていることなのだ。

 だが、やはり過去のことに囚われる自分そこにいた。仕事帰りや友人との遊び帰りの道のりの中で帰るためだけの空白の時間に遭遇すると気づくことがある。歩けば、彼女と行ったカフェの前を通ったり電車の中でおしゃべりするカップルを見ると、自分は一人だと自覚してしまう瞬間がやって来る。記憶を振り切ろうとすればするほど強く蘇ってしまう。



深夜の街並み


結局、特に連絡を返せず長い間、過去を振り返っていたら終電を逃し、明日は平日だということも忘れ、タクシーも使わずとぼとぼと暗い都会を歩いていた。ビールとチキンライスしか注文していないのに閉店までいた僕は店にとって都合の悪い客だっただろう。

わざと知らない道に迷い込み、見たこともない喫茶店の看板や自動販売機を眺め、出会す猫を数え、途中のコンビニに寄り百円のコーヒーを飲み、ふつふつと沸いてくる孤独を押し殺した。四軒目のコンビニでコーヒーとタバコとライターを買い、店の前で一服した。

フィルターギリギリまで吸いきって煙を孤独と共に吐き出したとき、タバコを止めていたことを思い出し、タバコの箱とライターを備え付けの灰皿のふもとに置き立ち去った。



つまらない映画


別れた彼女と最後に観た映画はほとんど寝ていたので、ストーリーはわからない。歩き過ぎて疲れていたせいもある。たしか、一七時の上映まで三時間近くもあったので、あの子の希望で雑貨屋に寄ったのだ。シネコンから遠く、しかも道に迷ったので一時間近くも歩かされた。

住宅街にポツンと店を構えていた店は一見、民家のようだがドアだけがが古びたヨーロッパ風に作られていて、近寄ってようやく何かの店と認識できた。

ただ、彼女がその日が定休日だったことまでは調べ切れておらず、ガッカリと疲労感の所為で店の名前を覚えられなかった。

また同じように迷いながら観た映画は、甘ったるい声の子役の主人公のミュージカル映画で、宣伝のテレビコマーシャルやポスターに出ていたスター俳優は賞味三分ほどしか出演しておらず、ストーリーもおとぎ話をつぎはぎしたような、あまり印象がなかった。むしろ、同じく内容を覚えていない映画館の座席の中で見た夢の方がドラマティックだったかもしれない。

彼女と観た映画はどれも記憶に残ってない。むしろ映画なんてどうでもよかった。でも、このとき彼女はもうどうでもよかったのだろう。



明け方


カップラーメンとコンビニのミックサンドを貪り喰う。ライフガードで流す。録画したバラエティー番組をバックグラウンドに眠気と倦怠感が踊っていた。ケータイを取り出し返事を返そうと、「失恋した友達の慰め方」検索してみたが思いやりよりも疲労の方が勝っていた。

歩き過ぎて体が火照って汗ばんだワイシャツと靴下を脱ぎ、裸足のままアパートの三階の外の廊下に出る。汗で湿った白いTシャツに冷やっこい風が当たりしっとりする。徐々に登っていく太陽を見ながら、全く寝ていないこの状態で仕事をする自分の想像し、不安になった。

今日は仕事が出来るのか?

あまり話すことがない人たちと何故いっしょにいないといけないのか?

一体、どんな会話をすればいいのか?

今日一日やり過ごせるのか?

今日を凌いでも明日からも同じようにいけるのか?

穴の空いた袋から砂が漏れるように、今まで閉じ込めていた物がサラサラ流れ出てきた。

しばらく外の廊下でうずくまりながら脇の排水溝の中を覗き込んでいたら、日の出を見るのを忘れていた。

二時間後、ケータイを取り、欠勤することを伝えた。

 適当な嘘を吐いたのは久しぶりだった。



バイク


 会社を休んだものの特に出かけたいところも観たい映画もないが、兎に角外に出たかった。部屋を出て、階段を降り散歩にでも出ようと、アパートの門を出ようとしたとき、駐輪場に置いてある埃まみれの自分のバイクに目が止まった。

だいぶ乗っていない。最後に乗ったのはいつだろう。そもそも買ったことや、免許を取りに行ったことも、押入れに入っているメットとグローブと共に埃を被って忘れていた。

去年、今の仕事に就職する前に二週間ほど時間があったので思い切って貯金をはたいて免許を取って買ったものだ。覚えるのに手間取り、二日ほど免許合宿を延泊した。

225ccのオフロードバイクは170㎝の身長ではややシートが高めで、両足の爪先がちょんと地面につく程度なのだ。埃が積もったシートに跨りたくなかった。

汚れたバイクはまるで、泥まみれになった馬のようで、悲しげに自分を見ているような気がした。

罪悪感に苛まれ、部屋に戻り、雑巾とバケツをとり、くたびれたバイクの元に戻った。

セロー225、ヤマハのオフロードバイクで、古いモデルでセルは付いていない。

 衛生放送で観たトライアルレースやモトクロスに憧れて、バイクを所有している友達はスーパースポーツやクルーザーを選ぶ中、荒地を駆けるこの孤高なバイクを選んだ。手に入れた最初のうちは林道を駆け巡ろうと思っていたが、いつまでたっても発車時にエンストする一方と、免許は手に入れたものの、いつまでも交通量の多い公道を走る度胸がなくだんだんチェーンが錆び付いていくまで乗らなくなってしまった。

買ったバイク屋にもメンテナスも行かなくなって、今更行くのも気まずく自賠責保険も任意保険も、もう切れている。

 雑巾を水に浸け、力一杯固く絞って積もってこびり付いた埃を拭っていった。灰色の衣を拭うと、白と緑のボディが露わになになりタンクカバーに描かれた”Serow”のロゴとシカのエンブレムが現れた。ボディが冬の太陽に反射して輝くが、拭き取り損ねた埃が残っていて、乱反射していた。

 バイクを手に入れたときの喜びは一瞬で思い出せれるが、バイクに積もりに積もった埃と汚れが、その一瞬と実際の長い時間経過のギャップを思い知らされたような気がした。雑巾をバケツで濯ぐと水はたちまち濁り、黒い水に自分の顔が映った。自分の顔を眺めがなら、今の自分の状況を考えるのと、このバイクを買ったことは後悔だったかそれともこれからまた再び乗るのだろうか。自問自答に浸った。

 また、乗りたい。

 何も考えずにアクセルを開け、ジワッとクラッチを繋ぎ、高鳴るエンジンの動力をタイヤに伝え、自分がバイクに乗ってタイヤで地面を掴みながら加速し、スーパーローギアからセカンド、そしてサード、フォース、トップ、オーバートップへと加速チェンジし、速度を上げ、自分をアクセルと共に解き放ちたくなった。

バケツの水を替えに部屋まで4往復してやっと全体の汚れが落ち、腰が少し痛み、冷たくなった手で、教習所で教わったこと思い出しながら、バイクの左側面に立ち、ハンドルを握った。

このセローで最初に遠出したのは、県境にある林道に行ったときのことを思い出した。林道で思いっきりフロントブレーキをかけてしまいエンストしてバイクを転かしてしまい、ブレーキレバーが半分に折れてしまい、交換したことをレバーを握り締めながら、あのときの岩や倒木だらけの路面や太陽、杉の木の香りやかいた汗の感触が瞼の裏、鼻、肌に蘇っていった。

埃がまぶされたイグニッションに古くなったキーを押しこみハンドルロックを解き、サイドスタンドを上げ、跨った。ゆっくりと大きく深呼吸をし、右側にあるキックペダルに足をかけた。目を閉じ、会社のこと、昔の恋人のこと、あの女のこと、全て頭から真っ白に、ニュートラルになるまで、深呼吸を繰り返した。

段々と痺れてくる足先で力が入っているかわからないくらいの力量で踏み込みの準備をした。

一気にペダルを踏み込んだ。


 しかし、キックの感覚を忘れていた。

 エンジンがかかるまで汗だくになりながら何度も蹴った。



バイクが登場する映画


バイクが登場する映画でバイクがメインの乗り物とする映画は少ない。役者が免許を持っていない場合はスタントマンが吹き替えをしているようで、映画で登場人物がフルフェイスヘルメットを被っているときはだいたい、その俳優ではなくスタントマンなのだろう。車だと、車内でも撮影が可能だから会話やシーンの流れが撮影しやすいだろうが、バイクはそうはいかないのだろう。

 バイクが出てくるシーンといえば、アクションシーンか乗っている情景か俯瞰のシーンくらいか。撮影も車で追わなければいけないし、俳優が免許を持ってない場合の俳優の顔を出さなければ場合はバイクをトラックに載せるなどして、いかにもバイクに乗っている風にしているなど工夫が必要なのだろう。バイクが登場する有名な映画でスティーブマックイーンの『大脱走』でも、マックイーンが華麗なバイクアクションを決めているが、バイクで柵を飛び越えるシーンではスタントマンが吹き替えをしているそうだ。

映画として真実を追求してほしい訳ではないが、それを考えると映画への酔いが覚めてしまう。

 映画はあくまで幻想なのだから。



バイクに乗って


ガソリンがどれくらい残っているかわからないが、とりあえず発進させた。

左折は苦労せず曲がれるが、右折の恐怖心は初心者マークが必要ではないかと思うほど、過去に乗っていたようにスムーズに曲がれない。

青信号でアクセルが足らずエンストしてしまったり、アクセルを開けすぎてフロントを浮かしてしまいぎこちない。直線もフラフラと安定しない。ガソリンスタンドを求めて国道を彷徨う。

久しぶりで怖くてなかなかスピードが出せず、絶えず左車線に止まり、他の車に邪魔そうに追い抜かれる一方だった。反対車線にばかりにあるガソリンスタンド羨ましげに見ながら道なりに進み、気がついたら、住んでいる町から出て、郊外へ入っていった。

稲刈りが終わったハゲ坊主の田園風景へフェードインすると、交通量も少なくなりたまに地元の農家らしき泥だらけになった軽トラックにすれ違う。

バイクに乗ると寒くなることを忘れていた。薄い布地のジャンバー一枚ではバイクの風で膨らんでバシバシと音をたて、体を冷やし、手を悴ませていく。速度が上がるに連れて体が冷え切り、全身が悴んだところでようやく、ガソリンスタンドスタンドを見つけることができた。

100メートルも手前から右にウィンカーを出し、徐々に速度を落とし、ギアを6速から1段ずつぎこちない音を立てながら落としていき、歩道の前で止めた。しっかり左右を確認し、半クラッチでトロトロと転がしならガソリンスタンドに進入した。

低速の半クラッチも間もならず、ヨタヨタと給油機の近くまできた。

「もう少しこちらへどうぞ」

思っていたより給油機から少し離れていたらしく、店員さんに促されてしまった。久しぶりのガソリンスタンドがセルフではなかった。バイクから降り、悴んで震える手で押して給油機に寄せた。

「鍵をお預かりしてよろしいですか」

店員のお姉さんを待たせないよう、いそいそとイグニッションから鍵を外し、そっと渡した。

レギュラーガソリンを満タンに入れてもらい、支払いを終えて、ふいにお姉さんに話しかけられた。

「今日は冷えますね」

ガソリンスタンド特有の丸い照明のガラスに陽光が差し込んだ。バイクを買った時もこんな光景を見たようなことを思い出した。

ガソリンスタンドを後にし、ひたすら遠くにそびえる名前も知らない山に向かってバイクを飛ばした。



 山


セロー225は曲がる。自動車なら減速しないと曲がりきれないカーブも難なく曲がる。直線ではあまりスピードは大したことはないが、カーブのキツい山道は前の自動車に追いついてしまい、道を譲ってくれる。カーブで先が見えない道を、バイクを横に倒しバンクさせ、カーブに沿って曲がりながら新しい道が見えてくるようが気がした。

あてもなく、走って楽しそうなカーブがありそうな道を探した。


 うねるカーブを追い求めているうちに、アスファルトはヒビ割れ、ガードレールがボコボコに捩れ、それを覆い隠すかのように捲りくねった木々が生えた旧道に入った。


 そのまま、山道の奥へ、奥へと吸い込まれた。


何度、コーナーをクリアしただろう。

走行距離は把握してないが、おそらく100キロは超えただろう。

 日が沈みかけて、空は紅く、周辺の木々が蒼く、太陽の終わりを告げていた。

 バイクのボディも木々がスリットになって注ぐ紅い陽光を受けまた紅く点滅した。

 気ままなソロツーリングの楽しさからか、ヘルメットの中の頬に汗が伝い、クッション材が吸収し、酸っぱい香りが臭い始めた。

体が火照り初めて、ひんやりした空気を欲した。

ふもとに戻りコンビニで休もうと、そのまましばらく走りふと、コーナーの先を見ると自動車が一台止められそうなスペースがぽっかり空いているのを見つけた。

徐々にブレーキをかけ、クラッチを握りシフトペダルに足をかけ、6速から一気に1速に落とし、その空間に静かに侵入した。

ギアをニュートラルに入れるのを忘れ、いきなりエンジンを切って止めてしまった。汗みずくで蒸れたヘルメットを急いで外し、冷たい空間で頭を冷やした。ヘルメットを被っていたときの温度差は激しく、いきなり冷えた空気を吸い込んだら急に胃をかき回されたような感覚に襲われ、苦しい嘔吐感に襲われた。

バイクから転げ落ちるようにヨロヨロと降り、フラつきながら茂みへ入った。胃からものすごく熱いものが上昇してきたが、何も胃に入っていなかったようで、苦い胃酸だけ吐き出した。

胃酸が白いスニーカーに少しだけあたり、久しぶりにはしゃぎ過ぎたと感じた。スニーカーを眺めていたら、さっきまで紅と蒼で染まっていた周囲から色彩が消えて、白いスニーカーの明度も落ちていた。

苦味と酸味が蔓延した口内をリセットしたいが、近くに自動販売機はない。そろそろガソリンも少なくなり、ガソリンスタンドで補給しなければならない。

吐き気で落ち着かなくなった胃袋を鎮静させるべく、深く、深く深呼吸をした。

胃酸と共に流れ出た涙が唇から舌に伝わった。

酸味と苦味と塩気が混ざり、複雑な味がした。

この味は何度か感じたことがある。

別れた彼女がくれたボールペンを手に取り何かを書いてみようとトライしようとするが結局何も出来なかったときも、この味を感じた。

あのとき彼女に手紙を書こうとした。しかし、いまさらそんなことをしても意味のないことだ。

何も書かれていない便箋を見て、永遠に埋まることのないただただ白い空白が内臓を締め付け、嘔吐感に苛まされる。


痛くなった内臓を息を殺して腹筋で締め付け、人差し指でキックペダルを出し、バイクに跨りキックペダルを力の限り踏み込んだ。

力が足りなかったせいかエンジンがかからない。もう一度踏み込んだ。


かからない。


思いっきり踏み込もうとサイドスタンドを立て、体重を支えらるよう左ステップに左足をかけ、右足を勢いよく振り降ろした。


かからない。


何度蹴り込もうとエンジンに反応がない。


エンジンを停止させるためのキルスイッチのオンオフがあっているか確かめたが、違う。

キック始動だから押しがけもイマイチがない。

ギアをニュートラルでそのまま山を下ろうにも、もう真っ暗で身が見えず危険だ。途中で登り坂になったら、押して登り切る自信はない。


自賠責保険と任意保険は遠の昔に切れているが、クレジットカードに付いているロードサービスのことを思い出した。バイク屋の勧めで付いているカード会社を探したのだった。

財布からクレジットカードを取り出し、電話をかけようとジャンバーのポケットに手をやったが、ケータイが無い。


バイクに気を取られて、ベッドの上か机の上に忘れてしまった。ケータイを持ち出したところであの女からしか連絡がないと無意識に置いていったのかもしれない。


夜の闇が深みを増していき、色彩がなくなり始めた。

バイクも色が判別できなくなり、グレースケールに染まった。


山の麓までどれだけあるか把握せずバイクを走らせてしまった。ただわかることは歩いては到底辿り着けなそうなほどな距離ということだ。

車が通りかかるまで待った方がいいのか。ここにたどり着くまで、汗だくで火照っていた身体はすっかり冷えてしまった。

さっきまでの熱く、バイクに乗ってはしゃぐ自分が羨ましく恨めしく思い、後悔した。

1年以上も放ったらかしにして突然乗り始めたから、何かの部品が悪くなったのか。それはオイルか、バッテリーか、キャブレターか、エンジンか。機械にあまり知識がない、というより興味がなかった。ただただ速く走れればなんでもよかった。1年以上も放ったらかしにする前もメンテナスもあまりせず放ったらかしにしているのとほとんど同じ状態で、オイル交換もツーリングに行って、ベテランのライダーに指摘されて初めて気が付いたくらいだった。

要するに前もあまりバイクに構ってあげられなかった。冷え切った蒼い夜の中、後悔するしかなかった。




ケータイと共に腕時計も置いてきてしまったため、時間すらわからない。寒く暗くなにもないこの場所に閉じ込められてどのくらいの時間が経ったのかわからない。

まだ熱気が冷めないバイクに触れながら、この場から脱出出来る方法を考えていた。身体がある程度温まったら、時折キックレバーを蹴り込んでみるが、相変わらず反応がない。

バイクを押しながらエンジンに動力を伝える押しがけも試みてみるが、変わらず。

バイクの余熱で温まりながら誰かが通りかかるのを待った。

ボーっと待っていたら、辺りは霧に覆われ始めた。

これからどうしたらいいだろう。



映画においてのバイクアクション


映画の中でバイクでアクション性を求めるとやはりオフロードバイクだ。主人公が追ってから逃げたり、または追いかけるとき、何故か都合よくオフロードバイクに乗っている人が現れて奪ったり、キーの付いたままのバイクがそばにあったりして、そういう映画の暗黙のテキストに沿って颯爽と飛び乗り、荒くれる未舗装の道や階段や障害物を颯爽と駆け抜ける。

スタローンの「ランボー」で追っての保安官から逃れるため、主人公のランボーは都合よく通りかかったYAMAHAのオフロードバイクに乗る一般市民を押し倒し、奪って山まで逃げた。途中で何故か一瞬だけウィリーするが、よく見るとスタローンではなくてスタントマン。

ダリオ・アルジェント制作総指揮のホラー映画「デモンズ」では、舞台である映画館のロビーに、これから映画に出ますよとオフロードバイクが、中世の鎧に跨られながら待ち構えている。案の定、終盤に映画館の劇場で主人公とヒロインはバイクにタンデムで跨り、日本刀を振り回して、デモンズというゾンビ軍団をバッタバッタと薙ぎ倒す。

リドリー・スコットの大阪が舞台のアクション映画「ブラック・レイン」のニューヨークの刑事役のマイケル・ダグラスとヤクザ役の松田優作が、如何見ても日本には無さそうな農場でオフロードバイクでチェイスを展開する。バイクはSUZUKIの2ストローク水冷エンジンのRH250である。マイケル・ダグラスも松田優作もスタントマンのようだ。一時停止すると違う人が乗っている。

何れにしても、映画を盛り上げるため、唐突に現れるバイクたち。逃げる、追うと行った緊迫感のあるシーンをスピードとスリルを添加させ、悪路を走ることで観るものの重力を不安定にする。足で走るか車でもいいのではないか?別にバイクである必要性はないのではないかという疑問を持つかもしれないが、バイク特有のスピード感、オフロードバイクの未舗装の道や階段といった悪路の突破性、迫力のエンジンサウンド、二輪車の不安定感からくるスリル感が映画に拍車をかけてくれる。

なくてはない存在ではないかもしれないが、観る人を興奮させるギミックであることは間違いない。




霧の中で



もうどれくらい時間が過ぎていっただろうか。

一向に車は通らない。触れて体温を維持していたバイクの熱は温もりを過ぎ、冷え切る境目まで達していた。

耳をすましても遠くにも車の音は聞こえず、冷たい風の音だけだ。誰もここを通る気配は感ぜられない。

このまま待っていてもどうしようもないことを悟り、歩いて山を降りる覚悟を決めるしかなかった。いや、怖くて覚悟を決めるより、この場から逃げ出したくなった方が正しいのかもしれない。

もともと古く動かなくなったバイクは盗まれる心配はないが、万が一いたずらなどされないよう、駐車スペースからはみ出した先にある生い茂る木々間までバイクを押し、隠した。


霧が刻々と濃くなっていく。

森の中にバイクを隠し入れるとまた一段と濃くなり、木々と霧と闇で、バイクは見えなくなった。


道路まで歩き、バイクがあった方を振り向いた。

もう霧しか見えず、再びあのバイクを見ることがなさそうに思えた。

寒く暗い山を下り始めた。かすかに眼が闇に慣れて薄っすら足元のアスファルトの地面が見えるが、先が見えない。

朧げに見える白いラインを頼りに歩み始めた。

霧がなんか何も映っていない映画のスクリーンのように見え、映画の予告が始まる寸前の映画館の中を歩いているように感じた。あまりの寒さで全身の感覚がなくなっていき、頭の中にあるこれまで起きた出来事が霧のスクリーンに投影されていく。


会社での出来事、僕を頼るあの女のこと、別れた彼女のこと。あまり思い出したくない出来事が頭の中で勝手に再生され、スクリーンに朧げに現れていく。

会社では、特特別付き合いのある友達もなく、上司との付き合いもほとんどない、毎日同じような仕事を片付けている。アルバイトの人から送られたデータをパソコンにまとめる仕事だ。大学で研究していたプログラミングの知識は全くここでは活かすことはない。要するにアルバイトの管理で、上司とアルバイトの両方の声を聞いていかなくてならないが、なかなか上手く両方の都合が付けられない。仕事の効率だけを考えたら、アルバイトから仕事をしづらいと指摘される。逆にアルバイトの環境の快適を優先して考えると、上の方から進捗が良くないと指摘を受ける。板挟みの毎日だ。

一度だけ、会社の人とツーリングをしたことがある。もういなくなってしまった派遣社員にライダーがいた。

年は四十歳くらいで、いつも日に焼けてサーファーのような色が抜けた茶髪の長髪、細身の長身の男性で、仕事中こちらからバイクを所有していることを何気なく話したらツーリングに誘ってもらった。

バイクにとても詳しく、キレッキレの走りをしていた。バイクはガンメタルブラックのYAMAHA XJ400。名前の通り400ccの水冷4気筒エンジンのネイキッドバイク。

革ジャンとブーツとヘルメットを黒で合わせていて180センチの長身で重いバイクを軽々と乗りこなしていた。アップハンドルにビートテールとマフラーはおそらく社外品で左右に2つずつの長い4本出しで、どこにいてもすぐそのバイクとわかるほどの空をつけ抜けるような重低音をかき鳴らしていた。

道の駅で待ち合わせて、XJが15分くらい遅刻して到着するや否や、右のブーツで駐車場のアスファルトを掴み、いきなりアクセルターンを決めた。ヘルメットからはみ出ている茶髪の長髪が獅子舞のように振り乱していた。

迫力に驚いて飲みかけたペットボトルの水をズボンにこぼしてしまった。


「すまん。ちょっと遅れたな」

ジェットヘルメットのバイザーを上げながら、眠そうな顔から渋い声でぶっきらぼうに言われた。

おそらく、寝坊だろう。会社でも誰も見ていない隙を突いて寝ていることが多い。

「その格好だと本当に初心の初心者だな。まぁ、付いてこいよ」

上げたバイザーをピシャリと閉め、再びターンの後、フロントタイヤをロックさせ、リアタイヤを地面に擦り付け、煙を上げるバーンナウトで発進した。

いきなり発進されたので、慌ててヘルメットを被り直しキーを差し込んでキックして発進した。安全確認もままならないまま、目の前の黒いバイクを追いかけた。



ツーリング


道の駅から国道に出て、追いかけたが、意外にも追いついてしまった。スピードメーターに目をやるときっかり時速60キロで走っているようだ。待ち合わせの場所で派手なパフォーマンスを披露していたので、運転が危なそうなので不安に思ったが、公道では安全運転みたいでホッとしながらついていった。

向こうはマフラーを付け替えたり改造しているのか、60キロでもものすごい爆音を轟かせている。

免許を取ったばかりなので、教習所では3速までしか出せなかった。公道に出てからも4速までしか使わなかったが、躊躇しながらも5速、6速とクラッチを繋いだ。低いギアで走って音がうるさく、振動もビリビリと来ていたが、不思議と安定し、60キロでも躊躇なくアクセルを開けられた気がした。

そのまま黒いバイクについていき、いつの間にか海沿いを走行していた。

さっき言われた、その格好だと初心の初心者の意味がなんとなくわかった。海からくる潮風が横からぶち当り着ている安物のスタジアムジャンバーが思いっきり膨らんでブオーとすごい音を立てている。バイクに乗る格好にはラフすぎた。ジーンズの裾もビラビラと音を立ててはためいている。

照り返す光がSerow225のボディに反射して白と緑のカラーリングの明度を上げる。アスファルトとガードレールも白く反射して、暑い光の中を走行していた。

目の前の黒いバイクは蜃気楼でモヤモヤと揺らめき、何か幻の黒い馬に光の中に誘われている気がした。茶髪の長髪が馬の鬣のように振り乱されていた。



海の食堂


不意に右折の合図のウィンカーを出された。

驚いてぎこちなく真似してウィンカーを出して、食堂に入った。食堂は潮風であちこち錆びていて、いかにも海沿いの食堂だった。

二人共同じ海老フライ定食を注文し、おしぼりで顔を拭いた。

海老フライ定食が運ばれて来るまで、肩に力が入り過ぎているとか、ブレーキを一気にかけ過ぎや、曲がるときのバンクはもっと倒した方が良いなど、初心者にお決まりであろうアドバイスを教えてくれた。

海老フライ定食が運ばれ、二人共夢中になって空腹を満たした。年齢には差があるが、幾つになっても海老フライは美味しく感じるのだろう。

二人して夢中で定食をパクついた。揚げたての海老フライを頬張り、海老の尻尾を噛み砕いてから彼が切り出し始めた。

「そういえば、なんでセロー選んだんだ?250ccならバリオスとかホーネットとか初心者は速そうなのを選びそうだけどさ」

「山を走ってみたいと思いまして・・・」

「あぁ、やっぱり林道を走ってみたいのかそれならセローだな、でもあれは初代のセローだから古いだろ。キック始動大変じゃないか?」

「丁度予算で買えるのがアレだったので」

「そうか、最近はコンピュータで自動で燃料の噴射をしてくれるフェーエルインジェクションが多いけど、キャブレターはあの冬のエンジンのかかりにくさも良いよなぁ」

食後のコーヒーが運ばれ、それを啜りつつ、特にお互いに何を語ったら良いか迷っていた。

「バイクはずっと乗っていたんですか?」

とりあえず切り出してみた。

「あぁ、16の時から乗ってるよ。最初は原付の免許だけだったから、NSR50っていうバイクだったなぁ。まだガキだったからいろいろ無茶したい時期でな、よくいろんなとこ走り回ったな。公道でレースやるために深夜の校庭でドリフトの練習して退学寸前までになったりさ、50ccじゃ物足りなくなって、250cc、400ccと乗り換えたよ。」

「暴走族だったんですか?」

恐る恐る質問しようとしたが、咄嗟に出てしまった。

「いや、暴走族ってわけじゃないけど、みんなそうだったんだよ。若気の至りってやつだよ。」

聞かれて気まずそうに答えた。

「今はちゃんと安全運転に努めてるからね。本当だよ!」

苦笑いをしながら付け加えた。

「どんなことしてたんですか?」

「うーん。他の奴はそれこそアピールするために爆音奏でたり、ウィリーしてパフォーマンスやってたけど、俺は速く走るためだったなぁ。」

「レースですか?」

「そうだね、みんな他のチームに喧嘩仕掛けたりしてたけど、俺は勝負を挑んでたな。エンジン吹かして、どうだ?やらねぇか?って。」

「公道でですか?」

「大きい声では言えないけどな。みんなは女の子にモテたくてカッコつけたり先輩に憧れたりのし上がってやろうとバイク乗ってたけど、俺はカフェレーサーに憧れてバイクに乗ったな。」

「カフェレーサーですか?」

「そうだ。知らないだろ。60年代にイギリスのエースカフェって24時間営業のイギリスの悪の溜まり場があって、そこで改造したバイクのレースをやってたらしいんだ。ここまではウィキペディアに書いてあることだけど、中学のときに海外の雑誌を見てさ、載ってる写真のバイクがカッコ良いんだ。BMWやトライアンフのバイクを改造して、ガソリンタンクをピーナッツタンクっていう小さいものにして、ハンドルもセパレートハンドルって短いのにして、風の抵抗を少なくするためにカウルを付けて、ストリートで速く走るため、マシンと一体になるためのカスタムなんだよ。」

「孤高のレーサーを目指してたんですね」

「そう言われると恥ずかしいなぁ。高校のときは流石にBMWとかトライアンフは買えんかったから、Kawasakiのザンザスって400ccのバイクに乗っててな、あのときは無敵だったよ。」

「ザンザスは知らないですね」

「不人気車だったからな、先輩に10万くらいで譲ってもらってね。カフェレーサーのカスタムには出来なかったが、これが扱いづらいんだけどめちゃくちゃ速いんだ。大抵の他の奴はフルカウルのレーサーレプリカのバイクに乗ってたんだが、ぶっちぎりだったね。」

「今でも、飛ばしたりとか?」

「もうやらないね。もうそんな乗り方はできない。」

「何かあったんですか?」

彼は急に目をそらし、コーヒーカップの中に目をやった。

「バイクを走らすのは楽しかった。友達もいた。でも、事故があったんだ。友達がその事故で死んじまったんだ。」

「そうだったんですか」

「意気がり過ぎてたよ。公道でレースまがいなこともよくやっていてね。普通の大通りや峠を見境なく攻めてた。一緒にバイク乗り始めた友達でな。小学校の時からのほとんど毎日つるんでて、お互いに腕も上がったと思い込んじまって、事故っちまった。」

「どんな事故だったんですか?」

淡々と聞くしかできない。それから一呼吸置いて答えた。

「悪いな。楽しいツーリングを教えようと思って誘ったから止めとくよ。コーヒー飲んだら行こう。」

店を出て、彼は蘇った影を押し殺すようにイグニッションにキーを挿し込みグイッと回した。

道なりに海沿いを二人はバイクを走らせた。



一時間ほど道なりに走った。海の照り返しのギラつきやカモメの鳴き声、潮風の音もさっきの彼の話の続きが気になってあまり楽しめない。

エンジンの高鳴りに伴って気になってしょうがなかった。

灯台の麓にある道の駅に差し掛かったとき、ふと左ウインカーを出した。

彼は合図に気付き道の駅に入った。

バイクから降り彼はたずねた。

「トイレか?」

「はい、あとちょっと喉が渇いて」

特に用はなかったがトイレで手を洗い自販機でカップのホットコーヒーを二つ買い駐輪場で待つ彼に一つ渡した。

「おぉ、いいのか?ありがとう」

二人で自然と灯台まで歩き、海を眺めた。

二つ呼吸を追いたおころで息を吐き出すと同時に再びたずねた。

「さっきの話の続きを聞いてもいいですか?」

彼はしばらく黙った。


強い日差しと潮風が沈黙を白く埋めた。


カップを少し強めに握り、彼は白い空白に言葉を放った。


「山で二人でレースしたんだ。男同志の真剣勝負だと感違いしていた。キツいコーナーの多い峠でクネクネ曲がっていって、お互いに自分の力量を過信してセンターラインなんか無視してた。俺の方が速いって最初からわかっていてた。だからさ、わざとスピードを落として、駆け引きをさせてやったんだ。そしたら、あいつは自分が付いていけると思ってドンドンスピードを上げていった。コーナーを一つクリアーする度にあいつは自分が乗れてるって思い込んで更にスピードを上げていった。俺もよし、付いてきてるぞってもっとスピードを上げた。お互いのエンジンが唸ってコーナーを曲がるときのブレーキングでタイヤがロックしてキーっと音を立ててアスファルトを擦った。最後のコーナーを曲がった時だった。後ろでこっちを照らすヘッドライトがこっちを向かなくなったと思ったら、急にバックミラーから消えた。しばらく直線を走ってみても付いてこない。バイクを止めて待ったが来ない。嫌な予感がして戻った。

最後のコーナーに近づいたら奥の方に明かりが見えた。次第にゴムが焦げた嫌な臭いがダンダン充満してきた。」

目の前に広がる明るい海の景色とは反対の光景が頭の中で構築されていく。


「ちょっとずつバラバラになったパーツが見えてきて、点々と目で追っていたら、バイクが燃えてた。」

淡い潮風を浴びながら、口の中でコーヒー味になったやり場のない唾を飲み込んだ。呆然と海に身体を向けて話す彼を見つつ、時折海を見つつ視線のやり場も困り、気まずくなった。

彼は続ける。

「燃えたバイクの離れたところに、あいつは倒れてた。ガードレールに当たって、思いっきり吹っ飛ばされて、地面に叩きつけられてた。全身血塗れになってて、起こして名前を呼んでも、揺さぶっても何も反応がなかった。」

ふと下を向くと蟻が死んだ仲間を触覚で死を確認していた。下を眺めながら、また淡々と話を聞いた。

「どんなに揺さぶっても何もなくて、揺さぶり続けているうちに泣きじゃくってた。」

蟻が仲間の死体を運び始めた。

「他に誰もいねえし、ケータイまだ持ってなくて、どうすることもできなかった。」

蟻は仲間の死骸を運び去り、コンクリートの地面はカモメかウミネコの糞がところどころこびりついている。ぎらつく太陽が二人の影が長く伸ばしていた。

「もう死んでることはわかってたけど、死んだこと認められなくて、救急車呼ぼうと、死んだあいつを置いて、麓の電話があるところを探しにバイクを飛ばした。人生であれほど早い速度で走ったことはあのときだけだった。エンジンの振動と寒気で身体中の感覚なんてなかった。」

後ろで、子供がフナムシを追いかけて遊んでいる。それを母親が叱りつけながら追いかけている。

「こらー、危ないから走らないの!そんなものばっちいから捕まえないで!」

親子の声につられて変えた体の向きをもとに戻し、再び彼の過去を聞いた。彼も親子の見ていた。

「やっと麓に公衆電話を見つけて救急車と消防車を呼んだ。」

彼はため息をついて更に続けた。

「それから・・・、あいつの家に電話した。あいつの母さんが出てきたけど、すぐ切り出せなかった。名前を言って、挨拶してさ、なかなか言えなくて1分経って次の10円玉を入れようとしたら手にあいつの血がべったり付いてて、手が震え始めた。あいつのお母さんが何言ってるか全然頭に入ってこなくて、泣きながら謝り続けるしかなかった。受話器から、どうしたの?どうしたの?っていっているのは辛うじてわかった。」

さっきのフナムシの親子はいつの間にかいなくなり、潮風だけが灯台の周りを覆っていた。

少し遠くに停めてある二台のバイクが白く輝いていた。

「それから少しずつ落ち着いて、あいつのお母さんに起きたことを順々に話した。全部話し終わったあと、お互い無言になった。場所を聞かれた直後に電話が切れてちょうど2枚目の10円玉くらい分の時間だったのを覚えてる。連絡が終わって、あいつがいる山に戻った。火は収まって、焚き火くらいの炎がバイクに着いていて、バイクから離れたところに寝かしたあいつを照らしていた。赤々と照らされたあいつは眠っているだけのように思えたが、近づくと流れ出た血でどす黒く、生きていることを望んでいた願望が一気にかき消された。またどうすることも出来るなくなって焦げ臭い煙と薄暗い炎の中、立ってることしかできなかった。」

相変わらず、潮風の香りと白い光が辺りを覆っていた。

「ぼうっとしてたら救急車がやって来た。黒煙の中から赤と白い光が強烈に差し込んで来て、サイレンは鳴ってるはずなんだけど、耳に入ってこなかった。車から救急隊員たちが一斉に降りて来て、そこだけ時間が伸ばされてスローモーションのように感じた。暗闇を割って入って来た眩しい宇宙船から這い出て来た宇宙人のような気がした。あいつに群がり始めて、耳鳴りがするような声で叫びあっていた。そのうちの一人が近寄って来て、同じような大きい声で一部始終を聞いて来た。淡々と受け答えていたら、更に気が遠くなって、そこからドンドン時間が早くなって早送りのように過ぎていった。」

白い光と白い海の中で、焦げ臭い黒い過去の話を聞いていたら、さっきまで飲んでいたコーヒーのコーヒーとミルクがグルグルと混ざるように頭の中が酩酊した。それも彼の話のように最初はスローモーション、そして急激に早送りになっていった。

「結局、あいつはやっぱり死んだままだった。病院であいつの両親に会って謝ろうとしたけど、何も言えなかった。向こうはずーっと泣いてた。そのあとは警察に連れられて事情聴取を受けた。何度も同じことを聞かれ、改めて自分の責任を感じて、さらに増幅した。もう誰と会って何を話したか、話されたかどうでもよくなって、時間がパチンコ玉みたいにジャラジャラ流れた。気がついたら、解体工場であいつの黒焦げになったバイクを眺めてたよ。あいつの両親にもう顔なんて見せられなかったし、バイク仲間にもあわせる顔が無かった。」

彼は大きく鼻から息をはいた。僕はときどきうなづき返すの精一杯だった。

「今までバイクって楽しいもので、走れば仲間もできるし、乗っているときは自由で、あいつだってバイクに乗っているときが、飯食ってるや駄弁ってるときよりも何よりも一緒に時間を過ごしてる気がしたし、一時間語るより10キロ方が語っている気がした。バイクに乗って勝負したり、女の子をナンパしたり、二人でかっ飛ばすだけで何よりも楽しかった。グチャグチャになって焼けただれたあいつのCBXは、まるでそんなことが嘘だったように他の廃車の中に佇んでた。真っ黒なガソリンタンクを指で拭っても、元のピカピカの塗装は出なかった。手にこびりついたススが指紋の奥までベッタリ滲み込んでた。しばらくして、バイクで帰ったら、ハンドルが綺麗に手の形通りに黒く写ってた。ぼんやり手の刻印を眺めているとだんだんバイクが怖くなった。それっきり長い間、俺はバイクに乗らなかった。」

彼の手を見た。黒い皮のグローブをはめた手はそっとポケットに突っ込まれた。

相変わらず、照り返しは白かった。



再び霧の中



クネクネしたワインディングロードの坂道を灯りも無しに下る。しかも周りは霧だ。

夜道を一人歩くときは不安だ。仕事のこと、明日のこと、将来のこと。夜中にコンビニに行って、その帰りにアテもなく静まりかえった住宅街を徘徊していると自然と漠然と不安に襲われるが、今回の場合はどこまで歩けば、灯りのあるところへ辿り着けるか、歩き続けても辿り着かないのではないかと、目の前に近い不安だった。

さっき思い出したツーリングの彼の友人が死んだ事故現場の峠と、今下っている峠が頭の中で繋がり始めた。霧で薄く白くしか見えないガードレールに、彼から聞いた炎を投影させた。

この辺りで彼の友人は亡くなったのだろうか、ここで彼は佇んでいたのだろうか。場所は聞いていないが勝手に、もしやここで起きたのだろうかと、思考が進んで行く。絶対に違うであろう、ガードレールの黒いかすり傷やアスファルトのタイヤの跡が事故の炎で焦がされた刻印に見えてきた。

両手を血に染めた高校生が今にも目の前にいそうな気がしてならなくなってきた。

あのときの話を思い出して、この峠のコーナーにいるのが怖くなってきた。

なるべく、ガードレールやタイヤの跡を見ないように小走りに霧のど真ん中へ突っ込んだ。

山なんか来るんじゃなかった。バイクなんか乗るんじゃなかった。何もしないで大人しく生活してればよかった。後悔の積み重ねが燃料になり峠の坂を徐々に加速していった。

霧の細かい水分の粒が顔に当たる。寒さで顔が強張るが、胸はそれに反発するように熱を持ってくる。

霧の中から抜け出したかった。

でも、そもそもバイクに乗ってここまで来たのは、別のもやもやした霧から抜けたかったからかもしれない。

今まで学んだことが生かすことができない仕事、忘れられないかつての恋人、どうにもならない相談事を持ちかけてくる女。

走るたびにスイッチが押され、

シャカシャカとスライドのコマが換わるように連続して頭によぎった。

切り換えと同時に増幅されて、出来事も滲み出てきた。

走って、走って、滲み出てくるものを振り切ろうとした。

クネクネ道は、足で走るとさっきまでのバイクの軽快さは全くなく、斜めに傾いた地面に足を着ける度に足首がズキズキと痛くなってくる。

汗が服に染み込んでいき、走れば汗をかくほど重くなっていく。

それでもノシノシと重たい身体を坂道の重力に任せ、下る。

疲れが神経系を伝って、目に浸透していき、薄っすら見えていた闇と霧の中はさらにフェードを落とした。

ガードレールを掴んで、辿る。

手袋越しに感じる金属の凍てつきが痛みを生み、身体を削ってくる。

耳もポロッと取れそうなくらい痛い。

何もかも嫌になって泣き出す感情に襲われるが涙も流す余力もない。泣いた後のツンとくる口腔の広がりがずっと続いている。



さらに1時間近く経っただろうか。血液が凍ってると思うくらい身体中が冷たい。感覚が微かにある程度だ。

下り坂がフラットになり、位置エネルギーを使った推進力がでかいなくなった。

コツリコツリと地面を確かめながら歩むと、僅かな感触から嫌な予感がした。

足首から太ももまで突っ張るこの感覚。

一歩一歩進むとその突っ張りは痛みに変わっていく。


登り坂だった。

熱を持って吹き出た汗が一瞬で冷えて、皮膚を伝って服に染み込んでいく。冷たい覆いがズッシリと身体を地面に押さえ付けてくる。

身体の中も無数の細い針がブスリと刺さったような痛みがあり、動く度に深く刺さっていく。

疲れと痛みと寒さがメーターを振り切るくらいに到達し、ガードレールにもたれかかった。ここから抜け出す最善の方法を考えるのに必要な気力と体力も失せていた。

そのままガードレールに背を付け、座り込んだ。


目を瞑ると、それまで気が付かなかった音が聞こえてくる。

風が木々の葉が擦れ合わせ、風がガードレールの隙間を抜け、音が渦を巻いて山を包んでいるように聞こえる。


その隙間にスルッと縫うように遠くの川の流れのせせらぎが抜ける。


せせらぎは緩やかではなく、ゴウゴウと水量が多く、岩に当たり水滴が弾けて飛びパチパチと散ってるのがクリアに聞こえる。

瞼の裏に黒い糸をグシャグシャを絡めた中を青い水が流れる画が投影された。

瞼の中に一面に絡まった繊維の隙間を勢いよく青い激流が流れる。

青と黒の砂嵐のようにも見える。


深呼吸するとツンと冷えた空気が気道を通って肺に入る。

坂を下っているときと同じような辛さはない。むしろ、何故か心地いい気がした。

シャツに染み込んだ汗が乾いてくる。このまま、汗が乾くまで待とう。ここで待っていても歩いても寒いのは同じだが、立ち止まって全身の重みと痛みを放出したかった。

ぼうっと再び青と黒の砂嵐に入っていった。



山が創り出すノイズを聴きながら微睡んで、さらに時間の感覚がなくなった。


ノイズに混じって、違う旋律が流れ始めた。


風や水の青や黒のグラデーションがかったトーンの音ではなく、パキッとしたカスタネットのような硬く色のない音が一定のリズムを刻みながら近付いて来る。

その違和感に半信半疑になりながらも、乾いた瞼をパリパリとゆっくり開けた。

自分が辿ってきた道からリズムが一つ一つ刻まれて近づいて来る。

何重にも重なった霧のスクリーンを潜り抜けて来るように見えた。または霧がぐるぐるとそれを纏うように渦を巻いているようにも見えた。


カモシカだった。


体毛は霧に当たってキラキラと反射で輝いて、黒いビー玉みたいな眼も霧の中でもはっきりとしていた。


蹄をアスファルトにコツコツ当てながら、一定のゆっくりしたリズムでこっちに向かってきた。


五メートルほどのところで立ち止まってこっちを見た。


こっちを見て、驚いたり怯えている様子もなく、もう最初からこっちに気付いていたような気がした。

顔は白い体毛が髭のようにアゴを覆っていて、老人の顔のようにも見えるが、綺麗な眼と整った顔立ちは少年のようにも見えた。


何かを食べた直後なのか口をモゴモゴと動かしている様子がこっちに向かって何かを呟いてるように思えた。


しばらくこっちを見ながら声が無い言葉を呟いていた。


励ましているのだろうか、それともバカにしてるのだろうか。無表情でひたすら呟いていた。何処と無く、XJ400に乗っていた彼に似ていた。

「俺はここでバイクに乗らなくなったんだ」

そう言っているように見えた。思えば、彼はそのあと何故再びバイクに乗ったのか、理由を聞いたか、聞いてないか忘れてしまった。

そして、自分は何故そのあとバイクに乗らなくなったのか、考えてみた。

いつもアパートの駐輪場にあるからいつでも乗れた。良く晴れたツーリング日和の日も数えられないくらいあった。なのに乗らなかった。乗り続けていたらこんなことにも遭わなかった。

そもそもなんでバイクに乗ろうと思ったのだろう。


考え込んで、ふとカモシカを見るとまだ何か呟いていた。


やはり、ただ口を動かしているだけだった。


風が急に強くなり始めた。山全体の木々がざわめき始め、空を覆うほどの枯葉が舞った。

たちまち風に吹かれ、霧がかき消された。


カモシカと同じタイミングで空を見上げた。

霧はなくなり、真っ黒な曇り空がポッカリと見えた。


視線を戻すと、カモシカはスタスタと上り坂に向かって歩いた。


上り坂の手間で止まり、一瞬身震いさせた直後、勢い良く坂を登った。

あまりに急に登り始めたので、思わず立ち上がってしまった。

しかし、立ち上がった瞬間には、カモシカは上り坂の遥か向こうの闇に消えた。

足音が記憶に焼き付けられるよりも速かった。その瞬間だけ、辺りが真空になってしまったようだった。


ただただ、呆然と上り坂の闇を見つめるしかなかった。



カモシカが消えた方から音が聞こえてきた。

断続的に跳ね上がっているような乾いた爆発の男、エンジンの音。


段々とこっちに近づいて来る。段々とけたたましさが増してくる。


この数時間か山の静かなせせらぎと風の音しかなかった。聞こえるから、うるさいに移り変わるのが早かった。


坂の上から轟音と共に眩しい一閃が放たれ、眼を直撃した。一瞬にして目が眩み、掌で遮った。


ハイビーム、バイクだ。


そのまま閃光とすれ違い、何か独特な排気ガスの匂いがフワッと鼻に付いた。

バイクの向かった先に振り返ると、キーっとエンジンの音をかき消すくらいのブレーキ音を立てた。

網膜に最初のハイビームの白い焼きつきの上に、真っ赤なブレーキランプの一閃が刻まれた。

バイクは100メートル先で止まった。フルカウルのスポーツタイプのバイクだった。

エンジンの勢いは収まり、断続的で乾いた、ダッダッダッと音を立てた。音に合わせて白いケムリがバイクの真後ろから突き出た2本のマフラーからポンポンポンとリズム良く出ていた。


転回して、再びハイビームを浴びて怯んだ。ゆっくり音とケムリの一定のリズムを保ってこっちに来た。

ロービームに切り替え、隠れて見えなかったライダーのシルエットが現れた。ブレーキをかけ、ギアをニュートラルに入れ、ブーツを地面に着けた。フルフェイスヘルメットのバイザーを上げ、こちらを不思議そうに見てる仕草が伝わった。

「こんなところで何してるんだ?」

ヘルメットで篭った男の少し高めの声が聞こえた。

「俺はここの地元のもんだけど、ここら辺は歩いて越えられる峠じゃないぞ。車でも故障したとか?」

やや高い声で彼は続けた。どこから話したら良いか迷ったが、誰かが通るのを待っていたことを思い出した。すっかり峠を歩くことが目的になっていた。

「あぁ、はい、バイクが動かなくなってしまいまして」

不思議とこの状況で恐怖もなく返事を返せた。

「バイク? おぉ、バイクかぁ・・、バッテリーでも上がったのか?」

「いえ、キック始動なんですが、動かなくて・・・」

「そうか、ちょっと見ようか?どこに置いてある?」

男はバイクから降り、ヘルメットを脇に抱え、辺りを見回しながら訊ねた。

「・・・向こうですね」

歩いて来た道の奥の闇を指した。

「うん?どこだ?」

「ずっと向こうで、ここから結構あります」

「どれくらい歩いたところだ?」

「えっと・・、2時間くらいですかね」

あやふやに答えた。

「そっか、場所はわかるか?」

「はい・・・。」

「バイクはなんだ?」

「セローです」

「250ccのほう?」

「いえ、225です」

「おぉ、渋いなぁ、後ろ乗れよ、バイク見るよ」

「いいんですか?」

暗がりでも、妙に嬉しそうな笑顔がわかった。

思ってもない助け舟に安堵したが、初対面の人の親切に照れくさい思いがした。

「俺、修理屋やってるからさ、見ないとわからないけど、乗ってバイクのところまで案内してくれよ」

男はバイクの方向を変えて跨り、背負っていたリュックサックを差し出した。

男のリュックサックを背負い、シートの後部に跨り、男の説明通りステップに足をかけ、タンデムベルトを掴んだ。

タンデム走行は初めてだった。

気恥ずかしかったが、バイクのエンジンがスタートした瞬間、あまりの音でそんなことは気にしている余裕はなくなった。

「あ、念のためこれ被って」

甲高いエンジンの音で途切れ途切れだが聞こえ、ヘルメットを渡された。

「あなたはいいんですか?」

彼は大きく首を縦に振った。

アクセルが開けられ、白煙を噴射しバイクは発進した。

同時に振動が身体に伝わり、自然とステップを踏んでる足とタンデムベルトを握っている手に力が入った。

おそらく、彼はいつも走るスピードより落として走っているようだが、それでも自分より速い走り方だった。当たってくる風はヘルメットを押し付け、首が曲げられない。

コーナーに差し掛かると、天地がひっくり返るかと思うくらいの遠心力がかかり、バンク角も地面すれすれかと思うくらい傾いていた。

「バイク近づいたら教えてよ!」

「はい!」

大きい声じゃないと音にかき消されて伝わらない。

とても会話にならないので、お互い黙った。

知らない男にバイクに乗せてもらい、いきなりこんな山道を走っていることが、昨日までの日常とかけ離れていて不思議でしょうがなかった。

小学校入前くらいのころ、親に自転車の後ろに乗せてもらったような感覚に近いものがあり、まだ会って十分も経ってないこの男に親近感が湧き出した。

自分のバイクに乗って走ったこの山は、また別のラインの取り方、上り方を提示した。

通り過ぎていく木々の間を覗いた。あのカモシカはもしかして何か呟いていたのではないか、そんなどうしようもない疑問を持ちながらバイクに揺られた。

何時間かはわからないが、疲れ切るほど歩いた長く、遠い道のりは轟音と白煙を巻き上げながら、まるでビデオのように高速で巻き戻されていった。

道のりと同時に歩きながら思い出したライダーの事も巻き戻された。

ハイビームに照らされてバイクを停めた駐車スペースが見えてきた。

「あれです!」

男の肩を叩きながら、カラカラの喉で叫んだ。

「おぉ!あれか!」

ゆっくりと曲がり、セロー225がハイビームに照らされていった。離れていた間に白と緑の車体に水滴がまぶされて、反射でザラメのように反射された。

程よいところにバイクを停め、彼にリュックサックを返した。マグライトを取り出し、点け、マグライトの柄を手渡してきた。逆光で彼の顔が照らされたが、陰影がキツくて、まだイマイチ顔の特徴がわからない。ヘルメットを取りながら受け取り、自分のバイクを照らした。


まず、自分が一通りやったとこ、キック始動と押しがけをやってみた。

さっきと変わらず、反応はない。

男はしばらく腕組みをして、ブツブツ唱えていた。おそらく、バイクの部品の話をしているが、部品のことはさっぱりわからない。

夢中になると独り言が漏れる癖があるにだろう。

何か予想がついたのか、今度はエンジンの辺りを調べ始めた。

リュックサックからレンチやらドライバーセットをガチャガチャ出し、何やら細かい部品を分解し始めた。

「ふーん」

一頻り部品を見てから、また腕組みをしてアスファルトに坐り込んだ。

「あんまり整備やってないね、汚れとかサビが酷いね」

「はい、一年くらい乗ってなくて、久しぶりに乗ったら動かなくなって」

「そりゃ、そうなるよ、これ古いモデルだしそれなりにみてやらないとね」

「原因はわかりそうですか?」

「うーん、キャブレターが原因だと思うけど、詳しくはわからないね・・・」

「直りますかね・・・」

「それもいろいろ分解しないとわからないね、ところであんたはどこから来たのかい?」

「A市です、ちなみにここはどの辺ですか?」

「A市かぁ、ここはB地方のC村ってところだよ」

「そうですか、道なりに走ってたら迷い込んでしまいました、実はケータイを忘れてしまって、ロードサービスやタクシーも呼べなくて、あの一番近い駅はどこですか? 今日はこのままにして明日取りに来ようと思います」

思いつく限りの考えを提示した。

「悪いコトは重なるねぇ、うーん、駅ってここら辺に公共交通機関はねえぞ」

呆れ顔で笑いながら答えられた。

「そうですか・・・、では麓に宿はありますか?」

「宿おろか、コンビニだってないよ、難だったら今晩は俺んちに泊まってけよ、バイクは明日取りに行って、A市までトラック動かしてる知り合いがいるから乗っけてもらえるし、大丈夫だよ」

「ホントですか?いや、でもそこまでしてもらうのは悪いですよ」

彼はバイクの後ろに周って、ナンバープレートをコンコンと叩きながら。

「ほら、自賠責も切れてるから任意保険も切れてるだろ、電話でロードサービス呼ぶたって大変だし、多分高くつくよう、困ったときはお互い様だ、遠慮しないで乗ってきな!」

グッと親指を立てた。暗がりで表情はわからないが、きっと良い笑顔で答えたのだろう。



山を下りる


再びタンデム走行で白煙と爆音を撒き散らしながら、山を降りる。車種はヤマハのTZR-250という2ストロークエンジンのバイクだそうだ。後で調べたことだが、この2ストロークエンジンの特徴は、体感した通り白煙と断続的な爆音でハマる人はハマるらしい。ガソリンにエンジンオイルを混ぜて燃焼させるため、白煙は独特な鼻に付く樹脂を燃やしたような匂いがし、その匂いも病みつきになるそうだ。

また、峠を下るとき、山の景色と今日の出来事が重なって、記憶が映画のフィルムのように戻された。まるでバイクが映写機になり、ホイールにフィルムが装填され、エンジンを動力としてフィルムが送られ、ハイビームの光源を通り、エンジンのピストンから伝わる振動のシャッターで間欠され、アスファルトの向こうの闇のスクリーンに映し出された。

斬りつけるような冷たい風を浴びる中、彼は平気でバイクを飛ばした。

麓に下りるまでお互い黙っていた。


 ガレージ


 凍えながら揺られること数十分、ようやく麓の町にたどり着いた。曲がり角ごとにある街灯が出迎えた。コンビニや店はなく、錆びついたトタンの家屋がポツポツと建ち並んでいた。他の車や出歩く人はいない。そのうちの一つのトタンのガレージの前に停まった。暗くて見えにくいが「◯◯オート」とある、修理工場のようだ。バイクから降り、男はポケットから小さな鍵を取り出し、シャッターを開けた。

ガレージ内の蛍光灯を点けると、前面には値札の付いたスクーターが10台ほど並び、奥にはリフトで上げられタイヤを外された軽トラックや、トラクター等、農業用に使われていそうな車が大小五六台が修理待ちの状態だった。男はバイクを押してガレージの中に入れた。蛍光灯の白い光で、その時初めて男のバイクと顔のディテールが見れた。バイクは赤と白のフルカウルのスポーツタイプのバイクでTZRと書かれていて、赤いラインがフロントタイヤからリアに向かっていて、その赤いラインはさらに白いラインが斜めに等間隔で入っている。白いバイクにプレゼント用の赤いリボンが巻きついているように見えた。

男の顔のディテールは、目が大きく薄い茶色い日本人としては珍しい感じで、その目を活かすために長細い額や鼻や頰が組み立てられていてトゲトゲした短髪が覆っている、良く言えばシャープな、悪く言えば鋭く貫かれそうな怖い顔つきだ。おそらく歳は近そうだった。作業用のツナギに上にメーカーのロゴがたくさん付いた本格的なライダースジャケットを着ていた。中に案内されて、スクーターやトラクターをかいくぐり、ガレージ奥の事務所スペースに通された。ガレージの中にプレハブで出来た事務所だった。壁はビリヤード台みたいな緑のペンキで塗られていて、中には簡易的なキッチンと冷蔵庫、パソコン机と黒いガムテープで補修された黒い革張りのソファーがあり、至る所に西部劇や往年のアメリカの映画のスター、ジェームス・ディーンやスティーブ・マックイーンなどポスターが壁に貼られ、アメリカのガソリンスタンドやダイナーに置いてありそうなランプや掛け時計等の雑貨、わかりやすく例えるとヴィレッジバンガードに売ってそうな雑貨が散りばめられていた。

「コーヒー?お茶?」男はエアコンを点けやかんに火をかけ始めた。

「あ、腹減ってるか?」

「そうですね。何も食べてないですね。」男のさりげなさについ、遠慮もなしに答えてしまった。男は流しの下のダンボールからカップラーメンを取り出した。

「実は、俺も腹が減ってたところだよ。ソファーでゆっくり休みなよ。」ソファーにゆっくり腰を下ろすと骨中がボキボキと冷えと疲れで溜まった悪性のガスが吹き出たような気がした。事務所の窓に目をやると、エアコンの熱でびっしりと結露していた。滴がぶつかり合い、お互いを喰い合い、大きくなって落ちていくの眺めていた。

「しかし、全然整備してないバイクで無茶するねぇ。途中で何かあって警察に見つかったら、自賠責無しで免停になっちまうよ」カップラーメンにお湯を注ぎながら話してきた。

「そうでしたね。つい衝動に駆られて」テーブルに置かれたカップラーメンは100円均一でよく売られているような量が多いもので、味噌味だ。赤いマグカップにインスタントコーヒーを淹れてくれた。さっきはお茶かコーヒーか尋ねていたが、どうやら彼はコーヒーの気分らしい。冷えきった手でいきなり熱いマグカップを掴んだものだから、一気に手が温度差で振動し始めた。

「でも、気持ちはわかるよ。こう、フって何か何かに噛まれたように乗りたくなるんだよな」男もマイカップであろうステンレスのマグカップでコーヒーを啜った。

「まぁ、そんな感じですね」体に溜まった冷気を吐き出し、代わりに二口目のコーヒーを啜った。

「あんたもそんな歳くってないと思うけど、あのバイク選ぶなんて渋いな。というかなんでアレなんだ?型も古いし、キック始動だけって大変だろう」

「古いから値段も安かったのもありますけど、一番は雰囲気ですね」

「雰囲気?」

「バイク屋の並んでるバイクの中で一番隅っこで、ひっそりと佇んでて、大人しそうというか、こいつならいろんなところを駆け巡れそうな気がして、ちょっと変ですかね」

「ハハッ、いや、バイク乗りなんてそんなもんだよ。もともと車と比べりゃ利便性なんてないし、乗りたいやつを選ぶよ」

「でも、やっぱり古すぎでしたかね。もうちょっと新しいのを選べばよかったでしたかね」

「なんの、そんなことは関係ないよ。フレームにタイヤ二つとエンジン付いてりゃなんでも大丈夫さ。ただ、ちゃんと見てやらないとダメだけどな。俺の乗ってたやつなんて、あんたのと同じくらいの年式だぜ」そう言われて、TZRを凝視した。言われればデザインやロゴは確かに80年代っぽい。男のメンテナンスが行き届いているのか、カウルは曇りなくピカピカで、金属部分も錆も見当たらない。「さらに言っちゃうとそのバイクは、この間まではボロボロでフレームとホイールくらいしか使い物にならなくて、他のパーツは同じ型の廃車になったいろんなバイクから集めたんだ。ニコイチとかじゃなくて、ジュッコイチとかかなぁ。塗装も元どおりにしたんだ」そう言われて、もう一度バイクを凝視した。言われても全くわからず、新車のように艶やかだった。

「さすが、プロですね。まるで買ったばっかりみたいですよ。しかも速いし」

「このバイクはもともと速いバイクだからな。さっきの山は、昔はこんなバイクで溢れかえってたらしくてよ。峠なら最速のバイクなんだよ。俺はバイクってのは買うもんじゃなくて作るもんだと思ってて、昼間の修理の仕事が終わったらこんなことしてるんだ。これもいくらで売ろうかなぁ」

「せっかく作ったのに売るんですか?」

「あぁ、気に入って乗ってくれる人がいればそれでいいんだ。それに自分のバイクは一台でいいし」

「そうですか、ということはもっと速いバイクを持ってるんですか?」

「うーん。速くはないね。見るか?」事務所スペースを出て、ガレージの反対側の隅っこに置いてある埃が積もった大きな厚手のビニールカバーに包まれたものの前に立った。

「人に見せるのも、自分で見るのも久しぶりだ」男は思い切りカバー引っ張った。積もっていた埃は舞い上がり、蛍光灯の光線の輪郭を産み出し、封印されていたものの上に降り注いだ。

舞い上がる塵の中から錆びついた大きな金属の塊が見えた。埃の量が凄まじく、だんだん落ち着いてくると、大型のバイクのディテールが現れた。

まるで眠っている獣のように巨体を踞らさせているような出で立ちで、美術館でみたことあるような不思議な金属のオブジェにも見える。

「ボロボロだけどな、これはハーレーだよ」やや自慢げに鼻をこすりながら言った。

「ずいぶん年季が入ってますけど、動くんですか?」知識不足で価値がわからず、率直に聞いた。

「今は動かない。結構直したつもりなんだけど、まだまだでね。部品を取り替えれば、また次の部品が壊れたりして、手がかかるんだ」ため息混じりで答えた。

「前は乗れたんですか?」

「あぁ。俺が一番最初に乗ったバイクだよ」バイクのシートをそっと撫で、積もった埃を指の間に絡ませた。「ハーレーダビッドソン、ショベルヘッドっていって、排気量は1200cc。メイドインUSA。最高のバイクなんだよ。さすがにバイク乗ってるならハーレーはわかるよな?」

「えぇ、ほとんど名前だけならわかりますが。まだ大型の免許も持っていないので」

「そっか。ハーレーはな、バイクの中の王様なんだよ。どこが良いの?って言われても一言では答えられねぇ代物でよ。ハーレーでもいろんな種類があるんだけど、このショベルヘッドはたまんないんだよ」アクセルやレバー、チョーク等をいじっている男の眼は輝いていたが、その奥には何かに後ろめたいような引っかかっている雰囲気も見えた気がした。

「このバイクはな、すごく手がかかるんだ。エンジンかける時もまずチョークを引いてエンジンをあっためないといけない。いきなり走ろうとするとものすごい機嫌が悪くなるから、ゆっくり3分くらい、寒い日は5分くらい温めてやるんだ。もう温まったと思ったら、エンジンの演奏が始まるんだよ。ツコツコツコ、タパタパタパ、これが良い具合にリズミカルで、アクセルを開けてやると、ドゥルルン、ドゥルルンと唸るんだ」今までバイトに乗っている人は数は知れているが、説明で擬音を使う人が多い気がした。「それで、クラッチを繋いでやるとギアに駆動がかかってこの巨体のハーレーがドゥルルルルンって動き出すんだよ。動き出したらもうあっという間に100キロ200キロの距離なんてあっという間に走っちゃうんだよ。まぁ、コーナリングはバンク角付けすぎると車体の底とかマフラーをガリガリ、アスファルトに擦っちゃうし、交換用のパーツは高いし、ちょくちょく調子が悪くなる。正直、ものすごく手間がかかるんだ。でも、この乗り味、エンジンの音と響き、乗らないとわからないよ」男はまるで少年のように語る。

「なんで最初にハーレーに乗ろうと思ったんですか?その、きっかけみたいなものって」少し冷めた感じで尋ねた。

「きっかけか・・・。さっきの事務所のインテリアもそうなんだけど、俺はアメリカの文化に憧れてたんだ。何から何まで、アメリカって感じがするものが好きでね。特にアメリカ映画が大好きなんだ」

「映画好きなんですか。きっかけは映画なんですね」

「あぁ、一番好きな映画は『イージー・ライダー』って映画なんだ。知ってるか?」

「えぇ、知ってます。ちゃんとは観たことはないですが、バイクで旅する映画ですよね」

「そっかぁ、ちゃんと観たことないのか。あれは観た方いいぞ。人生損してるぞ、おい」少しガッカリした感じで言われてしまった。

「二人の男が、ハーレーに乗って自由を求めて旅するんだ。それでいく先々で、いろんな人に会ったり、または差別に会ったり、あんまりストーリーを追っていくのが苦手な俺でも考えさせられる映画だったんだ。ハーレーに乗ってアメリカの広大な絵ハガキでしか見たことがない風景をツーリングする場面だけでもかっこいいんだよな」

「昭和で言うヒッピーたちが暮らしてる村に行ったり、パレードに行ったら警察に捕まったりするんですよね」

「あれ、ちゃんと観てない言う割には覚えてるじゃないか」

「どうでしょうね、映画はよく観てたんですよ。ただ、ちゃんと観てるかは自分でもわからないです」

「なんだそれ。変なこと言うね、でも見てるじゃないか。まぁ、いろんな形の自由があるんだよな。社会から外れて人里離れて暮らす自由、バイクでアメリカを駆け抜ける自由。あの映画でアメリカに憧れたんだ」

「それでこのハーレーに乗ってたんですか?」

「あぁ、うーん、結果的に買ったって言った方がいいかな」急に難しい顔になった。「バイクを買う前に、本当はアメリカに行こうと思ってたんだ。そのためにお金を貯めたし、英語も勉強して、ビザも取ってあとは空港から飛行機に乗っておさらばするだけだったんだ」

「行かなかったんですね」

「うん。直前になって急に考えちゃってね。アメリカに行っても、俺の求めてる自由は無いんじゃないかって」

「どんな自由が欲しかったんですか?」

「そうなんだよ。俺の自由ってなんなだろうって漠然と考えちゃってね。自由っていうよりアメリカに行ってなにしたいかわからんくて。『イージー・ライダー』のようにハーレーでツーリングしていろんなアメリカ中をツーリングしたり、なれない英語で人と交流するのが身苦的ではないしなぁって」

「アメリカに行ってもあんまり意味がなさそうって思ったんですね」

「そりゃ、行けば新しい何かはあるよ。でも、本当にアメリカにあるのか疑問に思ったんだ」

「なんとなくですが、わかるように気がしますよ」

「アメリカの旅費に充てるつもりだったお金で、免許を取って、こいつを買ったんだ」ハーレーのシートをポンポンと叩いた。

「このバイクに乗って、変わったこととかはあるんですか?」

「変わりはしなかったね。買ってからしばらくは毎日、朝から晩まで乗ったよ。こんなにデカイけどタンク容量が少なくて、一日ガソリンを使い切るまで走った。元々古いバイクだから、走る度にいろんなところにガタがきてね。バイクの修理の知識もおかげで増えたよ。そのうち、近いところだけのツーリングに飽きて、北海道から沖縄まで旅したこともやったよ」

「日本版『イージー・ライダー』じゃないですか」恩人を茶化すのはしたくなかったので、慎重に答えた。

「良い旅の思い出にはなったし、いろんな人にも会って、やっては良かったと思う。でも、帰ってから余計に何やっていいか余計にわからんくなってね」ため息が白く吐き出された。

「これで本当に良かったのか、楽しければ良いのかってことですよね。僕も似たような感じに陥ったことあって、それでバイク乗らなくなって、久しぶりに乗ったらこの有様ですよ」

「そんなもんだよ。実はこのハーレーもその冒険のあとにすぐ動かなくなっちまったんだ」しんみりとしゃがんでエンジンを見つめていた。

「あなたの腕ならすぐに直せそうな感じがしますが、難しいんですか?」

「そう思うか・・・。その気になればすぐに、一晩で直せるかもしれない。ダメでも部品を取り替えればなんとかなる。でも、バイクの問題じゃなくて俺の問題かもな。いざ直そうとすると集中できないんだ。いつだって、こいつを早く直して走り回りたいと思ってるんだけど、夏休みの宿題みたいにいつでもやれるから大丈夫だ。今はやらなくて良いってなるんだ。あのTZRとか他のバイクはすぐに直せるんだよ。今までも何十台も直せた。なのにこのバイクだけは手がつかないんだ」男の言っていることはなんとなくわかった気がした。キリキリと胃が締め付けられた。

「バイクは一年乗らなかったんです。買ったときは毎日乗ってましたが、だんだん乗らなくなりましたね」

「最後に乗ったのはいつぐらいだ?」

そういえば、最後に乗ったのはいつかは全く覚えていない。例えると中学まで遊んでいた友達が、お互い別の高校に上がると遊ばなくなり、最後に会ったのはいつか覚えていないそういう感覚だ。

「覚えてないですね。事故したとか、何かトラウマになったんじゃなくて、こう、糸がぷっつり切れたみたいに乗らなくなりましたね」

「俺がなかなかバイクを直さんのと似てるかもな」

「やりたいことがあってもズルズル先送りにしてしまうんですよね、せっかくバイク買ったのにいつでも乗れるだろうって」

「時間は限りあるからな。俺ももっとやりたいことはあるんだけどな、なんかこんな山に篭ってトラクター直したり、バイク直したりしてるとあっという間に時間が過ぎてるよ。その分いろいろ考えることもできるけど」

「やりたいことなんて僕にはないんですよ。本当に今日は何か探すためにふらふらと山に吸い込まれた気がします」

「そうか、面白いやつだな。この山に吸い込まれたワケがなんとなくわかる気がするよ。この山はな、今は誰も来なくなっちゃったけどな、十数年前くらい前はバイク乗りのメッカの場所だったんだ。速さを、勝つことを求めてこの山に集まったらしい。もちろん俺はその時代に生まれちゃいないから見たことないけどな。週末の夜になるとバイクだらけになったそうだ」

「そんな時代があったって聞いたことありますよ」友人を亡くした黒いライダーのことを思い出した。

「なら、話が早いか。今じゃ考えられないけど、高校のクラスがあったのなら半分以上の男子がバイクに乗ってて、バイクも今よりも安くて、規制も少なくて、毎週誰かが事故って、怪我するか死んでた時代らしい」

「知り合いでその時代の人がいましたよ。やっぱり友達を亡くしたそうで」

「そうか、周りにもいるんだな。ここら辺に住んでるおじいちゃんおばあちゃんに聞くと、もうすごかったらしいよ。山中唸ってたらしいし、事故なんてほぼ毎回あったって。こんなところなら警察もなかなか来れないからやりたい放題だったみたいでな」

「今じゃ、あり得ないですね。そんなみんなが誰でもバイクに乗ってる時代だったら、僕はかえってバイクに乗らないかな」

「俺なら乗ってるな。ひょっとして大勢でツーリングはあんまり好きじゃなほう?」

「今日みたいに一人でダラダラとあてもなく適当に走ってるのが性に合ってますね。あの赤いバイクでかっ飛ばすのとハーレーで荒野を駆け抜けるのとどっちがいいんですか?」

「ハーレーって言いたいけど、TZRで峠を攻めるのも捨てがたいね。今じゃこの山は誰もいないから退屈だよ。バイクブーム全盛期なら毎日勝負を挑めて、友達も多かっただろうに」

「ずっとこの山にいるんですか?大変じゃないですか?」

「うーん。十年近くいるかな。ここら辺は同業者はいないし、仕事もぼちぼちあるし、バイクの修理も集中できて小遣い稼ぎにもなるから、まぁまぁやってけるよ。あとは何もないよ」

「長いですね。ここから下りようとは思わないんですか?」

「今でもどうしようか考えてるけどな、なかなか腰が重くてね。そっちはどうなんだ?」不意に自分のことを話そうとするとなかなか言えない。

「普通の会社員です。毎日、家賃と生活費を捻出するために働いているので、あんまり好きなことはできないですよ。車も維持費が払えなくて買えない有様です」つい、不満を言ってしまった。

「なんかキツそうだな。でも、普通に働けば、保証もあるし、年金もあるし先のことも考えればいいじゃないか。俺のほうが大変だよ。自営業だから手続きとか全部自分でやらないといけないし、手続きだけで一週間くらいかかったりするよ」

「僕から見るとかなり自由に見えますよ。好きなことをして生活してるのって」

「そっか、不満はなくはないけど、まぁまぁ、満足してるよ。長くは続かないと思うけど。その気になったら山を下りるよ。」

「そうですか。僕も今の会社をいつまで続けるかはわからないです。今のところ、どうにか生きていけるけど、いつももどかしく感じますよ。」

「誰だって思ってるよ。思い描いた生活とか人生って辿るのは無理だよ。特にバイクに乗る奴は、何かに憧れて触発されて乗る奴が殆どだ。それが学校の先輩だったり、サーキットだったり、映画とかさ。車と違って、どうしても必要だから乗る乗り物じゃないし、社会的に見ても存在意義は薄いよ。趣味のマシンだって言われたらそれでお仕舞い」

「そうですよね。法的な規制も多くてブームのときのようなバイクは少ないです。買うときは、新車で買おうとしたのですが、あまり選びようがなくて」

「今や、バイクなんて若い頃に乗ってた人がリターンで乗るか、社会のはぐれ者しか乗らないな。時代や映画に憧れて、自由を求めても自由にはなれない」

「かっこよく乗ろうとしてもかっこよく出来ないし、僕みたいな有様ですよ」

「そうは言っても乗ったやつにしかわからないことが多い乗り物だよ。これに懲りずに自分なりにかっこよさと自由を求めればいいさ」

「バイクってやっぱりいいよ」


カップ麺が伸びて麺がふやけてしまったことはお互い気付かなかった。



山の朝


朝食を済ませた後、錆だらけのカーキ色の軽トラに乗り、山に向かった。つい数時間前までは、闇に覆われていた山道は、朝の光でキラキラとアスファルトが輝いていた。カーブが多い山道は、ボロい軽トラをキシキシと鳴らした。

朝空はピンクとコバルトブルーの油絵の具をグニャグニャと混ぜたような絵画的に見えた。朝食に頂いたピザトーストが歯の裏にくっついているのがもどかしい。道なりに進むと、カモシカに何かを告げられた坂の麓に近づいた。昨夜は坂を見下ろしていたが、今は坂を下りながら、陽が当たるその場所を眺めた。

ギアを一つ下げ、エンジンブレーキを効かせながら下る。

「ここら辺でカモシカを見ましたよ。よく出るんですか?」急に聞いてみた。

「カモシカ?いるんだね。俺は見たことないけど、いろんな動物がいるらしいよ。オオカミもいるらしいよ。よくここに迷い込んだ人が行方が分からなくなるんだ。」男の顔が一瞬、オオカミのようにも見えた。

「オオカミって絶滅したんじゃなかったんでしたっけ」

「ハハ、バレたか」

「流石にオオカミじゃわかりますよ。クマとかならわかりますけど」

「クマはいるらしい。今の時期は冬眠してるよ。秋口なら、お前食い散らかされてたかもな。カモシカか、十年近くいるけど見たことないなぁ。カモシカってどんな動物だっけ。シカと同じだっけ」

「モコモコした毛で覆われてて、シカと比べると脚が太くて、ちょっとずんぐりした感じですね。カモシカは名前にシカが付いてるのですが、シカ科の動物じゃなくてウシ科の動物だそうです」

「へー。ウシの仲間なら、動きとか鈍そうだな」

「そう見えるんですが、さっき通った坂を軽々と登っていきましたよ。しかも結構早いスピードで」

「見てみたいなぁ。普段はガレージで篭りっきりで、レストアしたバイクをテストしたりしか山に行かないからな」

「坂を登る前に立ち止まって、こっちを見て口をモゴモゴ動かしてたんです。おそらく反芻だと思うのですが、それが僕に何か話しかけているような気がして。ちょうど、あなたがバイクで通りかかる前ですよ」カモシカと遭遇した場所を通過した。

「俺なら、何をモヤモヤしてるんだ。バイクはメンテしてから乗れって言うかもな」笑いながら言われてしまった。的のど真ん中を突かれてしまった。

「おいおい。ごめんって。冗談だよ」

「いえいえ、完全にその通りですから・・・」

「気を落とすなよ。何があったか聞かないけどさ、誰もが通る悩みだと思うし、バイクは必ず直るさ。バイクが直ったらたくさん走ればいいよ。悩んだら乗るんだよ。そのために買ったんだろ。あのバイク」

油絵のような朝の霞の中、あのバイクが見えた。

寒さのせいか、ボディにしっとりと霜が降りていて、哀しそうに自分を待っているように見えた。


「お、着いたぞ。降りたら積み込むからな。手伝ってくれよ」軽トラを駐車スペースに停めて降り、バイクの積み込みにかかった。キーを渡すとハンドルロックを解除し、軽トラまで押した。荷台を開き、公園のシーソーくらいの大きさの木の板を出した。板はタイヤの跡が真ん中に付いて黒くなった。男は板を荷台にかけ、ハンドルを押し勢いをつけて荷台によじ登った。

「よし、後ろから押して!」シートの後ろに手をかけ、勢いよく押した。自分の板の上に乗った瞬間滑りそうになった。バランスを崩す直前でバイクは軽トラの荷台に乗った。

「ふぅ」昨日の疲れも取りきれず、早朝で身体中の血液がパンパンになったような感じがした。山の寒さにもかかわらず、汗が一線滲み出た。

バイクは霜が降り、冷え切っていて、手が痛くなるほど冷たかった。このままずっと冷たいままなのではないかと不安になった。

「こっからが本番だぞ。バイクを固定しないと」荷台に積まれたツールボックスから蛍光オレンジの長いベルトが取り出された。再びハンドルロックをかけ、フロントフォークにベルトを巻きつけた。

「ぐらつかないようにしっかりバイクを押さえろよ」全体重をバイクにかけ、男の方は慣れた手つきでグッとベルトを引っ張り、軽トラの側面に付いたフックにベルトの端の輪っかを引っ掛けた。片方の端の輪っかも軽トラの反対側に同じように引っ掛け、リアキャリアにもベルトで軽トラに固定した。

最後にバイクを揺すり、ぐらつきがないか確認した。

荷台から降りて二人で同じタイミングで一仕事終えた後のため息を付いた。

「よし、帰るか」バイクのキーを手渡された。


元来た道を道なりに進んで行くと、男は何か思い立ったのか尋ねた。

「そうだ、せっかくお前さんいることだし一つ手伝ってもらっていいかな?帰ってもちょっと時間はあるけど」

「全然構わないですよ。何か手伝えることがあれば」

「ちょっと力仕事になると思うよ。よし、寄り道しよう」Uターンして、山の奥に向かった。

速度が上がると、山の木々の高さも上がった。空が隠れて見えなくなりそうなくらい進むと、急に軽トラは道を外れて曲がった。ガードレールにぶつかると思ったが、ちょうど車が一台通れるくらい、そこだけぽっかりとなかった。入るといきなり、強い衝撃で車が揺れた。脇道は林道で舗装されておらず、砂利やデカイ石ころでガタガタだった。男は器用にアクセルを踏み、細かくハンドルを切ったりして、やり過ごしていた。タイヤが石を一つ越える毎にガックンガックンとシートに後頭部が叩きつけられた。確実に石が車の底を擦っているような音が聞こえていても、男は特に何も思ってないようだ。むしろいつものことなのだろう。荷台に乗ったバイクがギシギシと揺さぶられて不安になった。揺さぶられ過ぎての岩だらけのグレーの残像だけフロントグラスに映っていたが、急にブラウンのハレーションに変わった。また急にハンドルを切ったようだ。男は「ちょっとキツイぞ」とか、そんなようなことを言っていたような気がした。

枯れ草の中を突き抜け、今度は丸太を越えた。車はまるでジャンプして着地したような衝撃をサスペンションで受け止め、余った衝撃が車内で小刻みにバウンドした。徐々に収まるとそれに合わせて、車もスピードを落とし停まった。



山の裏


「着いたぞ。降りるか」車から降りると周りは枯れ草で、腰までの高さまで伸びていてところどころドーム状に盛り上がっていた。森に囲まれた草むらのように見えたが、ドーム状の草は何かを覆っていた。近づいて、よく見ると錆びた車だった。隣をみて見るとバイクが、一帯の草むらの下に朽ちた車やバイクが山のぽっかり空いたグラウンドに野ざらしになっていた。車はフェンダーミラーのものがほとんどで、セダンやスポーツカー、バス、タクシー、パトカーまでもがあった。バイクもネイキッド、レーサーレプリカ、スクーター、時代を感じる改造を施された暴走族仕様のものまであり、錆びた乗り物の博物館でも作れそうなくらいの種類だった。

「これはあなたが集めたんですか?それとも不法投棄されたものとか?」

「いやいや、全然悪いことはしてないよ。ここは昔は解体屋の廃車置き場だったんだ。麓の町に自動車解体工場があってな、そこの社長さんがここに気に入った解体したくない廃車をここに置いてたんだよ。今はその工場は社長さんがもう歳だから閉じてなくてね。そこの社長さんの車を修理した時にこの場所をそ教えてもらって、持て余してるから好きに持ってっていいよって」

「あのTZRもここにあったんですか?」

「そうだよ。あのバイクは6台くらい転がってて使える部品だけ集めて組み立てたんだ。すごいだろ」自慢げに鼻を擦っていた。

「古い昔のものばかりだ。今じゃこんな車は見かけないです」

「その時代の使い捨てみたいなものだからな。昔のバイクや車は種類が多くて作るだけ作って世の中に流されてた。修理すればまだまだ乗れるものもたくさんあるはずなのに、時代が許さないんだろうな。修理しようにもパーツはもう作ってないし、みんないつだって新しいものを求めてる。時代に取り残されるしかないんだ」

つい、落ちていた車のヘッドライトを拾いしげしげと眺めた。いつの時代のものだろうか。ヘッドライトは丸く、ガラス部分は格子状にカッティングされている。

「おい、見ろよ!」ボロボロのスクーターに跨って、足で漕いで現れた。

「はしゃいでますね」

「これ、ベスパだぜ。ほら、ローマの休日に出てたバイクだ」鋭い顔つきに笑顔のシワが刻まれていた。

「わかりますよ。二人乗りでオードリーヘップバーンがローマを暴走したスクーターですよね」

「流石!わかってるじゃないか。俺がオードリーでお前がグレゴリーペックで乗ってみないか」大の大人がはしゃぐのを初めて見た気がした。全身の疲労の底力と、もうどうにでもなれというエネルギーでベスパに飛び乗った。二人でギクシャク地面を蹴り合いながら、スクラップ広場を駆け回った。

お互い、腹の底から腹筋が痛く鳴るほど笑った。


「行くぞ、大ジャンプだ」そのままの勢いで、ボロボロのソアラのボンネットに前輪を上げて乗り上げた。

前輪がボンネットに当たったところで、錆びたベスパのハンドルがボロッと砕けてしまい、二人は冷たい霜だらけの枯れ草に放り出された。

転げ落ちてもまだ笑った。


山のカラスが森から三羽飛び去ったところでようやく笑い止んだ。


「いつもこんなことしてるんですか」

「お前も一人だとやらないだろうが」

笑いすぎて二人共息が上がった。

「さてと、そろそろ本題に入るか」男は体を起こし、小さい草のドームを一つ崩した。中からバイクが出てきた。ネイキッドバイクだ。他の錆びているバイクと違い、焦げ付いたような黒いバイクだ。


「こいつはCBX400ってバイクで、今じゃこいつも巡って奪い合いがあるほどの人気のあるものなんだ」バイクの名前を聞いてゾッとしてしまった。しかも、焦げている。あの黒い革ジャンのライダーの死んだ友人のバイクなのか、それともたまたまなのか、不安になった。

「だいぶ焼けちゃってるけど、似たようなパーツを揃えればなんとか動くかもしれない」

「焦げてますけど、何があったんですかね・・・」恐る恐る尋ねた。

「恐らく、転倒してガソリンが漏れて火が点いてしまったのかな、持ち主とは悲しい別れをしたのは間違いなさそうだ」男はバイクの焦げ付いたエンジンを撫でた。ふいに、ハンドルを握ってみた。このバイクがあのバイクかどうかはわからないが、きっとそうではないかという小さな確信が芽生えた。

「知り合いの友人が、このバイクと同じものに乗って亡くなったそうなんです」

「そうか、事故に遭ったのか。俺も転けたことあるし、友達に事故に遭って大怪我を負った奴もいるよ」


「こんな楽しい乗り物なのに、呆気なく終わってしまうんですね」

「そうだな、車と違って剥き出しだからな。雨や風もぶち当たるし、ガソリンや排気ガスの匂いも感じる。もちろん、自分が操作したアクセルやブレーキのアウトプットした感情もある。自分がそのまま走ってるんだからな。そりゃ怪我するときは怪我するし、死ぬときは死んでしまう。責任が激しく伴うな」

「その責任に自分が耐えられるか自信が無いんですよ。それで昨日まで乗る自信が無くて、楽しさを求めて乗ったら、バイクを壊してしまう有様ですよ」

「俺だって、長く乗ってても、心の片隅には、自信が持てない部分があるよ。今だってもしかしたら、明日事故って死ぬんじゃないかと思うよ。でも、それでも乗らないとわからないことが多い」

「僕のバイクが直ってもまた乗れるかわからないです」

「なら、また乗りたくなったら乗ればいいよ。乗らないとわからないことは多いけど、俺は、バイクを降りてこうして修理したりして、わかることも多い。機械的なことじゃなくて、なんで俺は修理し続けるのだろうかとかさ。あのハーレーを未だに修理出来ないのは、お前と同じように自信が無いのかもしれない」

日が昇り始めた空にさっきのカラスが鳴きながら舞っている。

「なんか気い悪いことしたな。戻ろうか」男はバイクをそのままにして車に戻ろうとした。

「持って行きましょうよ。このバイクを。また元気に走れるようにしてください」男を呼び止めた。男は笑顔で振り向いた。


再びガレージへ


CBXとセローを積んだ時の逆の手順で軽トラの荷台から降ろし、ガレージの中に押し入れた。

「今からちょっとお前のバイク見てみるから、コーヒー沸かして来てくれないかな。寒くて手がかじかんじゃって」ガレージ内の大きいツールボックスから、使い慣れてそうなソケットレンチやドライバーを手に取りながら言われた。

「わかりました。濃さは普通でいいですか?」

「ほんのちょい濃いめで、うーん。任せるよ」


事務所のキッチンでヤカンに火をかけ、テーブルに置いてあった本の数滴のコーヒーが入った二つのマグカップを濯ぎ、大体の目安でネスカフェエクストラを振り入れた。

ヤカンが鳴るまでの間、バイクと男の仕事を見ていた。

ガレージの窓と扉の隙間から差し込む熱を持たない朝の陽光が、ガレージ中にあるスクーターのミラーや風防のガラスに当たり、乱反射し、室内に漂う散りを可視化させた。いくつものスポットライトのように男と僕のバイクを照らした。ガレージの隅に置かれたCBXはわずかな光があたり、焦げ付いていない部分がキラキラと輝かせていた。


コーヒーを持って行ったところで、ちょうど故障の調査が終わったようで工具を地面にカタンと置いた。

「バイクどうでした?」もしかしたら、直らないのではないかという不安を押し殺して聞いた。

「おぉ、ありがとう。原因は大体わかったよ。やっぱりここで直すのは時間がかかちゃいそうだな。買ったバイク屋に任せるんだね」

「直せそうなんですか。良かったです」

「キャブレターがちょっとダメになってると踏んだよ。クリーニングして、もしかしたらフロートかバルブがダメになってるかもしれないが、取り替えれば大丈夫だが、他の部品もだいぶ痛んでるから、いっその事全部取り替えたほうが長く乗れるよ」かじかんだ手をマグカップで温めながらコーヒーを啜った。

「良かったです。帰ったらさっそくバイク屋でお願いしてきます」直るとわかって身体中の不安のガスが一気に抜けた。

「だけど、やっぱりお前はもっとバイクを見てあげたほうがいいな。チェーンがサビサビだし、ところどころネジが緩んじゃってるよ」

「そうですね。これからはもっと大事にします・・・」

「まぁ、あんまり自分を責めようとするなよ。これからだな、これから大事にすればいいんだよ。バイク屋に行くならこの際、いろいろ聞いてみるといいよ。キャブレターのクリーニングのやり方も聞いてみればいいよ。自分でやれることは自分でやって、やれないことはバイク屋に任せればいいよ。まぁ、バイク屋に任せて貰えば、同業者としては助かるけどね」

「はい、バイクについて一から、知ろうと思います」お互い白い息を吐きながらコーヒーを啜った。


二杯目のコーヒーを飲み終わった頃、外から地響きと大きめのエンジンの音が聞こえてきた。扉が開き、黒ずんだ赤いつなぎと赤いキャップのおじさんが入ってきた。

「よぉ、ちょっと早めに着いちゃったけど、大丈夫かな。お、お客さんか珍しい。どうもこんにちは」急に挨拶され、しどろもどろに挨拶を返した。明るい気の良さそうな人だった。どうやらこの男の仕事仲間らしいことはすぐに悟れた。

「早いですよ。そろそろ連絡しようと思ったところですよ」バイクの点検で汚れた手をつなぎの下で拭きながら男は応対した。

「俺もレストアしたあのバイクを早くみたくてな、楽しみで早めに来ちゃったよ。どうあれは?」おじさんはニヤつきながら、キャップを被り直した。男もニヤニヤしながらTZRにかかったビニールのカバーを外し、おじさんの方に押して持ってきた。おじさんは興奮しながら、バイクの隅々まで眺めたり触ったりした。

「すげーな。ここまで直ったのか。これ、もう新車だよ。エンジンもピカピカだし、カウルも納車されたばっかりみたいだ。これ、塗装もやったのか?」興奮で息が上がったてた。

「そうですよ。塗装も力入れましたよ。当時出たばっかりの雰囲気を出すために塗料の調合に苦労しましたよ。いつも通り、足りないパーツは他の流用と手作りですけどね」

二人とも、子どものように聞き合い教え合いのやり取りをしていた。バイク好きは話に花が咲くと仲の良い小学生のように見え、その光景をみていると、その境界に入れない自分に気付き、孤独な気がした。本当に楽しそうだった。

「ちょっと、その辺走ってみてもいいか?」

「最初からそのつもりで、早く来ましたね」

「あら、バレちゃった?」おじさんはニンマリとトボけた。

「まだ何も登録が出来てないから、昔を思い出して無茶しないでくださいね」それを聞いて、よく見るとこのバイクにはナンバープレートが付いていなかった。

「任しとけ、このバイクには乗らずにはいられないよ」そう言っておじさんは外に出て、ヘルメットとレーシングウェア持って来て、いそいそとその場で着替え始めた。

「流石、準備いいよなぁ。よし、バイクを外に出すから手伝ってくれよ」おじさんがドタバタと準備をしている間に、二人でガレージの外にバイクを押し出した。外に2トントラックが止まっていて、ドアが開けっぱなしになっていた。よっぽど楽しみではしゃいていたのだろう。バイクのサイドスタンドを蹴り、準備が整ったところで、TZRのカラーリングにぴったりな赤地に白いラインの入ったヘルメットとウェアを着たライダーが走って出てきた。格好だけ見ると、もうさっきのおじさんとはわからないくらい完璧なライダーだが、興奮してちょこまか動く仕草は、やっぱりおじさんだった。

「もう、はしゃぎ過ぎですよ。事故らんでくださいよ」男もそう言いながらも楽しそうだった。

「だってよ、俺の青春時代のバイクだぜ。じっとしてられるかよ」手を震わしながらバイクに跨った。手渡されたキーをイグニッションに差し込み、ゆっくりと回した。スターターが解き放たれると猛烈な爆音が巻き起こった。おじさんは到底理解できない言語のようなものを叫び、一気に山の方に消えてしまった。


白い煙が落ち着いてきた。

「自由な方ですね。あのバイクはあのおじさんに譲るんですか?」

「いやいや、あのおっちゃんの店で売って貰うんだ。ここに置いても誰も買いに来ないからな。つくづく自由だよなぁ、俺も羨ましいよ」男は手をポケットに入れ、鷲のような鼻で、薄くなった白い煙をやんわりと吸った。

「あのおっちゃんが戻ってきたら、一緒に乗せてって貰えば帰れるよ。△△に店があるから、お前の住んでるところは途中で寄れるよ」

「わかりました。いろいろお世話になってしまってありがとうございます。何かお礼をさせて下さい」上着のポケットにある財布からお札を取り出そうとした。

「何を言ってるんだよ。困ったときはお互い様だし、お前は俺の話し相手になってくれたし、仕事の手伝いもしてくれた」

「いや、でも・・・」僕は続きを言いかけようとすると遮った。

「それにこの出来事をお金で締めくくりたくないんだ。それを受け取った瞬間に俺もお前も自由じゃなくなるぞ」

「わかりました。でも何か今度・・・」

「また、来てくれよ。バイク直ったら山を走ろう」



二十分ほど経つと、日は真上に登り、朝の油絵のような色はなくなっていた。爆音が山から近づいて来た。出発したときの勢いを失っていないようで、近づくほど、音の記憶を思い出し、バイクの色やフルカウルの形状が頭の中で結びついた。

バイクは止まり、ライダーはヘルメットを取ると、元のおじさんのにこやかな顔が現れた。

「うぅ、やっぱりいいよこれ。2スト以外もう乗れる気がしないね。もうずっと乗ってたいよ」

「じゃ、もう自分で買っちゃえばいいじゃないですか」

「そんなことしたら嫁さんに怒られちゃうよ。でも絶対、大事に乗る奴にしか売りたくないね」

「そうですね。俺も手塩にかけて直したんだ。いい奴に乗ってもらいたい」男は目を細くしてシートをポンポンと撫でた。


男はおじさんに僕の事を山の遭難者と説明し、おじさんのトラックにバイクと一緒に乗せてもらうことになった。

二台のバイクの積み込みに取りかかった。トラックにレールをかけ、まずは赤いバイクから積み込んだ。男はゆっくり一呼吸置いた。そして、一気にバイクをトラックの荷台のホロの中に押し込んだ。軽トラにバイクを積んだ同じ手順で固定し、ベルトをキュッと結んだ。男の額から熱そうな汗が流れていた。つなぎのポケットに手を突っ込み、背中を丸め、バイクを見てフッと息を吹いた。おじさんは唇を噛んでいた。それから、緑のバイクを積み込んだ。何か太古の儀式をしているような静寂な時間だった。


「帰ったら、手続きの連絡しとくな。先に乗ってる」おじさんはフッとトラックに乗り、パタンとドアを閉めた。僕らに挨拶の時間を作ってくれたのだろう。


お互い向き合うと、自然にニッと笑ってしまた。

「助けてもらったうえに、とても楽しかったです。久しぶりに小学校の友達と話してるような気がしました」とても照れ臭いことを言ってしまった。

「俺も数年ぶりに歳が近そうなお前と話せて良かったよ。バイクの乗り方も練習しとけよ」

「はい」お互い笑いっぱなしだった。

「じゃ、また」



バックミラーの中にいる男は小さくなって行き、ガレージの中に戻る様子まで確認できたところで同じように小さくなる山をウィンドーから見た。あのカモシカはこちらを見ているのだろうか、何をあのとき僕に告げたのか。


てっきり峠を越えて戻ると思ったら、麓の国道ずっと進んだところにあるインターに入った。僕が余韻に浸っていることに気を遣ってもらったのか、インターに入るまでおじさんは黙々とハンドルをさばいていた。

「今日ははしゃぎ過ぎちまったよ」高速でトップギアまで入れ、安定した速度を維持できたところで、おじさんは苦虫を潰したような顔をした。

「若い頃、いろいろ無茶してな、身体中にボルトが入ってるんだ。ちょっとキシキシしたな」

「ずっと乗ってるんですね。昔と比べて今はやっぱり変わったんですか?」

「そりゃ、変わったよ。乗る人も減っちゃったし、昔みたいなレーサー気取りな乗り方する奴もほとんどいなくなっちゃたな。あのときのバイクを修理して元どおりにするあいつのところに行くと、なんか昔に戻ったような気になってなぁ」

「じゃ、結構付き合い長いんですね」

「もう何年だろうなぁ、たまたま別の用事で、山を通ってたら、スズキのガンマっていうバイクとすれ違って、それが音がいいし、新車みたいにピカピカだったから、気になって追いかけてたんだ。当然トラックじゃ追い付けなくて道なりに走ったら、あのガレージの前にガンマが止まっててな。それが最初だったなぁ。俺もバイク屋やってるって言ったら、持っていって代わりに売ってくれないかってよ。俺もいきなりだったけど、あいつもいきなりだったな」

「バイクはすぐ売れるんですか?」

「いい値段を付けてもすぐ売れるよ。俺も大事に乗りそうな相手にしか売らないから、全然故障もないよ。俺も欲しいくらいだ。あいつは売るバイクは早く、しかも芸術的に仕上げるのに、相棒のショベルヘッドは一向に直さないんだよなぁ。見たか?」

「見せてもらいましたよ。あれは出会った時からあのままなんですか?」

「そうなんだよねぇ。その気になればあいつの腕ならすぐにでも動かせるんだけどねぇ。頑なに直そうとしないんだよ。俺も知らないけど、いろいろ背負い込んで山に閉じこもっちまってるけどなぁ。だけど、お前さんとなんか楽しそうだったけどな」

「そうですか?あなたとバイクの話をしているときの方が盛り上がってましたよ」

「いやいや、盛り上がってもバイクの話だけだよ。まぁ、仕事だけの付き合いだよ。よくは知らんが、あいつはお前さんと話せて嬉しそうだった。このバイク直ったら会いに行ってくれよ」



アパート


それからおじさんとバイクについての話をしているうちに眠ってしまった。カモシカの話をしようと思ったが結局タイミングを失い、高速の出口に近づいて起こされるまで眠ったままだった。


家に着く頃は夕焼けも収まり夕方と夜がせめぎ合って青黒い色をしていた。バイクを降ろし、おじさんに無理矢理に一万円札を渡し、トラックを見送った。

バイクの横で、アパートの青黒い背景が光を失わそまで眺めた。

一息ついて、駐輪場まで持って行き、しゃがんで冷たいセローに目をやって、明日のことを考えようとしたが、頭まで伝わってくるものはもうなく、首が重くなってしまう。

もう考えることは止めて、部屋に戻った。ポケットに鍵がない。鍵をかけるのを忘れていたようで、ドアのハンドルが拍子抜けに回った。電気を点けるのも、また電気を消すのが面倒くさく、ヘルメットをカーペットに落とし、フラフラとベッドに倒れこんだ。レースのカーテンを通して入ってくるわずかな光が、ヘルメットを照らした。一日部屋にいなかっただけなのに、盆と正月だけ帰る実家の部屋のように感じた。ベッドに乗った振動で、枕元に置き去りになっていたケータイが反応して画面が光った。着信が来ているようだが、確認する気もなく、このまどろみに浸るべく、画面を裏に伏せた。おそらくあの女からだ。それを思うと余計に見たくなかった。ベッドの中に底なし沼のように沈みたかった。


金曜日に出かけたのだから、明日は日曜日だ。すぐにでもセローを修理にバイク屋に行きたい気持ちもあるが、身体が言うことを効かなそうだ。空腹だが、駅前の牛丼やコンビニに行くのは今日のエンディングには相応しくなかった。せめてジャズバーでチキンライスくらいが良いが。

つい数時間前まで、山やガレージ、スクラップ広場にいて、今ここに戻ってきていることが不思議だった。行きはバイクで行き、帰りは初対面のおじさんのトラックで揺られて帰ってきたことが、首尾一貫で通らず、何かをやり残したか、何かを忘れてきたようでもどかしかった。バイクを壊してしまったことカモシカを見たこと、ガレージの男と過ごした一日、どれも中途半端で別々の種類のパズルのピースを並べたような気分だった。そのピースを他人に見られるのを拒むように上着を着たまま布団をぐちゃぐちゃにしながら包まった。明日、日曜日ももこうして寝ていよう。



修理


電話が鳴り、アパートの前に来ましたよ、と連絡が着た。階段を降りると軽トラックが止まっていて、一年ぶりにセローを売ったバイク屋のご主人が待ち構えていた。

「お久しぶりです。もう引っ越したか、バイクを辞めたかと思いましたよ。早速店に持って行きましょうか」ご主人は一方通行だらけの狭い道に車を止めることを警戒しているらしく、テキパキと荷台にセローを積み、店に向かった。

結局、山から帰ってからすぐに修理に出さなかった。職場とアパートを往復する日々に戻り、バイクに乗ることをすっかり置いてけぼりにしてしまった。いい加減に修理に出す気になったのは、仕事が落ち着いて着た新年度明けだった。

駐輪場のコンクリートから蟻が這い出し、バイクに登る様を見て、ようやくバイク屋に、「お久しぶりです」と連絡する気になったのだ。


バイク屋に着いて、降ろして見てもらうと、ガレージの男から聞いた内容と同じだった。キャブレターを直せば動くが、他の部品もあちこちガタがきているので一度全部見て見る必要があ、一ヶ月くらいはかかるそうだった。直して山にすぐに行きたい気持ちとは裏腹に、待たされることになった。戻ってすぐに修理に出さなかったことを後悔した。


「不甲斐ないです・・・」州修理内容を聞いて肩を落とした。

「乗りたくなったら乗ればいいんですよ。気分じゃないのに乗っても事故るかもしれないしね。これなら必ず直るよ」ご主人は肩をポンと叩いてくれた。


店を出ると今にも降り出しそうな重たい雲が浮かんで、日は当たらない。バスで駅まで行けるが、赤茶けて汚れた時刻表に目をやると次のバスまで二十分もあった。頭の中の濁った靄も発散させるべく、駅まで歩くことにした。川沿いに沿って歩くこのルートはさっきのバイク屋でセローを購入手続きした帰りと同じだった。どんなバイクに乗ればいいかわからず、町中のバイク屋を見て回っていた。どのバイク屋も親切で丁寧に展示されているバイクを説明してくれたのだが、決め手に欠けていた。愛想よくやんわりと「考えてみます」と返事をして、店を後にするのが休日のパターンだった。さっきのバイク屋もそのうちの一店になるだろうと思っていた。狭いプレハブ小屋の店内に並んだバイクを眺めていると、「どうぞ、跨ってみてもいいですからね」と紺色のタオルで手を拭きながら、奥の作業場からご主人が出てきた。どんなバイクに乗ったらいいか決めかねていることを言うと、「そうですね、どこに行きたいかによりますかね。僕はお店が休みのときはバイクで山に行くんですよ。林道を抜けて、山の風景を見て、写真を撮ったりスケッチをしたり、のんびりコーヒーを飲んだりですかね。あそこの壁に掛けてあるのがそうですよ」子ども会で見た公民館の手品師のような添えるような口ぶりと手振りでカウンターの奥の壁に掛けてある写真とスケッチを案内してくれた。写真とスケッチはどれも青い基調で、透き通っているように見えた。ご主人の語り口も川のせせらぎのようで、すぐにかき消えてしまいそうだった。「乗りたいバイクに乗ればいいのですが、乗ってどこに行きたいかですかね」ご主人のスケッチの山の一枚が、缶コーヒーに描かれているような山だった。特別に絵心があるようにも見える絵ではないが、急に同じ風景を見たくなった。つい、同じように山に行くとしたら、どんなバイクがいいか尋ねてみた。ご主人はコクっと笑顔で頷き、並んでいるバイクの中から緑と白のバイクを押し出した。「セローって名前でして、少々古いですが、山に行くにも街乗りにもオールマイティなバイクです。軽くて足付きもいいですから女性の方でも扱いやすいです。スピードを求めるバイクではないですが、自由で気ままに乗るには最適ですよ」ご主人の言う通り少々古いのか、ところどころ塗装が剥げていて、フレームやエンジンも若干錆があった。見てくれは例えるなら、エンジンが付いたマウンテンバイクのようで軽そうで、教習所にあるような400ccのバイクとは違うのが最初の印象だった。軽やかに乗れそうなほど細く、フロントフォークに付いた黄色いフォークブーツが岩を跳ね上がって飛び越えれそうだった。自分がこれに乗って、山の木々を縫って冷たい透明な山の麓の湖まで行き、その水を口にする画が鼻を通るスペアミントのように入ってこれた。ご主人の手品に乗る如く、購入を決めた。山の一枚が、缶コーヒーに描かれているような山だった。


その日もこのルートだった。バイク屋もご主人も変わっていなかった。この道も、バイク屋の近くから漂う蕎麦屋の香りもあの時と同じだった。川沿い伝いに道なりに歩いた。暖かくなってきたせいか、小蝿の群れが川の小さい橋毎に漂う。山で一人で彷徨っていたようにここでも一人だった。バイク屋以外知らない街を、山のこと、カモシカのこと、ガレージの男のことを思い出しながら歩いた。

山は今頃は木々が青々として木漏れ日はどんな具合に見えるだろうか、スクラップ広場は草で生い茂り歩きづらいだろう。その草をあのカモシカは食べ、また何かを呟いているだろうか。CBXとハーレーダビッドソンショベルヘッドは修理出来ただろうか。山への想像が暖かい風と共にそよいだ。バイクの修理が終われば山に行ける、行ったらどうなっているだろうか。胸のギアをゆっくりと動かしているうちに、駅までたどり着いた。電車に乗り、くたくたになって寝てしまった。

血液が交換前のオイルのようにドロドロになって、生暖かくズルズルと眠りに落ちた。

夢も見ることなく、温い暗闇だった。血が通っていない干からびた瞼の裏に朧げにカモシカが見えた。電車の轟音と断続的に切り刻まれた機械の女性のアナウンスのリズムに合わせて口をモゴモゴ動かしている。また何か呟いているようだ。僕に何をつげているのだろうか。

カモシカが振り返ったとき、ちょうど乗り換えの駅に着いた。このままアパートに戻るのがもどかしい。しかし、行きたい場所には行けない。バイクがない。

そのまま乗り換えず、駅を降りてみた。居酒屋やカラオケ、ゲームセンター、ファミリーレストランの看板の灯りがバチバチして目が痛い。駅の隣にレンタルビデオ屋があった。ガレージの男が話したイージー・ライダーやローマの休日、バイクが出てくる映画を観たい衝動に駆られた。店内に入り、まずイージー・ライダーを掴み、ローマの休日もケースから抜き取った。衝動は収まらず、他のバイクが登場する映画を思いつく限り掴み取っていった。ブラックレイン、乱暴者、マッドマックス、ストーンコールド、ランボー、ターミネーター、ブルースリーの死亡遊戯やジャッキーチェンのポリスストーリー、プロジェクトイーグルといった香港映画、ユアアイズオンリー、ネバーセイネバーアゲイン、慰めの報酬、スカイフォールの007シリーズも、ロメロのゾンビやデモンズといったホラー映画も、邦画だと湘南爆走族や狂い咲きサンダーロード。ちょっとでもバイクが出てきた映画を片っ端から店内からかき集めた。両手で抱え切れず、腕の隙間から落としそうになるまで集めたところでレジのカウンターに納めた。電車の中の眠気はすっかり焼き尽くされ、頭の中の隅々にある映画に登場したバイクのイメージが信号になって、ブチブチとDVDを掴む手に伝達されていた。

レンタルビデオ屋を出て、再び電車に乗り、アパートの最寄りの駅まで戻った。ホームに降りると喉がカラカラになっていることに気付いた。ホームの自動販売機に硬貨を勢いよく飲み込ませ、外で売られている値段より二十円高いことなど気にせずコーラのボタンを親指で叩いた。重たい音と共に350ミリリットル缶が落ち、冷たさを押し殺して掴んで喉にぶち当てた。泡の水が一気に喉の奥で暴発し、飛び出た大量のガスが鼻の穴を通り、熱くなった頭を冷却した。一度に半分くらい流し込んだ。

駅を出て、夕食も映画のお供のスナック菓子も買わず、スタスタとアパートに戻った。テレビを点け、DVDデッキを起動させイージー・ライダーのディスクをインサートした。ガレージの男が言っていた通り、広大なアメリカの大地を二台のハーレーが走る。見終わったたら空かさず、ローマの休日のディスクを入れた。オードリーヘップバーンがグレゴリーペックの部屋で眠る場面まで観た後、二人がベスパで暴走するシーンまでスキップした。一連のシーンが終わると、次から次へと映画のバイクが登場するシーンだけ掻い摘みながら観た。バイクのかっこよさに痺れながらも、なぜ都合よくバイクが登場するのか疑問に思ったりした。ジャッキーチェンのプロジェクトイーグルの観光地のバイクのドタバタはなんとなく、ローマの休日のドタバタに似ていた。その日は、デモンズの劇場で主人公が日本刀とオフロードバイクで暴れ回るシーンの途中で力尽きて眠った。バイクの修理の完了の連絡が来るまでの間、仕事が終わればレンタルビデオ屋でDVDを漁り部屋でリモコンのスキップボタンを押すのを繰り返した。



電話


バイク屋からの連絡がなかなか来ず、部屋には買い揃えた新しいバイクウェアやブーツ、ガソリンを入れる水筒と同じサイズの携行缶がバイク用品店のグレーのビニール袋に入ったままテレビの前に置かれている。窓を開けると湿気を帯びた生暖かい風が入り、ビニール袋をプチャプチャと波打たせた。その音を聞くたびに、山の木々のざわつきを思い出し、待ち遠しさを増幅させた。DVDを観るのもそろそろネタが尽き、バイクとは関係ない映画を見始めていた。

DVDを返却しに行くため、ディスクケースを黒い袋に入れている最中に電話が鳴った。ケータイを取り、画面の表示がバイク屋だと確信したが違った。あの女からだった。期待とは正反対の電話で躊躇ったが、出ることにした。


「はい、もしもし、どうした?」恐る恐る切り出してみた。

「久しぶり、前に電話したのに出てくれなかったじゃない。忙しかったの?」山から戻ったときに着信があったのをすっかり忘れていた。

「あぁ、ごめんね、ちょっといろいろあって忙しくて出られなかった」

「酷いじゃない、私はいろいろ悲しいことがあってさ、話を聞いて欲しかったのに無視しないでよ」

「わかった、わかった。何があったの?」

「何があったの?じゃないよ。めどくさそうに言ってさ、私は相談センターに電話してるんじゃないんだよ。あなたを頼って話してるんだよ」

「悪かったよ。だけど、そこまで言わないでよ」いきなり強気に出られて怖気付いた。

「何、参ったような感じになってるの。私が感情的に話せるのはあなたが友達だからだよ。他の人とは違う特別なんだからね」

「うん。だからどうしたのさ」

「あのね、振られちゃったの。それでもうどうしたらいいかわからないの。研究室にも気まずくてもう行けないし」

「大変なのはわかったけど、状況がわからないよ。一から順に話してみてよ」

「なんで、説明を求めるの。私が振られたって言ったじゃない。それはどうも思わないの?」

「思いたいけど、それじゃ何があったかわからないよ。言ってみなよ」

「わかった。順を追って説明しないとダメなんだね。この間、大学の先生に呼ばれて研究室に行ったの。研究会の発表があって、私が書いた論文を使いたいから研究会のフォーマットに落とし込んでって」

「そうなんだ。呼ばれて良かったじゃん」

「全然良くないよ。なんでそんな簡単に良かったねって言うの」

「だって、研究を続けたいってずっと言ってたからさ・・・」

「もう、どうだっていいの。それで、フォーマットに落とすついでに論文を書き直したの」

「うん。そしたら、どうだったの?」

「先生になんで書き直したのって言われたの。書き直す前のほうが良かったって。他の先生に見せたら書き直したら良くなったって言ってくれたのに。その先生だけ、良くないって言ったの」

「ちょっと待って、振られた話と論文の話なの?それに他の先生が良いって言ってたのならそれで良いんじゃないの?」

「人の話を最後まで聞いてよ。私はまた大学に戻りたいの。先生の研究室でまた研究を続けたいの」

「論文を元に戻せないの?」

「私は大学を離れてから、誰にも頼らず自分で研究を続けたの。それで論文も変わったんだよ。私の研究を全否定されたの。わかる?」

「そりゃ、先生に論文についてダメ出しを喰らうことはあるよ」

「あのね、私はあなたみたいに研究を止める人じゃないの。これから続けなくちゃいけないの。それにはあの研究室で先生の元じゃないとダメなの」

「何もそこまで言わなくても、もう一回先生と話してみたら?」

「もう先生には会えないの」

「どうしてさ。喧嘩になっちゃったの?」

「違うの」

「なんでさ、先生に会って自分の研究についてもう一度話し合った方が・・・」

「先生に告白したの」

「告白?ちょっとなんだよ。話が飛んでてわからないよ」

「だから、なんであなたは一から順に説明しないとわからないの?私は先生のことが好きなの」

「そうだったんだ」

「先生は頭いいし、かっこいいし、優しいの。なんでも相談に乗ってくれたし、私が前の彼氏ともめて警察沙汰になったときも、私の話を聞いてくれて、気遣ってくれたの。先生がいたから研究もできたの。でも、先生は一年間、ドイツで研究することになって、私は大学を離れたの。先生がいない大学にいてもしょうがないって。一年間待つのは長かったの。やっと戻ってきたと思ったら、論文が変わったって」

「そっか、それはショックだったね」

「何?まるでどうでもいいことみたいに言うんだね」

「どうでもいいわけじゃないけど、それはしょうがないと思うよ・・・」他にかけてあげられる言葉が見つからない。

「あなたにはわからないと思うけど、先生は雲の上のような存在なの。先生に一歩でも近づきたくてと思って今まで頑張ってきたの。あなたみたいに中途半端で、彼女に振られたショックで全部放っぽり出してバイクに逃げるのとは一緒じゃないの」半分はハズレだけど半分は図星だった。

「・・・そうだね。僕は全然ダメだったね。君は大変だったと思うけど、やったことは無駄にはならないと思うよ」

「ほら、何もわかってない。私はもう研究室に行けないの研究も全部お仕舞いなの」

「うん・・・。わからないかもしれない。ごめんね、あんまり相談になれなくて。他に誰かに相談はしたの?」

「したよ。同じ研究室だった女の子に話した」電話をすると、無意識に声が大きくなってしまうのでユニットバスに入った。

「その子はなんて言ったの?」蛇口を捻り、電話を持ち替え、手を水で冷やした。

「私のこと、キャリーみたいだって言うの」

「キャリー?何のこと?話が飛んでるって」

「映画のキャリーだよ。映画好きなのに知らないの?」蛇口を戻し、鏡に着いた水垢をタオルで擦った。

「そりゃ、いくら映画が好きでも全部の映画を観ているわけじゃないし」

「あっそ。私はその子に私の生い立ちを話したの。小学校のときとか、両親のこととか、そしたら私は呪われてるって言うの」

「どういうこと?よくわからないよ」

「それがキャリーみたいだって。私は呪われてるのよ。産まれてから何一つ上手くいかないし、周りは良くないことばっかり起こるの」

「気にし過ぎだよ」

「気にし過ぎ?その友達は私のことを何でもわかってくれるの。あなたよりもわかってくれるの」

「じゃ、そう言われたらそうなんじゃないの?」

「ちょっと、人の話聞いてるの?私が困ってるのにそうやって適当に返してさ」

「なんだよ、せっかく話を聞いてるのにそれはないんじゃない。話を聞いてないないのはそっちだよ」

「じゃあ、何か言ってくれるの?」

「もっと他に相談できる相手はいないの?」

「いないから電話してるんだよ」

「そうか。なら、ちょっと落ち着いてさ、忘れた方が良いって。研究だってまだ終わったわけじゃないしさ」

「男ってなんで、そんな楽観的なの」

「楽観的って、俺だって大変なんだよ」

「何が大変だよ。あなたは研究することを辞めて、適当に就職してバイクで遊び呆けて、飽きて乗るのやめたんでしょう。それがどこが大変なの?」

「この間、久しぶりに乗ったんだ。バイクで山に行ったら故障しちゃってさ。山の近くのバイク屋さんが偶然通りかかって助けてくれてたんだよ。そうだ、故障して山を彷徨ってたらカモシカに会ったんだ。カモシカがモゴモゴ口を動かしててさ、何か僕に話しかけれるみたいだったんだ。僕に何を話そうとしてたのかなぁって」

「バカじゃないの」

「バカって・・。最近の近状報告だよ」

「バイクでフラフラ遊んでバチが当たったんじゃない。カモシカが話なんかするわけないでしょう」

「話しかけてるように見えただけで・・」

「私がカモシカだったら、あなたにバカって言うよ」強く遮られてしまった。

「バカかぁ・・・。自分だってキャリーとか先生に告白したとか話してるのに」

「もういいよ。昔のあなたはもっと話を真剣に聞いてくれてたし、研究熱心だったし。そんな腑抜けだと思わなかった。じゃ、さよなら」いきなり電話を切られてしまった。ユニットバスから出て、ケータイをベッドに放り投げた。

ケータイがベッドに着地すると同時にまたケータイが鳴った。画面を見るとまたあの女からだった。とりあえずまた電話に出ることにした。

「もうあなたとは絶交だから。二度と連絡しないし、二度と連絡してこないで」その一言の叫びを聞くと電話は切れた。しばらく呆然とした後、DVDを返しにレンタル屋に向かった。何も考えず、何も見ずひたすら歩いた。


店内の返却ボックスにDVDが入った手提げ袋をシュートするとまた電話が鳴り響いた。

掌でケータイの画面を隠し、少しずつ親指を退け、発信先を確認すると、修理を頼んだバイク屋からだった。

「お世話になります。お待たせしました。修理が完了しましたよ」手品師がこっそり裏で種明かしをしてくれるような話し方だった。



再び山へ


来週から梅雨のシーズンだが、そう感じることがないほどの青い背景をバックにセローで走っている。コンビニやガソリンスタンドの配置や、田畑の形状で以前に通った道だとわかる。

修理にかかった費用は月の給料の半分くらいかかってしまった。バイクの古くなって取り替えられるものは、ほとんど替えた。ウェアやブーツもちゃんとした物を着ている。グローブもプロテクターが入った少し高い物を着けている。初めてちゃんとした格好でバイクに乗った気がした。

記憶を頼りに道なりに進むと、給油をしたことがあるガソリンスタンドが見えた。そろそろ給油が必要なタイミングであるのと、リュックサックに入った携行缶は近所のセルフのスタンドでは容れられないのと、同じルートで山まで辿るには、場所ももう一度寄る必要があるとルールの縛りを課したかったので、寄ることにした。一速までギアを落とし、静かにガソリンスタンドに侵入した。前に立ち寄ったときはお姉さんが出てきて給油してくれた。今回は店長らしき、日に焼けたおじさんが出てきて給油をしてくれた。今日はお姉さんはシフトに入っていないのだろうか、それとももういないのだろうか。早速、自分に課したルールが崩されたような気がしたが、変化も感じるのも悪くないと気を取り直し、発進した。

リュックサックには、さっき給油してもらった携行缶とケータイの予備バッテリー、小さな救急箱、ドライバーやスパナなどの簡易ツール、パンク修理セット、コーヒーが入った水筒とギフト用のコーヒーセットがガサガサと詰めてある。コーヒーセットはドリップタイプの物でお湯とマグカップさえあれば飲める。ガレージの男とコーヒーを飲みながらバイク談義に花を咲かせたいと期待していた。前と同じくらいの早朝に出発したから夕方前には到着するだろうと踏んでいた。まだ淹れていないコーヒーの香りでヘルメットの中を満たしながら、うねる峠をやり過ごした。


ワインディングロードを数本抜け、コーナーでバイクを傾けバンクさせ、遠心力で重力が反転するような感覚を楽しんでいると、いつの間にか、あの山に入った。山まで記憶をたよりに辿る道のりはまるで、ビデオを巻き戻してもう一度再生しているようだった。

 季節が変わったため、同じ時間帯でも日はまだ落ちていなかった。頂上付近のバイクが故障したスペースに着き、バイクを停めた。リュックサックから水筒を取り出し、コーヒーを飲み、照らされたアスファルトの空間を静かに眺めた。


身体にコーヒーが回ってくる感覚を感じると、水筒を戻し、バイクに跨ってキックレバーを蹴り上げた。


 カモシカに遭遇したコーナーに差し掛かった。また、現れないかと見回したが、そう簡単に会えるわけはなく通り過ぎた。



 再びガレージへ


 山を降り、麓のガレージに着く頃には、山の朝のような油絵のような色遣いになっていた。ガレージの前にセローを停め、扉をノックした。

中から物音はせず、もう一度叩いても反応がない。開けようとしても鍵が掛かっている。そういえば、ガレージの横に停まっていた軽トラは無い。外出しているのだろうか。軽トラが停めてあった駐車場は草がぼうぼうに生えている。嫌な予感がして、ガレージの裏に回り、中から外の風景を見たことがある事務所の窓の前に立った。窓ガラスに着いた砂埃をグローブで拭って覗いた。事務所にあったアメリカンテイストの雑貨は無くなっていた。事務所の内ドアは開いていて、ガレージ内を見回せた。薄暗いガレージを目を凝らしてみると、並んでいたスクーター、トラクターや修理中の車も無かった。CBXもハーレーも無く、ガレージの中央には空のスチール棚やビール瓶が入っているようなコンテナがいくつか集められていた。ハーレーダビッドソンショベルヘッドがあった場所にはかけてあったカバーだけがグシャグシャになって置かれていた。床にはキラキラと光るワッシャーやナットと埃が落ちているだけだった。

どうやら、男はここにはもういないようだった。セローを停めたガレージの表まで戻り、周りと見回しても誰も近くにはいないようだった。地べたに座りゆっくり息を吐いた。鳶が上空を旋回している。あの人はどこに行ったのだろうか。ハーレーを直してまた旅にでも出たのだろうか。それとも、アメリカに行く気になってイージー・ライダーのようにアメリカの大地を駆け巡っているのだろうか。鳶が白頭鷲に見えた。

水筒を取り出し、コーヒーを一口飲んだ。



再びスクラップ広場


ガレージに用がなくなり、行くところが思い付かず、スクラップ広場へ向かった。山に引き返し、しばらく道なりに進み、ガードレールが途切れているポイントを見つけ、未舗装路に突入した。岩でバイクが激しく上下し、バイクから跳ね上げそうになり思い切りブレーキをかけてしまい、エンストした。倒れそうになりながらも、なんとか踏ん張って転倒は免れた。体制を立て直し、クラッチを握り、キックレバーを蹴り上げた。一回ではエンジンがかからず、ヘルメットの中まで汗だくのなるまで蹴ってようやくかかった。ギアをローに落とし、ゆっくりと岩を乗り上げながら進んだ。エンストする度にキックを繰り返し、身体中汗で塗れた。

険しい岩の道がスクラップ広場まで続くと思った矢先、途中でトラックが通ったわだちが見えた。わだちの溝にタイヤを入れ、二速、三速までギアを入れ、突っ走った。

加速してすぐにスクラップ広場まで辿り着いた。


スクラップ広場の入り口は今の季節ではキックを草が目線まで高く生い茂っていると思ったが、草は刈られていた。おまけに腰ぐらいの高さの鉄の杭が地面に打たれていて杭の頭の輪にロープが通され、広場を封ざれていた。

エンジンを切って、サイドスタンドを立て、ヘルメットをミラーに引っ掛けて降りた。日は沈みかけ、赤とブルーが入り混じっている。広場を眺めれると、山ほどあった朽ちたバイクと車はほとんどなくなっていて、古タイヤや錆びたフレームやドアといった細かいガラクタが広場の両脇に追いやられていた。地面に草はなく、トラックの大きいタイヤや、ショベルカーやブルドーザーの杭のキャタピラの跡がくっきりと刻まれ、日を浴びて乾いて硬くなっていた。

汗で湿った上着を脱いで、地面に丸めて置き、梅雨入り前のミストを含んだ風を浴びた。

はしゃいで遊んでハンドルを折ったベスパは見当たらない。積み重ねられたガラクタの山まで歩き、割れたネイキッドバイクのヘッドライトを拾いあげた。中に水が溜まっていたようで、割れ目から水がボロボロとブーツの上を濡らした。

微かに残る夕陽をヘッドライトに透かして眺めた。サイドスタンドのまま沈んでいくまで眺めた。



バイクまで戻り、リュックサックから水筒と携行缶を取り出し、残ったコーヒーを飲みきり、タンクにガソリンを注いだ。

スタンドを立てまま、右足でステップを踏み、左足で高々とキックした。一発でエンジンがかかった。




帰りは高速道路を使って帰ることも考えたが、来週は梅雨入りだ。梅雨明けまでバイクに乗れなさそうなのと、明日は日曜日で休みだ。ゆっくりこのまま走って明日中に着けば良いだろう。梅雨が明けたら、次はどこに行こうか・・。


山を道なりに進んでいくとハイビームの遥か先に何かが照らされている。誰かがバイクを押しながら歩いているようだ。おそらく故障だろうか。あの人はバイクを押しながら山を彷徨っているのだろう。もしかしたらカモシカを見たかもしれない。


ハイビームの先の輝きまで加速した。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 長いです。 凄いです。 私は...1話2500文字以上書いたことありません。 [一言] どうやったらそんなに書けるのでしょうか? 小説の内容に関することじゃなくてすみません。
2018/07/29 10:15 退会済み
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