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4d 6h 29m

 最初に、モニカの父に気が付いたのはグスタフだったが、悲鳴を上げたのはジョアンヌだった。

「いやぁぁああ!! そこに、アイツらがっ!!」

 悲鳴は最後まで続かなかった。へりに足を掛けていた村一番の狩人は猿のような機敏な動きで、ジョアンヌに襲い掛かったのだ。

 岩のような巨漢に飛びつかれたジョアンヌの体はもつれるように屋根裏を転がり、その際に抱えていた赤子が床に落ちた。

 赤子の火を付けたような泣き声とジョアンヌの悲鳴、そして怪物となった狩人の獣じみた咆哮が混じり、屋根裏に響き渡る。

「うわぁあああ! の、昇って来やがった!」「嫌だ、嫌だ、死にたくない、死にたくないよ!!」「ちょ、落ち着いて、神父様、マルコ! あんた達、待ちなさい!」

 我を忘れた様に梯子へと殺到する男二人に遅れてアンヌが続いた。グスタフも三人が動き出した事に気がついて、モニカを引っ張ろうとした。

 ところが、最愛の花嫁は呆けた様に、屋根裏の奥へと転がった二人へと視線を向けていた。

「モニカ、モニカ! しっかりしろ。逃げないと、食われちまうぞ!!」

 グスタフの必死な叫びにも耳を貸さず、モニカは奥へと消えた二人に―――いや、狩人の背へと手を伸ばした。

「いまの、お父さん、だよね。ジョアンヌを襲ったの、お父さんだよね」

「いいや違う! あれは君の親父さんじゃない。目を覚ますんだ、モニカ!」

「違わない! あれはお父さんだよ。お父さん、お父さん。あたしよ、モニカよ。娘の事も分からないの!?」

「違うんだ! もう、あれは違う存在なんだ!」

 言い争いを続ける二人を遮るように、咀嚼音が聞こえてくる。日の光も射し込まない屋根裏の奥で何が起きているのか。答えを知りたければ、窓から外を見下ろせば幾らでも転がっている。

 もう、村一番の狩人にしてモニカの優しい父親はどこにも居ない。居るのは、人食いの怪物に成り果てた、ナニカだけだ。

 髪を振り乱し、半狂乱に陥るモニカを無理やり立たせて、グスタフは梯子の方へと駆けだした。そこではアンネが二人を待っていた。

「マルコ達は地下室に向かった! あんた達も早く!」

 分かったと返しつつ、グスタフは屋根裏の奥にてジョアンヌを食しているだろう義理の父へと視線を外さなかった。どうやらこちらに意識を向けようとはしていない。いまなら逃げ出せる。

 そう考えた矢先、視界の隅に小さな塊を見つけてしまった。

 それはジョアンヌの手から零れた赤子のククルスだ。母の温もりが消えた事を感じ取ったのか、ここに自分が居る事を証明するかのように泣いている。

 一瞬、グスタフの中で天秤が揺れ動いた。

 片方には自分の命とモニカの命。そして、もう片方にはククルスの命が乗っている。

 吊り合いは取れず、自分たちの命を乗せた皿へと傾いた。そこから、グスタフは迷いながらも自分の命を取り除いた。

 天秤は傾きを是正し、平衡を保つ。

 梯子へと辿りついたグスタフは未だに父親を呼びかけるモニカの頬を叩いた。

 乾いた音がモニカの意識に空白を作る。その空白を塗りつぶすかのようにグスタフは告げた。

「いいかい、モニカ。俺は今からあそこに居るククルスを助けてくる。君は、一足先に地下室へ向かってくれ。もし、僕が死んだとしても、君は生きるんだ。生きてくれ」

「え? ……何を、言っているの」

「いいから行くんだ! ぼやぼやしていると死んじまうんだからな! アンヌ、モニカを頼む!」

 返事を待たずに、グスタフは駆けだした。赤子までの距離は、大股で歩けば数歩しかない。風のように走り、風のように去れば、決して危険な事は無いと自分を叱咤した。

「よーし、いい子だククルス。良い子だから、泣かないでくれよ」

 口にしたところで、赤子がいう事を聞くはずがない。小さな稲妻のように泣きわめく赤子を抱え、梯子へと戻ろうとしたグスタフだが、背後から襲い掛かる気配に反応して横に転がった。

 ジョアンヌとは違い、機敏な動作で床を転がった青年は、赤子を抱えたまま背後の襲撃者と対峙する。

「やっぱり、そんなにうまくは行かないよな」

 口元だけでなく、顔中赤い液体で濡らしたモニカの父が通さないとばかりに腕を伸ばした。

 普段なら、鍛え上げた丸太のような腕や、岩のような背中や、獲物を見逃さない鋭い瞳の全てが頼もしく、尊敬していた。だが、こうして人ならざる者になっても、生前の肉体に衰えは無く、それが返って状況を厳しくしている。

 地獄を上から見た時、幾つか気が付いたことがあった。人の形をした、人では無いナニカは人でないからこそ幾つもの相違点を有していた。

 一つは痛覚。村長宅の壁を破壊したナニカたちは、自分たちの腕が折れ、骨が突き破っても気にせずに攻撃を加えていた。そいつ以外にも、腹に突き刺さった農具を見向きもせずに歩き回る怪物も居た。

 二つ目は再生能力。人ならざるナニカになった後の傷は、異常な速度で再生する。骨が折れても気にしないのは、再生すると知っているからかもしれない。

 そして三つ目が移動速度だ。ナニカ達は走るという事を蘇る時に忘れたのか、足を引きずるようにして移動している。囲まれる前なら、あるいは走って逃げれるかもしれない。

 ところが、眼前のナニカは何かが違う。

 屋根裏に姿を見せたのも、窓から猿の如く飛んだのも、いまも背後から襲い掛かったのも、どれも怪物たちの特徴から外れていた。

 その理由を考えている暇はグスタフには無かった。いまはとにかく、ククルスを連れて階下へと行かなくてはならない。視線をモニカの父から逸らして、後方に位置する梯子へと向けた。

 そこにはアンヌもモニカも居ない。どうやら、彼女らは下に無事に向かってくれたようだ。

 不安要素が一つ減ってほっとする間もなく、狩人からナニカへと変貌した男が動いた。丸太のようだと例えられる両腕を振り回し、グスタフへと襲い掛かる。

 反射的に後ろへと下がり避けるも、腕は二本ある。右の拳を避けても、左の拳がグスタフの顔に直撃した。

 刹那の間、グスタフの意識は地上を離れ、どこか遠くの空へと舞った。火花が散り、純白の色に潰される視界。殴られたのだと理解したのは、屋根裏の埃っぽい床を転がってからだ。

「ぐう、ううう。そりゃ、泣かせたら生かしておかないって話だったけど、とんでもない威力じゃないか」

 皮肉を呟くのは心を安定させるためか。立たなければいけないと思考は叫ぶのに、体はいう事を聞かなかった。僅か一撃で、気絶寸前まで追いやられてしまった。

 義理の父は首を向けてから体を向けるという奇妙な動作をして、グスタフの方に飛びかかった。

 膝が太腿にめり込み、強烈な痛みを発した。それでもグスタフは赤子を片手に抱えたまま、モニカの父の首に向けて、空いた手を突きだした。狙いは顎の下。下から相手の顎を上に向かうように押さえつけた。

「か、噛まれなければ、化け物の仲間入りはしないんだろ!」

 グスタフの叫びに反応したのか、怪物は唸り声を上げる。その不機嫌そうな声は、結婚の挨拶をしに行った時と同じだと、こんな時なのに思い出してしまう。

 やはり、この男は愛しい人の父親なのだと思い知った。グスタフの瞳に涙が滲む。上を向いた瞳の端から、涙が下へと落ちて行く。

 感傷に浸った瞬間を狙いすましたかのように、拳がグスタフめがけて振り下ろされる。間一髪、首の角度だけで避けるグスタフの傍で、床が拳大の穴を開けて陥没した。

 その威力に背筋が凍る。意識を失いかけた一撃よりも、はるかに重く、それこそくらえば頭部が果実のように砕け散ってしまう。

 怪物はグスタフの動きを止めようと、遮二無二拳を振り下ろす。視線が合っていないからか、その乱打は大雑把で、紙一重で躱せていた。

 しだいに陥没した箇所はひび割れていき、背中から嫌な音が立ち始める。

 まさかと思った次の瞬間、止めとばかりに振り下ろした一撃が、屋根裏の床を砕いた。

「う、うわあああああ!!」

 悲鳴を上げてグスタフは落ちる。胸に抱えたククルスを離さないように固く握り、上に圧し掛かる怪物と共に。

 二人と一体は、数メートルはある高さを落ち、バリケードとして積み上げていた椅子の山に激突した。痛みでくぐもった悲鳴を上げるグスタフと、落下の衝撃で吹き飛ぶ怪物。そんな両者とは反対に、ククルスは泣き疲れたのか眠たそうな眼で穴の開いた天井を見つめていた。

 グスタフは椅子の山の上で生きていることに感謝しつつ、動けないでいた。落下の衝撃だけでは無い。その前に、上に圧し掛かられた時、太腿に直撃を浴び、どうやら骨折してしまったようだ。

 痛覚が狂ったように信号を出し、体が反射としての涙を流させる。身動きの取れない中、グスタフは獣の唸り声を耳にした。

 怪物はやはり痛覚が無いかのように折れた足で強引に立ち上がる。あらぬ方向に曲がった足は、音を立てて修復していく。落下した際に砕けた椅子の破片が体の至る所に突き刺さっているが、それを巻き込んだうえで傷口が塞がっていく。

 人知を超えた姿に、グスタフは恐れ以上に、諦念の感情が生まれた。

 これは人の手に余る。それこそ、神のような物が生み出した産物に違いない。

 一歩ずつ近づいてくる怪物に、せめてククルスは隠そうとする。だが、やはり満足に動かない体に苛立ちすら抱く。

 獣じみた唸り声はすぐ傍まで来た。ジョアンヌの血で染まった口を大きく開けた怪物は―――横合いから振り回された燭台に脳天を揺さぶられた。

 いつの間にか、怪物の背後には足つきの燭台を槍のように構えたマルコの姿があった。彼だけでは無い、横にはアンヌも居た。

「……マ、マルコ。それに、アンヌも。お前ら、何で」

「何でじゃねえよ! お前こそ、嫁さんほったらかして何やってんだよ!」

「そうよ。私の親友を新婚早々に未亡人にする気なの!」

 友人二人の叱責に、グスタフは弱々しい笑みを返す。マルコは燭台を怪物の方へと向けたまま警戒を解かず、アンヌがグスタフの体を引き起こそうとする。

「立てないの?」

「足が折れたようでね。肩を貸してくれないか」

 アンヌにしがみ付くようにして、グスタフはバリケードの山から降りた。グスタフの姿にホッとした二人だが、直ぐに息を呑んだ。気落ちした様子で、視線を逸らしたのをグスタフは気が付かなかった。

「それより、モニカは。秘密の抜け道はどうなったんだ」

「……安心しな、抜け道はあった。いま、コンスタンツが中の様子を見つつ先行している。モニカはお前を待っているんだ。お前と一緒じゃなきゃ、ここで死んでやるって言ってきかないんだ」

「ああ、そうか。彼女は、優しいな。流石、俺の嫁だ」

「こんな時に、嫁自慢なんて、お熱い事ね」

 軽口を叩きあう友人たちだが、マルコとアンヌは必死に悲しみを耐えていた。グスタフに悟られないように気を使う。

 すると、燭台の一撃を受けた怪物が起き上がり、グスタフ達の方へとにじり寄る。マルコはすかさず、燭台を槍のように突きだす。それがどれだけ役立つのか分からないが、何もしないよりかはましだろうと判断した。

 ところが、それが劇的な変化を齎した。

 なんと、モニカの父が怯えた様に後ろへと下がったのだ。

「お、おいおい。なんか知らないけど、距離を取り始めたぞ。俺の見間違いかなんかか?」

「ううん。私にもそう見えるわよ」

 信じられないとばかりに呟く二人。ふと、マルコは思いつきから行動する。それは燭台の先端に突き刺さっていた蝋燭の火をバリケードへと向けたのだ。数秒経つと、火はバリケードを食むように大きくなった。

 なんと怪物はそれに怯えた様にさらに後ろへと下がった。遂には下がり切れずに壁へと激突した。

「こいつ、火に弱いのか?」

 希望を見つけたと言わんばかりにマルコの声が震えた。しかし、それを確かめている時間は無い。マルコは火に怯えるかのような素振りをみせる怪物がこちらに来ないのを確認するとアンヌからグスタフを受け取った。ククルスはアンヌが預かる。

 四人は背後から迫ってくる黒煙から逃げるように、地下室へと向かう。扉を開け、階段を降りた先は非常時用にと備蓄された食料や物資の木箱が所狭しと並び、その隙間に身を隠すように花嫁姿のモニカが待っていた。

 彼女は階段から聞こえてくる足音に顔を引きつらせていたが、友人たちの、そして何より愛しい旦那を見て破顔した。

「ああ、グスタフ! 良かったわ! 無事だったのね!!」

 涙を流さんばかりに喜ぶモニカだが、対照的にマルコとアンネの表情は芳しくなかった。唇を真一文字に結び、何かを堪えるかのようにしている。そんな友人たちに目もくれず、モニカはグスタフを抱き締め―――背中に回した手に熱い液体を感じ取った。

 反射的に手を戻した彼女は、指先どころか掌を赤く染めた液体に凍り付く。ぬるりとした赤い液体の正体は血だ。

「モニカ。……無事なのかい。おかしいな、ここは真っ暗で何も見えないや。君の声は聞こえるよ」

 弱々しい、今にも消えそうなグスタフの声。マルコはグスタフを降ろすと、友人の背中に視線を向けた。そこには木片の欠片が幾つも突き刺さり、針山のように尖っていた。

「屋根裏から落ちた時、こいつはバリケードの山に落ちたんだ。その時に、落下の衝撃を受け止めた椅子が砕けて、逆に突き刺さったんだと思う」

 真っ赤に染まった背中から、血が滝のように流れ落ち、地下室に水たまりを作る。仮に、バリケードの上に落ちていなければ石畳の上に叩きつけられて即死だったかもしれない。そう考えると、バリケードの上に落ちたのは幸運だったかもしれない。

 こうして死ぬまでのわずかな時間、愛し合う者同士が語り合う時間が残ったのだから。

「モニカ。モニカ。君は、そこに居るのかい。君は無事なのかい」

「……モニカ。答えてあげて。もう、グスタフには」

 アンネはそれ以上何も言えなかった。モニカはしゃがみ込むグスタフの頭を抱き締めた。

「モニカ。傍に居たのか。君の匂いがするよ。太陽のような匂いだ。……痛みが和らいでいくようだ」

「ふふ、なにそれ。……ねえ、なんでククルスを助けに戻ったの。どうして、私よりも、その子を助けようとしたの」

 口にしてから自分が嫌な女だとモニカは恥じた。死の間際にいる夫に、愛情を確かめるような事を尋ねるなんて。だが、どうしても聞かずにはいられなかった。

 すると、グスタフはごめんねと呟いた。

「君と、あの子の命は、俺の中でどちらも大切だったんだ。……これがマルコやアンネだったら、二人には悪いけど、君を選んだ」

「どうして? どうして、あの子をそれほど大切にしようとするの?」

「ククルスが、子供だからだよ。……この村で、子供は大切な存在だろ」

 山間の村や、寒村において子供は神の所有物という考え方はあった。幼児の段階では心身ともに不安定な時期であり、簡単に死んでしまう可能性があったからだ。出産が命懸けである以上、労働力である子供が簡単に死なれては困る為に、子供は神の所有物として大切に、それこそ村ぐるみで育てることがある。

 だが、それはあくまでも平時の話だ。このような異常な状況でそれを持ちだすのはおかしかった。

「でもよ、それでお前がククルスを助ける理由にはならないだろ!」

「なるんだよ、それが。俺はこの村に育てられた。旅人の子供だった赤子の俺は、両親が死んで、身寄りも無かった。それを、この村の人達は育ててくれた。飢饉の時、自分たちの食べる分も切り詰めて、赤の他人だった俺に食わせてくれ。……ククルスは俺なんだ。親を亡くして、死にそうな、昔の俺だ。誰かが助けてやらなくちゃ……いけないだろ」

「この大馬鹿野郎! それで、それでお前が死んじまったら、元も子もないだろ!」

「マルコ! ……グスタフ、モニカ。私達、先に行ってるから。後から来なさいよ」

 アンネは苛立ちながらも滝のような涙を流すマルコと煙が充満しだして急きこむククルスを連れて、地下抗へと潜っていく。

 地下室に残されたのはグスタフとモニカの二人だった。

「アンネには、気を使わせたかな。後で、謝っといてくれ」

 グスタフの言葉にモニカは頷くしかできなかった。自分の夫がどれだけ高潔で優しい人物なのか、薄れゆく体温と共に忘れないようにその身に刻んでいた。

 この人を選んで間違っていなかった。モニカはそう、胸を張って言えた。

「マルコにも、謝ってくれ、なくてもいいかな。アイツは、勝手に怒って、勝手に機嫌を治すからな。神父には礼を。良い式をありがとうと。ククルスは……ジョアンヌが焼いたパイの作り方は覚えているかい。あの村一番に美味しかったパイだ。彼に焼いてあげてくれ」

 夫の遺言にモニカは耳を当てる。途切れ途切れになる息遣いすら、合わせた頬を通じて伝わってくる。

「……君には悪い事をしたな。死が二人を別つまで、共に居ようと誓ったのに。こんなに早く死ぬなんて。最低の夫だ」

「あら、そんな事ないわよ」

 モニカの言葉にグスタフはうっすらと瞳を開けた。もう、輪郭もおぼろげにしか映らない眼が、急速に像を結ぶ。いまにも唇が触れそうな距離で自分を見つめるモニカの嬉しそうな顔がはっきりと見えた。

「貴方は誓いを守ってくれた。死が二人を別つ時、私の傍に居てくれた。それで十分よ。貴方は最高の、私の夫よ」

「……ああ、そうか。それは……嬉しい……なぁ」

 その言葉を最後に、グスタフの体から生気は失われた。瞳に光は宿らず、冷えて行く体は鼓動を刻まない。

 モニカは大粒の涙を流しつつ、グスタフの体を横たわらせた。開いた瞼を優しく閉じ、体の上で手を組ませる。互いの薬指に嵌められた指輪を愛おしそうに眺め、そして愛を語った唇に唇を触れ合わせた。

 今までに交わした口づけの中で、一番悲しい口づけだった。

「さよなら、グスタフ。来世という物があるのなら、また必ず会いましょう。その時もまた、結婚しましょう。……今度は、この子と一緒に暮らしましょう」

 自らの下腹部に手を当て、彼女は宿った命を守るべく抜け道へと飛び込んだ。

 同じころ、教会の地上部分では火は燃え広がっていた。バリケードの椅子だけでなく絨毯や垂れ幕へと延焼し、黒煙が充満していた。

 モニカの父だったナニカは纏わりつく火を消す事もなく、うろうろと歩き回る。肉体は燃焼と再生を繰り返し、歩く着火剤となったそれは至る所に火の手を伸ばしていた。

 だが、それも限界を迎えた。繰り返される再生が怪物の体を肥大化させ、肉の塊へと変貌したのだ。火は確かに消し止められた。肉の層に押しつぶされるように消火された。

 代わりに肉塊となった怪物は身動きを取る事もできずにいたのだった。ただ、獣のようなうめき声だけが燃える教会からいつまでも、いつまでも聞こえたのだ。

 数時間後。

 山の反対側へと辿り着いたモニカたちは生き延びたことに喜び合った。同時に、死んでいった者達を思い、涙を流す。

 だがこれは、悲劇的な話ではあるがありきたりな悲劇の一つでしかなかった。なぜなら、聖地リーンカーンの周囲にあった村の数、人の数だけ悲劇と死が巻き起こっていた。

 布に水を一滴ずつ垂らすように悲劇と死は拡散していく。聖地リーンカーンを中心に、抗いがたい波が押し寄せて行く。

 その波の先端が、王国が送り込んだ偵察隊とぶつかるのは、必然と言えた。


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