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王国の中心よりも東に位置するリーンカーンが聖地と呼ばれている理由。それは古の時代、この地に神から与えられた召喚魔法を使った姫の祈りに応えて、勇者が降り立ったことに起因する。
この地に来訪した勇者の奮闘により、異世界より来訪した魔王は敗北した。そのような経緯があるため、リーンカーンは聖地と呼ばれ、古の勇者伝説に触れようと観光客が後を断たない。
それは新たなる魔王が出現しても変わらなかった。いや、むしろ魔王が出現したことで恐怖に実体が伴い、人々が勇者の伝説に縋りたくなったのかもしれない。
お蔭で街は観光客を相手にした商売が盛んだ。
勇者が身に着けていた装備品のレプリカや、お守り、薬草のレシピなどが飛ぶように売れ、勇者伝説を元としたお芝居や唄に人々が殺到する。
毎日がお祭り騒ぎだった。
特に、ここ数日の熱狂ぶりは例年にないほどの盛り上がりだった。
それもそのはず。
リーンカーンの最奥にある神殿にて王国の姫君、アーデリアが召喚の儀式を行う事になった。勇者伝説の再来だと民衆は沸き立ち、もしかしたら後の世で語られるような光景を目の当たりに出来るかもと詰めかけた。
そのため宿は満員が当たり前。軒下で野宿が出来るならまだマシといったぐらいの賑わいだ。
宿屋である招き虎亭もこのお祭り騒ぎに遅れるまいと客室に無理やりベッドを押し込めたり、値段を割り増しにしたりと荒稼ぎをしていた。その分、増えた客に対応するべく、従業員一同朝から晩まで働く羽目になった。
長男のユンカースが寝床に着けたのは夜中の二時を回る頃だった。酔客が出してしまった吐瀉物が予想外に広範囲に広がってしまったため、その清掃に時間が掛かってしまった。
自分の両手からする悪臭に鼻を背けつつ、寝床の中で丸くなった。灯りは無く、窓から差し込む月明かりだけが部屋を照らしていた。
同じ部屋で寝起きする弟たちの寝息を聞きながら、満月をぼんやりと眺めていた。朝から働いていたせいで体はボロ雑巾のように草臥れているというのに、頭と、何より心が湧き立っていた。
満月の夜。神殿の奥深くで姫が召喚の儀式を行うというのは、周知の事実だった。
数日前には姫本人が神殿に入るのを、集まった人々は熱狂と共に迎えていた。馬車から手を振る可憐な姫君に、皆万歳合唱をしていた。
大人たちの浮かれぶりは仕方ない事だった。
魔王軍の侵攻は王国の西で行われている。
いまは山脈と山脈の間に築いた城砦によって防げてはいるが、戦況が改善したという報せは無かった。王都を挟んだ向こう側の出来事とはいえ、国の防衛線が破られればここも危うい。
幾ら人で賑わっていたとはいえ、やはり街に漂っていた不安と恐れは、誰もが感じていた。
そんな中での勇者召喚はそれを払しょくして余りある出来事だ。浮かれるなと口にしたところで、誰も聞く耳は持たない。
ユンカースとて内心では、興奮が体を突き破りそうになっていた。
この街で生まれた時から、寝物語のように聞かされた勇者伝説。街の至る所に建てられた像は長い月日で摩耗し、勇者の顔はおうとつすら削れてしまった。
勇者という言葉の響きに憧れつつも、それは遠いおとぎ話の彼方。そう、諦めていた所に降って湧いたように勇者召喚の噂が広がった。あの勇者と、同じ時代、同じ土地に居られると想像するだけで腹の奥に熱い衝動が押し寄せる。
一緒に戦うなんて事、全く想像していない。
自分は観光地に構える宿屋の長男でしかない。
だけど、もしかしたら、ひょんなことで、勇者が仲間と共にこの宿屋に泊まるという可能性があるのだ。
同じ時代、同じ場所に居るという事は、そういう事が起きる可能性が零では無い。
そんな彼にしてみれば大それた、世界規模で見ればささやかな夢を思い描くユンカースの耳が雑音を拾う。
泊まった客が何かもめ事を起こしたのか。そういえば、あの酔客、随分と体調を悪そうにしていたぞと現実的な事を考え、体を起こした。すると、喧噪が壁や扉の向こうからではなく、遠くの方からしている事に気が付いた。
二段ベッドで眠る弟たちを起こさないように床に降り、扉を開ける。やはり騒ぎの中心は外のようだ。
階下を覗きこめば、灯りが目の端に映りこむ。
宿屋は二十四時間、何時でも客の対応が出来るように開いてある。そのため、今の時間は父が台帳の前で陣取っているはずだ。
客を起こさないように軋む階段を降りると、台帳の前は無人だった。代わりに扉が開け放たれ、通りに出ている父の姿があった。
「とうさん。これは一体、何の騒ぎなんだい」
「ユンカースか。お前、まだ寝てなかったのか」
「寝付けなくてね。それで、一体、何なんだよ」
父の隣に並ぶと、夜風が顔を撫でた。春の温かな陽気とは裏腹の、生暖かく背筋を震わせる風に乗って、喧噪がさらに増したようだ。
「よく分からん。どうやら、神殿の方で何かあったのかもしれん」
「何かって……なんだよ」
「だから、分からんと言っているだろう。お前、ちょっと行って様子を見てきてくれんか」
どうして俺が、という言葉をユンカースは堪えた。父の吐く息に酒臭さを感じたのだ。どうやら台帳の整理をする振りをして酒を飲んでいたようだ。
顔に赤さは無いが、それなりの量を飲んだとしたら、途中で酔いつぶれてしまうかもしれない。神殿の方で何か起きていたとして、それに巻き込まれるかもしれない。
その位の判断をする頭がある事にユンカースは安堵するべきかもしれない。
「分かったよ。とりあえず、神殿前まで行ってみるよ。お客さんが起きるかもしれないから、酒はほどほどにしてくれよ」
したり顔で注意すると、父は思わず口を手で塞いだ。何か言う前にとユンカースは夜のリーンカーンを駆けだした。
時刻は二時を回っていた。観光地とはいえ、ここは聖地。娼婦といった夜の蝶は羽ばたいておらず静かな場所だ。それなのに神殿に近づくにつれ喧噪がハッキリしていき、灯りが燈る家々が増えて行く。
通りにも人の姿が目立ち始める中、ユンカースは神殿を囲む壁の前に辿り着いた。
やはり騒ぎの中心は、この壁の向こうのようだ。壁を超えて響くのは、唸り声とも、悲鳴とも、歓喜の雄叫びとも判断のつかない、耳障りな音だ。
集まった人々の顔は一様に恐れに引きつっていた。
そんな中、ユンカースは見知った顔を見つけた。向うもこちらに気が付いたのか気さくに手を上げた。
「よう、ユンカース。お前も来たのか」
声を掛けてきたのは、ユンカースよりも少し年上の青年だ。この辺り一帯の青年団のまとめ役をしている。
「お疲れ様です。あの、何なんですか、この声……声ですよね」
思わず確認してしまうが、青年は難しい顔をしたまま腕組みをする。彼にも分からないのかもしれない。
「少し前から聞こえ出してきて、それが、時間が経つごとに増していくんだ。確か、今日だよな、儀式は」
その通りだとユンカースは頷くと、青年は難しい顔を更に深刻そうにした。
「街の上役からの通達で、儀式の間は神殿に近寄るのも厳禁だと言われてるんだ。こうして、ここに居るのも不味いかもしれないな」
「でも、これは流石に変ですよ。神殿に居る方たちと連絡は取れていないんですか」
「さあな。こちら側の詰め所に人を向かわせたが、まだ帰って来ないんだよな」
神殿は天に向かって垂直に伸びた壁と、水で満たされた堀に囲まれている。唯一の出入り口である橋は跳ね橋で、夜間は上がっているのだ。街の方にある詰所の兵士から合図を送らないと、橋は降りない。
すると、集まった人々の中から、上を見ろと叫び声が上がった。
ユンカースが声に従い目線を上げると、満月の光に照らされ、人と思しきシルエットが壁の上に現れていた。
かがり火が無いためはっきりとは分からないが、おそらく護衛の兵士だろうか。
それが続けて数人、壁の上に姿を見せると、集まった人々はほっと胸をなで下ろした。不気味な声は未だに聞こえてくるが、兵士がこうして姿を見せたというのは、何かしらの報告があるのだろう。
ところが。
フラフラと、まるで宿に泊まっている酔客のように体を揺らしたかと思えば、兵士たちが一斉に落ちたのだ。ある者は堀に落ち水しぶきを上げ、ある者は集まった人々の方へと。
耳をつんざく悲鳴が木霊した。
全身を鎧で固めた兵士が、仰がなければ見上げられない壁の上から落ちたのだ。下敷きになった人共々、赤い花を咲かしていた。
あまりの事態に体が硬直してしまうユンカースの前を、青年が横切った。彼は堀へと飛び込むと、水しぶきを上げた兵士を後ろから支えようとした。
「ユンカース! それにみんな! こっちに来て手伝ってくれ!!」
青年の切羽詰まった声に反応して人々は動き出した。ある者は巻き込まれたくないとばかりに踵を返し、ある者は何を考えたのか知らせてくると走り出し、ある者は青年と同じように堀へと飛び込んだ。
ユンカースは昔、この堀に落ちて溺れた経験があったため、体が竦んでしまった。とはいえ、青年を見殺しにするわけにもいかない。
自分が堀に落ちた時、近くに居た大人がロープを投げ入れた事を思い出した。首を振ると、転落者用のロープが目に飛び込んだ。
ユンカースはそれに飛びつくと、反対側を柱に結び、ロープを堀に向けて投げた。
「これに掴まって!」
「でかした、ユンカース!」
青年は右手に兵士を掴み、沈みそうになる体を下から押し上げるようにして浮いていた。空いていた左手でロープを掴んだ。
人一人。それも全身を鎧で覆われた兵士を掴んだままロープで上がるというのは並大抵ではない。厄介な事に、兵士は錯乱したかのように暴れている分、余計に体力の消耗が激しかった。
「おい、こら、アンタ! もう大丈夫だから、アンタが暴れると俺までっ、った!!」
突如、青年の声がくぐもってしまう。まさか溺れたのかとユンカースは焦ると、堀に向かって顔を突きだした。すると、眼下では異常な光景が広がっていた。
月明かりによってシルエットしか見えない人影。落ちた兵士と、それを助けようとする人々の輪郭が合わさり、あたかも一匹の生物のように蠢いている。
聞こえてくるのは青年を始めとした、兵士を助けるために飛び込んだ人々の悲鳴と怒鳴り声―――だけじゃない。いまだに壁の向こうから聞こえてくる形容しがたい声が兵士からしているのだ。
よくよく目を凝らすと、大きく口を開けた兵士が青年に噛みつこうとしている。
まるで野犬のような形相はとても人とは思えなかった。
「ユン、ユンカース! 助けてくれ! コイツ、俺を噛み千切ろうと! くそっ、離れろ、離れろ、離れろよ!!」
驚き硬直するユンカースの横で、人影がゆらりと立ち上がった。ぬちゃりという、粘着質な音がしなければ、振り返る事も出来なかっただろう。
いつの間にか全身を血で汚した兵士が、案山子のように立っているのだ。
「あ……あんた。さっき、落ちた……兵士だよな」
返答は無い。だが、先程真っ赤な花を咲かせた場所に居たはずの兵士の姿はそこに無かった。ただ血の痕だけが残されていた。
――――血の痕だけ?
不可解な事に気が付き、ユンカースは更に驚愕する。なんと、兵士の下敷きとなり、全身の血や骨、内臓をはみ出したはずの人間が、更に奥の方で動いていた。
骨が突き出て、関節が潰れているのか片足を引きずり、四つん這いの姿勢で動いている。その異様な姿に、正気を失った人々の悲鳴が連鎖する。
逃げなくては。
頭の冷静な部分がそう叫ぶが、大部分を恐怖で痺れされているユンカースは動けなかった。ゆっくりと、狙いを付けたかのように近づく兵士。
少しずつ距離を詰めてくると、兵士の姿がはっきりと視認出来た。落下の衝撃で鎧は至る所を歪ませ破損し、更には内向きに曲がったのか関節を潰してもいる。血が隙間から惜しみなく流れ、足元から落ちたピンク色の塊は腸だろうか。
体の前面から落ちたせいで、兵士の顔も当たり前のように潰れていた。平面となった顔立ちの中で、異様に口が裂けている。大型動物からもぎ取ったのか、異常に鋭い歯の隙間に、人間の頭髪が挟まっていた。
「あんた……人間を……食ったのか」
こいつは兵士なんかじゃない。
こいつ等は人間なんかじゃない。
今更のようにその事実に気が付いたユンカースは、心臓が大きく鼓動したように感じた。
何か、途轍もない異常事態が起きている。それを知る数少ない人物は自分だ。自分はこの事を誰かに伝えなければならないのだ。
ユンカースの中でそれらは一つの真実として繋がった。同時に、恐怖が薄れ、四肢に力が漲ってきた。
彼はこの街で生まれ、産湯に浸かるように勇者伝説を見聞きした。そんな彼の中に、勇者に対する憧憬が無いはずが無い。
ああなりたい。
そんな英雄願望が彼に動く勇気をくれた。
堀の縁から弾かれたように立ちあがり、踵を返そうとする。まずは家族への警告だ。酒に酔った父に水を浴びせ、眠っている母や弟たちを叩き起こし、街から出るように促す。その次は自警団に連絡して、状況を説明。状況を知る者として自分も参加して、神殿に入って、出来ることなら姫をお助けする。
そう考えた一歩目が、背中からの圧力によって沈み込んでしまう。
いつの間にか、背中に兵士がへばり付いていたのだ。振り返ると、顔が陥没して、肉や骨で潰された小さな黒い点になった瞳と視線がぶつかった。
砕けた顎を無理やり動かしたせいで、顔の筋肉が千切れ、蝶番の壊れた扉のように顎が開いたままとなる。
常軌を逸した姿にユンカースを突き動かした英雄願望は萎んだ。熱で膨れた物が、水で冷やされたかのように、ぺしゃんこになる。
こんなのしらない。
こんなのわからない。
恐怖が頭の天辺から腹の底まで突き抜ける。いつの間にか涙が溢れ、口から半狂乱の叫びが出ていた。
ゆっくりと、無事な上あごのむき出しの歯がユンカースに迫る。
がぶり、と。
肉の筋を断ち切り、骨が砕け、血管が破ける音がした。
遅れて痛覚が脳へと達した。信じられない、肩を噛まれた。丸みを帯びた右肩を抉られてしまったのだ。
ここに来て、ユンカースの理性は崩れた。恥も外聞もなく、みっともなく騒ぎ立てる。そうしなければ、このまま食われてしまうと思ったらからだ。
誰か、助けてくれ。こんな死に方はしたくない。
そんな願いが通じたのか、兵士に向かって誰かが飛びかかってくれた。背中の圧力が消え、だけど肩の痛みが現実だと知らせていた。
「はぁ、はぁ、はぁ。帰らなくちゃ、親父に、知らせなくちゃ。みんなに知らせなくちゃ」
痛みで朦朧とする意識だが、そんな中で唯一残っていたのは招く虎亭に居る家族だ。歩き慣れた道をひたすらに駆けた。
昼は観光客と、それを相手にする地元民で埋め尽くされる通りでは誰もが異変を感じ様子を見に外に出てきている。
肩から血を流すユンカースを見て、顔なじみは何があったのかと尋ね、そうでない者は身の危険を感じて道を譲る。
人にぶつかりながらも、ユンカースは走った。あと一つ、通りを曲がれば、家に着く。
彼の思い描いた通り、招く虎亭の外観が飛び込んできた。扉の前で様子を窺う父と視線が合う。息子が帰ってきたことにホッとした様子が、即座に一変した。
「ユンカース! どうしたんだ、その肩は! さっきから神殿の方から人が流れてくるが、一体、何が起きているんだ!?」
あまりの剣幕にユンカースは思考がパズルのように飛び散った。喰われた肩がじくじくと熱を帯び、意識が朦朧としてしまう。
―――あれ? 自分は何をしようとしていたんだっけ。
何か、大切な事があったはずだ。重要な事があったはずだ。とても危険な事があったはずだ。
だけど、何一つ思い出せない。ただ、頭の中で誰かが囁く声がするのだ。
オナカスイタ。
うん、そうだな。お腹空いたよな。
コイツウマソウ。
うん、そうだな。美味そうだよな。
「ユンカース、ユンカース。どうしたんだ。話を聞いているの―――おい、お前。その口は、その歯は何だ!? おい、止めろ。お前、俺が誰だか分かって、ぎゃぁあああ!!」
ウン、ウマイ。
これはリーンカーンで起きたありふれた悲劇の一つに過ぎなかった。
神殿から放たれたゾンビの群れは夜が明ける前に、眠りについていた街に、惨劇と死の夢へと誘った。