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姫は祈る。
膝を折り、頭を垂れ、手を握り、一心不乱に神に祈っていた。
儀式用の、聖なる加護を施された薄手のドレスを身に纏い、金色の長髪が床に着くのも厭わずに、何時間も、何時間も祈り続けていた。
ステンドグラスから差し込む月光を浴びた姫の姿はあたかも宗教画のような神聖さを放っていた。
居並ぶ国の重鎮たちは固唾をのんで見守っていた。
なぜなら、この儀式は国の、いや世界の存亡にすら関わる重要な儀式なのだ。
この世界は破滅に向かっていた。
幾つもの国や民族、宗教が入り混じる世界ではあったため、国家間の戦争は大なり小なり起きていた。辺境の村々は度重なる領土の奪い合いに慣れた様に、複数の国旗を用意してある。
そんな情勢下でも、世界が滅ぶなんて事は誰も想像していなかった。良くて、覇権国家が誕生し、それに付随するような小国や、あるいはそれに対抗するような国家の連合体ができ、睨みあいつつも破局を避ける道筋を探る。そんな風になるのだろうと、皆が漠然と思っていた。
その予定調和的な歴史の流れを、横から殴りつけるように狂わしたのは異世界から来訪した魔王と名乗る存在だった。
魔王は己が能力で生み出したモンスターを世界各地に進軍させ、瞬く間に領地を獲得。人間を最下層の国民とした国家を樹立させ、更なる領地獲得に乗り出したのが十年前だ。
以降、魔王による侵略戦争は時期によって頻度や程度に差はあれど進行していった。リンゴの皮を剥くように、地図の色が変わり、ついにはこの王国へと到達しようとしていた。
王国はかつて神から遣わされた勇者と共に、かつての魔王と戦ったことから聖なる国と称えられ、美しき女王によって統治されていた。だが、新たなる魔王出現により、主力の騎士団は各国との共同作戦に参加し、壊滅。騎士団を失った事で防衛力は激減し、このままでは魔王に飲み込まれるのも時間の問題だった。
そこで彼らは奇跡に掛ける事にした。
それは古の勇者を遣わした神から授けられた儀式。王家の血筋を引く者のみが扱える召喚魔法によって、異世界から勇者を召喚できるという儀式だ。
古の勇者は剣の一振りで山を砕き、海を割り、雲を散らしたと言われている。流石に誇張されているだろうが、それでも藁にも縋る思いで女王は召喚の儀式を断行する。
反対意見もあった。何しろ、今の危機的状況を生み出しているのは他でもない異世界から来訪した魔王なのだ。
はたして召喚に応じる勇者が、善なる者なのか。もしかしたら、魔王を遥かに凌ぐ悪をこの大陸に呼び寄せてしまうのではないかという懸念もあった。
だが、死を待つという臆病な選択を、国を、民を守り導く女王には出来なかった。危険がある事も承知で、女王は娘である、アーデリア姫に対して召喚の儀式を行うように命じた。
かくして、滅びの危機に瀕する世界を救うべく、異世界からの勇者を招く事になった。
どれだけ祈ったのか。
アーデリアは自分の無力さを噛みしめていた。
儀式に必要な詠唱を紡ぐ口と喉は渇きから張り付きそうになる。折った膝は石のように冷たく、感覚が薄い。垂れた頭の中では、一向に変化が起きない現状に不安を募らせていた。
手順は間違っていない。清らかな体を持った乙女が、満月が地平線から昇り、沈むまでの間、ずっと詠唱を続けること。
そう、王家の秘伝書には記されていた。
日が沈み、空の色が青よりも藍くなった頃、東の空から満月が顔を出すのと同時に姫は儀式を開始した。
既に数時間は経過し、満月は中天を越え、西の空へと傾き始めていた。つまり、半分の時間を消費したことになる。
だというのに、姫の前に描かれた魔法陣は何の反応も示さなかった。幾何学模様をした魔法陣の隙間を埋めるように、複雑な古代言語が刻まれている。これが召喚の儀式における、もう一つの鍵だ。
この魔法陣が、乙女の祈りに反応して世界を救う勇者を招く、と秘伝書は語っていた。
なのに、何の反応も示さない。
姫は詠唱を行いつつも、何の反応も示さない魔法陣を盗み見る。その胸中は焦燥感に支配されていた。
魔王軍の侵攻は苛烈さを増していく。十年前の、始まりの大侵攻に比べれば規模は少ないが、それでも西の守りは日に日に削られていく。国民の不安を煽らない為に情報統制が行われているが、それでも戦況の噂は彼方此方で囁かれるようになる。
民衆は近づいてくるモンスターの足音に怯えている。だからこそ、王族である自分が勇者の召喚に成功して、人々に希望の光がある事を知らしめなければならない。
なのに、手応えの無い儀式に焦りばかりが先行していた。
この日を逃せば、次のチャンスは一月後だ。それまで王国がモンスターの侵攻を防ぎきれるかどうか。
このまま召喚が失敗するという不安に心が押しつぶされそうになる、正にその時だった。
魔法陣が発光しだしたのは。
誰もが求めていた変化に驚きの声を上げる。姫も驚きつつも、詠唱を止めるような事はしなかった。胸の内を押しつぶそうとしていた不安の霧を晴らさんとする光を逃さないように、詠唱に力を籠めた。
それに反応したかのように、魔法陣の発光は強まり、目を開ける事すらできなくなった。
まるで、星が目の前で落ちたかのような眩しさに全員が目を固く閉じた。
瞼の裏にまで光が届くかのような時間は、あっという間に終わりを迎えた。広間が元の明るさに戻ると、全員が恐る恐ると瞼を開けた。光に目をやられたのか、何度も瞬きを繰り返す重鎮たちは、はやる気持ちを抑えきれないとばかりに魔法陣の方を向いた。
そして、そこに居たナニカに声を失った。
それは青白い肌をしていた。
目は正気を失ったかのようにあらぬ方向を向き、剃り上がった頭に切り開いたような跡が地図のように残り、だらしなく開かれた口から覗く歯が大型獣のような鋭さをしていた。
あれが勇者なのかと全員が驚愕し、落胆した。古の勇者の絵姿は、凛々しき貴公子と言った風に後世に残されていた。それとは全く違う姿形は、まだモンスターだと言われる方が納得できる。
とはいえ、召喚の儀式が正常に作動し、招かれた勇者には違いない。姫は儀式の成功に安堵し、その場にへたり込んだ。
今にも気を失いそうな程の疲労を感じつつも、己の役目を果たすべく顔を上げた。
「勇者様。突然の召喚にさぞ、驚かれたと存じます。私は王国の姫、アーデリア。貴方様を召喚した……勇者様?」
姫の言葉が不自然に途切れたのは、呼び出された勇者が姫の方へとゆっくりと近づき、手を差し出したからだ。
姫はその行為を、倒れた自分を立たせてくれようとする、気遣いなのだと好意的に解釈した。突然の召喚に動じることなく、人としての優しさを示す目の前の人物に姫は喜びを感じた。見てくれは確かに不気味ではあるが、心は立派な善を持つ方だとそう、捉えた。
静々と、姫は差し出された手を掴もうとする。
それは、ある種の物語めいたワンシーンだったかもしれない。危機に瀕する姫君を助けるべく、召喚に応じた勇者との邂逅。平穏な世ならば、吟遊詩人が謡いたくなる場面だ。
ところが。
勇者は姫の手を強引に掴むと、一気に抱き寄せたのだ。一瞬、尋常じゃない力に掴まれた姫は悲鳴を上げた。
「きゃっ!! ゆ、勇者様。いささか、強引では―――ひぃ!?」
姫の言葉が更なる悲鳴で遮られたのは、勇者が開いた口から覗かせる牙のような歯が、姫の白く柔らかな肌を赤く染めたからだった。
かくして、ゾンビを知らない世界に、ゾンビが現れてしまった。
既に死した怪物は恐れず、ただひたすらに生者を求め彷徨い、食欲に従い、本能のまま行動する。そこに、正邪を区別する知能は無く、彼らの光を失った瞳に、人々もモンスターも肉の塊にしか映らない。
きっと、救済を求めた人々の願い通りに、彼らは魔王を、モンスターを倒すだろう。
もっとも、世界は救われるだろうが、人類が救われるとは限らない。