感染前夜
不定期連載です。
某国某研究所。
一見すると、どこにでもある科学施設のような装いを保ちつつ、そこの地下深くでは悍ましい研究が進められていた。
軍部におけるタカ派が昨今の国際情勢から覇権国家を気取る大国に対する切り札として、とある製薬会社と官民一体となって進められたその研究は人の在り方を一変させた。
感染から発症、そして死亡までの時間が僅か数分。
しかし、恐るべき毒物の神髄はそこから先にあった。
肉体は確かに生命活動を停止している。心臓は鼓動を止め、血液は循環せず、肉体は湿った土のように冷たい。それは医学的には正しく、死亡している。
なのに、死者が蘇った。大よそ、人らしい理知的な振る舞いは消え去り、獣同然の思考能力しか持たず、本能からか人を襲い、そして同種を作り出す。彼らに噛まれれば最後、彼らと同じ化け物へとなり下がる。
そう、そこで作られていたのはいわゆるゾンビと呼ばれる生物兵器だった。
アンプルを一本注射するだけで、人が数秒も経たずにゾンビへと変化。生きる屍は食欲に突き動かされて周りの人間へと襲いかかり、道連れを生み出していく。その国の辺鄙な山奥にある村で行われた実験では、百人の村人がゾンビになるまでに僅か一時間足らずだった。
人をゾンビにする研究は完成を迎え、来るべき時に備え量産体制に入る―――はずだった。
突如として、その研究施設が襲撃を受ける事となった。轟音と衝撃が施設を揺らし、研究員たちが弾丸の雨を浴び、混乱のどさくさで解放されたゾンビが怒涛の如く雪崩れ込む、地獄絵図が起こってしまった。
秘密裏に行われていた研究がどうして外部に知られたのか。それは研究に参加していた者の一人が研究の危険性から電子の海に情報を流したかもしれないし、もしくは研究結果が金になると踏んだ欲深い者が極秘裏に運び出そうとしたサンプルによって街が一つゾンビの住処と変えたからかもしれない。あるいは、某国の金の流れに違和感を抱いた大国が送り込んだ諜報員からの情報だったかもしれない。
ともかく、世界中がその研究の存在に気が付き、破壊、もしくは回収の為にと競うように特殊部隊を投入した。研究所側もこうなってはやむを得ないとばかりに、一般ゾンビから動物ゾンビ、試作型ゾンビに強化ゾンビなどを放ち研究結果を守ろうとした。
攻防は一昼夜に渡り行われ、最終的には研究所自体が炎の海に沈むことで幕を下ろすことになった。
だが、生き延びた生存者が運び出した成果、ネットの海に散逸した資料、人知れず逃げ出すことに成功した高知能型ゾンビなど、悲劇の種子は世界中に散らばってしまった。
それらは人々が平穏を教授する最中、誰も知らない闇の中で芽吹き、毒々しき花を咲かせ、悲劇を世界中に撒き散らす事になるだろう。
いまここに、人類とゾンビの長きに渡る死闘が幕を開けた。
―――というのと関係なく、もう一つの悲劇が進行していた。
特殊部隊の一人であり、筋骨隆々の隊員が、英語のスラングを呟いて超大型ゾンビを相手にRPGを放とうとした時。
腹に銃弾を貰い、自棄になった研究員が研究所の爆破シークエンスを起動するのと同時に、残っていたゾンビを解放する直前。
ガラスケースに収められていた一体のゾンビが、不可思議な現象に巻き込まれていたのを誰も気が付いていなかった。
物言わぬ監視カメラがとらえていた映像の中で、ゾンビの足元に突然、円形の幾何学模様の発行体が出現。
それはカメラの光量を一気に越え、残された映像は光の膜を映し出していた。ほんのわずかな、それこそ刹那の間のような時間が過ぎると、映像はゆっくりと正常に戻った。
驚くべき事にガラスケースに収められていたゾンビの姿はどこにもなかったのだ。
脱出した形跡もない。ガラスはヒビすら入らず、中には保存液が並々と詰まっている。
ゾンビだけが、忽然と姿を消した。
誰にとって不幸な事なのか不明だが、ともかくこの異常事態はその直後に起きた非常事態に押しつぶされ、最終的には炎と衝撃が全てを塵へと変えてしまった。当然、誰も居ない監視室に残された映像も、爆発する研究所と共に吹き飛んだ。
こうして、誰にも知られずに一体のゾンビはこの世界から姿を消したのだった。