第七話 少年A、問う。
「先輩は」
俺がそう切り出すと、手のひらよりも大きい肉まんを平らげた帝王がこちらに視線を向けた。
光を一切失ってしまったブラックダイアモンドのような双眸が俺を捕らえる。
相手にも同じような大きさで聞こえてしまているのかと思うほど、雨のやんだ商店街で、自分の鼓動は大きく聞こえた。
そして俺は、少し間をあけて言葉を続けた。
「桐春先輩は、部活中…、いつも一人でいらっしゃる」
目の前の学ランは、一切動じない。
先ほど一瞬外されたような気がした鉄仮面は、いつものように戻っていた。
固く結ばれた一文字は、一切開く様子はない。
視線は固定され、俺は、ただ口を開けたままただ浮かんでくる言葉を続けた。
「何か、あったのですか…?」
失礼を承知でお聞きします、とそう俺は思い返したように付け足した。
その瞬間、すぐ横に沿う道路を車が過ぎ去り、勢いよく水たまりから水しぶきが上がった。
アーケードは、シャッターの閉まってしまったそのあたりだけ、全体をぼんやりと照らすオレンジ色の光のみで薄暗い。
車が通り過ぎるたびにヘッドライトから伸びる白光で、二本の長い陰が石畳に流れるように伸びて向こうの方へと消えた。
「うん」
桐春先輩は当然のことを答えるように明快な調子で頷いた。
しかしその回答に、俺は少しひるんだ。
なぜなら、先輩はうんと肯定した。
肯定したということは、先輩がいつも他の部員と接触しない原因が、三年生の中で何かあったからということを意味する。
しかし先輩は、
「特に何もないが」
と、至極軽い調子で答えた。
「あ…そう、なんですか?」
「うん」
先ほど桐春先輩から発せられた「うん」は、どうやらただの相槌だったらしい。
ちなみに今二回ほどそんなふうに頷いたのだが、俺はその事実に対して些か戸惑いを隠せないでいた。
うん、という日常会話において至って普通な相槌さえも、この帝王からは聞いたことがなかったのだ。
「じゃあ先輩は、休憩の時とか、お好きで一人でいるのですか…?」
「好きで、というか…。俺は小さい頃から生粋の嫌われ役らしいからな」
「はい?」
俺はその言葉に衝撃を受け、そして耳を疑った。
長身、秀才、整った顔立ち、抜群の運動神経、この人以上に好かれるスペックを持った人物を俺は知らない。
なにか複雑なわけあってひとりでいるだけで。
さらに桐春先輩は続ける。
「水野は中学の時からペアだというのにいつまでも素っ気ないし、後輩たちは俺よりも水野の方を信頼している。三年の他の奴らもなあ…」
「何ですって…?」
信頼がなければ、なぜ貴方が部長として絶大の信頼を以て頂点に君臨することができようか。
この人はいったい何を言っているのだ。
ぐるぐると混乱する俺にかまわず、たたみかけるように先輩は言う。
「それにたびたび果たし状を送りつけられる。昨日もだ。送り主の名がないので怖くて開封していないんだが」
「馬鹿ですか!?いや馬鹿でしょ!?」
俺はたまらず叫んだ。
いきなり大きな声を発した俺に、驚いたように桐春先輩は目を少し見開いた。
現代平成のこの時代において、まさか果たし状という言葉が現役男子高校生の口から飛び出すのを聞くとは思わなかった。
この口調と人柄から、冗談だとも思えない。
皆さんお察しの通り、この帝王が今果たし状と言った白い封筒は言うまでもなくラブレターのことだ。おそらく。
いや、少なくとも果たし状なんかでは決してない。
このスペックを知れば、壮絶な女子人気も納得できる。
送り主も、それしか方法がなかったのだろう。
それに加え開封されず果たし状だと思われている。
てっきり俺は、ただ周りの生徒たちの方が、桐春先輩に対して誤ったイメージを持っているのだと思っていた。
しかし誤ったイメージ持っていたのは、決して周りの人間だけではなかったようだ。
桐春先輩もまた、周りに対して大きな勘違いをしていたようだ。
事態は思った以上に複雑らしい。
ちなみに今桐春先輩は沈黙する俺を目の前にして、二個目の肉まんを片手に、もう視線はそちらに釘付けである。
一応俺の言葉を待っているのか、食べずにじっと見つめている。勿論肉まんをだ。俺の目の前正面で。
「先輩。一年生の俺はまだそういう事情とか知りません」
「うん」
「けど、おそらく…」
「うん」
「決して先輩の思っている…」
「うん」
「先輩?」
「ん?」
先輩がはっとしたようにこちらに視線を移した。
聞いてない。今桐春先輩は絶対に俺の話を聞いてはいない。意識は、その白いまん丸とした重量感ある天使にすっかり奪われている。
「先輩、別にそれ食べて良いですから…」
「そうか」
もぐ、と俺が言い終わる前には、大きな一口が真っ白な肉まんに埋もれていた。
白い湯気が立ち上る。
別に俺は、先輩に対して食べるななんて恐れ多いことを言っていたわけではないのだが、なぜか肉まんを凝視しながら俺の話を聞く先輩が、うちで飼っている大型犬のシベリアンハスキーのプリッツのように見えてきた。
うちのプリッツはかわいいが、肉まんに夢中の桐春先輩のギャップは凄まじく、なんだかその要領でかわいらしく見えてきた。
もちろん桐春先輩が大型犬のようだなど言っているわけでは決してない。
なんか…こう、そんなかんじのかわいさ、というか…いや何でもない。
それにしても、
この様子を全校生徒が見たらどう反応するだろう。
鉄仮面というイメージは一掃され、もっと桐春先輩の周りには、生徒が集まるようになるのかもしれない。
少なくとも、桐春先輩は話しかけづらいというイメージは薄まるのかもしれない。
部活中も、後輩や同学年の先輩たちと楽しく会話しているのかもしれない。
「むぐっ!?」
先ほど味わったばかりの感触で、肉まんが俺の口に突っ込まれた。
桐春先輩の指が口の奥深くで歯に触れた。危うく噛みそうになって寸止めしたが、先輩は俺の言葉を止めるように、なかなか指を引き抜かない。
口が完全にふさがれ、視線を固定されたまま、俺は一瞬呼吸を忘れた。
「こうやって話しかけてくれたやつは、お前が初めてだ」
……浅井、だったな。
と、桐春先輩は首をわずかにかしげた。
ゆっくりと口の中の指が引き抜かれ、桐春先輩は先ほどと同様、噛むようにその指を嘗めた。
わからない。
桐春先輩の一つ一つの動き、言葉すべてが分からない。
何をこの人が考えているのか。
複雑すぎる回路の表面を覆うだけの鉄仮面は、一切語ろうとしない。
ただこうしているあるとき、ふと、その鉄仮面は薄い金メッキのように剥がされ、本当の顔をのぞかせるような気がするのだ。