第六話 少年A、屈する。
商店街の東出入りに沿って走る道路に、数台の自動車が急ぐように通り過ぎていった。
視界のすぐ左の方の石畳にできた水たまりで、商店街の光を反射しながら小さな水しぶきが上がる。
通行人の靴の音、すべての音がはっきりと聞こえるほど、あたりは静かだ。
沈黙をごまかすように、俺は左腕の学ランの袖を少しまくって腕時計を見ながらそれをゆっくりと外した。
うつむいた額の上から冷たい雫が数滴右手首の袖を濡らし、カッターシャツが手首にぴったりと張り付いた。
赤のラインが入ったスニーカーから染み出した雨水は、陰を落とすように足下に広がっている。
商店街の向こうの方では多くの人で賑わっているはずなのに、賑わいは雨の音に遮られ、そこだけまるで廃れてしまったように閑散としていた。
二台の自転車と、『雨宿り』をする二人の影。
不動の帝王は、こんな時までも不動だった。
幅の広い商店街には勿論、他に雨宿りする場所はいくらでもある。
にもかかわらず自転車を桐春先輩の前で止めてすぐ横に来てしまったのは本当に無意識で、ごちゃごちゃと考え込む前に、体は自然と動いていた。
視線は一度だけ合った。
だがそれ以来、俺は視線をそらしたままなので、桐春先輩が今どんな表情をしているのか俺には一切分からない。
ただ、俺が見たときから姿勢は一度たりとも変えていないということは分かる。
突然自分のそばに来て、何も言わずそばに立っている少年Aの奇妙な行動に、桐春先輩は一切いやがりもせず、何の反応もしない。
果たして桐春先輩が今、俺のことを認識しているのかも定かではない。
まあ俺はただの新人一年生であるし、言っても二日前に相席になっただけだ。
桐春先輩が今、何を考えているのかは、皆目見当がつかない。
別にいつものことだ。
世間一般に知られた通りの、不動の帝王桐春啓二である。
しかし今日、コート上で桐春先輩がテニスをする姿を見て、複雑な気持ちになった。
モヤモヤとして、頭のどこか片隅が胸中の矛盾を訴えていた。
動かない鉄仮面。
誰にも、動かない鉄仮面。
いや、誰も動かそうとしない、鉄仮面。
「部長」
これもまた無意識だった。
それ以降の言葉は一切、考えていない。
むっとした蒸し暑さが首元にまとわりつき、汗か雨かも分からない生暖かい水滴がうなじを伝っていく。
すると俺の右耳そばで、わずかだが学ランが動いた。
「ん?」
何かに気づいたように、桐春先輩が喉から音を発するだけの返事をした。
よし、いいぞ…、俺。
いや、全然良くねえ。ここからの展開を考えてから行動に移すべきだった。
だが桐春先輩には壁はないはずだ。
三年生とはいえ、そんなに臆する必要はないはず…。
桐春先輩はみんなが思うほど、話しかけづらいような人ではない、はずなのだ。
顔が徐々に引きつっていくのを感じながら、恐るおそる口を開いた瞬間、
「ん」
と、桐春先輩が再び短い声を発した。
そして組んでいた腕を解き、自分の自転車の方に体を向けたかと思うと、カゴに乗っていた紺色の通学鞄を持ち上げた。
「?あの…?」
戸惑う俺をよそに、桐春先輩は右前方に歩き始めた。
自転車を置いたままだ。
その様子を目で追っていると、桐春先輩の姿はとある店に消えていった。
その店とは、先ほども見たあの中華料理店だった。
ローファーの音が完全に消えた後、俺ははっとした。
桐春先輩の自転車と共に、俺は一人静寂の中に取り残されてしまった。
まあ俺は勝手にそこにいるだけなんだが。
俺が唖然として、そちらの方面を見つめていると、まもなく先輩が店から姿を現した。
その右手には白い物体が乗っている。
乾いたローファーの音を響かせ、こちらに急ぐことなく近づき、俺の前で止まった。
視線の先、約数十センチの距離で桐春先輩の白い頸が学ラン越しに見える。
「すまない。五分後にできあがると言われていた」
そう言った桐春先輩の右手には、白い紙に包まれた更に真っ白な『肉まん』が湯気を立たせていた。
どうやら桐春先輩は、雨宿りをしていたというより、その肉まんができあがるのを待っていたらしい。
見上げると、濡れて乱れてしまった前髪の下から、純黒の双眸がまっすぐ俺の視線をとらえた。
この近距離で見るその顔はあまりにも美しい。が、やはり怖い。
「何か用か」
「……」
うーん、近い!
そしてかたい!!
今まで生きてきて、人とこんなに近距離でがっつり対峙して会話することはこれが初かもしれない!!
そんなにお堅い用事はないのです。桐春先輩…!
ただ雑談というか、少しお話がしたかっただけなんです…。
桐春先輩の顔を見上げながら、俺はその直線的な視線に流されるまま口を開いた。
「いえ、この前…そこの中華料理店で会いましたね…と、いう」
「うん、そうだったな」
うん…。
会話は見事そこで途切れた。
中華料理店で会った。で、何なのだ、とその目は強烈に訴えていた。
もはやその視線はレーザービームだ。
絶えず俺の網膜を貫通して心を爆撃している。
口角が引きつっていく俺を凝視しながら、先輩は右に頭をわずかにかしげた。
「これか?」
そう言って指さしたのは、右手に持っていた肉まんだった。
「いや…いやいやいやいや違います…」
ぶんぶんと頭を横に振って否定する俺に、真っ白で魅力的なその物体を差し出した。
どうみてもふかふかなその丸いフォルム、湯気に混ざって溢れ出すしっかりとした肉の香りに、ただえさえ空の胃が無差別攻撃を受け小さく鳴った。
俺は叫びたくなった。
しかしもう視線は目の前に浮かぶ純白の艶に釘付けだ。
もしかして俺が無意識に肉まんの方を見すぎてしまっていたのか。
「食べるか?」
「気にしないでください!この前もいただいたばかりで…」
そう言って視線をそらそうとした瞬間。
「口開けろ」
俺はぎょっとした。
その台詞を聞くのは二度目だった。
もうその言葉を発した帝王を止めることはできない。
ほぼ命令に近い台詞である。
そして桐春先輩は、あいている左手でその一部をためらいなくもいだ。
裂け目から白い湯気の塊と共に深い栗皮色の餡が顔をのぞかせた。
光沢感のある薄皮に包まれたきめ細かい純白の生地の裂け目の一部は、肉汁が染みだし茶色に染められている。
こうしてもぎとったその四分の一ほどを、改めて俺の前に差し出した。
そして、
「あ」
と、桐春先輩は、大きく口を開けてみせた。
舌の上に、鋭い犬歯が見える。
思わずつられて、俺が口を控えめに開けると、桐春先輩は前回と同様それを躊躇することなくねじ込んだ。
「……!」
舌触りの良いクッションのような柔らかさだが、しっかりともちもちとした食感のある生地と、ニラと肉感たっぷりの餡が口をいっぱいに埋め尽くした。
はっきり言う。
美味い。はい。もう負けました。
こんな不可避なフード・ハラスメント、屈するほかない。
満足感以外ないんだもん。
ふと見ると、肉まんを俺の口に運び終えた左手の中指に、あふれ出たとろみのある餡の肉汁がべっとりと付着していた。
桐春先輩は、その中指を口に持って行き、中指の腹を噛むようにしてそれを舌で掬い取った。
「美味いだろ」
自身も一口、肉まんにゆっくりと大きくかぶりつくと、二口、三口ですべて平らげてしまった。
その瞬間、やはり桐春先輩はあのときのように満足そうな表情をした。
一瞬だが不動の帝王は、その鉄仮面を外した。ような気がした。
「先輩」
いつの間にか雨の音はすっかり消えていた。
しんとした静寂の中で、賑やかかな笑い声が視界の奥ではっきりと響いてくる。
雨はやんだようだ。
しかし、俺はもう少し雨宿りしようと思った。