第四話 少年A、悩む。
木が青々とした葉を付け始めたここ、春城高校の広大な校庭の一角。
土日が明けて、憂鬱な一週間が再び始まりを告げた月曜日の放課後である。
ランニングコースからそのまま筋トレと体幹トレーニングを終えた後、水分休憩ということで、俺は水筒を片手にテニスコート外のランニングロードの適当な石段の上にもたれてしゃがんでいた。
ここからはフェンス越しにテニスコートが一望できる。
今日はいつもより風が強く吹いているが、天気は快晴で部活として気温は申し分ない。
校庭には、様々な種類のジャージで埋め尽くされている。
何も考えずぼーっとしたまま、休憩中で誰もいないテニスコートを眺めていると、そこに二人の生徒がゆっくりと姿を現した。
一人はラケットを右手に持ち、その左手には大量のボールが入った緑色のカゴがぶら下がっている。
無造作にそのカゴを足下に下ろす。
もう一人がネット側につくまで、ボールを数回ラケットで地面にたたきつけ、ラケットを持った右肩から、体の右半分を深く後ろに引いた。
左手でボールを体の左前に構え、全身を大きく捻り、まるでスローモーションで、しかし流れるように、コンマ一秒次の瞬間には心地良いインパクトの音とともに強烈なストレートが、弾丸のごとくぶれることなく前方に繰り出された。
乾いた音がたたきつけられたように全方位に響く。
春城高校ソフトテニス部副部長にして唯一無二の後衛プレイヤー、水野涼太先輩である。
そしてそれを表情一つ変えず、ボレーで打ち返すのが、不動の帝王、桐春啓二先輩。
再び強烈なインパクト音が鳴り響く。
球は一切浮くことなく、コートの角に打ち付けられた。
いつもの風景だった。
ペアの二人が休憩中に練習再開まで、ひたすら基本の、しかしその様子はあまりに熾烈なボレー練習をするのは。
だが今日は何かが違った。
間違いなくそれを眺める俺の方の問題なのだが。
「何?勉強中?」
ふと隣からそんな声が聞こえたので振り向くと、そこには同学年の友達である大輔がラケットを支えにしてしゃがんでいた。
「いや、なんとなく見てるだけ」
ウォーミングアップの後で、体力のない俺はそんなふうに素っ気なく答えた。
ふーんと、くるくると地面に立てたラケットを回転させ、大輔は横に腰を下ろした。
「うちの三年の先輩結構厳しいよな。この前俺水野先輩にめちゃめちゃ怒られたし」
「まあ…そうだな。俺も怒られたよ、準備遅れた自分が悪いんだけど」
「いやでも他の部活の先輩、みんなすげえ優しいって言ってるからさ」
まあなー、と俺はコートから視線を外さず相槌を打った。
事実、一年生と二年生をしかりつけるのは副部長の水野先輩だった。
その怒号と厳しさには定評がある。
しかしその内容は決して理不尽なものでもなく、いきなりキレまくるというものでもないので、それは正当な後輩への教育、というか。
その説教を受ける後輩、特に一年生からの人気は、しかしながら、やはり高くはない。
「それ以上に――…」
桐春先輩。
大輔がそう言ったと同時に、この距離からは聞こえるはずのない空を切るラケットの音と共に、強烈なスマッシュが俺の視線の先で決められた。
「絶対話しかけられないかも。なんかさあー、怖いっていうか、壁があるっていうか」
「……」
確かに桐春先輩に、一年生は一切近づかない。というか近づけない。
何か聞きたいことがあれば二年生に言うし、何よりあの無言の鉄仮面が脅威以外の何物でもない。
女子人気は言うまでもなく高いのだが、さすがに直接アタックできる人はそうそういない。
試合で遠巻きに多くのファンたちが応援している感じだ。
しかし大輔のその言葉を聞いて、俺はなぜか複雑な気持ちになった。
その理由は明確、昨日のあの事件があったからだ。
事件というほどの事件でもないのだが、今、俺の桐春先輩を見る視線は今までと明らかに違う。
端的に言うと、あの先輩に『壁』など存在しない。
だれとも話さないコミュ障の鉄仮面?
そんなのは他人が勝手に作った幻想だ。
じゃなきゃ、ラーメン屋で偶然相席になったどこの誰かもわからない他人に自分のラーメンを迷いなく、あーん(?)することなどない!!
「?どうした、アサイー?」
俺は思わず頭を抱えた。
夢か。
昨日の光景は、もしかしたらすべて俺の夢か。
「それと大輔。何度も言ってるが、俺の名字は『アザイ』だからな」
「おまえアサイーなめてるだろ。お前より倍栄養的なスペック高いんだからな!」
「お前は俺をなめてるだろ!何でキレてんだよ」
いーじゃんアサイ~と、俺の肩をつつく大輔を無視して立ち上がる。
ちなみに入学してから一度も正しく呼ばれたことない。
もう一度言うが、俺の名前はアサイではなく、アザイだ。
ちょうど練習の水野先輩の指示が飛んだ。
ふとコートの方を見ると、いつの間にか桐春先輩は隅で壁にもたれたまま、じっとコート反対側のフェンスを見つめていた。
他の三年生は互いに雑談をしているのに、その中のどの先輩も桐春先輩に寄りつこうとはしない。
そこからみても、やはり同級生の先輩方もまた、桐春先輩との間に何かしら壁のようなものを感じているのだろうか。どうなのだろう。
もし昨日見た桐春先輩が現実ならば、このままの状態でいいのだろうか。
桐春先輩はラケットをそばに立てかけ、決して崩すことのない鉄仮面で腕を組んでいる。
顔が整っているし、何よりもその長身長だ。
それもまたいつもの風景だった。
ふと、ああいうとき桐春先輩は何を頭の中で考えているのだろう、と俺は思った。
テニスの戦略?それとも進路のこととか、今日の授業について?
秀才らしく、膨大なカリキュレーションとか?
もしかしたら、
この後どこかで買い食いしようか、とか。考えて、いたりするのだろうか。
「浅井!!」
「はい!?」
しまった。思わずぼーっとしていた。
部員が集合した列の正面から、俺の名を呼んだ水野先輩がこちらを睨んでいる。
名前を呼ばれていたらしい。
「にやけてないでちゃんと聞いておけ」
クスクスと大輔含め周りの友達が笑っている。
俺はその言葉を聞いて思わず口を右手で覆った。
すると水野先輩の背後にいる桐春先輩が、一つ小さくくしゃみをした。
にやけるって…俺は何ににやけてたんだ…。