第二話 帝王、ラーメンを食す。
昼間のランチタイムだということもあって、この中華料理店には昼休憩のサラリーマンやら、地元のおじさんなど客でいっぱいだった。
フライパンが勢いよくコンロにぶつかり擦れる音、鉄の中で焼ける野菜の音、ラーメンをすする音、むせかえるほどの店内の熱量。
無言だが、ありとあらゆる食事処の音に溢れかえるなかで空腹感は増長され、俺は腹が鳴るのをごまかすように目の前に置かれたお冷やを飲んだ。
空っぽの腹に冷たい水がむなしく流し込まれていく。
注文はこの店特製のラーメン、中華スープと餃子のセット。税抜き700円でサラリーマンのランチ向けにリーズナブルだ。
辛さに段階があるようだったが、辛さの多少の耐性があるとはいえ、ここはノーマルを頼むのが無難だろう。
――いや、そんなことはどうでも良い。
注文内容、辛さの段階など今のこの俺には全く関係のないことである。
なぜなら一刻でも早くこの場を去りたかったからだ。
一刻でも早くこの『帝王』から逃れたい…!
少々遅れたが前回のあらすじを簡潔に。
しつこいようだが、今俺は帝王に睨まれている。
「……」
帝王、もとい桐春先輩のテーブルに座ってから約5分が経った。
目は一切あわないし、あわそうともできない。本能がそれを阻止している。
先輩の前でいつものように暇つぶしにスマホをいじるわけにもいかないし、伏せたままのこの顔を上げることもできない。
注文を終えてからずっと、あり得ないほどの気まずさの中で目の前のお冷やを凝視している。
それで時間が何事もなかったように経ってくれれば一番良いのだが、それには問題が二つほどある。
まずテーブルが狭い。
ただでさえ狭い店内にテーブルを設置するものだから、二人がけのこのテーブルは腰を深く椅子にかけなければ、今にも二人の膝はあたりそうになる。
そしてもう一つ。
この先輩は、手持ちぶさたな時、まさに注文料理を待っているこのぽっかり空いた時間に、スマホを全くいじらない。
では何をやっているのかというと、両手をテーブルの上で組み、いつものように無言のまま前方を見つめているのだ。
別にそれ自体は良い。いつもの桐春帝王である。
だが今は事態がまるきり違う。
そう、その先には俺がいるのだ。
直接その表情を見ることができないのだから、本当はどこを見ているのかはわからない。
だが今この頭上から明らかな視線を感じる。
自意識過剰なのかもしれないし、俺の背後の方を見ているだけなのかもしれない。
熾烈な凝視が少なくとも俺の方に注がれている。
気まずい。気まずすぎる。
しかし俺よ、慌てる事なかれ。
俺はただ偶然相席になってしまっただけだ。
しかも俺は一ヶ月前に入学したばかりのニューカマーで、そんな新人ごときを部長がすべて把握しているとは思えない。
つまり、このまま当たり障りなく普通に過ごしていれば、俺は無事この時間を過ごすことができるというわけだ。
「おい、浅井」
できなかった。
俺の名字はあざいである。モットーは無難に生きることだ。
その瞬間心臓が大きく跳ね、背中に味わったことのない悪寒が走った。
この先輩は、俺のことを認識していた。
何か気に障ったのだろうか。それとも何か無礼なことをしてしまっていたのか。
滅多に聞いたことのない厚みのある重低音と、そんな考えがぐるぐると頭の中を巡り俺は膠着状態に陥った。
顔を、上げることができない。何か答えないと…。
「あ…、あの」
すると、フリーズしたままの俺をよそに、桐春先輩はなぜか床においてあった俺の通学リュックに手を伸ばした。
教科書がたっぷり入っているはずのリュックを、伸ばした片手で軽々と持ち、それを反対側の机の下に移動させた。
俺ははっとして後ろを見た。
そこには、食事の乗ったお盆を持った店員が立っていた。
俺のリュックが通路を狭めていたのだ。
すみません、と小さく店員が頭を下げ、お盆を桐春先輩の目の前に滑らせるようにおいた。
俺はカッと体が熱くなるのを感じた。そんな配慮ができていなかったこと、それを先輩に指摘されたことに恥ずかしい思いがした。
人間として、何か大きな壁のようなものを感じた。
「すみません」
俺は無意識にそう呟いていた。
そんな俺の頭上で、先輩は何も言わず小さくうなずいた。
しかし、俺がその恥ずかしさに襲われているのも束の間だった。
先ほどよりも視線を落としたまま、しばらくじっとしていたところ、ふと桐春先輩の目の前に置かれたお盆が目に入ったのだ。
少し視線をあげれば、中央には見たことのないほどの真っ赤なスープのなみなみ注がれたラーメンの器が堂々と佇んでいる。
空腹の俺は思わず恥ずかしさを忘れて唾液を飲み込んだ。
これでもかと言うほどたっぷり盛られたもやしに、青々としたニラ。ラーメン定番のチャーシューの姿はなく、その代わりにその面積の半分を占める挽肉からスープに流れ出る肉汁は、輝くばかりに店内の照明を反射している。
そして二枚の比較的広めののりのそばにぽっかりと侍る真っ白なゆで卵は、ほどよい半熟具合のつやのある黄身を携え、濃い全体色の中でも大きな存在感を放っている。
さらに特筆すべきは、その真っ赤なスープ。
上に乗った具材を飲み込まんとばかりに注がれ、重く沈殿するスープは、見るからに辛そうだ。
だがしかし、その重厚なにんにくと肉感たっぷりの香りが鼻腔をくすぐり、空腹感は更に促される。
ラーメンのほかにも、綺麗な焼き色のしっかりついた焼き餃子と、紅ショウガを邪魔だと言わんばかりに高く盛られた重量感ある炒飯もそれぞれボリューム満点である。
まさに部活帰り高校生男子のスタミナメニューという感じだ。
そんな圧巻のテーブルを目の前に、桐春先輩はまずレンゲを手に持ち、それを底からスープにゆっくりと沈めた。
橙と赤色のスープが徐々にレンゲに流れ込んでゆく。
半分までスープが入ると、それを口へと運び、そのまま飲み干す。
ゴクリとのどを鳴らし、ふっと一つ長く息を吐くと、レンゲを左手に持ち替え箸を持った。
まずは高々と盛られたもやしを箸でかき分ると、そこからスープのしっかり絡んだ橙の中太麺が顔をのぞかせた。
適度な量の麺を箸でつかみ、持ち上げると、レンゲへの中継なしに直接口へと運んだ。
ためらいなく、一気にすする。
持ち上げられたすべての麺が吸い込まれた瞬間、桐春先輩が、ふと顔を上げた。
いつの間にかその様子を凝視してしまっていた俺と、そこで初めて視線が合致する。
さっぱりとした短髪に、この距離から改めて見えるその端麗さ、光さえ飲み込んでしまいそうな双眸。
桐春先輩のその顔には、大量の汗がしたたっていた。
店内の熱量と、体内に流れ込んだ辛いラーメンが重複し、うっすら赤みがかかっている。
試合中にも見たことのない表情。
なんだかすごく、『満足そうな』顔をしている。
それは端から見ればいつも通りの無表情なのだろうが、そのときの俺には少なくともそんな風に見えた。
通常より、その純黒の双眸は多くの光をたたえているような気がする。
先ほどとは違う、ある種のぞくぞくとした何かくすぐったいようなものが背中を撫でるように走った。
相変わらず無言で、先輩は俺の目を見たまま、少しかがめていた体を起こし、姿勢をもとのようにただした。
口いっぱいにつめこまれたものをしっかりと噛み、飲み込むと、ゆっくりと口を開く。
「なんだ」
俺ははっとした。
やはり俺がじっと見ていたその視線に気づいていたらしい。
つい、じっと凝視してしまっていた。
「いえ…あの、おいしそうだな、と」
「食べるか」
即答だ。
俺はさすがにぎょっとした。
まさかそんな言葉が返ってくるとは予想もしなかった。
俺は桐春先輩の視線に見事固定されたまま、ぎこちなく口角を上げた。