カフェのランチタイムは
泣き疲れた私は何時の間にやら寝てしまったらしく誰かが自室のベットまで運んでくれたらしい。目覚めると午前11時。千紘さんのところに来てから私は初めて仕事に遅刻したのだった。未だ目は腫れているし、お風呂にも入れてないしで最悪だ。ベット脇の小灯台には千紘さんの字でメモ紙がある。
今日はゆっくり寝て、目の腫れが引いたら出勤すること! 美人が台無し。 千紘
最後の一言が余計だ。シャワー。汗ばんだ体には心地よい。真っ白なカフェのシャツに袖を通す。今日も、私の一日はカフェから始まる。私の部屋が屋根裏部屋だとすれば、2階の千紘さんの生活スペースから繋がる階段を下りるとカフェのキッチンへと繋がっている。したがって、一番最初に千紘さんと顔を合わせることとなる。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん、ごめん。12時になっちゃった。すぐに準備するね」
キッチンの壁に複数存在するフックから自分のサロンを取り、腰に巻く。サロンは、スタッフ1人に対して3枚支給され、週1回のクリーニングに出している。それ以外の制服については自宅で洗濯だ。
「大丈夫。今日は、心強い助っ人がいるから、ゆっくりご飯でも食べて13時くらいからシフト入ってくれればいいよ」
助っ人? 不思議に思いフロアを見渡す。あ、ミルクちゃん発見。それから今日はポニーさんがいるぞ、よーし女性客は任せた。本来ならキッチンの補助があと一人必要だから、もう一人いるはずだけど。と、キッチンを見ると、見慣れた明るい髪がうごめいている。
「ちょっと、何で梓がいるのー!?」
「アンタが寝てるから俺が借り出されたんだけど。あと、仕事中は愛称で呼んでくださいよ、若頭」
「い、いっちょまえに愛称までついてるの!?」
梓は得意げに名札をトントン、と指す。そこにはローマ字表記でSHIRONEKOと書かれている。
「まさか、黒猫の弟だから? ……ぷっ」
「笑うなよ」
ちょっと恥ずかしそうにしている。かわいい。
「シロ、ちょっとここ任せる。俺は若菜ちゃんのご飯作るから」
基本的に千紘さんだけは、私のことを愛称で呼ばない。他のスタッフには徹底しているようだが、どうも彼の中で割り切れないのだと以前言っていたな。
「はい」
梓は、まるでここで何年も働いていたかのような鮮やかな手つきでキッチン作業に移る。千紘さんも相当な信用を置いているようだ。私はと言うと、もらったカレーをつつきながらその鮮やかな手つきに感心していた。
「シロ、じゃなくて梓が気になる?」
「え? ああうん、何か手馴れてない?」
「これは話してないけれど、前に菜緒と一緒に働いてたんだよ」
菜緒、と言うのは梓の姉でバイトリーダーの黒猫のことである。そう言えば、千紘さん梓と黒猫さんのことだけは名前で呼ぶときがあることを思い出す。二人とは深い仲なんだろうか。
「これは、二人の過去の話だから気になるなら本人たちに聞いて。俺が教えられるのはここまでかな。それより、疲れてない? 今日は休んでもいいけど」
「ううん、梓だって学校あるし。私、シフト入るよ」
けれど、梓は久しぶりに入ったから、と言う理由で結局ランチタイムが終了するまでキッチンに入っていた。今日はお客さんが多く、カウンター席でも接客が必要だったし、梓のお陰で12時のピーク時にフロアスタッフが充実していて助かったけれど、替わりに出てもらった私としてはちょっと複雑な気分だ。中には梓のことを知る常連客もおり、カウンター周りは始終賑やかだったようだ。
「いやあまさか、シロくんにまた会えるとは思ってなかったな。時々見かけていたけど、お客さんで来ているようだったから話しかけづらくて」
「いえ、僕の方こそ。田中さんの存在には気づいていたんですが、もう僕のことなんて覚えてないと思って」
「そうだったのかー、だけどここのスタッフもかなり入れ替わったよね。大丈夫なの? アウェイじゃない?」
そんな会話が繰り広げられる。そこには私の知らない梓がいるようで、妙な寂しさというか、疎外感と言うか、意外にも普段の彼とは真逆の言葉使いで饒舌に接客しているものだから別人に思えて、私は何ともいえないモヤっと感がとにかく凄かった。僕って何よ、僕って。いつも眉間に皺寄せてるくせに。
「若、これ13テーブルまでお願いします」
それに加えて、上手に私にまで敬語を使ってくるものだから更に釈然としない。しかも私ときたら。
「あず……シロ君、これ洗い物です」
何度も梓と名前で呼びそうになるし、彼に敬語を使うのも慣れないしで始終調子が狂いっぱなしだ。モヤモヤ感から逃れるかのように鬼のようにフロア管理。俊足でフロアを闊歩し接客した。
「あの、若さん。今日は何だかそわそわしていますね」
「え、や。やだなぁーたまには私もポニーさんのようにサクサク仕事してみようかなーなんて思いまして」
「若さんのそういうところ、かわいいよね」
「お褒めいただいて光栄です」
心なしか、お客さんとの会話も上の空で。だから、気を抜いてしまった。
「いやかわいいよ。良かったら今度遊びませんか」
「いやぁ、機会があれば」
「機会は作ればありますよね? これ、俺の連絡先――」
しまった、この状況はまずい。このテーブルはフロアでも隅のほうで、ちょうど死角になりやすいのだ。スタッフと仲良くなりたいお客さんがここで連絡先を渡してくることも少なくない。うちのカフェは、基本的にお客さんとスタッフとの個人的な遣り取りは禁止である。それは、スタッフを売りにしているカフェでは当然にあるリスクで、さまざまなトラブルへと発展しかねないからだ。なので人手の無い時間はこの隅のテーブルには長居しないようにと決めていたのに。周囲を見回すけれど他のスタッフはいないし、いつもの遣り取りができない状況だ。ここで連絡先の交換を断ってもトラブル、交換してもトラブルが起きるのは間違いない。どうしよう。不自然には断れないし。ポニーさんもミルクちゃんも他の接客で忙しそうだ。
「うちの可愛い娘に手を出す輩はそこですか」
「ち、千紘さん」
「若菜。君がここで働いているのは、遊び相手を探すためだったかな?」
一瞬、状況が読めない。けれど、それが千紘さんの演技であるとすぐにわかった。私は大げさなくらい頭を下げる。
「すみません、お父さん。私がいけないのです。私はこの店を継ぐため勉学に励む身……」
「わかればいいんですよ。さ、今日はもうあがりなさい。学校の時間です」
助かった。予定よりも30分ほど早いが、私は上がることになった。それにしても、千紘さんいったい何時から見ていたのだろう。危うく店に迷惑をかけてしまうところだった。
「ごめんなさい……」
「お客さんとのトラブルはなるだけ避けたいから、気をつけて。それにつけても、若菜ちゃんは最近人気上がってきてるんだからね。まあ昨日の今日だし、疲れていたんでしょう」
ところ変わってバックヤード。店で使う掃除道具やクリスマスツリーなどがしまってある場所だ。店のキッチン裏に位置する。千紘さんがコーヒーを淹れてくれた。いつもほんのりとした甘さを含む味のそれが、今はとても苦く感じる。
「梓のことが気になる?」
「うぇ? ああ、まあね。いつもと違う感じがして何かこう、」
図星だ。そんなにわかりやすかったかな。
「あの子もなかなか心を開かないから、友達するのも大変だけど。いいヤツに変わりは無いでしょ」
「うん。ごめん。ありがと」
「いえ、アタシも深く考えずに梓に手伝い頼んじゃったから。今日、色々聞けるといいわね」
「アンタさ、今日珍しく捕まってたじゃん」
げ、いきなりそれか。バスに乗った途端に梓が私に振った話題は、まさにそれであった。待って、色々聞きたいことがありすぎて、正直どう答えていいのか処理に困る。ので。
「梓も今日は珍しく眉間の皺寄ってなかったし、言葉遣いも綺麗だったじゃん?」
「はぁ? 俺も敬語くらい使えるっつーの。つうか眉間の皺って何だよ。しかもまたそれとなく話題変えるし。アンタのそういうとこ本当可愛くない」
「うるさいなー」
あ、眉間の皺戻ってる。今は、とにかく話題を逸らすことに成功したので良しとしよう。正直、あまりバスの中ではしたくない話しだし、ここでこの話題にしたところで梓は上手に交わすだろうから。
「昨日はちょっと可愛いところ見せたのに」
「……!!! 今に見てなさいよ」
形勢逆転。最近こういうのが多くて困る。良いもん、後で根掘り葉掘り聞いてやるんだから。私がそれを決行したのは、休憩時間のことだ。休憩時間とは2限目と3限目の間に位置する時間で45分ほど。定時制の生徒はこの時間に持ってきたお弁当を食べるのだ。
「え、何それ」
「だから、何時うちで働いてたのよ。そんなの初耳だったんだけど」
「千紘さんからは何も聞いてないわけ」
「あの人は梓と違ってデリカシーの塊みたいなものでしょ」
「おいそれってどういう意味」
梓の反応は、至って普通だ。寧ろ私が彼の過去について何も知らなかったことが意外だったようだ。てっきりはぐらかされると思っていた私は何だか拍子抜け。
「俺、去年まで家出してたんだよね」
「家出?」
「そ、んで千紘さんところで住み込みで働いてたの。家出の理由とかは、そんな大したこと無いよ。良い子ちゃんだったのが爆発したって言うか。うちの家って、前までは結構な学歴主義でさ」
梓によると、両親の期待を一身に受けた梓は勉強を頑張っていたらしい。遊びも我慢するほどだったのだとか。
「姉貴は勉強とか好きだったから良かったんだけど、俺はそうでもなくてさ。高校生になった途端に成績が伸びなくなって。あるとき勉強なんてどうでも良くなってさ。そんで家出したわけ。あとは、アンタとそんなに変わらないよ。俺も拾われたんだよ、千紘さんに」
「成る程、一つ屋根の下一緒に暮らすうちに好きになって、告白したら断られて家に帰ったパターン」
「うるせーよ」
「図星ね」
そっぽ向いた梓の耳が赤い。かわいい。やっぱり梓はこうでないと。いつの間にかモヤモヤはなくなっていた。その日私はぐっすりと眠ることができた。