上手に甘えると言うことは
「それで。何でとは聞かないわ。若菜ちゃんが相談とか、そういうの苦手なのわかってるつもりだし、責める気もない。だたね、ちょっとそれに気づけなかった自分に苛ついてるだけだから、気にしないで」
千紘さんが入れてくれたホットミルクをすする。少しだけラム酒の香りがするそれは、バータイムの裏メニューでもある。
「ごめん、いつも。別に隠していたわけじゃないんだけど」
「知ってるわよ。もう怒ってないって言ってるでしょ。それより、アタシ怒ると声が低くなるって本当かしら? だとしたら気をつけなきゃー、やだぁもうー!」
千紘さんは、両手を頬に当てクネクネしている。こういう仕草が、いちいち女子力高い。これが営業オネェなのか、彼の本性なのかは実のところよくわからないでいる。それにしても。ち、力が抜ける……! けれど、これは千紘さんなりの気遣いなのだろう。私は、ミルクを一口。意を決して口を開く。
「どう、頼っていいかわからなかっただけだから。あと、進路はまだ迷っててやりたいこととかよくわかんないの。もう高2だけど、定時制って4年あるんだし焦ってはないよ。先生が急かして来るだけ。まだ時間あるし!」
一気にまくし立てたからか、ちょっと咽てしまう。耳が赤くなっているのがわかる。想像以上に、これは照れる。私にとって本音を話すというのは、それだけ難しく思えるのだ。千紘さんはしばらく穏やかな笑顔で話を聞いてくれた。
「そう。わかっているつもりだったけどやっぱり、若菜ちゃんがそうやって自分から話をしてくれると、僕は安心するな」
それは、普段の甲高い声とは別の響きをもっていて。その一人称は未だ聞いたことのないもので。普段はアタシとか、俺とか言ってる癖になんだかしっくり来るものだから、私は驚いてしまう。
「さ、寝ましょ! 夜更かしはお肌に悪いわー! 若菜ちゃんも、今日はコーヒーの練習しちゃだめよ。今日は、学校がお休みとはいえバーの方手伝ってくれて助かったわ、ありがとねん」
だけど、次の瞬間にはそれが幻だったかのように振舞うので、私はいつの間にかその空気に飲まれているのだった。
夢を見た。私が千紘さんに拾われた日の夢だ。薄れる意識の中、吸い寄せられるように明かりのある方へ歩いていったのを覚えている。おしゃれな店だな。そう思った。
『事情がよくわからないけど、困っているようだね。僕で良かったら話を聞くよ。僕は内田千紘といいます。できることなら君の力になるから何でも話して』
そう言えば、あの日千紘さんは僕って言ってたなぁ。
翌朝。いつもの一日の始まりだ。私は7時に起床し、カフェの床掃除からはじめる。千紘さんにはクローズの時もしていることなので毎日しなくても良いと言われるけれど、働かざるもの食うべからずだと思って毎日行っていることだ。もはや習慣になりつつある。何より、カフェの大きな窓から差し込む朝日が私は大好きなのだった。
午前10時半。アルバイトの出勤時刻である。必ず一番早くやってくるのは黒猫さんだ。
「若、おはようございます。今日も早いですね」
「黒猫さんも」
「昨晩も弟がお世話になったようです、ありがとうございました」
黒猫さんは本名は菜緒さんと言い梓の実の姉である。近くの大学に通っているらしい。アルバイト暦はもっとも長く、リーダーだ。主に担当するのはキッチンでのドリンク作成と洗物、時々千紘さんの補助にも入っている。人手不足のときはフロア接客も担当できるスーパーアルバイトである。私よりもアルバイト暦も長く年齢も上だというのに敬語を使ってくる丁寧な人だ。というか、基本的に梓以外には敬語である。
「ちぃーっす。若ちゃん、今日も金髪キマッてますね。お、今日は黒猫と同じシフトっすか」
「天パさんおはようございます」
続いて出勤してきたのは、茶髪の癖毛と黒縁メガネが印象的な男だ。彼は、フロア接客のリーダーである。その見た目から天パと言う愛称で呼ばれていること意外は未だ謎が多い。明るく調子が良いのでお客さんとのやり取りも彼がいると華やぐ。以外にも人気が高いスタッフだ。
「みんな揃ってるわね。はい、じゃあ今日は月初めです。新メニュー、それから月替わりのメニューは各自で確認をお願いね。あと、先月の人気投票の結果ですが」
千紘さんがキッチンに姿を現す。このカフェでは、毎月ごとにスタッフの人気アンケートを取っている。それに書かれている意見を参考にすることが、意外とクレーム防止の対策にもなっていたりもするので侮れない。
「見事1位に輝いたのはポニー君でした。はい、いつもどおりね。それから、お客様からのご意見については各自に渡すので以後気をつけるように。もちろん、お褒めの言葉もあるわ」
私は今月は5枚の意見書だ。これは毎月のことだけど、金髪に対する苦情がほとんど。けれど、金髪がいいとの意見の方が勝っているので今のところ金髪だ。
「若菜ちゃんは今月お褒めの言葉があるわよ」
「うそ、あ。本当だ」
若頭さんは、接客どんどん良くなってると思います。前々回のアンケートで金髪に苦情を言ってしまいすみませんでした。金髪こそ若頭さんですよね! ファンになりました!!(35歳・男性)
「結構うれしいかも」
「若ちゃん、よかったっすね。俺とか、結構理不尽な意見書が来るっす。これとか見てくださいよ!」
天パの癖に丁寧な接客をしてきて腹が立った。お前にそういうのは求めていない。(28歳・女性)
「俺、フロアリーダーなんすけど!!!」
これは理不尽だ。だけど何だか笑えてしまうのは、彼の魅力の一つなのだろう。
「あ、若ちゃん酷いっすー。笑うなんて!!」
そんな話をしていると、千紘さんがパンパン、と手を叩く。
「さ、皆アンケートに目を通したらオープン作業に入って。あと30分で開店よ。黒猫はキッチンのストックの確認よろしく。天パはテーブルのセッティングね。若菜ちゃんは今日のブラックボード描いといて」
ブラックボードと言うのは、店の前に立てかけることができる黒板素材の看板で、チョークで消し書きできるので主に本日のメニューやお勧めなどを書く。最近はこの作業を任されることが多くなった。
午後11時。開店。水曜なので比較的のんびりとしたスタートである。けれど、勝負時は12時からである。
「すいませーん、注文いいですか」
「はーい」
「若頭さーん」
私の認知度も上がってきたためか名指しで呼ばれることも多くなってきた。スタッフは基本的に全員、名札をつけておりローマ字表記で、例えば私ならWAKAGASHIRAと言う風に愛称がわかる仕組みとなっている。お昼時はとにかくOLを初めとする女性客が多いため、デザートなど沢山料理が出る。けれど、下膳のタイミングやグラスが空くタイミングを逃してはならないのでかなり神経を使う。
「今日はポニー君いないんですか」
「あいにく、本日は休暇でして」
因みにこのやり取りはポニーさんがいない日は10回以上行うことになる。もちろん全て違うお客さんなので、ポニーさんの人気の高さがうかがえる。
「若頭さんは、リアルjkなんですよね。働いてばかりだとつまらないでしょう。僕がお金出しますから今度遊びましょうよー」
加えてお客さんのこんな日常的な会話のお相手もしなければならないから以外にもすぐに時間は過ぎる。こんな時は若頭キャラだと、とてもやりやすい。
「あいにくですが、私は店の経営を学ぶ多忙な身でして、申し訳ありませんがご要望には添えかねます」
こんなやり取りにも慣れた。お客さんの中には、スタッフとの交流を目的にしている人も少なくはない。そんなときには空かさずこのように返す。そして、周りのスタッフもそれに乗ってくれる。
「わ、若……! 本当は遊びたいのに、何というストイックな。俺、感動しました……!!!」
「やめてください、天パ。これも、千紘さんに恩があるゆえのことです」
「若……!!!!」
面白いことにこういうステレオタイプなやり取りは好評だったりする。あくまで設定を演じているに過ぎないのだが、お客さんも承知の上で楽しんでいる人が殆どだ。お店のピーク時間を過ぎると、お客さんも数名に留まり始める。今日は比較的落ち着いた展開のようだ。
15時半。黒猫はシフト交代し、キッチンには別のスタッフが入った。と、梓が店に入ってくる。以前に店が忙しくてバスに乗り遅れてからと言うものの、学校がある日は必ず迎えに来てくれるようになったのだ。実にまめな男である。
「上がれそうなわけ」
「大丈夫だよ。いつもごめん」
「アンタが遅れてると友達の俺が先生に色々聞かれるわけ。千紘さんが色々疑われるの嫌なの」
「わかってるー! ちょっと着替えてくるね。コーヒー飲んで待っててよ」
キッチンの千紘さんに上がることを伝え、カフェの制服を学校の制服にチェンジ。今日から夏服だ。考えてみれば制服しか着ていない。定時制なので、特に制服である必要はないけれど、可愛いことと楽なことで気に入っている。梓もまた制服で登校する派だ。よくブレザーの下にグレーのパーカーを着ているがそれがそれが良く似合っている。
「夏服じゃん。俺もそろそろ変えようかな」
「えーパーカー似合うじゃん」
「ばーか、パーカーにはな、半袖もあるんだよ」
マジか。それは知らなかったわ。そんなやり取りをしながら店を出ようとすると、千紘さんに呼び止められた。
「ちょっと待って、二人。これ、お昼ご飯だから持って行って。梓はお昼食べたかも知れないけれど、腹減るだろ」
「……ありがとうございます」
梓は、接客モードの千紘さんにも慣れているらしい。彼の言葉遣いが普段と違っていても別段驚かないようだ。想い人からの差し入れにときめきを隠せていない姿がかわいい。
「見送るよ。この時間はデザートしか出ないから、キッチンはミルクちゃんに任せて大丈夫だし。フロアは天パがいるからね」
ミルクちゃんとは黒猫と入れ替わりのシフトで入ってきたスタッフのことである。千紘さんは、私がバスに乗るまで必ず見送ってくれる。母が生きていた頃にはなかった習慣なので、私は少しむず痒い。梓は、案外これが目的なのかもしれない。
「気をつけてねー」
店を一歩出るといつもの千紘さんに戻る。この落差にいつも力が抜ける。手を振る脇が閉じられていて、妙に女らしい。梓は、見とれているようだ。
「ほんと、千紘さん好きだよね」
「うっせーよ。なんでアンタが娘とかなっちゃうわけー本当納得いかないね」
「そのおかげで手作り弁当にありつけてるのはだーれだか」
いつものやり取りをしながら、バスに揺られること30分。定刻どおりの到着。今日の授業は、国、数、英、に加えて選択社会。私は現代社会専攻なので、世界史専攻の梓とはここで分かれる。とは言え、授業が終わる頃には梓が迎えに来て、世話が焼けるしーとか言われながら一緒のバスで帰るのだけれど。考えてみると、只の仲良しである。
けれど、今日はそうも行かないらしい。散々後回しにしてきた進路の話を、今日こそは決着を着けようとしているのだろう。担任の的場先生が呼び出しをかけてきた。スマホでその旨を梓にチャットを送っておく。あと、千紘さんにも。遅くなりますと送信しておく。夜が遅いため、帰りが遅れると心配するのだ。本当、あの人はお母さんみたいだ。
意を決して、職員室へ。夜の学校の廊下は、一人で歩くには少しだけ怖い。日中は生徒や先生であふれているであろう校舎も、定時制の時間ではやけに広く感じる。因みにこの学校はいわゆる有名私立でありマンモス校らしい。右手には白紙の進路調査用紙。左手には鉛筆。職員室をノック。担任の声がした。
「早瀬さんかな。入って」
「失礼します」
とっくに授業は終わっているため、居るのは的場先生のみだ。やけに広い職員室の一角、普段は来客用に使用されるような面談のためのスペースへと案内される。
「わかってると思うけど、進路調査出してないの、君だけなんだ」
「はい。けど先生。私まだ迷っていて」
「適当に書いてもいいから。まだ2年生だしね」
私はてっきり怒られるのだろうと思っていたから、拍子抜けした。こういうのって、二者面談とか、そういうのに使うんじゃないの?
「ただ、俺が心配しているのは、親御さんと話がついているのかってことなんだよ。千紘と話、できているのか」
そうだ、的場先生は確か千紘さんの古い友人なんだっけ。その伝手を使って私も編入試験を受けさせてもらったのだった。正直この3ヶ月間はこの生活に慣れるのに必死すぎてそんなことも忘れていた。千紘さんは自分の良き理解者、と言っていたけど。
「その件はこの前ようやく話ができたところで」
「そっか、なら良いんだよ。アイツ結構君の事で悩んでるよ。俺に学校でのこととか聞いてくる」
「迷惑かけてるのはわかってるんですけど」
正直、先生にまで相談しているとは思わなかった。少し、悲しい。千紘さんに迷惑をかけまいと頑張ってきたつもりだったけれど、裏目に出てばかりだ。的場先生は大きなため息をつく。
「……多分さ、アイツが君にしてやれることって少ないんだ」
「そ、そんなことないです! 充分してくれてます。お店のことだってあるのに、私のこといつも一番に考えてくれます!」
反射的に答えていた。そうだ、千紘さんにもっともっと恩返しできるようになりたい。私は、いつもそう考えている。けれど、ただの女子高生はあまりに無力だ。今はそれに焦って、自分を見失わないようにすることで精一杯なのだ。
「あー、そうじゃないんだ。そう、君は幾分、良い子すぎるんだよ」
的場は、少し疲れているような、そんな微笑を返してきた。私が意味がわからずにいるとポンポン、と頭を軽く頭を叩いてくる。ポニーさんや大人たちが私に良くするそれととても似ていた。
「間違いなく、君は良い子だ。本当に手がかからないよ。物分りもいいし、馬鹿じゃない。ある程度大人びてもいる」
「……」
「けど、君はさ。親の仕事って何だと思う? 俺はね、子供に思いっきり甘えさせることだと思う。人によってはそれは甘やかしだとか叱るのが親の仕事だって言うかもしれない。けど、それってある程度の年齢までの話しでさ。子供が道を間違えそうになったりとか、そういう時は厳しさも必要だけど、それ以外はやっぱり愛情を注ぐのが親の務めだろ」
そうなんだろうか。私には、よくわからないな。いつもお母さんに苦労をかけないことばかり考えて来た。お母さんが望んだから、高校までは通おうと思っていたけれど、いつだって辞める覚悟はできていたし。
「君の本当のお母さんの事は聞いているよ。きっとそういう考え方が癖になっている。悪いとは言わないし、君とお母さんが生きてきた証のようなものだ。捨てろとは言わない。けど、千紘の友人として一言行っておきたくて。甘えるのも、親孝行だってな」
甘えるのも、親孝行。それは私には未だ幾分難しい話に思えた。職員室の扉を開けて廊下に出ると、梓が待っていた。ヘッドフォンをしながらスマホを弄っているところを見ると、大方ゲームでもしていたのだろう。
「あれ、メッセージ送ったのに」
「だから待ってたんでしょ。今の時間なら最終バス何とか間に合いそうだから、走って。この学校、無駄に広いからね」
梓は、いつもそうだ。先に帰っていた試しがない。きっと、千紘さんに私のことを頼まれているのだろう。私の周囲の人間は、そうやって千紘さんからいろいろと私のことを頼まれていることが多い。信用されてないと思っていた。けど、多分それは私が、頼るのヘタクソだからだったんだ。
「あーずさ」
「何。その間延びした呼び方キモい」
「ふふふ」
「何だよ」
梓の、ちょっとだけカラーが抜けてプリン状になった旋毛。細くてパーカーの似合う背中。
「いつもつき合わせてごめん」
「別に」
「ありがとね」
瞬間、視界が暗転して、顔面を強打。おそらく梓が急に立ち止まったからだろう。私は舌も噛んだし鼻だって曲がったし、色々、どこもかしこも痛いので、私は涙目だ。振り向いた梓も、何でか涙目だ。
「アンタ、何時からそういう可愛いこと言えるようになったわけ……って何で、泣いてるんだよ」
「梓こそ、何で泣いてるのよ」
梓との会話はそれ以上なく、何故か二人で号泣していた。梓は男子なのに、泣いていた。そういう優しいヤツだと知っていたけれど、私と一緒に泣いてくれたのは意外だった。その日は、的場先生が車で送り届けてくれたのだった。目を腫らした私を見て、千紘さんは何かあったかと心配したが、的場先生がうまく説明してくれたようだ。
まだまだ続いていきます
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