彼女の問題は
今となっては3ヶ月前のことだ。シングルマザーだった母親が大病の末に亡くなってしまった。母が多額の借金を抱えていたのを知ったのはそのあとだ。家族を失い、頼れる大人もなく、借金返済に必死だった。未成年で高額の給料をと見つけた仕事は水商売で。年齢を誤魔化しながら仕事をして、何時誰に見つかるかと怯えて。それでも何とか生活できると思っていたが、私は自分で考えるよりも非力だったのだと思う。結果的には借金という弱みを握られ、悪質な客に漬け込まれた挙句身体を売られそうになった。その夜、私は逃げ出した。
どのくらい走ったのかもわからないくらいに逃げて、逃げて、逃げて。それでもまだ追ってがいる気がして。冷静に考えたら、大した距離でもないのだけれど、雨が降っていたことに加え、恐怖感もあったからそれはとても長い距離に思えた。店の前で倒れていた私を拾ってくれたのは、河川敷にあるとあるカフェの店主である千紘さんだった。料理もできて、気遣いもできてそれはそれは見目麗しい男性だ。そう、いうなれば某男性アイドルのような、可愛らしいとも言えるそんな。だけど、彼の中身は女性……なのかもしれない。(そのことについて私は未だ彼に詳しく質問できないでいる)
「若菜ちゃーん、起きてるかしらー」
千紘さんの声に起こされたのは、午前11時頃のことだ。昨晩はネルドリップの練習で3時くらいまで起きていたから、もう少し寝たいという気持ちに少しだけ負けてしまいそうになる。ああ、若菜。自分に負けてはダメよ、千紘さんが呼んでる……だけどもう少し。
「偵察という名のランチに行きませんかー」
眠気という誘惑に負けそうになった瞬間、それを凌駕してくるお誘いの声が。その言葉に反応し、勢いよくベットから起き上がった。
「行くに決まってるー! ちょっと待って、支度するから!」
火曜日は千紘さんのカフェ、Cafe and Dinning Bar KURONEKOの定休日だ。私は早瀬若菜。端的に説明するならば行き倒れていたところを千紘さんに拾われた不良女子高生だ。今は彼の扶養家族、つまるところ養子である。千紘さんの自宅と兼用になっている店に居候することと、定時制の高校に通う見返りとして私も店のスタッフとして働いている。一年前までは普通の不良女子高生だったのでまさか自分がオネェの養子になるとは思っていなかった。去年の私にして見れはまさにびっくり仰天だろう。
ところで千紘さんが言うところの偵察と言う名のランチとは近隣のライバル店に食事をしに行く行為のことである。半分は文字通り偵察目的であるが千紘さん自体が外食好きと言うか、彼自身が店の調理場に立つので色々と研究したいのだろう。
そう言う訳で、カフェに行くのでそれなりにお洒落な服装をしなくてはならない。幸い、私は千紘さんのファッションドールなので、千紘さんが勝手に買い与えてくれる服を着れば大体お洒落に見えるのだが。つまるところあのオネェは年頃の女子をファッションからメイクまで、トータルプロデュースすることが楽しいらしい。しかし、TPOに合わせることに関しては自分のセンスが問われるので厄介だ。
「ワンピース……だとデートっぽい。デニム……はカジュアルすぎるしー」
結局のところ無難にブラウスとショートパンツにした。千紘さんがセットで購入したものなので組み合わせ方に間違いはないだろう。何故服装に悩むかというと、以前にも千紘さんとカフェにいったところ、恋人同士と間違われてしまったことがあるのだ。確かにその日はワンピースだったし服装的にはデートに見えたのかもしれない。単に楽だからワンピースが多いのだけれど。私としては、千紘さんと恋人同士に間違われるのは、千紘さんが保護者である以上不味いと思うし、店のイメージにもかかわるので止したいところだ。(ここは外せないポイントなのだけれど、千紘さんは女性客の半分が彼目当てと言うくらいに容姿が良い。……中身はオネェだが)加えて、あの人はすぐ調子に乗るから。
『ああ、今日は初デートなんですよ。彼女に美味しいコーヒーを』
『ちょっと、千紘さん!?』
『照れているの? それともこれをデートだと思っているのは俺だけなのかな……』
すぐにフザけてこういう演技を始めるのだ。私にしてみればその後、カフェの店員に素敵な彼氏で羨ましいですー何て言われて困ったのだ。千紘さんは戸惑う私を楽しそうに眺めながら暢気にコーヒーを飲んでいるしでとても疲れた。そういうことだから、偵察に行く時は絶対フォーマルなんだから。私はトレードマークの金髪を纏め部屋を出た。
「たまにはさ、自分んとこ以外のご飯も食べたくなるわけよ」
そう言いながら千紘さんは幸せそうにパスタを食べている。所作が美しい。私はオムライスをセレクトした。2人がいるのは、最近話題のカフェだ。クマをモチーフにした可愛いラテアートが最も有名だが、料理も美味しいと徐々に人気を上げてきている。特徴はとにかくインテリアから食器、延いては料理までもが可愛らしいことだ。私のオムライスも、ケチャップのクマが描かれていたし、千紘さんのデザートにはチョコソースでウサギが描かれていた。
「でも私、千紘さんのオムライスも食べてみたい」
「あら気を遣わなくていいのよ?」
「そうじゃなくて、私の料理の基準って千紘さんのやつだからこれがどのくらい美味しいのかよくわかんなくって。もしこっちのが美味しいなら負けてられないし」
「ま。若菜ちゃんもらしいこと言うようになってきたわねー」
あの夜から3ヶ月、すっかりカフェの仕事にも慣れ最近では閉店後の作業も手伝うようになった。千紘さんには勉強をしろと怒られるが、アルバイト仲間には良き先生が沢山いるので今のところ勉強で困っていないのだ。先日の模試だってなんとか志望校B判定だ。学校を辞めてからの分野は未だに苦手で勉強が追いついていないけれど、定時制に通うようになって習った分野についてはむしろ成績は良い方だった。
そう、成績は良い。けれど実のところ私は進路で迷っていた。つい考え込んでしまいオムライスで遊んでしまう。案の定、リアルJKよりも女子力の高い彼から注意される。
「わーかーなーちゃーん? ここは家じゃないのよー?」
何で注意するときだけ声が低くなんのよ。怖いでしょ!!!! だけど、まだそれを指摘できるほど私は保護者として千紘さんを認識できないでいる。やっぱり、もとは見ず知らずの他人であるので、引け目を感じてしまうのだ。それで、進路のことも相談できないでいる。
相談したら、彼はきっとどんな道でもサポートしてくれるのは目に見えている。金髪だってカッコイイと言ってくれたし、高校に通わせてくれるのもまた千紘さんなのだから。
「なぁにそのシケた顔。かわいいんだからしゃんとしなさいな!」
「うん、ごめん。ちょっとオムライスのこと考えてたんだよ」
いつの間にか冴えない表情になっていたらしい。これ以上は彼に心配をかけてしまうかな。私はあくまで偵察中であることを思い出す。それ以上考え込むのはやめ、目の前のカフェラテの味に集中することにした。
定休日とはいえ、それはカフェタイムの話で、KURONEKOは基本的にバータイムは無休でやっている。千紘さん的にはこちらがメインなのだそう。これは噂で聞いた話なのだけれど、この店――Cafe and Dinning Bar KURONEKO――は元は千紘さんの実家で経営していたバーだったのだと言う。一度閉店し、別の店となっていたけれど彼が買い戻したのだとか。
うちのカフェの売りはなんと言っても、スタッフだ。アルバイトリーダー・黒猫をはじめとする個性豊かなスタッフが人気の理由のひとつとなっている。これは千紘さんが考えたお店のコンセプトでもあるらしい。スタッフ一人ひとりに愛称を付け、キャラ付けする。スタッフはその設定に沿って自由に接客するのだ。私は、千紘さんの養子であることと名前の若菜から一文字取って若頭と呼ばれ、文字通り店長の後継者としての役割を演じている。
「若。ご報告よろしいでしょうか」
「どうしたの黒猫さん。もしかしてミスですか」
「いいえ、今回は別件でございまして。実は、新作のお料理の注文が入りました」
「本当に? それはさぞかし千紘さんも喜びますね。良くぞ報告してくれました」
「いえ、若におかれましては新作メニューにはご尽力いただきまして……」
こういった、無駄な報告を受けるのが主な役割である。アルバイトの中では一番下っ端なので幾分心苦しいし、ミスがあったときの判断が自然と私になるので大変だ。だから若頭キャラは散々断ったのだけれど、この金髪が幸いしお客さんに好評になってしまったから仕方がない。判断で迷ったときはフロアリーダーの天パさんに小声で相談することにしているけれど。
「若ちゃんなら大丈夫。もう3ヶ月経ちますしね」
最近は学業も忙しいようで(アルバイトのほとんどは大学生だ)、フロアのことを任されることも多くなってきた。と、裏口の扉が開く。シフト交代の時間だ。
「おはようございます。あれ、今日は若も出勤ですか」
「ポニーさん。今日は校立記念日なんですよ。それで定時制の授業もお休みなんです」
長身の体を窮屈そうに曲げながら入ってきた彼もまたアルバイトだ。千紘さんと並ぶ人気のスタッフで噂によると時々雑誌に載ったりもしているのだそう。いつも長い黒髪を一つに纏めているので、ポニーと言う愛称が付いたようだ。私は主に就業後に彼に勉強を見てもらっている。
「若ちゃん、引き続きフロアお願い。ポニーくん入れる? 黒猫は、それまで作ったら上がって良いよ」
因みにキッチンに立っている千紘さんは接客モードだ。一人称は私から俺になるし、仕草もぐっと男らしくなる。以前に言っていたけれどオネェはお客さん全員が理解してくれるものではないからなのだそう。あと、バータイムのシフトに入るようになって気づいたことだけど、夜にオネェ言葉で接客していたらここは、バーじゃなくてハッテン場になっちゃうからなんだろうな。
「千紘ちゃーん、今度遊んでよう」
「いえ、いえ、僕には娘もいますからね。ポニー君あたりが優しくしてくれますよ」
「つれないのねぇ」
やっぱりそういう嗅覚が冴えるのかゲイの客も多い。意外にも千紘さんはそれらの客はスルーしていて、いつもポニー君がゲイの相手を押し付けられているようだ。押し付けられた彼も笑顔でスマートに切り抜けているが。
というか、千紘さんオネェなのに恋人とかそういう人見たことない。顔は良いんだし、モテそうなのになぁ。
「ねー梓はさ、なんか知らないの」
「俺が知るか。つか、その質問そっくり返すよ」
同級生の梓が、アルバイトリーダー黒猫の弟であると言うことがわかったのは、割と初期の話だ。閉店後の店に嫌がる彼を無理やり引き入れたところ判明した。見た目は明るめのボブヘアーで猫目、小柄。そしてツンデレ、おまけにちょっと良いヤツ。しかも千紘さんに好意を向けているとか。彼に対するその反応も初々しいので、非常に可愛らしい。私のお気に入りである。千紘さんの情報の多くは、梓から仕入れたと言っても過言ではない。無理やり店に連れ込んできてからと言うもののよく、うちの店に宿題を片付けに来るようになった。
「ていうか、お前だけだぞ。進路決まってないの。先生心配してたじゃんよ」
「あーーーー、しっ。千紘さんに聞こえるじゃん。梓は、服飾系進むんだっけ」
梓の声は甲高くて通るので、私は慌てて話題を逸らす。
「まーね。ポニーさんもいるし、また俺の服とか着てもらいたいなって」
「そう言えば時々作るんだっけ。梓ならすごいデザイナーなれるよ」
「ばっか、そんな簡単な世界じゃないし。てか、話し逸らすなよな。アンタ、千紘さんにも相談してないのかよ」
「だから、その話はここでは……ってポニーさんビックリするから黙って背後に佇むのマジでやめてください!!!!」
店のソファに向かい合って座る梓の視線の先が自分よりもずいぶん高いところにあることに気づいて、背後にポニーさんが立っていることに気づく。彼は、寡黙なので幾分気配が少なくて困る。
「……すみません。どうやら込み入った話のようでしたので」
これ以上この話題が続くのはまずい。何といっても今日はまだ千紘さんからの差し入れがない。千紘さんは私と梓が勉強していると必ず軽食を作ってくれるのだけど、それがまだないのだ。つまり、千紘さんがいつ近くに来るのかわからないのだ。
「そう、そうなのよ。込み入った話なの。だから千紘さんには……」
私は慌てて話題を終了させようとする。けど、さすがに限界のようだった。あれだけ大きな声で話してたら当たり前なのだけど。背の高いポニーさんで隠れていたのか彼のの背後から、ホットサンドが乗った皿を手にした千紘さんが登場する。笑顔だ。それも、営業スマイルのほう。流石に3ヶ月も一緒に暮らしていたらわかる。これは千紘さんが怒っているときの顔だ。
「わーかーなーちゃーん? アタシに何の相談かしら? 何だかとっても大事なこと黙ってたようね」
「げっ。だから、何で怒るときだけ声が低くなんのよ? もう、梓とポニーさんの馬鹿馬鹿! バレたじゃん!!」
怒った千紘さんは怖い。だって声、低いんだもん。涙目で梓とポニーさんを責めてみるけれど、ポニーさんはいつもの穏やかな微笑みを返してくるし、梓なんてふいっと顔を逸らしてきた。確信犯だ、この人たち。
「だってアンタ、こうでもしないと遠慮して相談しないでしょ。そんで、俺にも相談できないでしょ。そんで、俺が相談乗っちゃうと千紘さんががっかりするでしょ」
そうなのだ。この3ヵ月の傾向としては、千紘さんは保護者らしいことをできるだけしてくれようとしている。それで、それができなかったときにとても落ち込むのだ。素直に甘えればいいのだけれど、私は未だにそれができない。できないというか、母にそういうことで頼ったことがなかった。母はいつも働いていて、家にいるときはひどく疲れた顔をしていたから。梓としては、千紘さんが落ち込むところを見たくなかったのだろう。良くも悪くも、千紘さんが一番なんだから。
「とーにーかーく。就業後、家族会議です。はい、じゃあこれ食べて早く宿題終わらせて」
千紘さんはぷりぷり怒りながらキッチンへ帰っていった。私は黙ってホットサンドにかじりつく。もう、今日は誰とも話してやらないんだから。
「若、わからないところがあったらいつでもおっしゃってくださいね」
「……」
ポニーさんが若干険悪なムードが漂い始めたのを察知したのか、優しく話しかけてくるが、私は無言でソファにもたれ掛かり、顔を背ける。古典的で子供っぽいやり方だが、精一杯の反抗である。
「梓君、もしや若はおこですか」
「ご機嫌斜めですね。こうなるともう、機嫌が直るまで口利いてくれないんですよ」
ポニーさんは軽く溜息をつき私の頭をポンポン、と軽く叩くとクローズ作業に戻っていった。幸い、今日の宿題で頼るところはなさそうだ。梓が猫目で見つめてくる。
「アンタさ、何でそんな意地っ張りなわけ。一応唯一の家族なんだし、もっと、千紘さん頼ってあげろよな」
「……」
「俺はこれでも千紘さんがどうとかより、アンタが心配でやったんだけど? 友達として。その、一応な!」
梓はふいっと顔を背ける。耳が赤い。かわいい。だめだ、このツンデレには一生勝てる気がしない。
「……わかんないのよ」
「え?」
「甘え方がわかんないの」
そう、別に意地を張っているわけでも、千紘さんのことが信用できないわけでもない。こういう行動が彼の気持ちを傷つけることもよくわかっている。けれど、私には甘えた経験が少なすぎる。だから、どう行動すればいいのかわからないのだ。
「面倒な子供だなって、思ってるよ。金髪だし、素直じゃないし、未だに心開けないし。そのうち、捨てられるんじゃないかって」
言ってるそばから泣けてきた。本当、私いつか捨てられてしまうんじゃないかな。梓は、おろおろしている。私は今まで、梓の前で泣いたことなかったから。
「ちょ、ちょっとまって。誰が捨てるって? アンタ、そりゃないだろ。んで、何でそんな不器用なことになってるわけ?」
そういえば、結局梓には私のことあんまり話せてなかったな。詳しく聞いてこなかったのもあるけれど。正直、母親が亡くなったことは私の中で未だに尾を引いている。だからその話題に触れられないことも、心地よかったのだ。梓は案外、そういうところ察知できる人間だから。私はこれまでのことを詳しく話した。宿題が終わったのは、午前1時を回った頃だった。
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