カフェの初日
その日、私は7時に起床した。店の掃除をするためだ。真っ白なシャツ、黒いスキニーパンツ、黒いサロンエプロン。店の制服だ。手際よく金髪は一つに纏め、鼻歌交じりに床を履き始めた。中学生から新聞配達のバイトをはじめて、様々な仕事を経験して来た。中でも飲食店は、最も多い。たいていの店が掃除は最初に行う。料理を仕込み始めてからでは掃除ができないからだ。昨日、千絋さんは11時オープンだと言っていたから、8時にはアルバイトが来て準備を始めるはずだ。私は今日が初日だけど、できることなら役に立ちたかった。
午前7時半。ちょうどカフェのフロアの掃除を終える頃、千紘さんが住居スペースである2階から降りてきた。
「お掃除ご苦労様。今日は時間もあることだし、ちょっとだけよ」
そう言ってキッチンにこもると、コーヒーの香り。ガリリ、カリカリカリカリ。豆を挽く音がし始める。私は途端にワクワクしてキッチンに潜り込む。千紘さんは豆を挽くことに集中しているようだ。ちらりともこちらを見ない。その表情は真剣そのもので、ちょっとだけ仕事中の男性のそれにも見えた。私はコーヒーの挿れ方を教わりたくて、うずうずとしていたがおもむろに口を開く。
「店長さん、」
「ん?」
「見てていいかな」
「ああ」
一瞬、男性の口調のように思えたが。
「何、コーヒー興味あるの?」
いつもの彼が微笑んでいた。少し、拍子抜けしてしまう。
「……あ、ええとその、お母さんインスタントコーヒーが好きでね。よく一緒に飲んだりしてたの」
「そうなの。もっと近くに来て。見て覚えなさいな」
Cafe and Dinning Bar KURONEKOのコーヒーはネルドリップ方式と言う方法で作る。生成りの布でできたドリッパーに挽いた豆を入れ、蒸らしにかかる。お湯は、80度。まずはネルと呼ばれる布にお湯がかからないように円を描くように豆全体にお湯を馴染ませ蒸らす。するともこもことカップケーキのように豆が膨らんでくる。十分に蒸らしてから、中心に10円玉を描くようにお湯を落とし続ける。これが結構難しい、らしい。
「今日はブルーマウンテン。若菜ちゃんがこの前飲んだやつ。飲みやすいから、人気の豆ね」
ブルーマウンテン。すぐに記憶した。そうこうするうちにコーヒーができる。
「さて、昨日のクッキーの残りがあるの。サンドイッチくらいなら作れるけれど、お腹はすいてる?」
「クッキーで大丈夫です」
「了解、アタシもあんまりお腹すいてないの」
アルバイトの少女が店に来るのは午前9時のこと。それまで千紘さんはというとランチメニューの仕込みをしていた。私は、テーブル拭きなど単純作業を手伝った。
「そうそう、上手ね。手伝いでもしてたの?」
「いえ、飲食店でアルバイト結構してたんです」
「そうなの」
そうこうしているうちに、9時。店の裏口から黒いおさげの少女が入ってきた。既にコートの下に制服を着ているようで、荷物置きにコートを置いてキッチンに入る。
「おはようございます」
「おはよう、今日から若菜ちゃんも一緒だから、色々教えてあげてね。彼女がバイトリーダーなのよ」
私は一旦作業を止め、少女に向き直る。少女は無表情で見つめ返してくる。昨日から思っていたけどクールな人。緊張しつつ自己紹介をする。
「早瀬若菜です、よろしく」
「よろしく。バイトリーダー、黒猫よ」
「くろねこ……珍しい名前ですね。あっ。カフェの名前と一緒」
しかし確かに名札にもKURONEKOと表記してある。てっきり本物の名前なのだろうと思った。
「名前じゃないわ。バイトリーダーの愛称。この店本名は使わない主義なの。千紘さん、教えてないの」
「ああ、そうそう。ここのカフェはね、店員同士は愛称で呼び合うのがルール。だから私のことも店長じゃなくて千紘って読んでね」
「な、なるほど」
よく見ると、千紘さんの名札にもCHIHIROと表記されている。
「若菜ちゃんにも後で愛称を考えましょう。そうね、今日のアルバイト皆があつまるのは10時だから、そのときにでも。名札はすぐに作れるから大丈夫。じゃあ、アタシは仕込みに入るから黒猫は若菜ちゃんをよろしくね」
そう言って千紘さんはキッチンへ戻った。黒猫さんはカウンターに入ると早速指示をしてきた。
「私は仕込み、入りますので。若菜さんはカウンターの清掃を。台拭きはシンクの下の棚にありますから濡らさず、アルコールの入った霧吹きを使用して拭いてください」
「は、はい」
やっぱりクールな人。白い肌に、漆黒の髪がよく似合う。アーモンドのような大きな瞳は彼女の黒猫というあだ名によく似合っている。あ、けど“黒猫”はバイトリーダーの愛称とか言ってたっけ。そうこうするうちに再び裏口の扉が開き、今度は黒縁メガネをかけた青年が入ってきた。
「はよございまっす! お、今日は黒猫が早番だったんですね」
「……おはよう」
もじゃもじゃという形容詞が似合う茶髪と黒縁メガネのせいで顔はよく見えないが口元が笑っているので辛うじて表情が読み取れる。総じてチャラい印象だ。口調からしてこちらは黒猫とは正反対の軽いノリのようだ。と、こちらを不思議そうに見ている。そうやら見慣れぬ人間がいることに驚いているようだ。
「あれ、千紘さん。新人入ったんですかあ? てか思いっきりギャルじゃないですか」
「この子、噂の居候。今日から働くらしい」
私が話すタイミングを測りかねていると、黒猫さんが助け舟を出してくれた。案外、彼女は面倒見がいいのかもしれない。
「あー! 君が噂のJKっすか。おれ、アルバイトの天パです。よろしくね」
「はあ、ええと、早瀬若菜です。店長さ、じゃなくて千紘さんにお世話になってて」
「ここのアルバイトの中では君の噂でもちきりっすよ。あの千紘さんがJKを匿ってるってね」
どういう噂だろう。不思議に思っていると天パと名乗った(おそらくこれもあだ名なのだろう。それにしても直接的すぎるけれど)青年が握手を求めてきたので応じることにした。
「フロアのことは何でも聞いてください。俺、これでもフロアリーダーなので」
「フロア?」
「注文とって、料理運んで、会計する役割」
突然の横文字に戸惑っていると黒猫さんが再び助け舟を出してくれる。ちょっと愛想がないけど、やっぱり面倒見のいい人だ。天パさんもいい人っぽいし、楽しくなりそう。不安はすぐさまなくなり、もう一人来るというアルバイトに会うのが楽しみになっていた。
最後のアルバイトが入ってきたのは10時ギリギリだった。こちらは180cmはあるのではないかという長身で、長めの黒髪をオールバックにし、一つに結っている。黒いサロンがよく似合う、360度どこから見ても二枚目だ。
「おはようございます」
「ポニーくん、ギリギリっすよ! 今日は若菜ちゃんがいたのでフロアの清掃終わってるからいいっすけど」
ポニーと呼ばれた青年は私には興味を示すことなく欠伸をしている。そうか、こっちから挨拶しないと。皆が気にしてくれるわかじゃないんだ。そう思い青年に近づく。
「は、はじめまして。今日からお世話になります早瀬若菜です」
「……」
青年は無言で私を見つめてくる。目が合うこと30秒。そろそろ恥ずかしくなってきた。私、何か間違えたかな。失礼なことでもしてしまっただろうか。それとも、先ほど天パさんに怒られたから、私のこと嫌いになっちゃったとか? 様々な考えを巡らせていると青年がおもむろに口を開いた。
「若頭」
「へ?」
「愛称、若頭」
突然の命名に拍子抜けしていると天パさんがくっくっく、と笑い始めた。
「いいっすね、その愛称! 千紘さんの秘蔵っ子、店長の子だから若頭! 何かギャルっぽい見た目にも合ってます。しかも若菜から若をかけてるんですね。流石ポニーくん、愛称付けるのだけは天才っす」
どうやら目が合っている間ポニーさんは私の愛称を考えていたらしい。それにしても、若頭って。とその貫禄ある愛称にちょっと萎縮する。ところが意外にも私以外の人間には好評なようだ。
「若頭、いいじゃない。ちょっと長いのがあれね。そっか、若って呼べばいいのよ。極道みたいで面白いじゃない?」
「若、短くて呼びやすい。いいと思う」
千紘さんが賛成してしまったことで、ほぼ決定の運びとなった。私に選択権はないようだ。黒猫さんに最後の希望を託してみたけれど、どうやら短く呼びやすいことで気に入ってしまったらしい。結局受け入れるざるを得なかった。名札には、正式な愛称としてWAKAGASHIRAと記載された。
それにしても。とポニーさんを見やる。その彫りの深い顔と長身に見とれていると、口数少ないポニーさんに代わり天パさんが彼の詳細をこっそり耳打ちしてくれた。
「ポニーくんは主に夜のバータイムに働いてるんですけど、今日みたいな休日はお昼のカフェタイムにも働いてくれるっすよ。平日は学生しながらたまにモデルのお仕事もしてるみたいっす。ポニーくん、かっこいいもんなあ」
Cafe and Dinning Bar KURONEKOのシステムは、11時~17時までをカフェタイム、一時間の仕込み時間をはさんで18時~25時までをバータイムとしている。カフェタイムの前半3時間をランチ、バータイムの前半3時間をディナーとして料理も出している。私が働くのは開店前の準備2時間とランチタイムの15時まで。17時からは定時制高校へ通うためだ。
初めての場所での仕事は不安もあったが、私はこれまでの飲食店での経験を上手く活かし、しかし周囲をよく観察しながらカフェならではの気遣い言葉遣い、対応を即座に学んだ。フォローについてくれたポニーさんは、相性が良かったのか私が間違った対応を(とは言っても普通の飲食店ではありふれた光景だったりするのだが)しようとすると上手くフォローに入ってくれる。
「KURONEKOオリジナルカレーを2つですね。お飲み物は自家製ジンジャエール、と」
「若、申し訳ありません。カレーはさっきので最後です」
「あ、ええと。お客様、大変申し訳ありませんが」
油断していた矢先に失敗した。ポニーさんからはランチ、ディナーメニューには限りがあるため1時間ごとに残数をキッチンスタッフに確認しろと言われていたのに。お客様も、別のメニューでいいとおっしゃってはいたけれど、やっぱり少し残念そうな顔をしていたなあ。ポニーさんに後で怒られてしまうのだろう。そう覚悟して注文を取り直し、キッチンへ向かう。その途中、ポニーさんがこっそりと耳打ちした。
「若、ジンジャエールにこっそりとクッキーをつけてください。これはもちろんサービスで。うちでは、一つのミスをチャンスに変えるんですよ」
驚いてポニーさんを見ると柔らかく微笑んでいた。ミスをチャンスに変える。なんて素敵な響きなんだろう。その言葉って誰が考えたのかな。やっぱりあの人だろうか。千紘さんらしいなあ。などと思い余計に嬉しくなる。
思った通りここは、素敵なお店だ。私も早く一人前になってこの素敵なカフェの一員として認められなければ。落ち込んでしまっていた肩をしゃきっと戻し笑顔を作る。接客の基本だ。
「素敵ね! さっそく千紘さんにお願いしてみる!」
後から聞いた話では、その日フロア担当であった天パさんは、女性客から若と呼ばれる少女について質問攻めにあったらしい。ポニーさんは人気スタッフ。彼のファンである女性客は多い。
「だから、若ちゃんは、若頭っす。千紘さんの秘蔵っ子で、まだ女子高生なんです。なので、ポニーくんとはアルバイトの先輩後輩のような関係と言うか……」
天パさんは客の間でポニーさんと私の関係に誤解が生まれてしまわないよう一生懸命真実を話そうとしていたらしい。しかし天パさんはすっかり忘れているようだ。もちろんポニーさんも人気だが、他ならぬ千紘さんの存在こそが人気の理由なのである。
「店長さんの隠し子ー!?!?」
ますます混乱する店内に、呆れた黒猫さんが助け舟を出す。
「そんなことよりも、お客様。新作メニューの試食をどうぞ。できたらアドバイスが欲しい、と千紘さんが」
「私たちに、千紘さんがー?」
声をかけられた女性客たちはまんざらでもない顔だ。黒猫さんが天パさんを一瞥すると、彼はごめんごめんとジェスチャーする。実はこの試食も、千紘さんの気回しだ。キッチン付近にいるときに黒猫さんに耳打ちしているのを見た。あんたやっぱり気が利くわねー、などと二人が談笑しながら調理する様を、カウンター越しに眺める。あの二人って仲いいんだな。人間関係も良いし働いていて楽しい職場だ。
ただ、一つ頂けないのはポニーさんを始めとするアルバとスタッフが「若、若」とまるで極道の若頭にでも接するような態度で話しかけてくることだ。おかげで私は初日から若頭キャラが定着したようだ。と言うか、みんな絶対に人ごとだと思って楽しんでる。私がカウンターで料理を待つ間ぶすくれていると黒猫が耳打ちしてきた。
「このカフェって料理も美味しいし、見た目もおしゃれだから結構、この辺りでも人気の店なんです。でもお店って料理が美味しいだけでは生き残っていけませんよね。何か目立たないといけない。看板商品があるとかね。うちの看板商品の一つが店員なんです。愛称で呼ひ合うのは、スタッフ同士の親睦を深めるという意味もありますが、ある意味でその人間のキャラを立てることになるんです。例えば私なら、黒猫ですからバイトリーダー、あとはツンツンしてるとか、クールキャラとかですね」
「な、なるほど」
「天パはあのチャラいキャラが受けてますし、ポニーくんはモデルキャラでカリスマオーラがあるのが魅力ですよね。だから、若さんもどうか“らしく”振舞ってください」
そっか、そう言う意味だったのか。私はそういうことならと頷く。
「そうなんですね、心得ました」
だけど若頭キャラって自分がどう振る舞うって言うよりか周りの人がどう接するかって感じ。私はもう疑問を感じなくなっていた。いつもどおり出来上がった料理を運び、注文を取る。時刻は13時。そろそろ休憩時間だ。黒猫さんは、ディナーの仕込みをして上がり。14時からは、ポニーさんがキッチン、バー担当だ。ディナータイムには再びアルバイトが3人にに増えるらしいが、私は今日は15時までなので会うことはないだろう。
読了ありがとうございます。
登場人物がほぼ出そろいました……と思ったけど重要人物があと一人登場します。
多くて大変かと思いますが、ニュアンスで覚えていただければ幸いです。
作品のイラストを描いてくださる方を募集中。
私の作品は容姿の描写が少ないので希望とあらば細かい設定など送ることが可能です。
デジタルデータ化の可能な方を優先させていただきます。
さて、若菜はアルバイトの初日を無事に終えることができるのでしょうか…?