黒という色
よろしくお願いします。
いつだって思い出は色褪せない。
逆説的に言えば、色褪せた時点でそれは思い出ではなくなる。ただの記憶だ。
例えそれが他人から見てみすぼらしいものであったとしても、本人の中で輝くのならそれは一つの思い出だ。
そうやって作られた思い出が、人を作る糧となる。
降り立ったホームは随分と様変わりしていた。
駅が改築されてから何度か訪れているはずなのだが、どうにもまだ慣れることがない。
記憶の中にある駅はこんなに綺麗な壁ではなく、薄汚れ年季の入った、今にも崩れそうな駅だった。
これからこの街で仕事をする。
そう思うと、駅の形もより異質なものに思えた。
私はこの街で生まれ、高校までこの街で育ち、都市の大学を出て、就職でこの街にまた戻ってきた。
地元への愛が特別深いというわけではなかったが、手頃なコネも使える就職先、ということも考慮するとそれでいいのだろう。
見知った街にはシャッターが降りた店も増え、駅前にあった大きなデパートの跡地は、再開発によりマンションが建つそうだ。
駅だけでなく、街も変わっていく。
誰に責められることでもないし、誰が止めることでもない。
ただ、変わっていく様子は、私の心に少しだけ、本当に少しだけの影を落とすには十分な要因であった。
「どちらまで行かれますか?」
「市立病院までお願いします」
タクシーに乗り込み、新居の目印となる建物を告げる。
街並みを眺めながら歩いてもよかったのだが、引っ越しともなると荷物は多い。
空は今にも泣き出しそうな雲が覆っている。
あまりノスタルジーに浸ってもいられない。
「お客さん、観光、って言うには荷物が多いですね。お引っ越しですか」
「わかりますか」
「この時期ですからねえ。就職か何かで」
「ええ、地元に戻って就職することにしました」
「ほー、そりゃいい。是非ともこの街を盛り上げてやってくださいよ。最近はあんまり景気のいい話聞かないですから……」
運転手は上機嫌に喋り続けている。
適当に相槌を打ちながら窓の外を眺めていると、とてもよく知った姿が目に止まった。
正確にはよく知った服が、だが。
「ああ、中央高校の制服ですね。お客さんこっちが地元って言ってましたし、もしかして中央出身ですか」
「ええ、まあ」
「実は自分もなんですよ。いやあ、後輩の姿ってのはいつ見ても微笑ましいもんですねえ」
そこにはジャージを着た男子生徒と制服を着た女子生徒が仲良く並んで歩いていた。
「あのジャージ、5年に一度くらいはデザイン変えようって話になるんですけど、何故か変わらないんですよねえ。もう30年はあのまんまだ」
「そう、ですか」
窓の外から目を離そうとしても、視線が動かない。
嫌な汗が全身から吹き出す。
もう終わったことだと思っていたのに、そうでもないのか。
うまくいうことを聞いてくれない自律神経に、そんな感想を抱く。
高校時代は今でも鮮明に思い出せる。
当然だ。だってたった4年しか経っていないのだから。4年ぽっちじゃ絶対に忘れられるわけもない。
当時、私は愚かだった。
今でも賢いだなどと自惚れるつもりはないが、今よりずっと愚かだった。
中学まではなんでも出来た。
勉強もスポーツも、友達だっていた。それがいつの間にか自意識を肥大させていたのだろう。
いや、言い訳はよそう。そもそもが傲慢な自意識の上にわずかばかりの能力でメッキをしていただけなのだ。
高校でそれが打ち砕かれた。
ちっぽけな中学のヒーローはちっぽけな地方都市の高校ですらヒーローになれなかった。
ヒーローなんてたくさんいたのだ。
最初はそれが認められなかった。理解していなかったと言い換えてもいい。
俺が一番になれないのはたまたまだ。本気を出せばいつだって一番になれる力がある。
そうやって言い訳をして現実から目を背けていた。
そんな砂上の楼閣、は私が2年に上がるとき、極々小さな切欠で脆くも崩れ去った。
好きな子が他の男と付き合い始めた。
今となってみればそんなことはよくあることだ、と頭で理解できる。
だが、そうやって自分の思い通りに行かない現実を突きつけられたのはそれが初めてだった。
その男が学年でも成績上位であり、かつ嫌味のないスポーツマンだった、ということも絶望に拍車をかけた。
結局、自分は何者でもなかった。
そんな簡単なことに気付いてからはあっという間だった。
勉強にがむしゃらにぶつかってみたら、成績が伸びた。体を鍛えたら、大会でよい成績を残した。
だがあとに残るのは空虚だけで、そこに満足感はなかった。
どうしたって成績1位にはなれなかったし、いくらやっても試合で勝てない相手がいた。
俺はヒーローじゃない。
その結論はバラ色になるはずだった高校生活を黒く塗りつぶしていた。
クラスメイトが異星人に見えた。
俺はこいつらとは違う。もっと俺に相応しい場所がある。
限界まで膨張した自意識はそう訴えるが、理性はそれを叩き潰す。
そんな葛藤は容易に心を踏みにじり、気付けば俺は誰かと会話することすら諦めていた。
私の人生の中で、高校時代はすっぽりと欠けている。
しかもその欠けた部分はどこかへ行ってしまうのでなく、心に楔となって打ち付けられている。
その高校生活を象徴する制服とジャージ。
気がついた時には涙が出ていた。
「1200円になります」
不思議そうな顔をする運転手に代金を支払い、新居の前に降りる。
いつの間にか雲は晴れ、青い空が広がっている。
すると、道を往く人群れの中に、見覚えのある顔を見つけた。
高校に入った当初好きだった女性だ。
見るとその恋人か夫か、そんな男性と歩いている。親しげに手をつないでいる上に、顔も似ておらず兄弟というわけではないのだろう。
その視線の先にいる男は見知らぬ顔だった。
あの時の彼氏とは別れたのか。
よくある話だ。
私の視線に気付いたのだろうか、向こうもこちらに気付いて近寄ってくる。
「あれ、久しぶりじゃん、こっちに帰ってたんだ」
「まあ、就職で」
「あ、こっちにしたんだー。私もこっちで働いてたんだけど、今度結婚することになって寿退社」
「そうなんだ」
変な声になっていないだろうか。
視線が泳いでいないだろうか。
そればかりが気になってしまう。
「いやーしかし懐かしいねえ。うちの高校のヒーローさんだよこの人」
「ああ、お前がよく言ってた話か。確かに中央からあの大学行くって相当だよな。あ、すいません、私こいつの旦那で……」
目の前では新婚の二人が自由な会話を繰り広げている。
だがその中で、聞き流すには引っ掛かる言葉が聞こえてきた。
「ヒーローって大袈裟な」
「いやーでもすごいじゃん、あの頃学年の女子の半分は君に憧れてたって言っても過言じゃあないね。そのくらい人気者だったよ」
どうにもおかしい。私の認識がずれているのだろうか。
「またまた」
「まー半分はちょっと盛ったかな? でも少なくとも私の周りには二桁、君にコクられたら付き合うだろうって子がいたよ」
まさか。
「いやいや」
「ほんとだって。あの頃スポーツでも勉強でも結構すごかったからねえ。寡黙な様子がミステリアスでいい! って評判だったよ。そのヒーローがこの街に戻ってくるなんてねえ」
「おいおい、旦那の前であんまり他の男のこと褒めるなって」
「いやいや、私が好きなのはあんただけだからそんな嫉妬しないでよ」
自分たちの世界に入り込んだ二人を横目に、先程の言葉を反芻していた。
自分はヒーローだった。
もしかしたら彼女の気遣いの一つだったのかもしれない。
実際はそんなことなくて、「嫌われてもいない」ということを誇張して「皆に好かれていた」と言ったのかもしれない。
実際積極的に私のことを好きだった人は、いたとしても極一握りなのだろう。
だが、私にはその言葉が一つの福音にすら聞こえた。
少なくとも、絶望の世界ではなかった。
その事実だけが、明るく空を照らしていた。
目の前の新居からは、プライドを曇らせた母校が見える。
家を決めた後で見たその景色には深い悲しみすら覚えた。
だが、今目の前にある黄色いマンションは、先程より少しだけ、本当に少しだけ輝いて見えた。
黒く塗りつぶされた楔は、黒いままだ。
きっとこれが塗り替えられることはないのだろう。
けれどその楔は鮮やかな黒として、自意識が暴れないように楔としての役目を果たしてくれる。
新居の窓から、夕暮れに急ぐ制服とジャージの集団を見下ろして、そんなことを思う。
ご覧いただきありがとうございました。