〔五〕
物事はままならない。現実は残酷である。
人は生きる度にそれを知り、絶望という淵に足を取られては、荒波に首を絞められる。
早河誠も例外ではない。
彼に突きつけられた事実はあまりにも衝撃的で、あまりにも重過ぎた。記憶障害という枷と、組織という荷を負う彼にさえも、真実は容赦が無かった。
だからなのか、貧弱な彼の思考は次第に進むことを止め、同じ場に留まり続けた。脳裏に焼きつく残像だけが視界の全てだった。
潮の味が口に残る。冷たい渦に吞み込まれたようで、しばらく息苦しかったが、それでも目に映るのは、去り行く友の背中だった。
レーン・ハワード。あらゆる才に恵まれた美しい少年。
友達と呼べるかもしれなかった尊い存在。
その彼が見せた狂気が、誠の右目を、脳髄を、ひいては心を貫き、突き放していた。
親を失い、祖母を亡くし、愛していたかもしれない少女と生別し、そして今度は――。
何故。何が。一体。
自問に答えは無く、胸を締め付けるばかりだった。
『無事で良かっただぁっ!?』
怒号が鼓膜を打ち、彼の背中が蜃気楼のように滲んで失せた。誠は横たわり、満天の星空を仰いでいた。
瞬きの後、『どの口でほざいてやがんだ!』と古来より絶え間無く続く潮騒を、瞬目のうちだけかき消した。
続け様に人が倒れた。その人の右頬は赤く腫れていた。
彼――フリッツは、『本心なんだけどね…』と口から溢れる血を拭いながら言った。
そんな彼の胸倉を掴み、『何が〈MoD〉だ、REWBSの掌で踊らされてただけじゃねぇか!』と雪町ケンはまくし立てた。
ケンの右腕は青いギプスで上腕から手首まで固定されていた。その上腕の二箇所には短いシリンジが装着されており、中には液体が入っていた。どうやら何らかの薬剤のようで、取り替えられるような仕組みになっているようだった。
彼の表情を見る限り、レーンに負けた悔しさはあるが、激痛に苛んでいるようではなかった。
『おい、何とか言いやがれよ!』
ここは大西洋のど真ん中。波間にたゆたう潜水艇の上。
誠は重い身体を起こし、広い海を見渡した。そこに〈ネオ・アルゴー〉の姿は無く、巨大な藻屑だけが水面を漂っていた。
そうしてようやく、誠は我に返った。あの場で起きたのだろう光景が、ネガティブな想像の下、正鵠を射たのだ。
『今回の任務は、メギィドの端末に残されていた情報から推測して立案されたものだ。事前に〈MoD〉だと知って、心構えはしていたはずだろう。先行き不明なんだから、それに対処するのはキミ達の手腕次第のはずだ。返り討ちに遭ったからと言って、僕に当たらないでくれ』
『それが諜報部の答えかっ!?』
拳を振り上げるケンに、『待ってください!』と誠は叫び、彼の太い左腕にしがみついた。『テメーも!!』と彼が振り払おうとするが、誠は断固として離れなかった。
『やめなよ、みっともない』
言ったのは、エリ・シーグル・アタミだった。
彼女は担架の上で応急処置を受けていた。右脇腹を裂かれており、重症だった。血色が悪く、やつれている。局所麻酔が行なわれているようで、意識はハッキリしているらしかった。
彼女の目が、ケンのそれとかち合う。
三人なら勝てた。
プライドが邪魔をしてそう言えないことを、彼女は見事に看破していた。
珍しく押し負けたケンは、舌打ちの後、腕を下ろして踵を返した。海を臨む彼の目に、厚い氷の板に乗った酒顛達の姿が小さく見えた。
誠は息をつくと、フリッツの前で正座した。
今度は何事かと、彼の挙動を訝しく思っているフリッツだったが、彼の口から飛び出したセリフに目を丸くした。
『フリッツさん、お願いがあります。レーン・ハワードについて調べてください』
『レーン…?』
『私達をこんなにした、とんでもない男よ。REWBSのくせに、堂々と表世界のフェンシングの大会を総なめにできるなんて異常だわ』
眉根寄せて首をかしげるフリッツに、エリが一言補足した。
誠は彼の目を見て嘆願した。
『諜報部って、調べるのが得意なんですよね? レーンの居所を探してください。彼が何者なのか、知りたいんです!』
その瞳の輝きに、フリッツは吸い込まれそうになった。真面目腐って、必死で、心に直截訴えかけるような強さがあった。ともすればそれは喉下に突きつけられた凶器のようで、脅されているような気分にもなった。
息を呑み、目を逸らした。顎を引いたのは、凶器から喉を守る為だったのかもしれない。
『知ってどうするんだい。私情を絡めて任務に向かうのが第一実行部隊の流儀なのかい?』
『もう一度、聞きたいんです。レーンの、本当の気持ちを』
答えになっていない彼の返事に、フリッツは嘆息を漏らした。
『私からもお願い。あの子を野放しには、できないわ…』
責任の所在を考えれば、やはり安易な判断を下した諜報部にも問題があったのかもしれない。フリッツは罪滅ぼしというわけでもなかったが、満身創痍の彼らを見ていられず、『分かった。全力で行方を追うよ』と渋々依頼を請け負った。
『じゃあ…!』
誠の顔がぱあっと明るくなった。そして行き成り三宝、彼は右手の小指をフリッツに向けて立てた。
『コレは?』
『日本のおまじないで、指きりって言います。よく思い出せないんですけど、約束したい時はどうしてもコレをしたくなるんです』
フリッツは分からないままに、同じように小指を立てた。
誠はそれに指を絡め、フリッツにも同じように促した。
呪いの唄が波風に乗って響いた。少し怖いそれは、とても重い契りであったが、誠の屈託の無い笑顔によって、不安は露と消えていった。
* * *
まだだろうか。
まだ分からないのだろうか。
逸る気持ちが苛立ちを肥大させていた。
誠はベッドの縁に腰掛けて、携帯電話を眺めていた。ディスプレイに表示されたレーンの名前をじっと見つめていた。
彼に制止を呼びかけようと通話を試みたが、こんな海底からではまるで通じなかった。かてて加えて、当基地の技術班が詳しく調べたところ、この携帯電話はすでに解約されており、質の悪いPCに成り果てていたようだった。
酒顛の依頼もあり、レーンの電話番号やメールアドレスから現在地を割り出そうとしたのだが、それもやはり変更と解約によって追跡は不可能だった。
現在レーン・ハワードに、表世界における通信手段は無いらしい。この様子では、フランスの〈ペレック〉の娘シェイナも、彼と連絡できずに戸惑っていることだろう。
周到で、完全無欠。手抜かりが見られない。
レーンは凄い。素直に感心する反面、心底恐ろしいと思った。彼の冷徹な金の瞳と凶行が想起され、震えが止まらない。
彼の、裏世界の警察と呼ばれるこの組織を目の敵にするような物言いや、情け容赦なく刃物を振るう闘争心は、酒顛達から言い聞かされていたREWBSそのものだ。
そのREWBSが〝|国境無き反乱者《Rebel without borders》〟の略称であることを浮かべると、どうしてもあの白頭翁が脳裏を支配する。
〝〈ユリオン〉の開発と使用は、ヘレティックの総意なのだ。高慢な貴様ら組織が、〝国境無き反乱者〟という不名誉な名を与えた、一万を越える名も無き新人類のな!〟
その老人メギィドが造った――造ろうとしていた〈ユリオン〉と呼ばれるハイパーコンピューターは、またの名を〝思考する造兵廠〟。人工知能によって意思を持ちながら、支配欲という自我の芽を摘まれ、ただただ新兵器の考案・開発・実験をする為だけにあるとされている、凶悪な演算機。
それを巡って、誠は無人島の地下で、メギィドと対峙した。互いに相容れない思想をぶつけ合い、結局は水掛け論に終わった。
彼は、人を恨んでいた。妬んでいたと言った方がいいのかもしれない。
誠はまた、背筋を凍らせた。
レーンも、そうなのだろうかと。もしもそうなら、シェイナが可哀想だと思った。単なる上辺だけで、世間体だけで、アドレスを交換して、彼女の憧憬の眼差しを弄んでいたことになる。
だが、彼はこう言っていた。
〝あの店をどうこうする気はない。事実、戦う術を持たない主人の焼いたパンは、とても美味しかったからね。あの家庭を壊す気にはならないよ。だが、キミ達ネイムレスは、話が別だ〟
恨みや妬みがあるとすれば、それは組織に対してなのだろうか。
誠は右目を押さえた。《韋駄天》の効力のお蔭で、もう痛くも痒くもなく、傷跡も無ければ後遺症も無い。ただ、思い出すととても痛かった。
痛かったのである。
コントラクトカーテンで隔離された空間に、誠は引きこもっていた。そんな彼の安息の地を、ガラの悪い男達が踏み荒らしたのは、突然のことだった。
「よぉ、お前がバーグのスパイか?」
「……え?」
「面貸せや」
黒い腕に首を締め付けられた。ちょうど喉が、相手の関節の内側が当たる。
ウヌバさんかと当惑する誠だったが、彼がそんなことをするわけがないと思い、咄嗟に抵抗した。しかし離れない。太い腕で締め上げられている。
殺される!?
足に力を籠めようとしたその時には、アラブ系の男に両足をがっしりと抱きしめられていた。まるでコンクリートで固められてしまったようで、全く微動だにしない。
そうこうしていると、彼らはその格好のまま誠を持ち上げて、カーテンを潜った。
何処へ連れて行く気だろうか。同じ病室で治療を受けている人々の好奇の目に晒される。
訳の分からない状況と羞恥心でどうにかなりそうだった。
天井を仰ぐ格好だった誠の目に、スライド式ドアのレールが映った。連中は彼を外へ連れ出す気らしい。
首を絞められて助けさえ呼べない中、聞き慣れた刺々しい声が耳朶に触れた。
「何してんだ、テメーら」
「ケ、ケン・ユキマチ…!」
「鬼の居ぬ間に人攫いかよ。第八も随分と湿気た仕事してるじゃねぇか」
息を呑んだのは連中の一味であるアジア系の女――ヘリンだ。何故ならケンの言うとおり図星だったからということもあるが、何より彼の背後で三人の男達が血を流して倒れているからだ。彼の左手から血が滴っているのを見れば、どのような経緯があったかは明々白々だ。
鼻が利く男という噂は本物のようだった。
十数名を収容する広い病室で療養するよう言われた誠ら三人だったが、医師からの言葉を素直に聞いていたのは誠だけだったようだ。
誠はカーテンを締め切って独り物思いに耽っていたので、ケンと同じく重症患者のはずのエリが抜け出していたことに全く気付いていなかった。
仁王立ちで行く手を塞ぐケンに、「鬼はお前じゃないだろ。どけよ」と連中の一味であるアジア系の男――プラワットが威勢よく言った。
「あ?」
「どけっつってんだよ。聞こえてねぇわけねーだろ、犬のお前がっ」
黒人――デファンが誠を解放し、ケンに向き直る。彼は太い人差し指で、ケンの肩を突いた。
それでケンの身体が傾くことはなかった。むしろ火に油を注いだ上に、風で煽って延焼させたようなものだった。
自業自縛。身から出た錆。
「喚いてんじゃねぇ」とケンがつぶやいた頃には、デファンは脳天で天井の蛍光灯を割り、大きな音を立てて床に落ちていた。
「耳がキンキンするだろうが…」
そう言ってケンは、耳の穴を穿るような仕草を見せた。
アラブ系の男にも解放された誠は、尻餅をついたまま彼らから距離を取った。
一触即発――もとい賽は投げられ、次の一手が何であっても和解になり得ない空気の中、「アッサーラ」とケンは呼びかけた。
それに男が無言の行を返す。彼はケンと顔を突き合わせた。
「誰の差し金だ」
「お前とは一度、本気でやり合いたかった」
「はぐらかしてんじゃねぇよ。ネーヴェマンの指示か、それともド三流司令官の命令か?」
「叩かれても埃を出さないのが組織のヘレティックだ」
言うや、アッサーラの左足がケンの二の腕を強襲する。
ケンは咄嗟に左手でそれを受け止める。右手はレーンに折られて動かない。完治には後丸一日を要する。
アッサーラはにやりと笑って足を引く。続けて右の拳を振り下ろす。狙いは顔面だ。
再度左手でそれを受け止めたケンだったが、相手の豪腕の前には為す術も無かった。自分の手の甲を、高い鼻に押しやられる。
そうして壁に背中を打ちつける彼の様子に、バミューダ基地全体が沸いたようだった。一躍ヒーローとなったアッサーラは、自慢げに拳を掲げて声援に応えた。
さすがは《ヘラクレス》のアッサーラだと連中が彼を称えていると、とうとう頭に血が上ったケンが牙を剥いた。素早いボディブローを放ち、アッサーラを室内の最奥へと吹き飛ばした。
「悪ぃ、アッサーラ。利き手じゃねぇから加減できねーわ」
「動くな! ここは俺達の家だ、組織の面汚しがデカい顔をするな!」
「あぁ?」
患者の一人がケンに拳銃を構える。それをサインにしたように、全員が同じようにケンを狙った。
無数の銃口が一人の男を狙う中、誠は身動ぎ一つできないまま縮こまっていた。スパイ呼ばわりされた経緯から、彼らが自分に尋問しようとしていたことは分かっている。それでも、同じ組織の仲間同士で争うというのは、見ていて気分が悪かった。
まるで自分とレーンの間に溝を作ってしまったように、気分が悪かった。
また頭痛がする。眩暈がする。吐き気がする。
病の初期症状などとは比べるまでもない不快感が、誠の精神を食い潰そうとしていた。彼は堪らず、拳を握って叫んだ。
「ケンさん、もう止してください! ホラ、ボクはこの通り無傷ですからっ。この人達にもきっと事情が――」
「テメーって奴は、本当に誰も傷付けないんだな」
「!」
「そのプライドが、周りをどれだけ面倒に巻き込んでいるとも知らずに」
予想外の返答に、「プライド…、ボクが、ですか……?」と誠は動揺を隠せなかった。
「記憶を失う前のテメーがどんな奴だったかは知らねぇ。だが、今のテメーは――俺達が知るテメーは、根っからの聖人君子だ。ガキの考えた、綺麗なだけの絵空事を実現しようと固執している大馬鹿野郎だ」
「ボクは、そんな…」
「何が聖人君子だ、このガキはバーグのスパイだろ!」
プラワットが声を荒げる。
「その件はメルセデスのセンスで、身の潔白が証明されているだろ。コイツは、無罪だ」
「ボスの愛人が何だって?」
「ボスとバーグがグルだったんだろ!」
デファンも苦し紛れに叫ぶ。そうだそうだと、病室が野次で充満する。
「んな証拠が何処にあるんだよ」とケンが耳の中にある弁を絞りながら問うも、連中は加熱するばかりだった。
「現状がそう示してるだろ!?」
「グルだってんなら、何でバーグはボスを見限ったんだよ」
「見限っちゃいねぇよ! アイツらは組織の基地を全部滅ぼすつもりなんだ! その手始めが本部だったんだ! 次はデヴォン島が弾けるぞ!?」
「プラワット、テメーのセンスが予知だとは知らなかったぜ。それとも《レーダー》の使い過ぎで、頭まで電波になっちまったか?」
「ボスの使いパシリがぁっ!」
プラワットは引き金を引いた。銃声が病室を飛び出し、廊下を駆け抜ける。
弾丸は、病室の防弾窓に刺さっていた。
では、ケンはと言うと、プラワットから銃を奪い、彼を腹這いにさせて背中を踏み潰していた。銃を彼の後頭部に突きつけ、「手負い相手に、今度は何人がかりだぁっ? 面白ぇーじゃねぇか、撃てよ! 殺せるもんなら殺してみろや!」と一同を煽った。
緊迫する空気に耐えられなかったのか、患者の一人が引き金を引いた。
《超聴覚》で反射的に発砲者を特定したケンは、銃弾を回避すると、相手の顔面に飛び膝蹴りを喰らわせた。
ベッドの白いシーツが赤く滲む。それはすぐさま室内全土に広がり、ケンのストレス発散の場へと変わり果てた。
鳴り止まない銃声を聞きつけて、酒顛とセロン・ネーヴェマンが病室へ駆け寄った。その入り口の外には、耳を塞いで身を縮ませている誠の姿があった。
「大丈夫か、マコト!」
「シュテンさん…。違うんです」
「何?」
「ボクは、お人好しだとか、聖人だとか、そんなつもりじゃ……!」
そう言い残して、彼は廊下を駆けていった。
それでも銃声は止まず、酒顛はネーヴェマンとのアイコンタクトをし、行動を起こした。
ネーヴェマンは右手を地面につけて、「止めんか! 止めんなら!」と叫んだ。すると室内は瞬く間に温度を下げ、さながら冷凍庫のような氷点下へと一変した。
「リ、リーダー!」
「これ以上続けるなら、冷凍保存にして基地一番の見世物にするぞ!」
室内に霜が下り、飛び散っていた汗や血液が凍っていく。
ネーヴェマンのセンスは、ウヌバのセンスと似ている。炎は使えないが、直接触れたものや、その延長線上の一定の空間を冷凍させることができる。水を瞬時に凍らすことは勿論、空の空間であっても、大気中の水蒸気を冷やすことで、肉体の周囲に氷を生み、纏うことができる。
つまり、熱気が立ち込めるこの空間は、冷凍には打ってつけ。ネーヴェマンはウヌバの師匠の威厳を守るかのように、室内を自身のテリトリーへと変えていった。
彼の背後には鬼が腕を組んで控えている。
ケン達はようやく拳を下ろした。
* * *
組織の基地には、必ず訓練場が設置されている。基地そのものの規模に比例しているところがあるので、このバミューダ基地の訓練場は、本部に比べれば一回りも二回りも小さい。
設備は質素で、最も高価と思える物はホログラム装置だ。訓練場そのものがカメラの役割を担っており、四方八方から撮影された被写体が、他の基地へと丸ごと転送され、立体映像としてリアルタイムで再生される。
表世界の知識人が見れば卒倒するほどの、桁違いのドット数で構成されたそれらの映像は、時折起きる電波障害が無ければ、どんなに目を凝らしても本物と見間違うほどだ。それを見るのに、眼鏡や代替えの器具は必要無い。
そうして遥か遠い北米の島から量子に乗って送られた清芽ミノルの立体映像は、エリの傍で静かに佇んでいた。
エリは、冷たい床の上で正座を行ない、目を閉じている。瞑想である。
彼女の膝の前には、愛刀〈紅炎双爪〉が並んでおり、さながら刀と対話しているような、厳格で静謐な空気が漂っていた。
明鏡止水の心に小波一つ立たせないように、清芽は穏やかな口調で囁いた。
「――僕らは進化の象徴だ。その僕らが、新たなものに心を左右されてはならない」
「……はい」
「日本の宗教には、アニミズムのような概念を主に置くものがある。森羅万物に魂は宿り、永く古く利用されてきた物は神体となる。人々はそれを八百万の神、もしくは九十九神と呼ぶようになった」
あらゆる物――自然物であれ、人工物であれ、全ての物には精霊が宿り、それらはやがて神として崇拝されてきた。それは今も尚、同国の土着の風習として息づいている。地鎮祭などが良い例だ。
つまり、そこに何かしらがあれば、そこには神がいるということだ。
物を大切にせよという習わしから生まれた迷信に過ぎないのだろうが、清芽は――ひいては〈清芽流〉はそれを頑迷固陋であると一蹴せず、流派の軸に取り入れた。
あらゆる物は生きている。刀も同じく。
清芽はエリの正面に座り、赤い鞘に収まった二本の刀に触れるような仕草で言った。
「キミの刀は、まだ赤子も同然だ。キミよりも遥かに若い。我が清芽の流派を学び、その真髄に辿り着いたキミならば、何をもってしてその赤子を育てるべきか自ずと解るはずだ」
「はじめに、心あり。心無くして、刀は振るえず。是、清ければ折れず。是、穢れれば亡ぶ。刀は、心の鏡なり」
「清芽の二刀太刀に後退は無い。顔を上げ、前を向きなさい。そして心に芯を通しなさい」
エリという女は、わずか十七の時に〈清芽流〉を免許皆伝になっている。
その目覚しい成長ぶりには、師たる清芽も脱帽したほどだった。故に、彼女を圧倒し、加えてケンをも手玉に取るほどの少年の存在に息を呑んだ。
同時に、その少年はまるでいつかの〝彼〟のようだと、過去を振り返る。ヘレティックとしてのセンスだけでなく、才能という面でも〝彼〟は当時から優れていた。同隊だった清芽と酒顛が束になっても叶わないほどに、兵士としての資質に恵まれていた。
そんな〝彼〟でさえ歯が立たなかった相手は、たったの一人――
「……どうしたの、マコトくん?」
雪町セイギ、ただ一人だけ。
訓練場の入り口に隠れてこちらをのぞき見ている、あの気弱な少年と同じセンスを持っていた男だけだった。
清芽はおもむろに立ち上がると、誠を手招きした。
まるで幼い野生動物のような彼は、足を忍ばせながらゆっくりと寄ってくる。
彼の存在を《サーマル・センサー》で感知したエリが振り返る。その目がいつもの彼女のものではなかったから、誠は途中、足を止めた。
瞳の色が冷たく、怒っているようだった。
誰に?
解っている。ボクにだ。
誠は彼女から目を逸らした。昨日のワガママがきっかけなのは明らかだ。
それだからケンも、海の上で叫んだのだ。
〝テメーも!!〟
テメーも、中途半端な覚悟だから。
きっとそんな風に怒鳴ろうとしていたのだろう。
誠はもはや顔を上げられず、視線を床に落とした。すると無性に涙が溢れてきた。
「私に甘えに来たの?」
彼女の放った不意の一言に、「ち、違います…!」と抗った。星を指されたが、それでも違うと逃避した。
小さく、違うんですとつぶやく彼の気を紛らすように、清芽はフランクに話しかけた。
「やぁ、マコト君。久しぶりだね、身体の具合はどうかな?」
「キヨメ先生、来ていたんですか?」
「ハハハ、よく見てみなよ。キミの目に映る僕は実像じゃない、これはホログラムだよ。デヴォン島から映像を送っているんだ」
「凄い…。組織って、こんな物まで作れるんですね」
涙を拭って、誠は空笑いを見せた。
傍から見ればとても無邪気な笑顔だが、嘘で嘘を塗り固めていることは、清芽にはすぐ見抜けた。
このままでは前を見れなくなる。彼を自分の二の舞にしてはいけない。
清芽は、「まぁコレも、メギィド博士の発明だけどね」と現実を口にした。
途端に誠の血色が悪くなる。再び視線を落として、膝を突いた。
また倒れるんじゃと、エリは急いで腰を上げた。しかしすかさず清芽が手で制して、彼女に代わって彼の傍に寄った。
誠はその場に座り込んでいたが、崩れていた足を太ももの下へ畳むと、背筋を正し、真っ直ぐな瞳で清芽に問うた。
「キヨメ先生、教えてください。ボクはこれからどうすればいいんですか?」
肩が震えている。目は赤らんでいる。膝の上で固めた拳は緩むことなく、緊張と恐怖が執拗に彼を支配しているようだった。
「お友達のことかな」
エリから、レーンとの関係を聞き及んでいるようだった。
彼女は綺麗な正座を崩さず、遠くを見つめている。和服でも着せればサマになっていることだろう。
誠はその凛とした背中を一瞥した後、「ボクは、どうしてもレーンを止めたいんです。でも、どうすればいいのか解らないんです」と目の前の清芽に言った。
「キミは自分のセンスを恐れているんだね」
一を聞いて十を知ったのか、清芽は誠の深層心理を明察した。
「皆から散々言われてきただろう。《韋駄天》という力の恐ろしさを」
自分でも実感している。
あの無人島での戦いでは、巨大な蜘蛛のようなロボット兵器――〈ユリオン・チルドレン〉を破壊した。さらにはその高速でもってメギィドの反撃を凌いだ。
そして昨日は、自身の治癒能力というものを改めて思い知った。レーンに右目から串刺しにされたにも拘らず、今では傷一つ残っておらず、脳に何の支障も来たしていない。過呼吸は心労によるものだと、この基地の医師は結論付けていた。
何より恐ろしいのは、この力――特に高速移動に身体が順応していることだ。
常識において異常とされる現象の数々に、慣れているのである。
しかし慣れないことがある。
「確かにそれを使えば、無駄な血を流さずに任務を完遂できるだろう。だが、免れない戦いがあった時、そのセンスは必殺の凶器となる。それが、怖いんだね」
「ボクは、ボクはあの島で、お爺さんを追い詰めました。投降するよう呼びかけました。だけどその結果、あの人は殺されました。目の前で、誰かに首を……!」
人の、死である。
それは決して慣れてはいけないことで、彝倫であるが、誠にとってのそれは、愛や自由を主張するよりも特段の優先事項だった。
何故そうまで、善悪に拘らず人命を重んじるのか。それは誠にも分からなかったが、人が人に殺されるということに、途方もない嫌悪感を抱いているのは確かだった。
そして何より、自分も人殺しになってしまうことを恐れていた。
「そうです。怖いんです。ボクが見境無く走って、この〈エッジレス〉を使って人を追い詰めた時、またあんなことになってしまうんじゃないかって。レーンが、同じようになってしまうんじゃないかって」
レーンは強い。しかし一度想像すると、頭から離れなかった。レーンの綺麗な金の髪が、彼から噴き出す赤い血で染まる光景が。
出逢った時の笑顔が絶望へ堕ちる。そんな光景が。
「マコト君、強くなりなさい」
清芽の言葉に、誠は頭を起こした。開いた瞳から涙が零れる。頬を伝うそれを拭いつつ、「え、でも…」それでは自分は、この恐ろしい力で人を殺してしまうかもしれないなじゃいか。
「強くなるということは、力の本質を知ることそのものだよ。何かを殺すことで医術が発達したように、キミ自身が確かな力を身につけて脅威を圧倒しなさい」
無人島での戦い前、第一実行部隊の一同に啖呵を切ったことがある。その時に誓った。
自分が強くなり、逸早く戦場を制圧できれば、無駄に人は死なずに済むはずだ。だから、頑張って強くなろう、と。
しかしその矢先に、メギィドの首が目の前で跳ねた。何者かに、刎ねられた。
清芽の言っていることは解る。だけど、どうしても嫌な想像が鎌首を擡げるのだ。
「そして、キミの想いを伝えるんだ」
「それでもダメだったら…?」
「その時に決断できるのは、キミ一人だけだ。考えなさい。今以上に想像しなさい。殺す時は無心に、そうでなければ知恵を生かしなさい。キミにはまだ、多くの選択肢が残されている」
多くの選択肢。
そのセリフが、誠の心を動かした。
彼は一考すると、立ち上がった。
「……キヨメ先生。ご、ごきょーじゅください」
清芽と同じように、人知れずエリの口角が上がった。しかしその意味は少し違ったようだ。
この訓練場の隣には監督室がある。訓練場を監視し、指示を出す場所だ。
そこに集う十数名の人熱れの中に、酒顛はもちろん、彼女と同じような顔をしているケンの姿があった。
* * *
〈ネオ・アルゴー〉沈没から三日後。
目処が立ち、〝彼〟の代わりにとある場所へ向かう途上のことだった。
「坊ちゃん、如何なさいました?」
超大型の民間輸送機に偽装した機内に、アンテロープの声が浮き立って響く。それまでそれぞれに談笑したり、カードで賭けていた連中も、自然と彼の方へ注目する。彼の視線の先には、機内のある一点を睨みつけるレーン・ハワードの姿があった。
じっと立ち尽くすレーンの様子に、一同にも緊張が走る。ある者は緩めていた半長靴の紐を締め直し、ある者はPDWにカートリッジをセットした。
ここは高度四千メートルの世界。真下には雲海が広がり、険しい山々の頂はその遥か下からこちらを睥睨している。
そんな場所を悠々と飛行しているのは彼らの輸送機くらいで、国際線の飛行機や各国家軍による戦闘機のパトロールコースからも外れている。つまりここは空の抜け道であり、ステルス機能を備えたこの機体をレーダーが捉えることは、まずなかった。
その抜け道を発見した張本人は、ヘッドセットを装着すると、「レーダーは正常か。八時方向だ」と機長に連絡した。
すると当たり前のように一同がざわつく。彼らはマジックミラー式の窓ガラスから外を見た。レーンの言うとおりならば、左翼の窓の後方に敵影を確認できるはずだ。
しかし巨大な積乱雲が一つ浮かんでいるだけで、他には何も見えなかった。機長も機内アナウンスで、レーダーに反応は無いと断言した。まさか某国が開発したとされる雲形のステルス偵察機だという冗談はやめてほしいところだった。
そこでアンテロープは上部甲板に向かおうと梯子を掴んだ。
レーンはそれを制止させると、「気流が不自然に乱れている」と言った。窓から外を見てもいないくせに、彼は堂々と断じる。
だがそのセリフに、誰一人異を唱えなかった。レーンの言葉は絶対であると、身をもって知っているからだ。
アンテロープが問う。
「ネイムレスでしょうか」
「他に思い当たるか? 恐らく、博士の言っていた〈DEM〉というシステムを搭載した機体だろう」
「不可視や消音などの、複合ステルスシステム…」
「下がっていろ。機長、上部甲板へのエアロックを開放しろ」
梯子を上り、機内上部の狭い気密室に身を隠したレーンの手には、無反動砲が握られている。彼は機内側の気密扉の閉鎖を確認すると、機外側扉の丸いハンドルに、腰のハーネスから伸びる帯状のロープを繋げた。
そうして扉を開けると、凄まじい気圧の変化と吹き込む突風に飛ばされそうになった。レーンは少しズレたヘッドセットを直すと、鼻からゆっくりと息を吸い、外へ出た。彼は顔を覆う物を一切身に付けておらず、素の顔を晒していた。
右へ左へ、金糸を弄ばれる中、レーンは丸い機体のフォルムに足を沿わせて歩き、ついには左舷方向へ大きく飛び跳ねた。
軽い身体が風に攫われる。しかしレーンの指示により機体が取り舵を切ったことと、伸びきったハーネス帯のお蔭で、彼は機体の真下へと移動できた。たった一度のチャンスだったが、彼は機体の底に強力なマグネットを仕込んだ靴を付けることで、自らの安全を確保することに成功した。
逆さまにぶら下がるレーンの脳裏には、確かに敵影の姿が映っていた。
それは油断に他ならなかった。
しかし同情の余地はある。何故なら、絶対のステルスを手にしている彼らは、現に誰にもその姿を捕捉されたことが無かったからだ。
これを慢心と言い切るにはあまりに酷であり、暗に科学の限界について言及していることにもなる。
人間が科学の親だとするならば、ヘレティックは進化の象徴だ。〈DEM〉は人間に見えず、人間の科学で観測できないことを前提に作られた。進化という予測を上回る未知の存在の力や可能性までは、完全に考慮されてはいなかった。
今はある意味、新たな歴史の一ページを刻む、世紀の瞬間だった。
生物の研ぎ澄まされた感性が、科学界における絶対を捉えるという、世紀の瞬間だ。
「何だ。人、か……?」
尾行していた民間輸送機の底に、線の細い人影が逆さまになってぶら下がっている。
機長が目を細くしていると、副機長がコンソールを操作して、モニター上で対象を拡大した。
対象は金髪を靡かせており、顔には大きな黒い空洞を持っていた。
空洞が何であるかを察した二人は、「面舵!」と急いで操縦桿を右に切った。輸送機が不自然に左へ――こちらの正面へ寄ってきたことには違和感を覚えていた。しかし、まさかこちらの動きを感知していたとは思いもよらなかった。
「撃ってこない…?」
右へ大きく逃げた彼ら――組織の第三諜報部隊だったが、機体のレーダーではミサイルが発射された形跡を認められなかった。
どういうことだと首を傾げようとした矢先、「いえ、来ました! 避けきれません!」と副機長が叫んだ。
タイムラグ・アタックだったのか。相手はこちらが移動してから引き金を引き、直撃させたようだ。
微力だが、左方向から振動が奔る。
「損害報告!」
「左翼被弾! ですが損害率2%、航行に支障はありません!」
「ノーマルの船なら墜ちていたな…」
詳細な損害箇所が手元のディスプレイに映る。それは左翼のジェットエンジンの真上だ。そしてこの機体で言う2%とは、一般機においては約20%に相当する。機体の性能に助けられたのだ。
ヘッドセットから、おぉという歓声が響く。彼らの目には、何も無い場所で不自然にミサイルが弾けたように見えたのだ。見えない敵は、確かにそこにいる。レーンは彼らにそれを示した。
そこへ、機長のマイクを借りたのだろう、アンテロープがさも心配そうに、『坊ちゃん、あまり無理をされては――』
「貴様らに頼り甲斐があれば、そのように指示をしている。機長、急げよ!」
レーンは照準を敵輸送機の上部甲板に合わせた。
「直上を取られました!」
「馬鹿な! 撃ち落せ!」
副機長は急いでコンソールを操作した。機体の操縦は機長が行なっている。
焦燥に駆られる二人の空間に、一人の男が闖入した。
「機長どうなっている、すぐに離脱しろ! 戦闘行為は諜報部の管轄外だぞ!」
「しかし!」
彼は第三諜報部隊のリーダーだ。絵に描いたようなマニュアル人間だが、そのマニュアルどおり即時に撤退することが、この場においてはボンサンスだったのかもしれない。
敵機の上部甲板の一部が開き、二門のガトリング砲が姿を現した。
それは警備用全自動機関銃。オートで攻撃対象を感知し、発砲する。
けたたましい音が大気を震わす寸前、レーンは機長へ指示を出した。敵機の左へ移動した直後、セントリーガンは火を噴いた。
あのまま同じ位置に留まっていれば、レーン諸共蜂の巣だったに違いない。
しかしその程度の回避運動で、セントリーガンは面食らうことも無ければ砲撃の手を休めることも無い。レーン機を追跡し、無数の弾丸を撃ち鳴らす。
対するレーンは、大きな移動を繰り返す自機の下で次弾を装填し、セントリーガンを狙撃した。無反動砲の大きな砲口から発射された砲弾は、真っ直ぐに後方の敵機へと向かった。
相対距離約二百メートル。毎秒二五〇メートルで接近するその弾頭を、セントリーガンは見事に撃ち落した。しかし煙幕によりセンサーが攪乱し、対象の行方を見失ってしまった。
その隙に、レーンは命綱を切り離して、飛び降りた。事も無げに後方の敵機に乗り移った彼は、甲板にレイピアを突き立てて、吹き荒れる突風から身体を固定した。
その様子はさながら何の足場も無い宙に立っているようで、それが再び一同の士気を上昇させた。
それに応じるかのように、レーンはレイピアを抜き、機体後方へと走った。
煙幕が晴れたのはその直後だった。これらは一瞬の内の一連の流れで、センサーがレーンを捉えた頃にはもう、セントリーガンは彼にマウントポジションを許してしまっていた。
ヘレティックも唖然とするその身体能力には、機械さえも度肝を抜いたに違いない。
レーンの冷徹な金の瞳には、怯える重火器の姿があった。
ガタンと音が鳴る。コックピットの三人は、一斉に後ろへ振り返った。ひやりとした空気が漂い、はじめに副機長の身体が震え始めた。
「何の音だ…」と機長が乾いた声で問うが、誰も応えられなかった。
ちらとリーダーは、機長の手元のディスプレイを一瞥した。機体後部のセントリーガンに×印が付けられている。彼は肩の力を抜くと、胸ポケットから薄型のデバイスを取り出した。
機長達は混迷の境地にあった。離脱しようにも、〈DEM〉が作動していないように、ピッタリと進行方向をマークされてしまっていた。
進退両難。残された手段は――
そう二人が最悪の手立てに行き着いた矢先、リーダーがそれを口にした。
「――飛行時間と進路から推測するに、以上の二ヶ所へREWBSは向かっている模様。……第三諜報部隊は以降の追尾を不可能と判断し、これより〝最終任務〟に入ります」
「おい貴様、何を言っている! まだ飛べるぞ!」
「機体はそうでも、人は殺される」
厚い扉から長く鋭い針が飛び出す。ギョッと目を剥く一同をさらに恐怖させたのは、その銀色の針に絡みつき、ボタボタと滴る誰かの血だった。
リーダーは尚も冷静に、「映像を送ります。どうか、お役に立ててください」とデバイスに向けて語りかけた。録音を終了すると、内容が保存されたディスクを抜き、コックピット上部のコンソールに挿入した。
希わくは、コレがREWBS壊滅の糸口にならんことを。
そう祈り、リーダーは送信ボタンを押した。
それを見やり、「機長、これまでのようです…」と副機長が引導を渡す。
最後まで機長は希望的観測を捨てなかった。もしかすると、本当に何らかの形で事態の風向きが変わることを願っていたのかもしれない。
副機長も実際は同じ気持ちだった。何故なら自分達はヘレティックで、人には真似できない奇跡と呼べる芸当を幾度となく起こしてきたのだから。
機長はリーダーと副機長に首肯すると、手元のコンソールから暗証番号を入力し、ディスプレイ上に〝ファイナルコード〟の入力画面を開いた。
それは核ミサイルの発射ボタンと同じだった。機長、副機長両名がそれぞれ持つ暗証番号を入力することで、機体に備わったあるシステムを作動させる。それが〝ファイナルコード〟であり、〝最終任務〟である。
それは飛行中にコックピットの生体反応が消えてもオートで作動するが、REWBSの剣の錆になるのは御免被りたかった。
最期はせめて、自らに課せられた責務を全うして逝きたい。
機長の決断と志に、副機長はむせび泣いた。
「……コード入力」
セントリーガンの収納エリアから機内に侵入したレーンは、そこにいた連中を有無も言わさず皆殺しにした。多少反抗する者もいたが、感じたとおり烏合の衆。〈ネオ・アルゴー〉で干戈を交えた連中とは雲泥の差があった。
レーンはコックピットへの扉を背に息絶える男からレイピアを抜くと、扉に向かって再度切っ先を向けた。
しかし扉の奥で生じる異変を察し、すぐさまハッチを開けて外へ逃げようとした。だが扉横のディスプレイには、〝Absolutely can not open〟の文字が明滅している。
何があっても開けられない。この棺桶に閉じ込めるという意味らしい。
続いて鳴り響くサイレンに急かされるように、レーンは元来た道を辿り、外へと飛び出した。
スカイダイビングにもならない、風に飛ばされた木の葉のように空中へ投げ出される中、敵機が赤く光ったのを見た。さらに、いくつもの赤い球体が機体を吞み込み、最後には一つの球となって、ついには爆散したのだった。
直前、声が聞こえた気がした。
〝申し訳ありません、フリッツさん。先に、分け隔ての無い世界でお待ちしています――〟
誰の声だ?
レーンは分からぬまま、赤い霧を見つめていた。
* * *
同日。
自らが経営するホテルの応接室で、シューベル・オーランドは何度も電話をリダイヤルしていた。
しかし一向に繋がらず苛立っているところに、「シューベル様、お時間です」と秘書である中年男が声をかけた。おいとシューベルに人差し指で呼びつけられた彼は、部屋のドアを閉めてから近付き、耳を寄せた。内々の話だと思ったからだ。
「奴らは何処へ行った?」
そのセリフに秘書は顔を上げた。途端、胸倉を掴まれて、ソファに薙ぎ倒された。秘書は咄嗟に叫んだ。
「で、ですから! 先程から申し上げておりますように、私は関知しておりません!」
「これでもシラを切り通すか?」
シューベルは懐から拳銃を取り出し、秘書に向けた。
秘書が息を呑んだのは言うまでもない。
「貴様を脅している連中に大枚を叩いているのは誰だ、言ってみろ!」
「ひぃっ!」
「貴様の主人は私だろう! 仕える相手を間違えるな!」
「い、命だけは…!」
失禁するだらしない彼に怒りが失せ、シューベルは銃を収めた。
「たとえアイツの命令であっても、優先されるべきは私だ。貴様は、アイツの一挙手一投足を私に報告していればいい。誰も私には逆らえんのだからな」
秘書は何度も首を縦に振った。
それを軽蔑の眼差しで見下ろしていたシューベルは、曲がったネクタイを直して言った。
「ビジネスをしている私。政治をしている私。そしてもう一人の私が今の顔をしていることを忘れるな」
そう秘書を射すくめた直後だった。シューベルの私用の携帯電話が鳴動した。
誰からだとディスプレイを開くと、非通知と表示されている。
面識も無く、番号すら通知しない無礼な相手の電話は、たとえ大統領のものでも取らない。それがシューベルという男の性だったが、今という時においてはある連中の顔が浮かんだので電話を取ることにした。
しかしそれが徒となった。応じた相手の言葉が、全身に怖気を奔らせた。
『はじめまして。バーグと申します』
これまで様々な連中から受けてきた助言や警告を想起した。
今まで誰に気を付けろと言われてきた。
耳から受話器を離せない。手に汗が滲む。シューベルは歯を噛み、心の中であの子の名を叫んだ。
* * *
第三諜報部隊が輸送機ごと消息を絶ったという情報は、その日の内にバミューダ基地へ真っ先に届いていた。報告書によれば、彼らはREWBSが所有する輸送機を尾行していたようだ。
何故、本部ではなくバミューダなのか。それは、フリッツの厚意だった。
「もう走れないかい?」
バミューダ基地の狭い訓練場内を、《韋駄天》を使いながら壁にぶつからずに走るというのは、至難の業だった。
汗だくの誠に声をかける清芽の目は、休みたければ休みなさいと云っていた。
しかし誠は、「…い、いえ……」と彼に似つかわしくない固い口調でその誘惑を押し返し、〈エッジレス〉と呼ばれる刃の無い剣を手に、再度駆け出した。
彼は暴走列車のようだ。終点まで真っ直ぐに敷かれたレールの上を懸命に、他に目もくれずに走る列車のよう。
しかし彼の速度は、列車のそれを遥かに越える。もはやケンの優れた動体視力でさえも、正確に彼の姿を捉えることはできない。音源を感知する《超聴覚》も当てにならず、もはや直感と、誠の思考回路から位置を予測するしかないほどだ。
ケンは、それでいいと思った。《韋駄天》は本来そういうものであると解っているからだ。ただ、自分がその力を、親から継承されなかったことにもどかしさを感じた。
砲煙弾雨の戦場のような轟音が室内をかき回す中、エリは依然として正座を崩さず、心を〝静〟の型へと研磨していた。長く閉じていた目を開けると、視線の先に小さくケンの背中が見えた。彼の右腕からはギプスが取れており、今はリハビリの最中のようだった。両手にダンベルを持って、拳を地面から水平に突き出している。
壁に沿うように籠もる熱気は、誠のもののようだ。彼はこの室内を何十周、何百周走ったのだろう。想像もできないが、我武者羅が過ぎるなと失笑した。しかし彼が目的意識を持ち始めていることについては、良い傾向だと思った。戦場に居続けるには、特別な理由や目的が無ければ、すぐに精神を壊してしまうからだ。
エリはつぶやいた。誠に向かって、頑張れと。
続いて、エリちゃんも頑張れとつぶやいた。
足が痺れて動けなかった。
「彼、タフになりましたね」
古典ギャグ超恥ずかしい! と砂浜に打ち上げられた魚のように悶える女をよそに、清芽は酒顛に問いかけた。
「青春は男児を強くしますからな」
「キミもそうだったのかな、シュテン君」
「どうでしょうなぁ。しかしケンがそうでしたからなぁ。あの頃のアイツ、女の子の前でイイ格好をしようと躍起でしてね。その女の子と言うのは――」
二つのダンベルが中年男達の頭に飛来した。しかし直撃したのは酒顛のみ。清芽はホログラムだ。
「ハハハ。シュテン君、それは思春期と言うんだよ」と額を腫らして天井を仰ぐ酒顛を清芽は笑った。そこへケンがズカズカと近付いてくる。
「オラ、オッサン共! つまんねぇ話してんじゃねぇよ!」
「ひどいなぁ、ケン君。僕はこれでも未だに二十代で通る時があるんだよ?」
「若けりゃもっと働いてほしいもんですねぇ! 医療主任だなんてショッパイ仕事してないでよぉ!」
「キミは本当にデリカシーが無いよね。それに、今回のキミ達の執刀医も僕なんだから、言葉遣いは気を付けてもらわないと」
第一実行部隊への治療は、可能な限り医療主任が行なわなくてはならない。
ベストにはベストを。それが組織法の一だ。
だから清芽は、デヴォン島基地から遠隔操作でバミューダ基地の手術ロボットを操作し、ケンの腕やエリの刀傷を治療したのだった。
「そ! それは…、そのぉ、アレだ。……あんがと、っつーか…」
きまりが悪いような顔で、ケンはそっぽ向いた。
ぐちぐちぶつぶつとつぶやく彼に、「こちらこそありがとう。元気になってくれて嬉しいよ。医者冥利に尽きるね」と清芽はとてもいい笑顔で応えた。
酒顛はその様子に、先生の底意地の悪さを見た気がした。
しかし、ようやくいつもの第一実行部隊らしくなってきたと実感できた。
悪態をつくが、生真面目なのがケンで。芯は強いが、優しさに溢れているのがエリだ。誠はようやく一つの壁を自分で見つけ、彼なりのやり方でそれを乗り越えようとしている。
そして、ウヌバという無口な青年には、師の語る言葉からそれ以上を学ぶことができる賢さが備わっている。
自分はそれを支えるのみ。第一実行部隊は、それでいい。
酒顛は上体を起こすと、部屋の中央で語らう師弟の様子を眺めた。
「お前は確かに神なのだろうな」
「………」
「〝赤子を依り代に顕現した〟というあの高僧の話も、今のお前を見れば少しは理解できる」
互いに胡坐をかく。
師匠ネーヴェマンは、弟子ウヌバが顔を顰めたのを見逃さなかった。傍から見れば全くの無表情だが、ネーヴェマンには彼の心が手に取るように解った。
「そう怒るな。大丈夫だ、俺はお前を見ているよ。崇拝の対象でありながら、来るべき日の人身御供として祀られていた〈ウヌバ神〉ではなく、アレから今日まで組織の一員として戦ってきたウヌバ、お前をな」
「……マスター」
搾り出すように、ウヌバは言った。
彼はアフリカの少数民族出身だ。男も女もほとんど裸一貫で、生きる以上の財産は他に無いというような、時代にそぐわない人々の集まりの一人だった。
しかし、ウヌバは他者とは違った。彼は、母を焼き殺しながら大気に触れ、産声を上げた頃には傍にいた父さえも氷漬けにして生を享けた。その炎と氷を自在に操る姿は、彼らが神と崇め奉る〈ウヌバ神〉の言い伝えそのものだった。
さらに伝承には、ウヌバの誕生が予言されていた。神の力を持つ子が生まれ、その子が神の巡る周期と同じ十一歳になった時、供物としてその子の心臓を祭壇に捧げれば、人々に恒久的な平和が約束されるとも口伝されていた。それは従来の供犠の終焉を意味していた。
だから人々は彼を捧げようとしたが、ウヌバは恐怖に耐え切れず、村を燃やし、人々を凍らせた。
それが、酒顛やネーヴェマンを、その地に向かわせるきっかけとなった。
「お前とはずっと話をしたかったんだ。十八になれば成人とされ、その時に伝えてほしいとあの高僧に託されていたからな」
眉をひそめる彼に、ネーヴェマンは高僧の言葉をそっくりそのまま伝えた。
「〝火と氷の神〈ウヌバ〉は、民草の自然への万謝の念から形を成した。だから儂らは畏敬をもってお前を崇めていたが、誰一人お前を怨んでなどいない。幼かったお前の怒り悲しみが村を焦土と化しても尚、儂らはお前を心から受け入れていた。何故だか分かるか?〟」
その問いに、ウヌバは俯くばかりだった。彼の脳裏を過るのは、あの日あの時の、人々の恐れ戦いた表情だけだ。
あんなに怯えた目をしているのに、受け入れているなど、考えられない。
「〝それは、お前が決して、子供だけは殺さなかったからだ〟」
ウヌバは顔を上げたが、すぐに頭を振った。
違う。アレは偶然だ。あの祭壇には子供は近付いてはならないという掟があった。だから偶然、大人だけが死んでしまった。
選んだわけではない。救ったわけではない。
違うんだ。違うんだ。
「〝優しいお前のままでいてくれ。それが祖父である儂の、愛する孫への心からの願いだ〟」
そう言って、ネーヴェマンが肩に手を置く。
すると彼の顔が高僧のそれと重なって、あの日の自分が抱えていた怒りの根源を思い出させた。
村の祭壇の周りには、墓があった。いくついくつも墓があった。墓の中央に祭壇を作ったのではなく、祭壇の周りに作られた墓だった。
それは〝贄の床〟と呼ばれ、十一年に一つ増える物だった。選ばれた男児がそこに入り、神に仕えることを許されるとされていた。
しかし人々は解っていた。口には出さないが、解っていた。そこに入ることは栄誉ではなく、苦痛の果ての恐怖でしかないことを。
だから人々は、ウヌバを余計に崇めていた。何せ、ウヌバが死ねば、それからは〝贄の床〟が増えないからだ。彼らは言い伝えを理由に、忌まわしい陋習に見切りを付けたかったのだ。
ウヌバは、新たに子供が死ななくて済むならばと決意して、当日の朝を迎えたのだった。
それが揺らいで、ウヌバは泣き叫んだ。祭壇から逃げ出し、取り押さえようとする連中をその手にかけた。
命からがら逃げ延びて、川のほとりで蹲っていた。そこへあの高僧が現れた。
彼は言った。その言葉の意味が、今ようやく解った気がする。
〝あぁ、良かった。本当に、良かった〟
ウヌバは、感情を露にして泣哭した。
あぁ、アレが祖父。アレが、自分に残された肉親。
ネーヴェマンはポケットから小さな包みを取り出して、彼の震える手に握らせた。
「俺からも一つ、伝えたいことがある。かなり遅いが許してくれよ」
彼はウヌバにその包みを開かせた。中に入っていたのは、シンプルなピアスだった。
「ハッピーバースデー、ウヌバ。コイツは俺からのプレゼントだ」
「マスター…!」
いつの間にか、彼らは温かい拍手に囲まれていた。
皆、あの日の祖父のようににこやかで、おめでとうと祝ってくれた。走っていた誠の笑顔は清々しく、ケンは泣いてる自分を小馬鹿にした態度で、酒顛は豪快に、清芽は柔和に、エリだけは何故かサングラスに付け髭を付けて太い声を出していたが、それでも嬉しかった。
無表情は変えられないが、感謝の気持ちで一杯だった。
ウヌバがネーヴェマンに笑えよと顔を捏ねくり回されていると、「来たぞ、第一!」と第八実行部隊のサブリーダー――アッサーラが一同に呼びかけた。駆け足の彼の手には、有機EL紙の世界地図があった。
「レーン・ハワードの居場所が分かった! そして、奴の正体もな!」
彼の言葉に誠が逸早く反応し、慌てながら一歩前に出る。
彼を一目見たアッサーラはばつの悪い顔をし、「坊主。昨日は、その、悪かった――」
「そんなことはいいです! それよりレーンのことを!」
あの病室での暴動後、ネーヴェマンにこってりと絞られた彼ら第八実行部隊は、誠の人となりを知って考えを改めたようだった。それでもわだかまりは残るが、何とか手打ちにしてもらいたかったのだ。
しかし今の誠には、そんな瑣末な問題は頭の隅にも無いようだった。
当惑したアッサーラだったが、純朴な瞳を向け続けられて苦笑した。
「聞いて、後悔するなよ」
「ボクは、先に進むんです。レーンはそこにしかいないから…!」
一同――第一、第八、及びネーヴェマンが協力を取り付けた第十一実行部隊から成る第一中隊は、パキスタン北部のカラコルム山脈を目指した。