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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第二章【闇に生きる友人 -Genius in the Dark-】
97/167

〔四〕

 ――――出し抜けだった。

 午前五時。早朝の日課――パン作りの特訓の為に厨房へ下りたシェイナ・ペレックの目にはじめに飛び込んだのは、父サクスの熊のように広い背中だった。

 彼は誰かと喋っているようだったので、シェイナの頭には居候のマコトの顔が浮かんだ。ここへ下りる前に、彼に貸し与えていたグルニエに寄ったのだが、そこに姿が無かったからだ。

 今日は負けちゃったかな。

 毎朝、勝手に彼と早起きの競争をしていたシェイナは、そんなことをぼんやりと思った。しかも一流のブーランジェのくせに朝が苦手な父にさえも負けてしまった。これは一体全体どういうことなのだろう。

 疑問符を浮かべながら厨房に踏み入ると、マコトは勿論、この家に居候している他四名の姿があった。

 彼らは揃いも揃って苦笑していた。そして壁に掛けてある時計を一瞥してから、何の脈絡も無く、別れの言葉を口走った。

 それは彼らにとっては、いかにも大層で礼儀正しい訣辞だったのかもしれないが、シェイナにはとてもそうは思えなかった。

 利己的で、一方的で、独善的。無礼という言葉が適切な態度だ。

 彼女もとりわけ期待していたわけではない。元々、彼らは何の前触れも便りも無くこの家に現れて、家主の了解を得るや、家人である彼女やその母の同意を待たずに、無理矢理押し入ってきたような連中だった。

 本当に、どうしようもない連中だった。

 だから期待など、これっぽっちも、小指の爪の甘皮ほどもしていなかった。

 それでも当惑して、え、あれ、などとしか声を発せられない彼女に、誠はごめんと言った。

 俯く彼に見入るうちに、ふと先日買ったばかりのテキストに載っていた言葉が過った。

 いずれ別れの日が来ることは、シェイナにも分かっていた。そしてその日はきっと、しっかりと組まれたスケジュールの上でカウントダウンを重ねながら訪れて、最後の最後は泣きながら花束を渡して彼らの前途に多幸があることを祈り、別れと再会の言葉をもって送り出すのだろうと、そんなことを想像していた。期待はしていなかったが、そういった特別ではあるが実に形式ばった一日になるのだろうと思っていた。

 それが、何だこれは。本当に身勝手だと、シェイナは愕然とした。あのテキストは嘘吐きだったのか。飛び立った後の鳥の巣は、こんなにももどかしい気持ちを抱えているじゃないか。

 釈然としない彼女を置き去りに、一同は〈ペレック〉から去っていった。

 無口で憮然とした態度が似合いのサクスが、珍しく感情的に手を振っている。彼は呆ける娘の肩を抱いてやったが、すぐに解かれてしまった。二階の自室に上がっていく彼女の後ろ姿に、彼は深い溜め息を漏らした。

 この日、今後の経営に支障を来たすだろう極度の、言うなれば瀕死クラスの人員不足で臨時休業を余儀なくされた〈ペレック〉を、常連客という名の無数の人熱れがずっと包囲していた。

 部屋の窓からそれをこっそりと眺めていたシェイナは、日が暮れるまでずっと、暮れてからもずっと、また日が明けて店先の〝営業再開日は未定〟という旨の張り紙を見ては遠ざかる人の群れに目を泳がしながらずっと、彼らのことを考えていた。

 所詮は止まり木だったのか。シェイナは分からないなりに、そう解釈した。同時に、彼らと秘密を共有しているらしいサクスを恨めしく思った。問い質したところで、彼は何も話してくれないだろうということは自明だった。何故なら、シェイナの過去を紐解けば、母への隠し事は数え切れず、それを知っていながら暴露しない父に感謝したこともまた、数え切れないからだ。

 そうだ、父は秘密を固く守る男だ。どう詰問したところで、彼らのことを話すことはないだろう。あの大きく温かい手で頭でも撫でられてはぐらかされるのが関の山だ。

 シェイナは点けっぱなしのテレビの音声をBGMに、机に突っ伏した。目の前に放置された日本語のテキストをぱらりと捲る。

 〝立つ鳥跡を濁さず〟と記されている。意味は、誠達がしたこととまるで逆のこと。

 嘘ばっかり。

 豪華客船が沈んだという海を俯瞰する、ヘリコプターからの映像がテレビに映る。それを薄く開いた瞳で観るや、彼女は頭を擡げた。しかしすぐに元の姿勢に戻った。

 予感めいたものが閃くも、すぐに否定された。

 しかしその行為は、新たな行動を彼女に誘発させた。おもむろにスマートフォンを取り出して、起動した。連絡帳から、彼の名を探し出した――――。

 

*   *   *

 

 機関が停止していく。厚い窓の外を満たしていた海水が徐々に水位を下げる。

 少しの揺れの後、着港のブザーが鳴った。エアロックの傍に待機していた乗員が、小さな液晶ディスプレイに掌を当て、もう片方の手でディスプレイ横に備え付けられたテンキーで暗証番号を押した。すると分厚い鉄板が音を立てた。ロックが解除されたようだった。

 彼はさらに、大きなレバーを下ろす。そうしてからようやくエアロックが外へ押し出され、上へ消えていく。強い照明が、一同――第一実行部隊を照らし出した。

 それなのに、彼らからは暗澹とした空気が垂れ流されていた。

 ロックを開いた乗員は、満身創痍の彼らを横目で見て、生唾を飲んだ。

 聞けば、彼らはフランス製の豪華客船〈ネオ・アルゴー〉で潜入捜査を行なってたようだが、そこで敵――REWBSの罠に嵌められてしまい、彼らごと船を沈められてしまったらしい。それ以上のことは分からないが、彼らの顔色を見る限り、組織の面目を潰したのは事実らしい。

 そんなモノローグを浮かべていた彼は、同隊の少年と目を合わせてしまった。第一実行部隊については組織内では有名だからよく知っている。そして最近、風の噂で、新たな人員が加わったと聞いた。何でも、あの〝セイギ・ユキマチの再来〟だとか何とか。もしかしてこの少年がそうなのかと思ったが、その頼りなそうな風貌に、彼はまさかなと思い止まった。

 彼が愛想笑いを返すと、少年は静かに目を逸らした。死んだ魚のような目をしていた。

 まるで、絶望という名の死に至る病に侵されてしまったような、そんな目だった。

 ハッチが完全に開放されたのを見計らって、乗員は指を揃えた手で彼らを外へ歩かせた。

 酒顛ドウジが先頭に立ち、熱核融合炉搭載型潜水艦〈DEM-2-1〉のハッチから伸びるタラップを降りる。そこで彼は、出迎えの兵が一人もいないことに気付いた。普通は、第一実行部隊が入来すると知れば、兵が大挙して彼らを出迎え、敬礼をもって基地の本部棟への道を創るものだ。何故なら彼らは、いや、彼――酒顛は、実行部隊総隊長であるからだ。

 しかし彼個人としては、予てから煩わしい慣習だと感じていた。いかにも沽券を守ることに心血を注いでばかりの金食い虫が好む行為に見えて仕方なかった。だから構わないのだが、それでも当基地の責任者や上層部が顔を見せず、ひいては実行部隊や、それをバックアップする各部署の連中が誰一人こちらに目もくれずに作業に没頭しているというのは、些か不思議で、ともすれば遺憾であった。

 意図的にこちらを無視、あるいは邪険にしているのは明白だった。彼らの心情を察した雪町ケンは、チッと舌打ちした。

 それを聞き、早河誠はさらに視線を落とした。もう彼の折れた右腕を巻いた包帯を見ることさえできない。どうしようもない罪悪感が、誠を追い詰める。

 一同は無言のまま、ポートエリアを歩き、本部棟へと向かった。

 そこへ、声が飛んだ。


「おーい! すまん、遅くなったぁっ!」


 いやぁ参った参ったと、彼らの下へ駆けてきたのは、頼りない頭髪を短く生やした男だ。しっかりとした身体を見れば、彼は実行部隊の所属だというのは、素人の誠の目でも分かった。


「第一実行部隊リーダー、酒顛ドウジ。以下四名の代表として、貴官らの救援に心より感謝の意を表す」

「堅苦しい挨拶は抜きでいいさ、ドウジ。無事で何よりだ、歓迎するぞ」


 彼はそう言って、問答無用で第一実行部隊の面々にその厚い胸板を押し付けた。それは単なるハグと言うよりも、プロレス技のベアハッグに近いので、大怪我をしているケンは割り裂けんばかりの悲鳴を上げた。


「うーん、お前の身体は相変わらず抱き心地がイマイチだなぁ」

「ひうっ!?」


 エリ・シーグル・アタミはついでのように尻を(まさぐ)られた。鷲掴みである。彼女は咄嗟に彼の頬を叩き、「誤解を招くような言い方はやめてください、ネーヴェマンさん!」と刀の鯉口を切った。その目には涙が潤んでいて、本気だった。


「おぉ、すまんすまん! ほんのジョークだ! 頼むからその刀を抜かんでくれ、斬られたらシャレにならん!」


 おどける彼――ネーヴェマンは、すぐに両手を挙げて無抵抗を示し、彼女から離れた。続けて彼は、一際大きい黒い身体に狙いを定めた。

 だが逆に彼は、その巨体に身を包まれてしまった。


「オオオオオオオ! マァスタァアァアァアァアアァアァアアアアアァアァアアアーーー!!」


 黒い巨人ウヌバは、感涙に咽びながら、ネーヴェマンを抱擁した。

 その様子に一同は唖然としていたが、誠以外はすぐに察して優しい顔に変わった。

 号泣する彼をよそに、「何がどうなってるんですか?」と誠はエリに訊いた。


「そっか、マコト君は知らなかったよね。ウヌバには、二人のお師匠さんがいるの。所謂マスターね。その内の一人がこの人、第八実行部隊リーダーのセロン・ネーヴェマンさん」

「お師匠さん…」


 恩師との再会にわんわんと泣きじゃくるウヌバを宥めすかしたネーヴェマンは、彼を力ずくで引き剥がした。そして一際貧相な身体つきの少年に目を向け、にっかりと笑った。

 手を差し出された誠は、少し躊躇いながらもそれを握り返した。


「セロン・ネーヴェマンだ。話は聞いているぞ、少年」

「は、はじめまして。その、話って…?」

「意気地なしでへっぴり腰で泣き虫のダメ坊主」

「な…!?」


 謂われない非難と断じられない、どこか身に覚えのあるその悪口に、誠は言葉を失った。

 しかしネーヴェマンは、彼の頭を撫で、「よく来たな。我らの城、バミューダ基地へようこそだ」と言って、また笑った。

 別れのすぐ後に訪れた、まったく新しい出逢いに、誠は気が狂いそうになった。

 レーン・ハワード――まるで生きた芸術品のような金髪金眼の美少年が、自分に何の迷いも無く牙を剥いたという事実が、誠の頭をいっとう重くした。すると悪寒が全身に迸り、足の力が抜けて、膝を突いた。

 頽れる彼に、一同が声をかける。しかし遂には横たわり、痙攣の末、過呼吸に陥る彼の名を、エリは咄嗟に支えながら何度も呼んだが、彼は息を切らすばかりで何も答えなかった。

 答えられなかった。

 答える気力すら無かった。

 閉じゆく誠の目から、一粒の雫が零れ、頬を伝った。


*   *   *


「ま、任せると仰られますが…」


 有線式の受話器に耳を傾けつつ、当バミューダ基地の司令官ドルコフは頭を抱えた。冷え切った脂汗が、短い首筋を伝う。

 量子通信による通話越しの相手は、抑揚も無ければ、語気も無い、ひどく平坦な口調でドルコフに命令した。


「そんなご無体な…い、いえ、滅相も…はい、了解であります。それでは……」


 通信が切れた。ドルコフは受話器を持ったまま、マホガニー製の机に両手を突いて、項垂れた。

 状況は最悪。一時的にとは言え、分不相応な権利を授与されてしまった。もしもそれを行使し、結果裏目に出でもすれば、責任の追及は免れない。実行部隊の平隊員から作戦部作戦課へ編入されて三十年。五年前にようやく辞令が届き、このバミューダ基地の司令官となった。トントン拍子とはいかないまでも、長年の努力が実った末の、栄転だと思っていた。中間管理職とは言え、ボスや作戦部から送られてきた指令書に従って各部隊に命令し、部下からの報告書にサインをして本部へ送るという単調な作業の繰り返しは、実に自分向きの職務だと自負していた。

 部下にも恵まれている。特にこの基地の上級部隊――基地毎の実行部隊統括チーム――のリーダー、ネーヴェマンのお蔭で指揮は高く、纏まっている。だから滅多な問題などこれまで起きたことがなかった。

 咎を受けることなど、何も無い。

 それなのに、今日になって非情な命令を下されたのは何故だ。

 これはアナタの――ボスの、職権放棄ではないのだろうか。


「参った…。参ったぞ、コレは……」


 受話器を台に戻し、椅子に深く腰掛けた。途端、小鳥の囀りのようなブザーが鳴って、彼は椅子からずり落ちそうになった。秘書官からの内線だと気付くと、すぐに乱れた髪を整え、応答した。


「…来たのか?」

『はい。お通ししても宜しいでしょうか』

「あぁ、通せ」


 眉間を揉んで、椅子に掛け直す。チャイムが鳴ったので手元のコンソールを操作して、扉のロックを解除した。

 それを確認し、秘書官が扉を開く。彼女に促されて自動ドアから現れたのは、今し方目の上にできたばかりの瘤――酒顛ドウジである。

 ドルコフはわざとらしく立ち上がると、さも人当たりが良さそうな笑顔で彼をもてなした。


「よく来たな、総隊長。さぁ、任務帰りで疲れたろう、そこに掛けてくれ。キミ、彼にドリンクを」


 秘書官は超薄型の液晶ボードを彼に手渡し、「お好きな物をお選びください。すぐにお持ち致します」とレストランのウェイトレスのように言った。ボードはメニュー表代わりで、タッチパネルとして扱える。

 随分と質の良いソファーに座らされた酒顛は、それではお言葉に甘えてと前置きし、ボードを指先で操作した。その間に、ネーヴェマンが彼の隣に座る。第一実行部隊の他の面々の姿は無い。


「うーむ。それでは、麦茶にしようか」

「お、おい、そんな物で良いのか? もっと他にもあるだろう。何なら酒でも構わんぞ…!?」


 酒顛の淡白な注文に、ドルコフは動揺した。

 見るからにおかしな様子に、「いえ。自分は任務外では酒は嗜みません」と酒顛はさらにおかしな返答をした。

 それを聞いて、ソムリエか何かかと目を丸くしていた秘書官だったが、相手があのシュテンだと思い出すと、そういうことかと理解した。

 遅れてドルコフも、墓穴を掘ったことを自覚した。ドウジ・シュテンと言えば、酒を呑むと角が生えるという、あの〝大江山の暴れ鬼〟ではないか、と。

 目を泳がせ、口をぱくぱくと開閉する彼の様子に、ネーヴェマンは人知れず溜め息を漏らした。そして、フォローを入れる。


「では自分は、バミューダ基地特製宇治金時デラックスを大盛りで。司令、ご馳走様です」

「う、あ、おう…」


 すっかり肩を落とす彼をよそに、秘書官が訊く。


「そちらはすでに大盛りですが」

「良いじゃないか、適当に盛っちゃってくれよ。一回食べてみたかったんだよ」

「見た目の保障はできませんが」

「シェフのセンスに任せるって言っといてよ。小豆も練乳もたっぷりでな」

「かしこまりました、お伝えしておきます。それでは失礼致します」


 そう言って秘書官は部屋を後にした。

 一息にむさ苦しくなった室内には、同時に沈黙が訪れた。誰が話を切り出すかという空気が漂いはじめてきっかり十秒が経った時、酒顛が口を開いた。


「司令」

「う、うむ…」

「この度の迅速なるご判断、心より感謝致しております。当基地の救援が無ければ、我々は今頃、海の藻屑と化していたことでしょう」

「……アレを指示したのは私ではない」

「…と、仰いますと」

「諜報部の人間だ」


 それを聞いて、酒顛の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。


「その諜報員からの報告を受け、直ちに出動されたと?」


 彼の問いに、ドルコフは怪訝な顔をして、「いや。バーグの件もあったのでな、新たな本部となったデヴォン島基地に、彼の官姓名とIDを照会してもらった。確かに彼が身内だと確認されたので、ボスに指示を仰いだ。それでも十分はかからなかったがな」

 然るべき手順は踏んだぞとでも言いたげだった。

 しかし酒顛が訊きたかったのはそうではない。


「その諜報員の名は、フリッツ…ですか?」

「そういう名だったな。ファミリーネームを問い質したら、それだけで確認できるはずだと怒鳴られた。彼は本作戦のバックアッパーか?」

「はい、とても優秀な男です。マデイラ諸島での作戦後、我々第一実行部隊はフランスのセーフハウスで待機しておりました。そこへ彼が、メッセンジャーとして今回の作戦を伝えてくれたのです」

「作戦とは何だ?」


 ネーヴェマンが問う。


「極秘でなければ、是非とも聞かせてもらいたいものだ。お前が失敗するほどの作戦とは、何なのか」


 背凭れに巨体を預け、座禅の法界定印のように手を重ねた酒顛は、続けて指を遊ばせて、絡めた。


「…失敗というのとは少し違うな。この作戦は、初めから勝ち目が無かったのだから」

「何?」

「ブラフを掴まされたんだ、我々は。情けないことだが」

「フリッツにか」

「…それはないでしょう。何故なら、沈みゆく船から我々を助け出してくれたのは、他でもない彼自身なのですから」

「ならばバーグだな。奴め、今度は偽りの情報を垂れ流して、我々を混乱させる気か」

「その可能性が高いかと」


 男達は腕を組んで息をついた。

 そこへ秘書官が戻ってきた。彼女が持つプレートの上には大きなコップがあり、中によく冷えた麦茶が注がれている。彼女に続いて、ウェイトレスがワゴンを押して現れた。ワゴンの上には、巨大な皿にたっぷりと盛られたカキ氷があった。


「早いな。というか、凄いカキ氷だな」

「だろう? 本来の高さはこの半分ほどだ」

「先程測りましたら、全高五五〇センチメートルでした」


 秘書官は酒顛の前のテーブルにコースターを敷き、その上にコップを置きながら、呆れ顔で言った。

 その彼女の指示に従って、ウェイトレスがカキ氷の皿を持ち上げようとした。しかし、当然のように持ち上がらない。秘書官が手伝おうとするが、中々上手くいかない。

 おいおい大丈夫かとネーヴェマンが立ち上がった途端、二人は手を滑らして、皿をひっくり返してしまった。


「ぬあっ!!」


 情けない声を上げるネーヴェマンの目に、床へ落下していく氷の山が映る。しかしそれは、中空で制止した。片手で、止められた。

 下から掬うのではなく、直截触れることもせずに、落下という自然現象そのものを阻止したのだった。

 ドルコフは伸ばした掌を上に向け、さながら遠くの氷をそこに乗せているかのようにして、徐々にワゴンの高さまで上げていった。しばらくして宙に浮かぶ氷の山は、いくつかその細かい粒を床に落としたものの、元の皿の上に戻った。もちろん、宇治金時ならではの抹茶のシロップや小豆なども元通りだ。シェフのディティールとは違うが、これはこれで風情がある。

 彼は続けてその皿ごとを宙に持ち上げて、テーブルまで運んだ。まるで浮遊するラジコンを操作しているような、〝最もスタンダードな超常現象〟だった。


「さすがですね、ドルコフ司令。見事な《念動力(サイコキネシス)》です」

「第二実行部隊のカズンほどではないがな」


 伸ばしていた手を戻したドルコフは息をついた。

 あの青年ならば、もっと器用にこの力を扱えるのだろうなと、彼は自身のセンスの限界にうな垂れた。

 センスは、その名のとおり〝才能〟だ。それは不平等の最たるもので、個人を個人足らしめる象徴でもある。記号や、単位として用いることもできるだろう。

 そしてそれには上限がある。どんなに努力して階段を上り続けても、屋上に登りつけばそれまでなのだ。隣の誰かが自分よりも高い場所へ進んでいても、自分の限界は越えられない。

 いくら時間を有効に使い、優れた知識から得た確実な方法で修練を重ねても、石は石、金は金なのだ。

 出来の良いそれと自分のそれを比べた時には、自己弁護を用意しなければならないのだ。

 ドルコフはそのみっともなさを理解しているから、強者がいない場所でも得意気にはなれなかった。


「カズンと言えば、お前のところのケンとはライバル関係だったな」

「あぁ。だが本人にその話はご法度だぞ」

「ハハハ、そうだったな」


 秘書官らが再び退室し、ネーヴェマンはとても嬉しそうにカキ氷を頬張った。特有の頭痛を恐れずにむしゃぶりつく様は少年のようだった。

 そこへ、「可能性の話だけであれば、バーグに違いないのですが」と麦茶を半分ほど飲んで、「どうにも真相は違うようなのです」と酒顛は言った。

 ネーヴェマンはスプーンを咥えながら、彼を横目で見た。

 どういう意味だとドルコフが問う。


「ケン・ユキマチの報告によれば、我々第一実行部隊は、REWBSによって誘き寄せられたようなのです。我々が潜入した豪華客船〈ネオ・アルゴー〉で待ち伏せていたヘレティックの話によると、その者が我々を誘き寄せたとのこと。そこにバーグが関与している可能性は低いのではないかと、自分は考えます」

「話が読めん。詳細な報告を続けてもらうぞ」

「えぇ。この事態、些か常軌を逸しています」


 酒顛は語り始めた。

 コップ表面に発した結露が、焦燥する酒顛の心根を表しているかのように、コースターへと垂れ落ちていった。


*   *   *


 ――――組織には、〈ヒュプノス〉と呼ばれる小型の化学兵器が存在する。

 それは厚さ二センチメートルの、小さなバウムクーヘンのような形をしている。機能はまず、特定の光信号を受信すると、内部で個別に仕切られていた液体が混ざり合う。続けて外装が上下に割れ、液体が酸素に触れると気化ガスを発生させる。そしてそれは同時に、まるでくしゃみのように、勢いよく装置から噴射される。その効果範囲はおよそ半径三メートル。

 齎す効用は、その名の由来どおり、催眠である。

 無味無臭無色という三拍子揃ったそれを嗅ぐ、あるいは口に含むと、一瞬にして脳内の酸素を食い潰されて、昏睡状態に追い込まれる。体内に酸素が戻るまでには一分もかからないが、意識の回復にはおよそ半日を要する。

 〈ネオ・アルゴー〉のホールに留まっていた酒顛とウヌバは、その〈ヒュプノス〉を室内の各所に設置していた。まるで本職のボディガードが安全確認に従事しているかのように、広い室内をぐるりと周回し、植木の根元やテーブルの下などを選んでセットした。

 自身の作業が完了すると、酒顛はウヌバを探した。

 ウヌバはまるで物を拾うような仕草をして、椅子の裏に〈ヒュプノス〉を貼り付けてから立ち上がった。酒顛のアイコンタクトに、首肯で応じた。

 後は、ケン達別働隊が、兵器の発見を知らせてくれれば、このホールにいる者達を深い眠りへ誘うことができる。彼らが眠れば、続けて各エリアを同様の手段で制圧し、ケン達の援護に回れる。

 そのはずだった。


『レディース&ジェントルマン!』


 突然ホールの一角から響いたその声は、マイクを通して発された男のものだった。


『それでは皆さんお待ちかね! 某有名オークション会社も面食らう、当社自慢のメインイベントの始まり始まり!』


 欣欣然といった具合に、若く癖のあるオークショニアが言い放つ。彼は蝋で固めたような笑みのまま、片手を自らの背後に広げた。

 そこは特設のステージ。彼の合図で奥の赤いカーテンが上がり、中から黒いドレスを着た女が現れた。その両手首には手錠がかけられている。

 戸惑いを隠しきれない酒顛達を置き去りにして、それまでポッシュな態度を装っていた乗客達の化けの皮が剥がれた。

 拍手喝采。

 興奮のあまりワイングラスから赤い雫が零れようが、跳ねたそれが高級な衣装を汚そうが気にも留めない。今の彼らは体裁振ることを忘れていた。

 何故ならこの広大な海の上、ようやく治外法権の名の下に、大枚をはたくことができるからだ。そこに男も女も、老いも若いも関係無い。人を買うという究極の商いを愉しむことに、しがらみは邪魔なのだから。


『さぁさぁさぁ! 本日第一号のこの美女のお値段は一体いくらになるのでしょうか!?』


 魂の抜け殻のような彼女を指して、オークショニアは叫ぶ。

 すると乗客のボルテージがさらに高まる。ステージ横の電光掲示板に表示される数字が凄まじい勢いで上昇していく。

 酒顛は他のボディガード達同様、ホール内を巡回するフリをしつつ、一人の男の手元に目をやった。彼はスマートフォンの画面を熱心にタップしている。どうやら数字を打ち込んでいるらしい。掲示板の数字を何度も見直して、それよりも遥かに高い数字を選んで、送信ボタンを押した。その数字が掲示板に表示された。どうやら連動しているらしい。

 本当に人を競り落とそうとしている。その額は高級車を一台買えるほどだ。

 酒顛はこの狂った光景に、怒りを露にすることさえ憚られていた。ここで私情に従えば、REWBSに感づかれる虞がある。何より、人間を恨むことだけはあってはならない。

 組織に属する、ヘレティックとして。


『はいっ、最終提示額から三十秒が経過いたしました! 第一号、落札です!』


 葛藤する彼をよそに、誰かが女を買ったらしい。雄叫びに近い歓喜の声が上がる。脂汗を掻いた、よく肥えた男だ。

 その男は拳を自慢げに掲げながらステージへと進み、オークショニアから首輪を受け取った。男はそれを手馴れた様子で女の首に掛け、首輪から伸びた鎖状のリードを引っ張った。女が呻くが、男は小鳥の囀りだと言わんばかりに無視をして、元の位置に戻っていった。

 こんなにも狂気染みた男の行動に、周りの誰一人もそれを咎めることはなかった。


『この調子でドンドン行きましょう! 続いては、南国の美少年だ!』


 先程の女と同様に拘束された、十代前半の少年が連れてこられた。

 彼を見るや、今度は淑女達がスマートフォンを一心不乱に叩く姿が目立った。もはやその様は淑女ではなく、飢えた雌豹だ。

 しばらくして、モデル風の女が彼を落札した。彼女は少年に首輪をかけると、魔女のように微笑んだ。

 時が経つにつれ、饐えた熱気がホールに満ちていく。性根の捻じ曲がった者達が笑う度、息をする度、酒顛達は噎せ返りそうになっていた。

 しかし人身売買オークションは留まることを知らず、ついに五人目の奴隷が落札された。

 そして主催者側は、客を待たせまいと六人目を矢継ぎ早に登場させた。

 現れたのは、年端も行かぬ痩せ細った少年だった。

 彼を見て、ウヌバは目を見開いた。

 それは少年が黒人だったからだろうか。瞳だけがひどく美しい純白であったからだろうか。それとも、在りし日の誰かと重ねたからなのだろうか。

 ウヌバは、少年をただただ凝視した。

 彼の異変に酒顛は気付いた。しかし、観衆のどよめきの方に強く反応した。

 これまでの雰囲気とはガラリと変わっていた。落胆し、アレはダメだと誰かが零す。誰もスマートフォンに指を突き立てず、閉口した。

 電光掲示板の数字は一万ドルと、あまり伸びていない。だが、ここのルールに則るならば、残り十数秒でこれまで通りに落札は確定されるだろう。酒顛はそう思った。

 それがあまりに想像不足だったことを、彼はすぐに後悔した。


『オークショニア!』


 年配の男が手を挙げた。オークショニアは慌てた様子で彼に答えた。


『はいはい、如何なさいました?』

『気が変わった! 入札を取り消したい!』

『よろしいのですか?』

『構わん!』

『良いでしょう! 入札額をリセットします!』


 オークショニアの快諾と同時に、電光掲示板がゼロを表示する。

 それを見て、少年は困惑した。動揺し、喚いた。ホールに彼の少数言語マイノリティー・ランゲージによる悲鳴と、オークショニアが鼻から漏らした溜め息がマイクを通じて響いた。

 そうして、入札が再開されないまま、タイムアップを意味するチャイムが鳴った。死に物狂いで一同に何かを訴えていた少年は、その音を聴くと息を止めた。


『それでは皆々様、裏メニューをご堪能ください』


 オークショニアは声音を落として演出した。

 粛々とした雰囲気が漂う中、カーテンを潜って、屈強な男が現れた。その手にはカービンが握られていた。

 人々はそれを、スタンディング・オベーションで迎え入れた。

 男も男で、彼らに軽く手を振って声援に応える始末だった。


『本日ご紹介するのは、ドイツの某社製カービン。まだ試作段階の最新自動小銃で、注目すべき点は何と言っても軽さと、発射速度にあります。それではその性能をじーーーっくりと、ご覧ください』


 男はカービンを構えた。サイトに怯える少年の姿を捉える。

 ホールは興奮する俗人達の熱気で沸騰しそうだった。

 拳を握り、組織の意義と葛藤する酒顛に、ウヌバが遠くから指示を仰ぐ。酒顛はそれを見ないようにして歯を食い縛った。

 ヘレティックは――裏世界に住まう自分達は、表世界の事情に干渉してはならない。ヘレティックの齎す案件はヘレティックが解決し、人間のやることは人間が処理しなければらない。

 ヘレティックがその強大な力を人間に対して行使しない為にも、そうしなければならない。

 ひいてはそれが、人間の命と、尊厳を守ることに繋がる。

 しかし、今、目の前で人が殺されようとしている。いたいけな少年が、その短い生涯に幕を閉じようとしている。

 酒顛は、唇を噛んだ。

 それを見て、ウヌバがステージへと歩き出す。

 途端、轟然たる銃声が空気をかき乱した。反響するそれに、悲鳴が混ざる余地など無かった。

 何秒、何十秒、はたまた何百秒が経過したのだろうか。これでもかというくらいに引き金を引き続けた男は、ようやく銃口を下ろした。

 目の前には、蜂の巣どころではない、肉の塊が転がっていた。


『こんなことが――』

『ノオウッ!!』


 ウヌバが叫んだ。サングラスを投げ捨てて、太い腕を振り上げた。

 酒顛の目に彼が映った。目を離したことを嘆きつつ、視界の端に亜麻色の長髪を靡かせる男の姿を捉えた。

 男はスーツ姿で、狂った御歴々の一人のように見えたが、携帯電話に耳を傾けるその顔が不敵な笑みを作っていたことが、酒顛の身体を突き動かした。


『了解です、お坊ちゃん。ネクスト・フェイズへ移行します』


 長髪男が携帯電話を切った。それが合図だった。

 走り、テーブルを薙ぎ倒し、ウヌバの巨体に覆い被さった。彼の手には禍々しい炎が煮え滾っており、その火の粉が酒顛の頬をわずかに焦がした。

 二つの巨体が倒れる中、四方八方から銃声が飛んだ。雷鳴のようなそれは、瞬く間に阿鼻叫喚を呑み込んでいった。

 酒顛は見た。ホールの入り口から戦闘服姿の連中が突撃してくるのを。

 ウヌバは見た。ホールの窓を割って覆面姿の連中が闖入してくるのを。

 彼らが放つ銃弾が肉を穿ち、血を散らす。倒れる人、逃げる人、叫ぶ人。全てが息絶えるまで、銃声は鳴り続けた。

 そんな中、船底から振動が沸き立ったような気がした。

 一段落が着いたのか、それとも偶然リロードのタイミングが重なったのか、これまでの地獄変相が嘘のような静寂が訪れた。

 ウヌバを庇っていた酒顛は、死体のフリをしたまま、そっと首を回らせた。

 セレブ達が物言わぬ屍と化している。幸せそうに眠る奴隷の美女が、血溜まりに沈んでいる。

 救えなかったのは、やはり自分のせいなのだろうな。

 酒顛は、目の前に転がっていたワインボトルを掴んだ。


『隊長、チームβから入電。ブリッジ、客室共に制圧完了です』


 部下から報告を受けた長髪男は、彼に携帯電話を預けた。すると駆け出し、地面を強く蹴った。

 酒顛はワインボトルを持ったまま、太い腕を身体の前で交差させた。そこに、長髪男の足の裏が押し付けられた。両足を踏ん張り、耐え忍んだ。


『ほぉ』

『その跳躍力、人間ではないようだな』


 彼の問いを長髪男は鼻で笑って、飛び退いた。


『ご同輩ですよ、ネイムレス』


 酒顛の左右のこめかみからは、太い角が隆起していた。肌と同じ赤い髪が、短髪と言えるくらいまで伸びている。身長はあまり変わらないが、筋肉が膨張していた。

 彼のセンス、《鬼変化》が発動された。

 アルコール濃度と飲酒量によって、その変化の度合いが決まるそのセンスは、最大四メートル超の巨大な鬼へと変貌できる。

 しかし今は、船内だ。酒顛は、赤ワインを一口だけ舐めていた。


『何故この船を襲撃した』

『アナタ方のせいですよ』

『何?』

『ここにアナタ方が来なければ、彼らに永久(とこしえ)の眠りが訪れることはなかった』

『詭弁だな』

『あ、分かりました?』


 長髪男はせせら笑った。不快な彼の足元には、額を撃ち抜かれた男が倒れている。彼はその男の顔をボールのように踏み、足の裏で転がした。


『理由を問い質すことよりも、状況を打開する方が先決でしょう。アナタが思っているほど、温くはありませんよ』


 血飛沫が彼の右足を赤く染めると、酒顛の視界から消えた。

 真上か。

 煌々たるシャンデリアの輝きが砕かれる。酒顛は横に跳ねて、落下してくる長髪男の攻撃を回避した。

 隕石のように床を穿って着地する男に続いて、ガラス片が雨のように降り注いだ。

 ホールの天井までの高さは、およそ八メートル。そこにあるシャンデリアに届くには、中二階のキャットウォークから飛び跳ねても決して届きはしないだろう。それを悠々とやってのけるこの長髪男は、彼が自白したとおり紛れもなくヘレティック。しかも、早河誠の《韋駄天》と同じ、脚部に莫大な力を齎すセンスだ。

 もしも《韋駄天》だとしたら。

 酒顛は背筋を凍らせた。

 豪華な設えのカーペットと、その下のウレタン樹脂の床材に足型の穴を開けた長髪男は、『お前達、手を出すなよ。どうしてもと言うのなら、そこの黒人を狙え』と、床に広げた自分のスーツを眺めるもう一人の巨人を指差した。

 巨人――ウヌバは、あの黒人奴隷の少年の、飛礫塗れの亡骸を弔っていた。スーツの下から涙のように流れる赤々とした血に手を浸した。まだ、温かい。生きていたんだ、可哀想にと、口下手の彼らしい、歯切れの悪いモノローグで少年を悼んだ。

 その間に、無粋にも、銃口が彼に向けられる。

 ウヌバは目元に滲んだ涙を拭った。目の下が、少年の血で染まり、彼のこの世への怒りや憎しみ、未練と綯い交ぜになったように頬を伝う。

 少年を殺した連中は、彼とは別の世界――地獄へと落ちたに違いない。そして理由はどうあれ、連中を葬ってくれたREWBSには、少し感謝をしなければならないかもしれない。

 だが、手向かうならば。

 ウヌバはまるで、酒顛と組み手をする時のように頭を下げた。それが、組織の一員たるウヌバという純朴な男のできる、最たる礼節だった。

 ウヌバ、やれるんだな。酒顛は彼の目に一片の曇りも無いことを察するや、キックボクサーのように片膝を上げる長髪男に意識を集中した。


『きっとアナタは、私よりも多くの死線を潜り抜けてきたんでしょうね。そんな顔をしておられる』

『御託はいい、行くぞ』


 酒顛は走り、男に豪腕を振るった。

 男はそれを垂直飛びで逃れた。シャンデリアを吊り下げていたチェーンを左手で掴んで、ホルスターから大型の拳銃を右手で取り出した。照準を酒顛に合わせ、トリガーを引いた。

 ウヌバが腕から放つ炎が会場を焼き溶かす中、けたたましい発砲音が一つ降り注いだ。

 酒顛は微動だにできなかった。足元に突き刺さり、爆ぜたその弾丸のスピードと貫通力は、まるで対戦車ミサイルのようだった。


『〈ファイファ・ツェリスカ〉…』


 オーストリアで生まれた最強のハンドキャノンの名である。

 しかしよく見ると回転式ではなく、スライドがある自動式だ。


『あんな未完成品と同じにされるとこの子が不憫ですよ。ねぇ、〈ヴァーユ〉』


 男は銃にキスすると、ハンマー横の小さな丸型のレバーを親指で回した。それは銃内部のガス圧の調節器だ。内部の圧力を先程よりも高め、酒顛に狙いを定めた。

 酒顛は咄嗟に、テーブルの上で転がっているワイングラスを見つけ、零れる白ワインに手を伸ばした。雫を掬い、舐める。

 それと同時に、胸部に弾丸が直撃した。

 男は銃の上下に設置された排気口から漏れる大量のガスの隙間から、彼の様子を注視した。


『……そうでなくては』


 酒顛は耐え忍んでいた。身体は一回り大きくなり、さらに伝説上の生物である鬼へと近付いた。胸には焼け焦げた痕だけが残っていた。彼はそこを手で払うと、テーブルを片手で持ち上げ、天井から未だに見下ろしている男に抛った。

 男はチェーンから手を離して着地する。天井で粉砕したテーブル片の落下を待たず、酒顛の懐に飛び込んだ。今度はガス圧を最大にして、至近距離で発砲した。

 それを酒顛は大きな掌で防ぐ。皮膚に刺さるが、弾頭だけが捻じ込まれた程度だった。

 男のローキックが、右の脹脛に直撃する。こちらの方が威力があるようだったが、酒顛は倒れなかった。

 この男のセンスは《韋駄天》ではない。そうであれば、《鬼変化》した足であっても、関節を逆に曲げられてしまうだろうからだ。

 酒顛は確信し、拳を振り抜いた。

 だが、空振った。男はカモシカのように高い跳躍で難を逃れていた。

 そこへ火の粉が襲う。ウヌバの炎だった。

 男は横に跳ねて躱す。周囲を見ると、部下の大半が骨まで灰になっていた。

 無駄弾を使ってしまったか。

 雇い主にどやされそうだと苦笑した直後、その人が現れて息を呑んだ。


『アンテロープ。そうまで遊びたいなら、僕が相手をしてやろうか?』


 ホールの入り口に、その少年は立っていた。彼はゆっくりと歩き、アンテロープという名の長髪男へと近寄った。それは酒顛の目の前を通り過ぎるコースで、彼はそれをまるで警戒していないようだった。

 眼中に、無いようだった。


『キミは、マコトの…!?』


 レーン・ハワード。金髪金眼の美少年。若くして、フェンシングの名手。その腕前は、彼が表世界で獲得した数々の栄誉が証明してくれている。

 しかしその栄誉や実力が通用しないのが、裏世界だ。ヘレティックという、人間から突然変異した者達だけの世界だ。

 そこに何故、彼が足を踏み入れているのだろう。そして何故、この鬼の姿をしている自分を無視できるのだろう。

 その問いに答えをやるように、レーンは彼の正面に立ち止まると、言った。


『その名前はもう、聞きたくない』

『……キミは、ヘレティックなのか』

『だとしたら何だ、ネイムレス。彼と交友のあった僕をスカウトでもするつもりか? なるほど、通りで甘いわけだ。頭に、まるで危機意識が足りていない』


 彼の殺気が、酒顛を動かした。拳を彼に振るう。そこにはもはや誠の友人という観念は希薄で、彼を危険視する防衛本能だけが全身に伝播していた。

 レーンはその、重機の放つ鉄球のように重い拳に手を掛けた。大きなそれの外側を掴みつつ、相手の肘を押し出した。

 巨体が縦に回転する。

 床で背中を強打した頃、酒顛は呆然とした顔を天井に向けた。


『行くぞ、アンテロープ』

『はい、お坊ちゃん』


 ガラス張りにされたホールの一角へ彼らは歩いていく。外は広い屋外プールになっており、夜の帳に張り付いた星々が彼らを手招きしているようだった。

 そうはさせまいと、酒顛は重い身体を起こしながらウヌバの名を叫んだ。

 彼はその意図をすぐに理解し、腰のベルトに取り付けていたスイッチを押した。

 その寸前、レーンはアンテロープの手から〈ヴァーユ〉を奪い、ホール内に向かって乱射した。早撃ちされた弾丸は、ウヌバが起動させようとしていた〈ヒュプノス〉を的確に射抜いていた。

 撃たれなかったのは、プールとは逆方向の入り口付近に設置していた物だけだ。それらが起動して、酒顛達の背後でガスが発生する。

 彼――レーン・ハワードは、全てを見抜いているような眼を敗者達に向けた。それも束の間、屋外へ出て、上空から垂らされた縄梯子をよじ登っていった。

 それを追いかけて外へ飛び出した酒顛だったが、レーン達が乗り込もうとしている輸送機とは別のもう一機によって威嚇射撃されてしまった。

 もはや為す術も無く、彼方へと飛び立つそれらを、屈辱に塗れた双眸でひたすら睨み続けることしかできなかった。


『リーダー…』


 ウヌバの声が背中を打った。

 振り返ると同時に、船が揺れた。至る所で爆炎が上がった――――。


*   *   *


 コースターの上のコップも、カキ氷が入っていた容器も、丸い雫をいくつか残して空になっていた。


「我々は急いで船の床を破壊し、最下層へ向かいました。しかしすでに浸水が始まっており、地下へは進めませんでした。そこで彼から通信が入りました」

「フリッツか」

「はい。彼の指示に従って船を脱出すると、作戦処理部隊(リセッター)の小隊が潜水艇で我々を回収してくれました」

「そのフリッツはリセッターを動かしたのか」


 ドルコフは目を丸くした。


「所属不明の輸送機を二機捕捉したので、もしやと思ったようです」

「随分と勘が良い。本来リセッターと言えば、ボディアーマーから発される量子センサーが消えるか、所要時間が限界に達するまでは所定の位置に待機しておくのが原則だ。今回のように、作戦区域そのものが移動する任務の場合も、決して区域から目視・感知できる距離には接近してはならない。その原則を独断で破り、お前達を救出するとは、破天荒な奴だな」


 ネーヴェマンは甘心したように笑う。

「その破天荒は今?」とドルコフは訊いた。


「〈DEM-2-1〉の到着を確認した後、別の任務があると言ってリセッターと共に撤退しました」

「別の任務…」

「酒顛。恩義があるからと言って、あまり信用し過ぎるなよ」


 ドルコフは訝しげな顔で腕を組み、「その諜報員、どうにもキナ臭い。一諜報員としての領分をあまりに逸脱している」と酒顛に釘を刺した。彼の脳裏には、あの時のフリッツの声が想起されていた。ただ興奮しているのとは別の、相手を選ばずに高圧的に荒げるあの声を。


「私は作戦部であって、他の部署については寡聞にして存じ上げないのですが、各実行部隊に専属の諜報員を配属するという規則はあるのですか?」


 酒顛の問いに、ドルコフが答えた。


「諜報部隊が属する情報部はその性質上、多くの情報を開示しない。しかし経験から言えば、専属というものは確かにあるはずだ。顔見知りからの情報であるから、実行部隊は安心して任務を行なえるものだからな」

「しかしその任期も数年だ。別部隊への辞令があれば、バックアップもそれまでだ」


 ネーヴェマンは三年だったか、四年だったかと、指をその数で折って、あやふやな記憶を呼び起こしていた。


「なら、フリッツは我々の専属なのでしょうね。我々が接触する諜報員と言えば、彼だけですから」

「どうもしこりが残るが、まずはお前の生存を彼に感謝しなければならんようだな」


 旧友の見せる笑顔に救われた気がしたのも束の間、「今回の作戦の概要は分かった。次は、お前達の今後の身の振り方についてだ」とドルコフが水を差した。その表情は硬く、歯切れも悪かった。


「現在、新本部となったデヴォン島基地は出入りが制限されている。その目処が立つまで、お前達を本部へ移送することができん」

「ボスは何と…?」

「………」


 岩のように固く真一文字に結ばれた唇は、決して動かなかった。

 代わりに、ネーヴェマンが切り出す。


「この基地だけの話ではないが、あのマリアナ基地を放棄した頃から、ボスへの反感が強まっている。お前もそれを感じ取ってはいただろう?」


 その通りだ。〈DEM-2-1〉へ乗艦した時から、乗組員の対応に不満があった。愚図な子供の尻を叩くような目で睨まれた。ご苦労様ですの一言を艦長からさえも頂戴されず、ネグレクトされた。それとなく問い質したが、はぐらかされて話にならなかった。

 それだけならまだ良かったが、治療もまともに受けられずに二時間の航海を耐えるのは苦痛だった。


「最も彼の身近にいて、手足となって動いていた我々をよく思っていないと」

「元凶がバーグだというのは分かっている。だが、このままではボスが評議会でリコールを免れないように、お前達の立場も危ういぞ」

「マコトのことを言っているのか」


 ネーヴェマンをキッと睨む。

 彼はそれに怯まずに続けた。


「バーグの情報どおり、彼を拉致してしまった。その彼があの《韋駄天》に目覚めてしまった。この偶然を不安視しない者はいないだろう」

「偶然どころか、私は必然とさえ思ってしまうな。あまりに都合が良すぎる」


 嘆息を漏らすドルコフの顔は、上下から圧力に苦心する中間管理職のそれそのものだった。


「事情は分かりました。我々第一実行部隊は、ほとぼりが冷めるまで当基地に待機します」

「すまんがそうしてくれ。ボスは私に任せると言った。しかし本来、第一実行部隊への命令系統はボスと作戦部が掌握しており、我々に権限は無い。今回の救出要請も、ネーヴェマンの嘆願が無ければどうなっていたか分からん」

「俺達には真実が見えない。だからお前達を信用するよりもまず、部下達の憤懣を静めることで精一杯なんだ。悪いが、理解してくれ」


 酒顛はおもむろに立ち上がり、「ボスの意図、理解できませんか?」とドルコフに問うた。


「今は、分かろうとは思わん……思えない」


 生固い目をたたえる彼の即答に、「了解しました。ですが、一つ条件があります」と酒顛は厳しい口調で返した。


「…何だ」

「レーン・ハワードとその取り巻き連中の討伐は、第一実行部隊にやらせて頂きたい」

「それは認可できん」


 そう断言する彼を一人残し、二人のリーダーは司令室を後にした。

 マリアナ基地と同じく海底にあるこのバミューダ基地の規模は、旧本部の四分の一にも満たない規模である。所有している熱核融合炉搭載潜水艦は一隻、輸送機も一機と、移動手段が非常に限られている。こうして歩いている廊下でさえも手狭な感があり、酒顛にとっては状況も上乗せされて、さらに肩身が狭かった。

 部屋を出てから無言の彼に、「茶番だったな」とネーヴェマンは言った。

 相変わらず気の回る彼には何度救われたことだろうか。全く、足を向けて寝られないなと酒顛は頭を掻いた。


「仕方あるまい。司令の心中は察して余りある」


 素知らぬフリをして話を合わせるのも礼儀だった。ネーヴェマンに対しても、そしてドルコフに対してもだ。

 ドルコフはボスの意図を汲み取れず、委譲された権限を早々に放棄したが、話が通じる男だというのは、今の会談で分かった。ボスが彼を選ぼうとした意味も含めてだ。


「ドウジ、今日は休めよ」


 思案顔の彼の厚い肩に、ネーヴェマンは手を置いた。


「お前のことだ。どうせ今から一汗掻こうとしていただろう?」


 あの少年には手玉に取られてしまった。

 まるでこれまでの鍛錬も経験も見識も、何もかもが無意味だったと全否定されたようだった。

 それに抗う為に、これから今一度心身を鍛え直そうかと思っていたのだが…。


「ハハハ、お見通しか」

「先輩からの助言だ。身体は休める時に休ませ、飯は食える時に食え、そして」

「「女は抱ける時に抱け!」」


 中年オヤジ達の下劣な笑い声が狭い廊下に木霊した。

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