〔三〕
大西洋横断の最速記録を更新した船舶に贈られるブルーリボン賞。
それに挑もうというこの巨大な豪華客船〈ネオ・アルゴー〉は、一路アメリカ・ニューヨークを目指し、フランス北西部に位置する国内第二位の規模を持つ港湾都市――ル・アーブルの港から発った。
ブルーリボン賞の西回り航路の記録は、一九五二年に〈ユナイテッド・ステーツ〉が打ち立てて以降破られていない。そこでこの度、フランスは国を挙げて、〈ネオ・アルゴー〉の建造に着手した。船体の素材や機関など以外の、全長や重量などの条件を〈ユナイテッド・ステーツ〉と同じにすることで、現代の技術力の高さを明確に示そうと考えたのである。
打倒〈ユナイテッド・ステーツ〉のスローガンの下、北大西洋の荒波に負けぬよう、ギリシア神話の勇者イアソンが黄金の羊の毛皮を探す為に乗った船――〈アルゴー号〉の名を取り、〈ネオ・アルゴー〉は誕生した。
「お宝探してコルキスに向かった無骨な〈アルゴー号〉に因んでいるわりに、造りは至ってモダンなのね。これじゃあ〈タイタニック〉と変わりないわよ」
「どういうのを想像していたんですか」
「〈アルゴ探検隊の大冒険〉って映画観たことある? あぁいう質素な感じ」
「…その映画は観たことありませんけど、これだけは断言できます。そんな船じゃあ、組織の技術力でもブルーリボン賞は取れませんよ」
〈ネオ・アルゴー〉は確かに現代的なフォルムで、一般的にクルーズ客船と呼ばれる船舶だ。対して作中の船はスループ・タイプの木製の帆船。どちらがより大西洋横断に適しており、かつ最短時間でニューヨークへ辿り着けるかなど考えるまでもない。
冗談と分かっていても、早河誠は溜め息をついた。
彼は船のドレスコードに準じ、フォーマルな三つ揃いのスーツに袖を通し、髪型も額が見えるようにワックスで固めている。
隣でワイングラスを片手にホールを見渡すエリ・シーグル・アタミも、赤いローブ・デコルテに身を包んで、いつになく大人の雰囲気を醸し出している。自慢のポニーテールもくるりと後頭部で丸めるなどアレンジされている。
二人は、この豪華客船の招待客を装っている。所謂、〝潜入任務〟というやつだ。
『その調子で談笑していろよ、お前達』
酒顛ドウジの声が、ピアス型の極小イヤフォンから聞こえる。
彼らの通話内容を正確に傍受することは難しい。彼らは乗船時、諜報部の手引きによって大きなトランクを持ち込むことに成功した。それに収納されているのは、隊員達の量子暗号通信を中継する400×300サイズの無線LANルーターである。
本来、量子暗号通信は超高速な通信を可能とするだけでなく、盗聴対策には打ってつけの代物である。通信を盗聴された際には、使用している光子の量子状態が崩れて痕跡が残るので、強制的に通信が終了するのだ。そこで通信を行なう二者は、量子鍵配送の秘密鍵と呼ばれる共通の暗号を用いて、新たに通信状態を保つことができる。
しかし量子暗号通信では、盗聴の検出はできるが、盗聴そのものを防ぐことはできない。さらに言えば、通信の途絶は時間の損失であり、危機的状況を生じさせることにもなる。
だから日常的にヘレティック集団――REWBSを相手にしている組織の場合、この量子鍵配送でさえも〝究極の暗号技術〟とは呼ぶことはない。
REWBSは何らかの手段で秘密鍵を解読する術がある。
そう考える組織は、常に相手の二手三手先を行かなければならないのだ。
そこで開発されたのが、ダミー機能を付されたこのルーターだった。通話用の光量子と同じ周波数帯の光量子を複数用い、盗聴を仕掛ける相手を混線状態に持ちかけるのである。盗聴者は一度ダミーの光量子に接触すると、逆探知から居場所を特定、ハッキングされ、さらには雑音しか聞けなくなる。その間、通話用光量子は秘密鍵を生成、複数の光量子は通話する二者にも届くが、組織の作った通信機が必要な光量子のみを選び取り、処理して、通話状態を保持するという仕組みだ。
これによって、酒顛達は通話に暗号を持ち寄らずに済み、クリアな通話を行なうことができていた。
そんな小難しい理屈を知らない誠は、ネクタイの結び目に隠してあるマイクに向かってつぶやいた。
「談笑って言われても、難しいですよ…」
『まずは肩の力を抜くことだ。お前達は招待客、パーティーを楽しめ。目を光らせるのは俺達ボディガードの役目だ。エリを見習え』
誠達とは全く逆方向――ホールの入り口にボディガードが数名固まっている。その中に紛れて、黒いスーツにサングラスをかけた酒顛とウヌバの姿がある。当たり役と言うか、ハマり役と言うか、二人共、誰がどう見てもボディガードにしか見えない。
「そうよー、私を見習いなさい」
『調子こいてんじゃねぇよ、バカ』
今度は雪町ケンの声が響く。彼は船員に成りすまし、別行動を取っている。
「何よ、ケン。私のドレス姿を見られないからって、機嫌悪くしないでよね」
『へっ、プレデターのドレス姿に誰が興味持つんだよ』
「アラアラ、人が一杯いる所はお耳がイタイイタイになっちゃうからイヤだよー、って駄々を捏ねちゃうお子ちゃまには刺激が強いのかなぁ?」
『あぁ、確かに目の毒だわな、豚に真珠ってのはよぉ。ドレスなら、どこぞの未来の有名ブーランジェールのがよく似合ったんじゃねぇのか?』
「ケンったら、もしかしてロリコンなのかしら」
『おい、エリ』
「…な、なぁに?」
『そんなデけーパッド詰めてて恥ずかしくならねぇのか?』
「!!」
本日の彼女のバストは、五割増しのDカップである。
ふふんと、勝ち誇ったような短い笑い声が聞こえる。
俯くエリは肩を震わせると、涙目になりながらペンダント型マイクを指先で激しく叩き続けた。その雑音は耳を澄ましていたケンの鼓膜をクリーンヒット。彼に大打撃を与えるに至った。
誠は溜め息をつくと、彼女を放って首を回らせた。
〈ネオ・アルゴー〉には、フランスやアメリカの財界人を中心に、各国の金持ちが数多く招かれている。何でも、その金持ちは両国の大企業の株主ばかりだそうで、この船への資金援助を行なった者だけが招待されているとのことだった。エリは、「シャッチョさーんがいっぱーい♪」とはしゃいでいたが、誠はとてもそんなお気楽な気分にはなれなかった。
足元を見ると、ますます震えが止まらない。
組織の諜報員――フリッツが持ってきた情報を頼りにこの船に潜入し、《サーマル・センサー》を使ったエリが確信を持った。
この船の底には、巨大な影が取り憑いている。
誠は乾いた喉を高そうなジュースで潤し、潜入任務の発端を思い出した。
* * *
――――フリッツという若者は、つくづく掴み所の無い男だった。
絶えずにこやかで、人当たりが良さそうな面を湛えているが、決して自分の素性を語ることはない。素性と言っても、結局は謎多き組織の人間であることに変わりないのだが、それでもやはり、〝普通〟の組織の一員とは違う何かが、彼にはあるように見えるのである。
微笑の奥にある訳知り顔がデフォルトの、情報マニア、インテリジェンスのエキスパート。
組織一風変わりな男。
その認識だけが、フリッツという男を語ることができる全ての材料だった。
『御託はいいから報告しろ』
突如セーフハウスに訪れた彼に、ケンはいつものように機嫌悪く言った。
すると彼もいつものようにヘラヘラとした顔を湛え、『そんなに目くじらを立てないでおくれよ、ケンちゃん。こういうのは順を追って話さないといけないからさ。と、その前に…』彼は誠の肩に手を置いて、微笑んだ。
『えっと…』
『今朝方のアレは良くなかったね、マコト・サガワ君』
『!』
『聞いてやがったのか!』
『愚問だよね、それ。〝聞いていた〟んじゃない、〝見ていた〟に決まっているじゃないか』
『テ、テメー…!?』
フリッツは四方から突き刺さる視線に肩を震わせて、笑った。
『諜報活動の一環さ。僕の仲間がここの主人――サクス・ペレックを四六時中監視しているのは知っているだろう。組織法では、特別外部協力者には諜報部から最低一名の監視者が配置される。当然彼にも、機密保持の為に一名の監視者がいる』
『それがどうした。どこの誰が暇を持て余していようが、俺達には関係ねぇーだろ』
『生憎、この任務はとてもじゃないが閑職とは言えないよ。特にキミ達が来てからは、ノイローゼになりそうだと嘆いていたよ』
『あ?』
『有り得ないよ、未熟なヘレティックをたった一人で買い出しに行かせるなんて。とても実行部隊総隊長の判断とは思えません』
酒顛は苦虫を噛み潰したような顔をした。
『僕の大切な部下がお手上げ状態じゃあ、手助けせざるを得ないでしょう。だから僕は、興味本位でマコト君の後をつけていたというわけさ。ただ単にお使いに出かける少年を尾行していただけなのに、色々と苦労させられたよ、色々とね…』
『何か色々おかしいんですけど』
『そこはスルーしようじゃないか。あまり若い内から小さなことを気にしていると、ビッグな大人にはなれないよ』
この人、やりづらい。
誠は渋い顔をして彼から離れた。
『ではキミは、この一件をどうするつもりだ』
『何も』
『?』
『何もしませんよ。今の僕は、現場で見たこと聞いたことを上に報告する諜報員じゃありません。与えられた情報を皆さんにご報告する、メッセンジャーなんですよ』
良かったですね、報告が終わる前で。
唖然とする一同を前に、彼はそう言った。
ケンが何か言いたげだが、フリッツはやれやれと肩をすくめて、『そんなにナーバスだと、頭の血管詰まっちゃうよー』などと軽口を叩きつつ、剥き出しのコンクリート壁に立てかけてあった折り畳み式のパイプ椅子を組んで座った。実行部隊総隊長の前で、立場も弁えず足を組み、『それじゃあ、あの日の話をしようか』と焦れったい口調で語り始めた。この大き過ぎる貸しを盾にすれば、無礼講一つくらい許されるだろうということなのだろうか。
見かけによらず肝が太いな。
酒顛は彼への認識を改めた。
『ボスはあの日、バーグと長時間の対話を試みていたんだそうだ』
あの日というのは、第一実行部隊がひと月前、マデイラ諸島の無人島で作戦を遂行した日のことだろう。ハイパーコンピューター〈ユリオン〉の破壊が目的だったが、肝心の〈ユリオン〉はすでに何者かの手によって島から持ち出されていた。
誰の目から見ても、作戦は失敗だった。
一同の顔色が暗くなるも、フリッツは超然とした様子で口を動かした。
『世間話のような、それでいて裏世界にまつわるマジメな話のようなものを、延々とね。目的は分かるよね? そう、バーグの居場所を特定し、彼を捕縛する為さ』
『ギャクタンってやつですか?』
誠が小首をかしげて訊く。
するとフリッツは目を丸くしたかと思うと、にぃっと不敵に笑い、『おお? マコトくーん、キミも随分こっちの世界に慣れてきたみたいだねー』
やっぱり苦手なタイプだ。誠は少し怖じけながらも、『え、はい、どうも…』と気の抜けた返事をした。
それでもフリッツとしては満足したらしく、笑顔は崩さなかった。
『そうなんだ。ボスのセンス《ライト・ライド》は逆探知には持ってこいでね、血液に通った光を感知し、その光に乗せて自身の空間把握能力を肥大化させることができるんだ。バーグに対しては、通信ケーブルを直接腕に刺し、流れ出る電気――つまり光の波の源まで遡って、彼の居場所を突き止めるに至ったんだ』
空間把握能力。
エリのセンス《サーマル・センサー》を語る際に、この単語は欠かせない。
誠も何度か聞いた覚えのあるそれは、人間だけでなく、あらゆる生物が本能として持ち得る能力の一だ。見えているものや聞こえているものなど――目や耳などの感覚器官を併用し、自身の立っている場所から一定の空間の地形や状況を、瞬時に把握する。通常それには正確性が無く、あくまでそこに〝何かがあるような~〟、〝誰かがいるような~〟という曖昧な認識でしかない。
俗に言う〝第六感〟と呼ばれるものに近い。
人や野生動物の中には、それらに対して鋭敏な者もいるが、それは極々少数で、大抵が〝気のせい〟、〝勘違い〟で終始してしまう。
だが、ヘレティックは、それらよりも肉体的に優れている。
エリは赤外線を目視できるだけでなく、彼女がいる閉鎖された空間内と、その空間の外での一定距離までの熱量を感覚的に把握・測定することができる。それは通常のプロセスとは異なるが、周囲の三次元空間の状況を瞬時に認識できる点では、空間把握能力に違いない。
フリッツ曰く、ボスも彼女とは違うが、優れた空間把握能力を持っているということらしい。
しかし、彼の話には聞き流せない疑問がある。
『それって、危険じゃないんですか? 感電したりとか…』
『僕も詳しくは知らないけどね、あの人はかなり自分の身体をイジっているらしいよ』
『イジる…?』
『人体改造だ』と酒顛が答える。『スポーツマンの肉体改造ではなく、それこそ車や機械に施すような改造だ』
『機械人間ってことですか…!?』
『似て非なるものだが、それに近いものはあるだろうな。幸か不幸か、ヘレティックの身体はノーマルよりも頑丈だ。人体の一部を機械化しても、容易に堪えられる』
『おかしな話だよね。改造には耐えられるけど、感電の虞には打ち勝てないだなんてさ』
何が面白いのか。フリッツはくつくつと笑った。
彼を余所に、酒顛が補足する。
『マコト、覚醒助長薬という物を覚えているか?』
『はい、ボクを保護した時に打ったという薬ですよね。本来は確か、センスの能力の上限を知る為に使われる物だとか…』
『そうだ。お前には、ヘレティックかノーマルかを見定める為に使った』
『その薬が、何ですか?』
『覚醒助長薬を初めに試用したのが、ボスだ』
自ら投薬の実験台になったのだと言いたいのだろうが、今更そんなことを聞かされても困る。
誠は視線を逸らした。
『ボスは言っていた。〝薬を使っても、センスと肉体は適合しなかった。私はヘレティックの成り損ないなのかもしれない〟とな。すなわち、ヘレティックという括りが、デウス・エクス・マキナのような免罪符にはならんということだ。我々はあくまで、人間なんだ』
『……やっぱり分からないですよ。それじゃあ僕らはどうして…』
どうして、覚醒したのだろう。
センスは必要なのか。ノーマルのままではダメなのか。遺伝子は何を求めているのだ。
何故こんなにも、分からないことに絡め取られているのだろう。
誠の精神は再びナーバスへと傾いた。
口を噤む彼に代わって、エリが訊く。
『それで、バーグはどうなったの?』
『まんまと出し抜かれたよ。ボスが特定した場所にいたのは、バーグのスケープゴートだった。確保に向かった部隊は罠に嵌って全滅。本物と思しき相手は、組織の資金提供者であるユーリカ・ジャービル氏への暗殺予告を仄めかすと、通信を切った』
『なるほど。明確な敵性を確認し、本部基地は所在を把握されている為に放棄した、ということか』
『はい。今、本部は北米のデヴォン島基地に移されているよ。あそこは敷地面積だけなら組織一の規模を有しているからね。本部の全員を移送しても持て余しているくらいだよ』
『皆、無事ということだな?』
『えぇ。秘書官のメルセデス女史も、医師長の清芽先生も、皆息災です。ただ…』
言葉を濁す彼に、『ただ、何だ?』と酒顛は催促する。
彼は遠くを見るようにして答えた。
『ボスが皆の制止を振り切ってバーグと蜜月を過ごし、その結果、こういった事態に陥ったという事実は変わりません。上層部や資金提供者からリコールを要請される虞もあります。それでなくとも、矢面に立たされることはまず間違いないでしょう』
『ボスを助けられないんですか?』
言ったのは誠だ。
一同は彼に注目した。
フリッツは一人、目を細くし、口角を上げて訊いた。
『…面白いことを言うね、キミは。まだボスと面識はないんだろう?』
『そうですけど……』
『会ったことも、言葉を交わしたことすらない相手の身を案じるなんて、キミはとんでもないお人好しなんだね』
『ただボクは――』
『失敬。でもね、普通は…いや、ヘレティックに対して〝普通〟なんてのはおかしいけれど、〝普通〟はこういう場合、自業自得だって思うものだよ。そうだろう、ケンちゃん?』
急に水を向けられたケンは、『…どうだかな』と躱した。
『おいおい、しらばっくれちゃあいけないよ。本当はキミが一番不愉快に思っているはずだよ? 何せ、ボスが放棄を命じたあの本部基地は、キミの生まれ故郷であり、キミとご両親を繋ぐ唯一の宝物だったんだからさ』
空気が冷えた。
歯軋りを立てるケンの視界を遮った酒顛は、『フリッツ君、もしかしてお疲れかな? 口が過ぎるぞ』と彼を窘めた。
『気のせいですよ。僕はいつだって、一言多いキャラクターですから』
『自認しているのなら、気を付けたほうがいい。口は災いの元だ』
『僕も諜報員の端くれです。心得ているつもりですよ、そのことだけは』
しばしの沈黙が続く最中、短い機械音が響く。一同が身動ぎし、誠に至っては身構えていたが、それは何者かの侵入を告げるものではない。酒顛が二十三時に鳴るようにセットしたアラームだ。そろそろこの地下セーフハウスを出て、外で食事をしてきた体を装って〈ペレック〉に帰宅しなければならない。
『ジャービル氏は、無事なのか』
酒顛の問いに、フリッツは首肯した。
『ご健在ですよ。と言っても、車椅子とベッドを行き来するという過酷な生活には変わりありませんがね。今は第二実行部隊が二十四時間付きっ切りで警護していますよ』
贅沢な話ですよ、まったく。
そう言ってまた、彼はほくそ笑んだ。裏がありそうだが、酒顛は深く追求せず、『了解した。報告は以上だろうか』
『いいえ。実は本題はここからなんですよ』
『んだよ! 毎度毎度、前置きが長いんだよテメーは!』
『ハハハ、メッセンジャーに向いていないと諜報部の同僚からも言われたよ』
『何胸張って言ってやがんだよ!』
眉を波打たせるケンに、『思う壺だよー』エリの一言に、彼はぐっと苦い顔を滲ませた。
『さて、お遊びもこのくらいにして、仕事の話をしようか。明日の二十二時、第一実行部隊は〈ネオ・アルゴー〉という豪華客船に潜入してもらう』
『潜入なんて久しぶりね。そんなのほとんど諜報部の専売特許なのに。もしかして対象がハッキリしていないの?』
『エリーは相変わらずクレバーだね。ご明察だよ、今回は諜報部も破壊対象の実態を掴みきれていない。それに急を要する事態でね、時間が無い』
『破壊対象と言うからには、兵器なのか?』
『推測はいくらでも可能です。その為、我々が申し上げられる返答は、〝MoD〟です』
『〝Misson of darkness――先行き不明の任務〟。ということは、作戦の立案から完了まで、全ての判断は現場指揮官の俺が決定すればいいのだな?』
『えぇ。今作戦の全権は、ボスから酒顛ドウジへと委任されます』
それを聞くと、酒顛は彼と同じくパイプ椅子を組み、彼の目の前にどっかりと腰を下ろした。
『ならばキミからは他にも聞いておきたいことがある。時間が無い、端的に頼むぞ』
年のわりに老けた顔が近付く。逃げたい一心が思わず腰を浮かせるも、左肩からぬっと迫りくる巨大な影に圧倒された。
ウヌバという、フリッツが最も苦手とするタイプの巨人である。乾いた喉に生唾を流し、身体を右へ傾ける。すると今度は右肩を強く押さえつけられた。
エリだった。にっこりと笑うその顔には、サディスティックな本性が見え隠れしていた。
ちらりと後ろを見ると、ケンが階段の脇で壁に凭れかかっている。
頼みの綱は誠だったが、すみませんという風にそっぽ向かれてしまった。
『……お、お手柔らかに』
フリッツが解放されたのは、三時間後のことだった――――。
* * *
「情報源は、メギィドだって言ってやがったな」
背後から船員の頚動脈をスリーパーホールドで締め上げながら、ケンが訊く。白目を剥いて泡を吹く男は、彼と然程変わらない年頃だ。彼は少し同情しつつ、男を公衆トイレの個室に隠した。
組織の元技術開発部主任メギィド。先のマデイラ無人島における作戦で、組織への裏切りが発覚した白頭翁。彼の死後、彼が処理しそびれたのであろう遺留品を、諜報部が徹底的に調べ上げ、ようやく手に入れた手引き先との繋がり――と思しき情報が、今回の第一実行部隊を突き動かしていた。
『正しくは、メギィドの携帯端末のテキストデータに残されていた一文だ』
「〈ネオ・アルゴー〉。たったそれだけだろ。よくもその程度の情報で俺達を使いに出しやがるぜ。これならバーグの情報のがいくらかマシだ」
メギィド。バーグ。二つの名前に、誠は背筋を凍らせた。
何せ、あの無人島でメギィドの逃亡を阻み、死へと追いやったのは誠自身なのだ。
そしてバーグと言えば、誠を組織に拉致させた張本人だ。彼がいなければ、誠はここに立っていなかった。立たなくて済んだのである。
『ケン、今の物言いは――』
「へっ、失言失言」
悪態をつきながら、ケンは無用心にトイレを後にした。これは油断ではない。と言うのも、彼のセンス《超聴覚》と《超嗅覚》が、近付く何者かの足音や臭いを察知し、彼にエリやボスにも引けを取らない空間把握を付与させるからである。その為、トイレの出入り口から通路に向かって、左右を確認するような真似は必要ない。
『こういうのを不謹慎って言うのよ。覚えておきなさい』
『は、はい』
先程の腹いせか。
詰襟の下に隠したイヤフォンから、エリとマコトの声が漏れる。
彼女の気持ちも分かるが、「だがよ、こう何もねぇーと、〝奴〟の情報力を認めざるを得ねーぜ」
バーグの情報は、どんな内容でも外れなかった。その彼か、もしくは彼女か、性別不明の怪人による情報の真偽を確かめる為に、第一実行部隊はこれまで十六度出動した。
その〝慣れ〟による反動か。
〈MoD〉と聞くだけで、必要以上の不安に駆られてしまう。
イラつくぜ。ケンは足取りを速めた。
肉厚の身体が並ぶ中でも、酒顛とウヌバの姿はとりわけ大きく、目立っている。
これでも森に木を隠しているつもりだ。皆が皆、黒いスーツにサングラスという出で立ちで、酒顛らもそれに倣って変装している。特にウヌバに至っては、その奇天烈なヘアスタイルを隠す為にニット帽まで被らなければならなかったが、長く伸ばしたモミアゲが程よくファッショナブルに露出しているので、違和感はそれほど見受けられなかった。
酒顛はそのウヌバに一瞥をやった。彼はまるで回転式監視カメラのように、一定のスピードで首を回してホールを見渡している。何か異変を見つければその動きも止まるだろう。今は視界の端に留めておくだけでいいか。
しかし、正攻法で乗船して一時間。まるで異変が認められない。事が起きる、あるいは何者かが起こすというのなら、タイミングを計っているということなのだろうか。何よりエリに見えているという、船底部に張りつく熱源というものが気になる。タイミングが満を持した場合、熱源に何らかのアクションがあるはずだ。そのアクションが起きる前に、少しでも多くの情報を入手したいところだが…。
「〝飲んだくれ1〟から各員へ。これ以上の停滞状況はナンセンスと判断。予定どおり、隊を二分する。各員、所定の行動に移れ」
了解。
エリとマコトが動き出すのを見届け、酒顛も再度ウヌバにアイコンタクトを試みた。今度はこちらに気付いたらしく、瞬き一つするとゆっくりホールの中央へと動き出した。
一際目立つ彼が動けば、ボディガードの注目を集めるのは必然。即ちそれは、酒顛を彼らの視界から排除することになる。
ウヌバがデコイとなってくれている間、酒顛はすぐ足元に置かれた観葉植物の根元に口紅のような何かを落とした。十メートル先の壁際にも植物は設置されている。酒顛は同じ作業を全ての植え込みに対して繰り返した。
エリと誠は、ケンとの合流前に戦闘服の装備を完了した。首までの全身タイツ〈アイギススーツ〉に、迷彩服、そして自動体外式除細動器であり、秘密保全の為の自爆装置でもあるボディアーマー。これら全てに類稀なる防弾性があり、〈アイギススーツ〉に至っては自動修復機能を備えた特殊繊維が利用されている。
これらに身を包むことで、彼らは名実共に裏世界の人間で、存在そのものがオーバーテクノロジーの結晶になった。
「ここから侵入できる。マコト、遅れるなよ」
「は、はい!」
船の構造はシンプルだ。最上層には艦橋。中層は客室と娯楽室、レストランの三つのエリアに分かれている。中層からは外の巨大プールに通じている。
そして最下層。地下一階前部には船員室、後部には貯蔵庫。地下二階には第一機関室――ケン率いる調査分隊は現在ここにいる。
目的地は、この下の第二機関室だ。
「気配はあるか?」
「心配になるくらい誰もいないわね」
「だが気をつけろよ。誰が来ても、一人で対処するな」
「「了解」」
第一機関室の狭い通路には、等間隔で常夜灯が灯っているが、「暗いな。ゴーグル、暗視モードで行くぞ」視界の良し悪しが作戦行動に支障を来たすのはままあることだ。可能な限り万全を期するのがプロの嗜みというものでもある。
誠は命令どおり〈マルチプルゴーグル〉を装着した。通常暗視装置での映像と言えば、可視光線で中間にあり、人の目で最も知覚しやすい緑色で表示される。それに比べ、組織の作ったゴーグルでの画面表示は非常に簡潔――CGによって再構成された映像となっている。
だから見やすい反面、リアリティに欠ける。
ゲームの世界に身を投じたような違和感が、誠の身体を鈍くした。
「慣れないよねー、それ。私もきらぁーい」
そう言うエリは、自分の好悪に素直なご様子で、ゴーグルを装着していない。
「着けなくていいんですか…?」と先頭を急ぎ歩くケンに聞こえないように、誠は彼女に耳打ちをした。機関室の騒音は酷いのだ。
が、彼女が答えるより先に、「言っても無駄だ」とケンは肩をすくめた。彼は耳にノイズキャンセラーを起動させたイヤフォンを付け、二人の声を拾っていた
「無駄って……」
「過敏性感覚障害。センスに依存しているヘレティック特有の生活習慣病だ」
「私のセンス《サーマル・センサー》はね、オンオフができると言っても絶対じゃないの。例えば、手や道具を使わずに息を止めてみせても、充分に意識を凝らしていなかったら呼吸が持続していたりするでしょ? それと同じでね、私は無意識にセンスを使ってしまっているみたいなの。そのせいで、私は明度や彩度が不自然な映像を見ると吐き気がしちゃうのよ」
「そんなに酷いんですか?」
「生理と同じくらいね」
「…コメントし辛いですよ」
「もぉー、マコっちゃんったらかぁーあいいぃー♪」
「は、離れてください、歩きにくいですっ」
「ヤァーあ、もっとベッタリしよーよー!」
作戦中だぞ。
そう叱咤するのも飽きたケンは、ようやく第一機関室の最後尾にあるスロープまで到達すると、肩まで右手を挙げた。
誠に頬ずりしていたエリも、ケンの手信号を見るや、顔つきをガラリと変えた。
「設計図上では、この下は第二機関室。つまりこの船の最下部だ。第一艦橋やスタッフルームに何も無かった以上、テメーの言うとおり船底に兵器があるなら、ここで何かが分かるはずだ」
「そのはずなんだけど、何か自信無くなってきちゃった」
エヘヘと彼女は頬を掻いた。
「はぁ? てんめ、ここまで来て何を…」と愕然としている彼に、彼女は爪先で地べたを叩きながら、「だって、この先の第二機関室の熱気が凄いんだもん。下には確かに大陸間弾道ミサイルみたいな物のディテールは見えるけど、それ以上にこの先の蒸気が――」
「おい、大陸間…何だって?」
「あら変ね。聞こえなかったの? 大陸間弾道ミサイルよ、ICBM。知ってるでしょ」
「聞こえなかったんじゃねぇよ、そんな話聞いてねぇーんだよ!」
ただの豪華客船の船底に、ICBMがくっ付いている? こんな悪い冗談聞いたことねぇ!
さしものケンも、首筋に冷や汗を滲ませた。
「うっそー! 聞き逃したんじゃないのー?」
「んな大事なこと聞き逃すかよ! 証拠に!」
彼が明後日の方を指差す。
そこには、巨大な配電盤の隙間に蹲る誠の背中があった。彼は頭を抱え、「ミ、ミサ、大陸、ちょうきょ、テポ、ノド、核っ…!?」ガチガチと歯を鳴らして震えている。
「まぁーまぁー、大丈夫だよマコっちゃん。もしもの時は、ケンが全部何とかしてくれるから」
ケラケラと呑気に笑う彼女のポニーテールを、「核弾頭相手に何ができるんだよ」とケンが引っ張る。
「いったぁー。そこを考えるのがアンタの仕事じゃない」
「鬼か、テメーは。あぁ、ちきしょう! 事前に聞いていれば作戦内容も変更できたってのに…!」
ケンは天井を仰いで眉間を揉んだ。
豪華客船への潜入手続きは、フリッツがすでに済ませていた。招待客が船でタラップに乗り込んでいく中、第一実行部隊は外から船の様子を窺った。何の変哲も無いその船の底に、エリは何か大きな物があると報告したのである。
それについては諜報部による事前調査では確認できなかった。フリッツは潜って確認しようかと提案したが、酒顛が許可しなかった。REWBSが絡んでいるのなら、水中からの接近は困難だと考えた為だ。
もしもあの時に、その何か大きな物が、ICBMであると分かっていたなら、ケンの言うとおり潜入ではなく別の方法を取れたかもしれない。
今は大海原のど真ん中で、この任務は第一実行部隊の単独任務だ。救援を呼ぶことはできない。
「じゃあ本物の鬼に任せちゃおうか」
「結局丸投げかよ。鬼じゃなくて悪女だな」
だけど仕方ねぇ、とケンが酒顛にコールしようとした矢先、「うぅっ、だったら急ぎましょうよ!」とさっきまで縮こまっていた誠がすくっと立ち上がって、勝手にスロープを降り始めた。「な、おい、ちょっと待て!」と彼の肩を掴むも、凄まじい剣幕で振り払われてしまった。
「何を待つんですか! もしも発射されたら核の爆発が、放射能が…!」
「気持ちは分かるけどな、通常の核なら俺らの出る幕じゃねぇーんだよ」
「どういう意味ですかっ! 人が、沢山の人が死ぬかもしれないんですよ!?」
ケンが疲れたような顔を見せたのはほんの一瞬だった。視線が合った途端、誠は腕で首を押され、壁に抑えつけられた。脳に直接語りかけるように口を寄せた彼は、誠につぶやいた。
「忘れるな。俺達はあくまで裏世界の存在だ。その役目は、ヘレティックとオーバーテクノロジーの情報を表世界に漏らさないことだ。つまり、既存する兵器の破壊は、俺達の管轄外。たかだか表世界のテロリスト風情を相手にしている暇は無い」
そう言う彼の瞳を満たしているのは、頑なで不条理な、裏世界の摂理だ。
だが、「そんなこと関係ありますか!?」誠には通用しない。そう、「ここで止めたら救われる命があるのに、そんな勝手な理屈がありますか!」彼の中で沸き起こる怒りは、それだけの理由では抑えきれない。たったそれだけの理不尽では。
誠はケンの腕に爪を立てる。
ケンは誠の喉を潰すかのように腕を押し込んだ。
息ができない。誠は首に力を入れたが、抵抗にもならなかった。
「もしもここで俺達が表世界に介入すれば、組織は自らの意義に背くことになる。それは、組織が表世界で起きる全ての紛争への介入を良しとすることに他ならねー」
「ヘレティックという存在が人々に露見すれば、世界に表も裏も無くなっちゃう。そうなると政治への介入を余儀なくされる組織を尻目に、REWBSによる破壊活動はますます活発になり、それは当然抑えきれるようなものじゃないだろうから、ヘレティックは世界中を敵に回すことになる。そりゃそうよね。ノーマルから見れば、センスを使える私達は、組織もREWBSも無い、ただの気の狂った超能力者集団に過ぎないんだから」
「分かるか? お前は今、組織を世界を狂わす火種にしようとしているんだぞ」
涙が零れた。
二人の言葉に、絶望しか感じなかったからだ。深い闇に囚われた人々の悲鳴のようにしか感じなかったからだ。
誠は、抗った。
「それが、それが何だって言うんですか! 戦争なんて起きないに越したことはないでしょ!
力があるなら行使しろって言ったのは、アナタ達じゃないですか!」
「だからだ。俺達には人の域を超えた力がある。だがな、デカい力ほど、その使い方を誤れば、世界に途方も無い影響を齎すことになる。組織が世界を二分したのは、互いの生存圏を守る為だ。俺達のエゴを受け入れられるほど世界が甘いもんなら、組織に諜報部も作戦処理部隊もいらねーだろうが」
「見捨てていい命があったら、ボクは組織に参加したりはしませんでしたよ!」
ケンは俯いて悪態をついた。
目先のことしか考えられないガキのセリフに、いい加減うんざりしたのだ。
「糞が。最近は大人しくしていやがったのに、どうしてこんな面倒な時に限って駄々を捏ねやがるんだよ」
言うや、「駄々なんかじゃ――」誠は左足に《韋駄天》の力を込め、「ありません!」背にしている壁を蹴った。それは壁を粉砕し、ケンの腕を押し退け、彼を解放するに至った。喉に触って咳き込む彼は、「先に行きます!」と二人の制止を振り切ってスロープを駆け下りた。
「ちょ、マコっちゃん!?」
「追うぞ!」
《韋駄天》を使われたら最後、走力に自信のあるケンでさえも追いつくことはかなわない。
だが幸いなことに、少年はこの狭く入り組んだ機関室で愚行に及ぶことはなかった。それでも彼の足は予想以上に速く、何の迷いもなく機関室の端から端――船尾から船首に向かってまっしぐらに突っ走った。
「マコト君、この先は熱気が凄いの! 不用意に進まないで!」
「突き当たりにハッチが見えるんですよ! もしかするとあそこからミサイルをどうにかできるかもしれません!」
誠は〈マルチプルゴーグル〉のマップと照らし合わせて言った。八十メートル先に、区画を隔てる分厚いハッチが見える。
「どうにかってなぁ!」
「ケンさんはそうやって見ていればいいんです! ボクは、間違ってない!」
「待ちやがれ、マコ――
――頭に血が上っていたのかもしれない―冷静の二文字は思い浮かべられなかった―ただ怒りのままに―ただ先を―ただ消えゆこうとしている命だけを見つめていた―だからケンに捕まえる前に《韋駄天》を使い―背に担いでいたエッジレスと呼ばれる刃の無い剣を構え―ハッチに突貫――
――寸前―ハッチ横のダクトの影が揺らめいた―ハッチとの相対距離が縮まり―影に意識が向いて――
――刺された――
――っっっあうあぁっ! 目が、目が、ううぅうううううううっっっっ!?」
ケンは足を止めた。目の前で起きた異変の正体が分からなかったからだ。追い越そうとするエリを片手で抑え、五十メートル先の蒸気の奥――ハッチに目を凝らした。
今の悲鳴は誠のもので違いない。だが、靄に浮き立つ黒いシルエットが、無用心に駆け寄ろうとする衝動を食い留めていた。
当の誠も、自らの身に何が起きたのか理解に苦しんでいた。突然襲ったのは右目から脳を越え、頭蓋まで穿たれて走った激痛だ。その後に壁にぶつかった痛みなどとは、比べようもないほどの衝撃だった。
もしも《韋駄天》発動中に肉体へ齎される相乗作用――驚異的な即時治癒能力が無ければ、彼は即死だったろう。
「な、何…? マコっちゃ――」
「やめろ」
一言の後、ケンはゆっくりと近付いた。すると黒い影が、彼から見て右へと歩き、何やら壁に手を伸ばした。
キィ、キィ、キィ……。
何かが回る金属音が響き、蒸気が晴れていく。黒い影の手元には、ボイラーの丸い取っ手のコックが見える。徐々に澄んでいく視界に、一同は目を瞠った。
倒れる誠は、自分に何かをした――何かを右目に突き刺した相手の背中を見た。〈マルチプルゴーグル〉は壊れ、右目は続く激痛で開くことができない。両手で押さえつつ、止まらない涙を流しながら左目で見た。
相手の暗い足元に、光る針のような物の先端がぶら下がっている。視線を上へスクロールすると、銀色の針の先端とは対照的な、金色があった。
いつか見た、美しい金色だ。
「……そうか。神も悪戯が過ぎるな」
誠を見つめる金色が言った。
それは悲しげで、一方的な拒絶を孕んでいるようだった。
「アンタは、昨日の…!」
金色は、立ち尽くす男女と正対した。
華奢な体つき。女のような容姿と、美しく無駄の無い佇まい。透き通るような白い肌。
そして、薄暗い常夜灯のみの暗がりでさえもハッキリと輝く、金色の髪と、瞳。
「レーン・ハワード……」
昨日、誠が偶然にも出逢った少年。気さくで、賢く、そのくせ常識に疎い金持ちの、フェンシングの名手。
ベーカリー〈ペレック〉に訪れて一騒動を起こした彼が、どういう因果か、第一実行部隊の眼前に立ちはだかったのである。
「っっっレーン…!?」
「キミ達は、パン屋ではなかったのか?」
呻き、動揺する誠を無視するように、レーンは問うた。
しかしケンとエリは間合いを測るだけで答えない。何せ、彼の左手には、フェンシングで使われるような〝安全〟なフルーレ、エペ、サーブルではなく、中世の騎士達が握っていた〝危険〟な片手剣――レイピアがあるのだ。
「黙秘、か。まぁいい、知ったところでどうにかなるわけじゃない。あの店の誰が黒で、誰が白かは容易に想像がつく」
噤む彼らをよそに、レーンは淀みなく口を動かした。
「解らないか? 誰がネイムレスの関係者か、という話をしているんだ」
自然、エリは腰に差した愛刀〈紅炎双爪〉に手を伸ばし、鯉口を切った。
「あの店のご夫人と娘以外は、全員ヘレティックだったのだろう? 店の主人も、日系の大男も、奥に隠れていた黒人も、無論、キミ達三人も」
ケンは腰を落とし、両手を構えた。
「隠し通すと言うのなら構わない。あの店をどうこうする気はない。事実、戦う術を持たない主人の焼いたパンは、とても美味しかったからね。あの家庭を壊す気にはならないよ。だが、キミ達ネイムレスは、話が別だ」
「…テメー、何モンだ?」
ようやく口を利いた銀髪の男に、「解らないか? 僕は彼の右目を貫いた。この行為が意味することは…」レーンはレイピアの切っ先を、すぐ後ろに転がる誠に向けた。
「彼から離れなさい、坊や」
鼻息を荒くする女を冷笑するように、彼は挑発した。
「僕はキミの部下じゃない。どうしても引き剥がしたいのなら、方法は一つだ」
普段見せるエリの動きとは明らかに違っていた。レーンとの距離を素早く詰めると、何の躊躇もなく左腰の刀を振り抜――
「!」
刀の柄頭を右手で押し込まれ、居合いを阻止されてしまった。エリはゾッと肌を粟立たせたのも束の間、咄嗟に左手で右腰のもう一振りに手を伸ばす。
しかしレーンは左手を振り上げ、彼女の交差した腕に自らの左の横腹を押し付けた。
「らあっ!!」
そこへケンが、エリに対して半身を開く格好の彼の背後から、拳を振り下ろした。
だがまるで背中に目があるように、彼は右足の裏でケンの拳を的確に受け止めた。
人間離れした柔らかい股関節を披露する彼は、エリに向かって淡々と言った。
「腕に覚えがあるというのは解っていた。パン屋の娘が僕の素性を語った時、キミは僕を度外視していたからね」
そう言うと、レーンは天井に翳したレイピアを器用に半転させ、切っ先をエリの頭蓋に向けた。
エリは前のめりだった身体を引き、飛び退いた。飛来する刃を間一髪で回避したが、彼の狙いは彼女ではなかった。
切っ先は地表スレスレまで急降下すると弧を描き、背後のケンを狙った。
半身を逸らしてそれを躱したケンだったが、今度は彼の右の拳が懐に飛び込んできたので、それを不安定な体勢で受け止めなければならなかった。華奢な見た目に反した重い拳だった。
二人をいとも容易く振り払ったレーンは、口癖のように、「解るよ」フリッツとはまた別の、それ以上に確信めいた、それでいてあやふやの感覚的な訳知り顔をたたえ、「僕もそうだ。経歴と実力が、必ずしも比例するわけではないということをよく知っている」
オリンピックの金メダリストでさえ、井の中の蛙なのだ。
そう言いたげな彼に、「戦闘中にオシャベリ? 嫌いじゃないけど、素人は舌噛むわよ!」とエリはもう一度挑んだ。
「子供をあやすには、頭を撫でるだけでは足りない」
ついに振り抜かれた〈紅炎双爪〉だったが、手応えは無かった。いつの間にかレーンは、間合いのギリギリ外に逃げていたのだ。エリはすぐさま右刀を切り返し、左刀と同時に左へ薙ぐも、彼はステップ一つで躱しきった。
「舐めんな!!」
両腕、両足を惜しみなく繰り出すケンの格闘術でさえ、レーンは隙を生まなかった。
レイピアを軽く握る左手を少し曲げて体の前に置き、半身を開く。右足はほぼ常に左足の後ろにあり、攻撃の時だけに腰を深く落として大きく開く。回避運動は前後左右へのダンスのようなステップと、上体を反らす作業のみ。
〝オンガード〟、〝マルシェ〟、〝ロンペ〟……。
基本動作に大袈裟な動きは無く、実にシンプルで効率的な動きに纏め上げられている。
修練と才能の成せる業か。
さらに言えば、彼の服装はマスクもメタルジャケットも無い。ただのシャツと、レギンスの上に半ズボンを履くという普段着――軽装だ。それは油断と言うよりも、実力に伴った強気と度胸の証明に他ならなかった。
強い子。
力を認めつつ連携で彼を攻める二人に、「や、やめてください! レーンも、どうして!」と誠は叫んだ。しかし彼らの耳には届かず、配電盤を切り裂き、ボイラーやダクトを壊す音だけしか返ってこなかった。
「これでぇっ!」
交差する刃がレーンの首を狙う。問答無用、刎ねてやる。殺意を乗せ、彼が背にする壁ごと豆腐のように斬り進む。
届け!
エリの気迫に、レーンは応えたようだった。
彼は針の穴に糸を通すように、眼前の刃先の交差点にレイピアの切っ先を刺し込んだ。徐々に刀身を食い込ませ、鋏を広げていくようにずいっと押し出した。
二つの鍔がエリの喉に当たった。信じられない光景に、彼女は動転した。
「何で…斬れないの……!?」
「高熱を生み出す刀か。話には聞いていたが、実物を見ると興味が沸いた」
欲しいな。
刀に手を伸ばすレーンだったが、ケンの介入を感知して大きく横に跳ねた。
〈紅炎双爪〉に使われている合金は、組織が開発した最高硬度の金属――〈オリハルコン〉を改良して作られた。その性質は、運動エネルギーに比例して通常有り得ない高熱を発するというものだ。エリのような達人の剣速ならば、鉄であろうと鋼であろうと、どんなに巨大な重機でさえも軽やかに溶断することができる。
それなのに、そのはずなのに、レーンのレイピアを切り裂くことはできなかった。
放心するエリは、レーンを凝視した。すると、〈ペレック〉で初めて彼を見た時と同様、彼の周囲から異様な気配が立ち上っているのが見えた。
リリリリリ、リリリリリ、リリリリリ……。
前触れも無しに鳴り響くベルの音に、三人は〝敵〟による何らかの予兆と感じ、一斉にその場から飛び退き、身を屈めた。
音源はレーンの方からだが、当人もそれに驚いているようだった。そしてケンの耳は、輪唱のように同様のリズムを奏でる、もう一つの小さなベルの音を捉えていた。この音はと、彼が当たりを付けた矢先、レーンは左のポケットからスマートフォンを取り出した。呼び出す相手の名を見ると、レーンは深い瞬きをしてから、応答した。
「『レーン!』」
一同の目には、右目を抑えて横たわりながらも、必死にこちらに顔を向ける、早河誠の姿が映った。顔の半分を血で赤く染める彼は、昨日、友好の証としてレーンから譲り渡された携帯電話で話しかけていた。
「『レーン、どうしてキミが!』」
『「………」』
「『答えてよ、レーンっ!!』」
『「……キミには失望したよ、マコト。もう、話しかけないでくれ」』
声が届く距離だ。直接話しかければいい。それなのに、通話を切られただけで、どうしようもなく絶望してしまった。二人の間に、唐突に越えようのない深淵が生まれたように。
それでも、声は届くはずだ。
諦めきれない誠は、夢中で叫んだ。再び鍔を競り合わせ、拳と拳をぶつけ合う彼らを切り離すように、絶叫した。
「ボク達はこの船にある核ミサイルを破壊したいだけなんだ! そうしないと、人が大勢死んでしまう! キミはどうして戦うんだ! どうしてこんなところで! どうしてボクらが、血を流し合わなければならないんだ!!」
すると、レーンの動きが止まった。細いレイピアで、二振りの刀を受け止めながら、「核? そんな情報は流していないはずだが…」と首をかしげた。
「どういうことだ。そりゃあまるで、テメーが俺達を誘き寄せたみてーじゃねーか!」
エリを薙ぎ払い、ケンにレイピアの切っ先を向けると、レーンは言った。
「まさか、まだ気付いていなかったのかい? 僕はてっきり、ここで対峙したその時に気付いているものとばかり思っていたのだけれど。そうさ、キミ達は僕の蒔いた疑似餌に、まんまと食らいついてしまったのさ」
ちぃっ!
ケンは素早く腰を落とし、右の踵でレーンの左手を狙った。
回し蹴りを先んじて感知したレーンは、左手をすぐに振り上げた。身体は垂直に伸びる。
狙い通りの反応に、ケンは足の動きを止め、彼の身体に触れぬように引いた。視界の左端から、赤い光が飛び込んできたからだ。
エリが、〈紅炎双爪〉を槍のように投げたのだ。
しかしそれは、壁に突き刺さった。刃の素材とは違う、純粋な〈オリハルコン〉製の鍔が歯止めになり、刀は壁の外にまでは行かなかった。
だが問題のレーンの姿が無い。ケンが真上を見た頃には、彼はすでに高い垂直飛びから天井に張り巡らされたダクトを掴み、ケンの背後へと降り立った後だった。
レーンは囁くように言った。
「日本の言葉であるだろう、〝短気は損気〟。また、中国の孫武は、自著にこう記した――」
〝兵者詭道也〟
ネイティブの発音が、イヤフォン型のトランスレーターによって即座に日本語に変換される。
それを待たず、レイピアがケンを襲撃した。硬い針のようだったそれは、レーンが手首をスナップさせる度に鞭のように撓った。それはケンの四肢を貫き、切り裂いていく。頭部や首筋などの急所には、彼の太く硬い腕が邪魔をして届かなかったものの、確実に彼を赤い血潮で染め上げていった。
「ケンさん!」
「アンタはぁっ!!」
怒り心頭に発したエリが、レーンに斬り込んだ。左刀のみだが、その剣捌きは見事の一言で、達人の名に相応しい腕に違いなかった。途中、壁に刺さった右刀を回収すると、その勢いは増大し、彼に攻撃の隙を与えなかった。
普通、二刀流といえば、小太刀と太刀、あるいは二刀の小太刀、もしくは太刀と鞘、などが主流である。
しかしエリの習った〈清芽流〉は、どちらも太刀。活人の心得は無く、殺人の為だけに振るう剣術である。故に、防御に優れた小太刀や鞘は不要で、こうしてレーンに対しても攻撃の手を緩めることはなかった。
もしも禅宗で言う〝殺人刀活人剣〟の喩えが通ずるところがあるとすれば、〈清芽流〉とは刀を振り回す間のみ、その者を活かし続けるというところだけだ。
「良い腕だ…」
そうして防戦一方になる彼は、苦渋の色を浮かべることもなく、言った。
「こういう武芸に身を投じていると、一度はこの問いに行き合うことになる。〝世界で最も強い剣術は何か〟とね」
「マコト君には悪いけどね、アンタはここで仕留める! 危険なのよ!」
「この問いに、僕はいつも答えられなかった。何故なら、フェンシング以外の剣術を相手にしたことは無かったからだ。それに、武器もルールも違う以上、競技の枠を越えることはないし、僕が殺し合う相手は、決まって銃を握っているからね。アナタもそうだったのだろう?」
「耳障り、喋るな!!」
上下からの両断、さらに同時の打突。これを躱した者は一人たりともいない。
それなのに何故、エリは倒れゆくのだろう。
「ありがとう、ようやく問いの答えが出たよ。剣道は、フェンシングには遠く及ばない」
エリは背中を打ちながら思った。
私の右横腹を裂いた、あのレイピアは何だ。本来レイピアは、フェンシングのフルーレのように撓らない。だがあのレイピアは、まるでそれのように軽く曲がり、形状記憶のように戻り、〈オリハルコン〉に匹敵する硬度を有している。
撓る金属。
そんな物、表世界にあるわけがない。
そんな物、組織も開発していない。
何なのよ、アレは。
それに彼は、彼から溢れるアレは――
「アンテロープ、僕だ。ネイムレスの侵入を確認した。作戦を終了する」
レーンはスマートフォンで誰かに連絡した。
エリは傷口を押さえつつ、「…勝った、つもり……?」刀の切っ先を向けて戦闘続行の意思を示すも、軽く払われてしまった。
「あぁ、僕らの勝利だよ。キミには見えるのだろう、この下にある巨大な熱源が」
センスを把握されている!?
エリは動揺しつつも、真下に《サーマル・センサー》の感覚を広げた。すると少しの振動の後、「ウソ。熱が、溶けていく…!?」
先程まであったICBM型の熱源が、その形を崩し、船の針路とは逆方向へあっという間に消え去ってしまった。
「おかしいとは思わなかったのかな。仮にこの下にあった物がミサイルだったとして、それが出港から数時間経つ現在までずっと、高熱を保ち続けているだなんて有り得ないことだ。ミサイルが高熱を放射するのは、発射後の空気摩擦によるものか、はたまた爆発する寸前かの、どちらかだ」
口を開きかける彼女のセリフを先取りし、レーンは答えた。
「ヘレティックの造る兵器は予想がつかない? 結構。それも一理ある。だが、この問答の先には何も無い。何故なら、前提が間違いだからだ。キミ達が提起すべきだったのは、何故、メギィド博士の遺物に、この船の名が残っていたのかということだ。疑いつつも、情報を鵜呑みにし過ぎたんだ。キミ達の危機意識の高さが、自らを追い込んでしまったんだよ」
因みに、と彼は続ける。
「この船の下にあった熱源は、この船と船底に取り付けていた円柱状の鉄のハリボテとを繋ぐ、水車発電機によるものだ。水中に剥き出しになっているタービンが激しい水流によって回転し、そこで発生した動力がハリボテ内の外燃機関を動かし、高温の蒸気を生み出す。実にプリミティブな構造だが、僕の小遣いではこれが限界なのさ」
「じゃあ、今のは…」
「ハリボテだけを水中で分解したんだ。すると当然、熱は水中へ逃げる。キミの熱が溶けるという表現は、二つの点において当意即妙だ。僕も、キミ達への興味が冷めてしまったということさ」
「ば、馬鹿にして…!!」
「馬鹿になどしていないさ」
レーンは、仰向けに倒れる彼女の横を通り、第一機関室のスロープの方へと歩き出した。そこへ傷だらけのケンが立ち塞がった。
「テメーの目的は、何だ……?」
「そんなものはキミ達が考えたまえ」
レーンは肩をすくめつつも、その歩みを止めなかった。「行かせねぇっ、答えろ!」とケンが牙を剥くと、彼はおもむろにレイピアを正面に構え、鞘に戻した。それをズボンのベルトに佩帯させ、ケンの横を抜けていく。
ケンは立ち尽くした。彼の足音が離れていく中、拳を握り締め、歯軋りを立てた。
この感情は何だ。この途方もない腹立たしさは何だ。悔しい……のか、俺は?
初めてだった。これほどまでに力の差を見せ付けられ、コケにされて、辱められたのは、生まれて初めてだった。
認めねぇ。認めねぇぞ!
ケンは走り、レーンの背後から拳を放った。これは不意打ちじゃない、相手の油断だ。世の中を舐め腐ったこの糞餓鬼に、死をもって罰を与えてやるんだ。
「誤解があるようだから言っておくよ」
怖気が全身に迸った。渾身の右拳が、片腕で受け止められ、押し返されているのだ。
「僕はキミ達の死を見届けるつもりはない」
レーンは右手で彼の拳を掴むと大きく右に振り、彼の右肘にレイピアの柄頭を押し当てつつ、すぐさま左へ引いた。すると彼の肘の骨がいとも容易く外れ、砕けた。
太い悲鳴が轟き、誠は居た堪れずに叫んだ。
「レーン! レーンっ!!」
この声は届いたのだろうか。
金色はやがて、闇に呑まれて消えてしまった。
それからわずか三分後、〈ネオ・アルゴー〉は大西洋の水底へと、爆沈した。