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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第二章【闇に生きる友人 -Genius in the Dark-】
95/167

〔二〕

 マズい。

 早河誠の心臓が早鐘を打った。

 何がマズいか。それは当然ながら、緊急事態とは言え、人前でセンスを使ってしまったことだ。組織が布いたルールの中で、最も犯してはならないことを、何の躊躇もなく犯してしまったことだ。

 あの時――路地の進行方向上に綺麗な金髪が目に入った直後、その金髪が凄まじい迫力とスピードで駆け寄ってきた。何の前触れもなかった。驚いた誠が腰を引いていると、およそ十メートル先に見えていた十字路の中央で金髪は、上り坂に身体を向けて急停止したのだ。

 瞬間、誠の右目の端に、坂道を猛スピードで転がっていくベビーカーが見えた。その時にはもう、足が動いていた。

 《韋駄天》を使ってしまっていた。

 《韋駄天》――ヘレティックがそれぞれに持つセンスの中でも、最も速く、最も恐ろしいとされるそれに恵まれた誠は、迷わずそれを発動してしまった。

 ベビーカーを止める。その一心が、足を動かした。

 そうなれば十メートルを走るのに一秒もかからない。0コンマの後に三つは0が付くかもしれない高速だ。

 そんな人間の価値観を容易に覆す力を行使して、小さな命を守った。今考えれば、守ってしまった、と言わざるを得ない。

 金髪と共に守ったベビーカーの中で、赤ん坊が陽気にキャッキャと笑っている。この子は将来、ひどく豪胆な性格になるに違いない。

 そこへその子の母親が、坂道を駆け下りて来た。

 謝辞を述べる彼女には申し訳なかったが、誠としてはそれどころではなかった。誠の意識は、すぐにでもここから逃げ出すことだけに集中していた。

 だから、必要以上に強張ってしまった。


「大丈夫かい、怪我でもしたのかな?」


 そうやって普通に、金髪に声をかけられただけなのに、「え、あ、え、ノノ、ノー・プロブレム!」と随分とおかしな挙動で返事をしてしまった。

 赤ん坊の母親が、何度もお辞儀をして立ち去る中、二人は向かい合って立ち尽くした。

 相手の視線が痛い。厳しい。

 視界の外だが、相手の挙動が伝わる。今はきっと、さっきまで誠がいた方を向いて驚いていることだろう。何故ならその場の硬い石畳は、重機が倒れたときのような莫大なエネルギーで踏みしめたせいで、誠の足の形をくっきりと残してしまっているからだ。さらにはこの足元だ。急ブレーキをかけたから、これまた石が絨毯のように波打ってめくれ上がってしまっている。

 冷静さを欠いていたあの母親は見向きもしなかったが、金髪はそうではない。きっと訊いてくる。


〝あの一瞬でどうやってこの距離を移動したの?〟

〝何故、石畳が壊れている? この足跡はキミのものかい?〟

〝なのにどうして、靴は壊れていないんだ?〟


 そんなことを訊かれれば、答えようがない。はぐらかしようがない。


〝《韋駄天》という力を使いました〟

〝高速を生み出す僕の足は、動物の規格に納まらないから、走ると地面を必ず壊してしまうんです〟

〝この靴は僕が所属する秘密組織が開発した物で、とても頑丈なんです〟


 そんな風にあっけらかんと、包み隠さずベラベラと答えることなんできない。

 機密漏洩は、死刑なのだ。

 誠は俯いたまま、震える瞳で石畳の溝だけを眺め続けた。

 早く立ち去ってほしい。いや、こちらから立ち去るべきか?

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 そうして逡巡して、しばしの無言の後、相手がまた性懲りもなく話しかけてきた。誠からしてみれば、本当に迷惑、勘弁してほしかった。今は、関わらないでいてくれることほど有難いことはないのに。


「チャイナ? ジャパン? コリア?」

「に、ジャパン、です…」

「そうか、日本人か。以前、少しだが日本語を学ぶ機会があった。通じるだろうか?」


 トランスレーターが反応しない。日本語だ。およそ異人が喋っているとは思えないほど、とてもネイティブな発音だ。

 誠は呆然とした面持ちで頭を擡げた。視線が金髪の瞳と交わった。綺麗な金色の瞳である。

 金属の光沢を持つ、鮮やかで清廉なゴールド。

 加えて、肌の色は白く、鼻は少し高い。身長は誠と同じか、少し高い。細身であるが、七分袖のシャツから露出している前腕には、しっかりと膨らんだ筋肉が見てとれる。

 何より、男であるのに――女のように均整の取れた容姿であるが男だと解るのに――女性モデルのように佇まいが美しい。華奢な形だが、貧弱さは皆無で、毅然としていて、その中に芸術的な〝美〟がある。

 〝眉目秀麗〟という形容が相応しいのかもしれない、美少年だ。


「そ、そうなんですか。フランスの方ですか?」

「いや、国籍はアメリカだよ。ただし、元々我が家の家系はかなりの多国籍でね、それを知ってからは、あの国を無二の母国と感じたことはない。ここフランスも、ある意味故郷なんだ」


 誠はトランスレーターを外し、ポケットに隠すようにして仕舞った。金髪少年の興味がそれに向けられたのが分かる。そこで咄嗟に、「す、凄いね!」と大袈裟に反応してみせた。

 すると金髪少年は深い瞬きを一つした後、「キミは純系の日本人なのかい?」まるで、野暮な問いかけを呑み込んだようだった。


「え? いや、どうでしょう、分かりません。でも、多分、そう…かな」


 煮え切らない物言いをする。本当に日本人は外国人に弱いらしい。

 金髪少年は小動物のような彼から警戒心を取り払う為に、「歳はいくつだい? 僕は十七だ」と柔和な笑みで訊いた。

 対して、誠は実に単純に、「わ、一緒だ! ボクも十七だ!」と晴れやかな顔で喜んだ。

 面白いな。

 金髪少年は目を細めると左手を動かした。しかしそこで気付いて止め、代わりに右手を差し出した。


「なら、気負って喋らなくても良さそうだね。僕は、レーンと言う」

「ボクは誠。よろしく、レーン君」

「レーンでいいよ、マコト」


 戸惑いを見せる誠だったが、そっと強く握り過ぎないように加減して、握手を交わした。

 レーンと名乗る美少年は、「僕はこれからこちらに向かうんだ」と下り坂を指差した。それは誠の帰り道と同じで、二人はその偶然にまた顔を綻ばせ、歩き出した。

 フランスの路地を異国の少年と歩くというのは、非常に貴重な経験だった。しかも相手は日本語が堪能で、まるで日本に留学してきた彼に地元を案内しているかのようなシチュエーションだ。されどもここは、きっと地元とも似ても似つかないフランスのパリ郊外に他ならず、間違いなく異郷で、そうした諸事情が紛錯したこの現状は、ある意味奇跡にも等しいのではないかと思えた。

 レーンもそのように解釈しているようで、誠への興味が絶えないようだった。


「マコトは観光で来ているのかな?」

「うーん、何というか、ホームステイのような感じ…かなぁー、みたいな」

「フフフ、キミの事情も複雑そうだね」

「レーンは誰かと旅行なの?」

「主に父の仕事の手伝いと、スポーツ観戦かな。お蔭で、一所に留まっていられないんだ」

「へぇー、世界中を飛び回ってるんだ」

「だからあまり苦労せずにポリグロットになったけど、そのせいで疲れることも多い」

「ポリ…?」

「日本語に訳すと…〝多言語話者〟、だったろうか」


 アメリカ英語、イギリス英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、オランダ語、イタリア語、日本語、中国語、スペイン語、アラビア語、ヒンディー語、ラテン語などなど。

 実に十を超える世界の言語を、嘘か真か、このレーンという少年は習得しているらしい。

 本当なら、天才だ。


「疲れるって、どうして? 会話が通じない方がストレスだと思うけど…」

「陰口を鮮明に聞き取れてしまうとね、気分が悪いだろう?」

「…うーん、どうだろう。でも、器用なのも大変なんだね」

「せいぜい英語さえ話せられたらいいという考えは、アメリカ人の悪い癖なんだろうね」

「でも、憧れるよ。ボクも真剣に覚えてみようかな」

「あぁ、そうしてみるといい。陰口は抜きにしても、外の言葉を覚えるのは素晴らしいことだと、僕は思うよ」

「至言ってやつだね」

「経験則さ」


 歩を進める間、レーンは日本で過ごした数日のことを話した。浴衣を着て、団扇を持って祭りに行き、花火なども観賞した後、綺麗な川のほとりで蛍という虫を見たのだという。

 自身についての記憶が無い誠でも、その日本特有の風物詩の光景は想像できた。

 ザ・日本の夏休み。

 そんな表題が付きそうだと勝手に思いつつ、誠はレーンの話に耳を傾けた。

 途端、彼の足が止まった。誠が小首をかしげていると、彼はおもむろにジーンズの左ポケットからスマートフォンを取り出した。親指で画面を操作して、およそ二十メートル先の人だかりと交互に見た。


「アレが、そうか…」

「どうしたの?」

「このサイトに載っているベーカリーを探していたんだ。とても評判の店らしい」


 それを聞いた誠は、胸の前で両手をパチンと合わせて喜色満面、「そうだったんだ! 実はあそこは――」


「マコト!!」

「ひうっ!?」


 言いかけて、その人だかりの方から怒声が飛んだので身をすくませた。振り返ると、雪町ケンが青筋を立てて足早に近寄ってきていた。


「テメー、いつまでブラブラしてやがんだ、あん!? さっさと帰ってこいっつったろうが!!」


 かなりご立腹のようだ。だがそれも致し方ない。

 ケンはきっと、誠が買い出しに行った直後、エリ・シーグル・アタミの悪ふざけのとばっちりで、酒顛ドウジからこっ酷く説教を食らったはずなのだ。それはもう、ご機嫌はすこぶる悪いに違いない。

 それを今の今まで忘れていた誠は、胸倉を掴まれるとあうあうと声を失くして立ち尽くした。冷や汗と動悸が止まらない。

 彼らの様子に、レーンも周囲の通行人も呆気にとられていた。


「オラ、何か言ったらどうだっ!?」

「ごご、ごめんなさい! ちょっとアクシデントとか色々紆余曲折あって!」

「ほぉー。なら、裏でその言い訳を聞かせてもらおうじゃねぇか。その袋の中に、どうして余計な缶詰が入っているのかも、じっくりとな…!」

「な、何のことでしょう。記憶に…ございません。き、記憶喪失なもので…」

「ほぉー、便利なもんだな記憶喪失ってのは」

「エヘヘ、それほどでも」

「褒めてねーし、しらばっくれてんじゃんねぇよ、ダァホがっ! 俺の鼻を舐めんじゃねぇぞ、コノヤローっ!」

「ごめんなさいっ! ごめんなさいいいいいっ!!」


 続いてケンの鋭い視線は、レーンに向けられた。二人は少しの間、互いの視線を絡ませた。

 レーンの金の双眸は、ケンの視界の中央から揺るがない。逸れることがない。怖ける気配も、反抗心も、虚勢も、軽蔑も、まるで何も無い。

 ただただ美麗な金色だけが輝いている、虚無を宿した瞳だ。

 さらには心拍にも気負いが無かった。

 ケンはヘレティック同士の間で、初めてヘレティックとして生まれた、純粋なヘレティックである。その影響かは定かではないが、彼には二つのセンスがある。

 《超聴覚》と《超嗅覚》だ。

 彼は猫のそれにも匹敵する《超聴覚》で、レーンから聞こえる心臓の音を聴いた。しかしそのリズムからは焦りも安らぎも聞き取れない。平調で、一分間に六十六回、小さくドラムが叩かれている。

 ケンはその反応に、眉間のシワを一つ増やした。

 何だ、コイツは。それにこの臭い。まるで……。

 彼から漂う臭気を、犬のそれを凌駕する《超嗅覚》が捉える。

 その矢先――


「どうかしましたか?」


 レーンはゆっくりと足を引いて、眉根を寄せた。

 今更の反応に、ケンの猜疑心がさらに高まるが、「悪いな、そういうわけだからコイツは返してもらうぜ」とあえて彼の態度に合わせた。

 誠が何かを言いたそうにしていたが、ケンは彼を引っ張って、ベーカリー〈ペレック〉の裏口へと向かった。

 …そうか、ここの人だったのか。

 レーンはジッと彼らの後ろ姿が消えるまで見つめると、人だかりの方へと歩いた。


「それにしても凄い行列だ…。これでは彼らが間に合ってしまうな」


 〈ペレック〉は本日も、身の丈に合わない大盛況ぶりだ。


*   *   *


「だって、食べたかったんだもん」


 リビングの椅子に、ちょこんと幼い子供のように座るエリの、素直な弁明だった。

 悪びれもせず、口を尖らせてそっぽを向く彼女に、ケンの苛立ちは頂点に達した。怒髪が冠を突き上げたのだ。


「テメー…、世話になってる身でよくもそんな贅沢しようとか考えるなぁっ!」


 ぷーん。

 揃えた膝の上で拳を握り、頬を膨らませる。彼女のそんな態度が、〈ペレック〉のオカミ――リュシー・ペレックの琴線に触れた。愛娘シェイナ・ペレックの幼い頃によく似ているのだ。


「まぁーまぁー、ウチの旦那もキャビア好きだからね。こんな小瓶くらいなら目を瞑るって言ってるから、そんなに怒ってあげないで」

「そうかもしれないですけどねぇっ」

「私としてはアンタらが来てくれて助かってるよ。ようやく旦那の腕が世間様に認められて、商売も軌道に乗って大変な時期に、アンタらが住み込みで働いてくれてるんだからさ」

「まぁ、旦那さんには世話になってるからな。短期間だが、こんなことで日頃の恩返しができるなら、一肌でも何でも脱いでやるよ」

「ワーオ、やらしー。セクハラだよ今のー」


 このように抜け目なく隙を見て棚上げできるのが、彼女の鬱陶しいところでもあり、裏を返せば愛嬌なのだった。


「そういう意味じゃねぇよっ! つーかテメーは反省しやがれ!」

「ふーんだ」

「それより何より、テメーもテメーだ、マコト! こっちが気ぃ利かせてたら図に乗りやがって、随分と余裕出てきたんじゃねぇのか!?」

「え、そりゃあ、一ヶ月もいれば、ここの生活にも慣れてはきます――」

「記憶喪失の話に決まってんだろうが!」

「あ、またそうやってヤイヤイ怒鳴る。そんなんだから怖がられちゃうのよ、学習なさいよ」

「怒らせてんのどっちだ、このクソアマぁっ!」


 ギャンギャンといつものように吠え合う二人をよそに、「ところで詳しく訊いていなかったけど、アンタら旦那とはどういう関係なんだい?」とリュシーは、制服に着替えなおしたばかりの誠に問う。

 すると秘密を共有する居候三人が口々に叫ぶ。

 

「アレはまだ俺が――」「大学のサークルで――」「ボ、ボクのお父さんの友達の――」

「みんなバラバラなんだけど…」

「「「命の恩人です!」」」


 リュシーは身体を仰け反らせ、目を丸くした。

 そこへ酒顛のデカい声が飛ぶ。


「おーい、お前ら! そんなところで油売ってる暇は無いぞ! ケンは厨房、エリはカウンターでシェイナちゃんのフォロー、マコトは運搬! 転ぶなよ!」

「「「了解!」」」

「アハハ、まるで軍人さんみたいね」


 ギクッ!

 背筋を粟立たせる三人を置き去りに、リュシーは店内へと戻っていった。

 事なきを得た一同の顔には、ドッと疲れが滲み出ていた。だがエリも同様の態度なので、「誰のせいだ」とケンは彼女の頭を軽く叩いた。

 彼女はテンプレートのようなアッカンベェをすると、カウンターへと戻っていった。

 今日何度目かの溜め息をついた誠は、ケンと厨房へ向かいつつ、「旦那さん以外は知らないんですか、ボクらのこと」と訊いた。


「俺とリーダーは昔、オカミさんとは一度顔を合わせてるが、あの人は一般人(ノーマル)だ。娘もな。二人は組織のことも、ましてや旦那がヘレティックだということも知らない」

「え、組織の協力者だとは聞いてましたけど、旦那さんもセンスを使えるんですか?」


 そういや教えてなかったなと、ケンは首を鳴らしてから言った。


「あぁ、ヘレティックだ。旦那はな、組織の特別外部協力者――定住型セーフハウスの番人だ。俺達のように帰る場所を失くしたか、任務の都合上、仕方なく表世界に留まる部隊を匿うのが役目だ。前に世話になったのは、二人が結婚する前だ。あの時は今ほど面倒は無かったぜ」

「結婚前、ということは、シェイナが生まれるよりも前ってことですよね? それって、ケンさんいくつの時の話ですか?」

「八つだな。何だ、文句でもあるか?」

「いえ、特には。それより旦那さんのセンスって…」

「うん? そうだな、見てみるか」

「え、そんなことしたら…」


 二人は厨房に入った。

 ただでさえ熱気が立ちこめる空間に、これまたむさ苦しい筋肉質の大男が三人、片やパン生地を捏ね、片や成形し、片や焼成を担当している。

「旦那!」と呼ぶケンの声に、店主サクス・ペレックは生地に向けている顔を上げずに、目だけを向けた。


「悪ぃが、コイツに見せてやってくれよ」

「………」

「経験と見識だ。良いだろ?」

「…一度だけだ」


 誠属する第一実行部隊の無言巨人ウヌバにも負けず劣らずの寡黙な男サクスは、そう言うと掌を見せた。小麦粉と生地の欠片が張り付いたその掌を凝視していると、徐々にてかりが見えてきた。それが油のような液体だと気付いたのは、すぐ後だった。


「見てのとおり、これは汗だ。この汗の成分は旨味調味料になってる。これが旦那のセンスだ。まぁ、あのパンには手汗が存分に刷り込まれていると聞けば、あまりいい気はしねーがな」


 一言多かったケンは、サクスに尻を蹴られた。


「コレが…ですか?」

「拍子抜けしているようだが、センスとは本来こんなものだ」


 頭にタオルを巻いた酒顛が言った。


「センスは人間の常識を超えるが、その力の大半が戦闘には不向きなものばかりだ。つまり覚醒因子それ自体は、戦闘をする為に発現したわけではないということなのだろうな。ケンの耳や鼻、エリの目、お前の足。よくよく考えればその能力の本質は、ただそれだけの為にあるんだ。本来は、俺やウヌバのような力のみが、組織にとっては重宝されるはずだ」

「それを兵器に転用させたのは、人間の闘争本能っつう弊害のせいだ」


 誠は自分の足を見下ろした。


「じゃあ、どうして僕らは戦っているんですか? センスの本質が分かっているのに、どうして…」

「今更訊くのかよ。そりゃあ、REWBSがいるからだ。ヘレティック同士のつまらねー争いが無くなれば、センスの意味が変わる」

「REWBSがいるから…、ただそれだけですか?」

「少なくとも、俺はそう思うぜ。武器だって争いが無くなれば、ただの鉄の塊だろ?」

「………」

「それはそうと、マコト。お前、さっきのガキとは関わるなよ」

「え…?」


 誠は本当に分かっていないような顔を向けた。


「お前はもう、表世界の人間じゃねぇんだ。必要以上にコミュニティーを作るんじゃねぇ」


 他人に言われてから気付いた。

 自分でも重々承知の上だったのに、何故か忘れてしまっていた。

 何故か。

 何故だ…?


「よぉし成形完了! ウヌバ、そっちは焼けたか!」

「オールグリーン」


 ウヌバ。

 第一実行部隊の無言巨人。ファミリーネームは無い。

 身体から自由自在に炎と氷を生み出すことができる、異端中の異端である。

 そんな彼はオーブンから、およそ二百度の高温に晒されていた焼成用の銅製プレートを素手で引き出した。その顔色には全く変化が無く、痩せ我慢をしているわけでもなさそうだった。

 プレートに載っているパンをトングで器用に掴んだケンは、アルミ製のプレートの上へ丁寧に移し変えた。


「よし。マコト、行け!」

「はい!」


 焼きたてのパンが行儀よく整列したアルミプレートを両手で持ち、細い廊下を早足で渡ると、店内に普段と違った雰囲気が立ち込めていた。またエリが何か仕出かしたかと疑った誠は、カウンターへ辿り着くと唖然となった。

 その問題児のエリが、一人の客を相手にひどく動揺しているのだ。


「え、っとー…、すみません。もう一度お聞かせ願えますか?」

「ここからここまで、全て十個ずつ包んでくれ。内一種類当たり三つずつを別の箱に分けて詰めてほしい」


 エリを困らせている客は躊躇無く、カウンターのショーケースの端から端までを左の人差し指で指し示した。よくフィクションで目にする光景だった。

 わなわなと震えたエリは、背後にある厨房への廊下に向かって、一心不乱に絶叫した。


「店ちょーーーっ! セレブ来た! マジもんのセレブ来たーーーっ!」

「レ、レーン?」


 誠の声に、「ん、やぁマコト。それがキミの正装かい?」とレーンは軽く手を振った。背後では常連客が彼に対して好奇の目を向けているというのに、彼は全くもって気にしていないようだった。


「ま、まぁ、そんなところかな。アハハハ…」

「ナニナニ、マコっちゃん。この子と知り合いなの?」

「ええ。さっき偶然、帰り道で知り合ったばかりですけど」

「ど、どんな偶然よ。その内マコっちゃん、百万ドルが入ったトランクを拾って帰ってくるんじゃない? それを私にくれるんじゃない? お姉さんちょっと怖いけど、遠慮なく貰っちゃうわよ?」

「拾ってもエリさんには渡しませんよ。交番に届けます」

「えーーーっ、ネコババいいじゃん、百万ドル欲しーよーーーっ」

「それはそうと凄いね、レーン。全種買ってくれるんだ。お金はあるの?」


 欲しい欲しいと駄々を捏ねていると思ったら、「冷やかしなら帰んな!」と合いの手を入れるエリを、シェイナがまぁーまぁーと宥める。

 そうしていると、レーンは定期入れのように薄い財布を取り出して、中からカードを一枚抜き取った。それをレジカウンターにあるコイントレーに載せて、一言。


「生憎とコレしか持っていない。金額はキミ達に任せる、好きなだけ使ってくれ」


 黒を基調とし、金字でカード会社のロゴと暗証番号が記されているカード。

 それはまさしく、限度額無しの幻の――


「ブ、ブブブブブブブブブラック様だぁーーーっ、RX様だぁーーーーーーーーーーーっ!!」


 黒なのに光り輝いて見えるそれを両手で持ち上げたエリは、興奮のあまり後頭部から倒れた。

 一々騒がしい彼女に肩をすくめているレーンの視界に、大男の姿が映った。店主と見受けられる彼は、「本当に冷やかしなら帰ってくれ」としかめっ面で言った。

 レーンは瞬きを一つして、「どういうことかな?」

 サクスは答えた。


「確かにここ数ヶ月は、お忍びでVIPも顔を見せてくれるが、アンタほど無茶な買い物はしていない」


 ハリウッド俳優から始まって、全米チャートで首位記録を更新した歌姫、大企業の社長や、政治家、はたまたどこぞの王室関係者などなど。あらゆるセレブリティーがこの店を訪れては、気に入ったパンを買って帰っている。

 しかし、全ての商品をまとめ買いしていくような真似はされた例が無い。

 サクスの目に、軽蔑の色が入り混じる。

 それをレーンは正面から受け止める。

 まただ。

 誠と、厨房から駆けつけたケンはそう思った。

 レーンの雰囲気が変わった。心拍にも、脈拍にも、顔色にも、態度にも、息遣いにも、何も変化は無いというのに、彼はとてつもなく感情的な空気を漂わせるのである。

 目に見えない、この場で言うなら〝不愉快〟という刺々しい感情の波が、誠とケンの心を貫いては言い知れぬ違和感だけを置き去りにしていくのだ。

 漠然とした、〝何か〟がレーンから溢れている。

 いや、違う。

 ケンは視界の外で察した。シェイナとリュシーは、視線を交じらせる二人の様子に首をかしげたままだが、エリの態度だけがさっきまでのおちゃらけモードから一転している。少年に訝しんだ眼光を向けながら、エリの挙動に注意した。

 エリ、何を見ていやがる。コイツの何が気になる。

 そうしていると、レーンはまたもやさっきのように、深く目を閉じ、開けて、「…キミも同じ意見かい、マコト」と訊いた。


「え」

「僕は一消費者として、論外だろうか」

「え、それは、えっと…」


 突然の問いに、誠は答えられない。

 急いで考えた。

 消費者にも最低限のマナーはあるのだろう。金に物を言わせて商品を買い漁るのは、ひどくみっともない行為なのだろう。

 だけれども、真実いけないことなのだろうか。それは顰蹙を買い、やっかみを受け、下劣な俗人として蔑まれる行為なのだろうけれど、物を買うという行為そのものは悪いことではないのではないだろうか。

 買いたいから、買う。お金があるから、沢山買う。買いたい、欲しい…。

 レーンの目はそれを伝えている。子供のように穢れなく純粋な黄金の瞳で、願望を伝えている。

 世間知らずの坊や。

 そんな言葉が、誠の脳裏に浮かんだ。

 矢先、「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」


「な、何、どうしたのシェイナ、いきなり大きな声出して!?」


 奇声を発したシェイナは、レーンを指差して驚愕している。顔は耳まで赤くなり、唇は震え、目は――


「ここここの人! フェンシングの世界選手権で、三種目六年連続優勝の〝ゴールデン・ナイト〟、レーン・ハワードよ!」


 ときめきラブモード全開。一体どうやっているのか、虹彩はハート型になってしまっている。

 それに伴って店内騒然。彼の後ろに並んでいた女性客が、彼の顔を一目見ようと列を外れて覗き込んでは、本当に本物だと飛び跳ねている。

「レーン様よ!」、「こっち向いてレーン様ぁっ♪」と狂喜乱舞している光景に、「それって凄いの?」とエリは首をかしげた。


「何言ってるのよ、エリさん! フェンシング界では超超チョーーー有名人よ!」


 シェイナはそう言うと、レジカウンターの下に置いているクリアファイルを取り出した。中は新聞の切抜きがぎっしり挟まれていて、どれもこれもレーンに関する記事ばかりだった。


〝ついに現れた期待の新星は、若干九歳の美少年!〟

〝完全無欠のレーン・ハワード、世界ジュニア選手権三年連続全種目制覇!〟

〝もはや敵無し!? ゴールデン・ナイト――レーン・ハワード、オリンピックも被ポイントゼロで完全優勝!!〟


 フェンシングという西洋剣術競技は、三つの種目に分かれている。種目の名称は、扱う剣の種類に由来している。

 〝突き(ファンデヴ)〟のみで争い、両者共に相手の攻撃を払いのけてから攻撃しなければならないフルーレ。

 フルーレ同様〝突き〟のみだが、決闘から発展しているので全身が有効面となっているエペ。

 馬上剣術から生まれた為に頭から腰までの上半身を有効面とし、〝突き〟に加えて〝斬り(カット)〟を主体とした攻撃を展開できるサーブル。

 こうした別々のルールがある三種目の全てを、レーンは六度も連続で制覇しているらしい。


「過去の話さ。もう大会には出ないよ」

「ど、どうしてですか? 皆、アナタの復活を心待ちにしています!」


「復活って?」とマコトが訊くと、シェイナは悲しそうにファイルの最後のページを開いて見せた。そこには、〝ゴールデン・ナイト・レーン、まさかの選手権辞退!?〟という見出しが挟まれていた。


「お身体が宜しくないと伺いました! 怪我でもしたんですか!?」

「いや、違うよ。弱い相手を倒して手に入れたメダルに、何の価値も見出せない。ただそれだけのことさ」


 その台詞にまたもや女性達が興奮する。もはや何を言っても好感度が上がるしかないスーパーアイドル状態だ。

 故に、甲高い声があまりに続くので、ケンの表情が自然と歪む。

 彼の舌打ちに誠は背筋を粟立たせた。


「今年のオリンピックにもお出になられないんですよね…?」

「あぁ。これ以上、彼らと同じ舞台に立つのは、正直言ってナンセンスだよ」


 レーンは短く息をついた。

「だから辞めるんですか?」とシェイナはとても残念そうに問いかける。

 そんな健気なファンの様子に、彼は甘い笑顔を見せ、「鍛錬は続けるさ。もはやフェンシングは、僕の人生の一部だからね」


 最後に口角が下がったのを、誠は見逃さなかった。

 どこか寂しそうで、どこか決意めいたものを感じた。


「なんだか分かりませんけど、一ファンとしては復帰戦を楽しみにしています」

「ありがとう。検討はしておくよ」


 そう言うと、「さて御主人、僕も暇じゃない。早く包んでくれ」とスマートフォンの時刻表示を気にしてから催促した。

 完全にレーンの肩を持つようになった客達の刺すような視線に、ホームなのにアウェーの洗礼を受けたような気分になったサクスは、ケンに顎をしゃくってパンを包むように指示した。

 テメーらも動けよと鋭い目を浴び、誠達もトングとプレートを両手にパンを掴み集めた。それらをシェイナが器用に、箱へ詰める中、「レーン、キミは凄いね」と誠は言った。

 偶然出会った少年が、まさかこんなに大物だったとは思いもよらなかった。


「そうかな。僕としては、キミの足に魅力を感じるけどね」


 やっぱり見られていた。気付かれていた。

 もしかすると気付いていないんじゃないかと淡い期待を抱いていたが、とんでもない。しっかりと見られ、しっかりと確認されてしまっていた。

 これはアウトだ。

 そしてピンチだ。

 ケンはもちろん、厨房から駆けつけた酒顛、サクス、そして一番寛大に思えたエリまでもが誠を凝視して動かない。

 そ、そんなあからさまに態度を示してしまっては、余計にマズいのではないでしょうか。ホラ、レーンがまた不思議な顔でこちらを見ている。バレてしまいますよ、暴露されたら世界が崩壊してしまう秘密がバレてしまいますよ!

 逃げ場を失った誠が動揺を隠し切れずにいると、またもやレーンは言った。助け舟を出すように、言ったのだ。


「そうだ、これはきっと何かの導きだ。マコト、メールアドレスを交換しよう」


 唖然としている一同をよそに、「えーっ、いいないいなーっ!」とシェイナが幼児のように喚き散らす。その内、誠の服をむずと両手で掴んで、「何で何で何で! 何で誠だけーっ!?」と振り回した。

 日本福島県の郷土玩具――赤べこのように頭を揺らされた誠は、「ゴメン、レーン。ボク、そう言えば携帯持ってないや…」思い返せば、入院中から携帯電話を持っていなかった。記憶を失う前に持っていたのかも怪しい。

 思い出せない。思い出さない。いくら頭を、脳を、記憶野と呼ばれる場所に意識を集めても、思い出したいのに何も思い出さない。

 本当に、この脳味噌の中にバックアップが存在しているのかさえ疑ってしまうほどに。


「今時珍しいね、何かの宗教かな」


 誠の葛藤を知らない彼はそんな風に訊く。呑気に、のたまう。

 せっかく好意を持ってくれているのに、不快に感じてしまった。


「いや、そういうわけじゃ…」


 辛うじて搾り出したセリフに対し、レーンはポケットをまさぐった。スマートフォンが入っていた左とは逆の、右のポケットだ。


「分かった、僕の予備を譲るよ。登録はメインの携帯アドレスだけだから、個人情報は入っていない」


 彼は簡素なデザインの携帯電話を、カウンターの誠の前に置いた。


「え、そんな」

「遠慮することはない。僕は別に困らないさ。この時代、一つの不便で取り残されてしまうことがしばしばある。キミにはそうなってほしくない」

「大袈裟だよ…。でも、いいの?」

「あぁ、好きなように使ってくれ。さっきも言ったが、僕は世界を転々としているから、友人に恵まれなかったんだ。暇な時でもいい、僕の話し相手になってくれれば嬉しいな」


 レーン様かわいそー!

 パリジェンヌ達がハンカチで涙を拭いている。

 シェイナも鼻まで真っ赤にして、「私も! 私もお話できます! 国際電話も気にしません!」と自分のスマートフォンから赤外線を発信して、レーンが左手に持つそれを狙い打った。

 しかし女性客からの抜け駆け禁止の大ブーイング。かてて加えて、「誰が払うと思ってんの!」とリュシーに頭を叩かれた。

 彼女らのショートコントにレーンが辟易する間、誠は組織の先輩達に判断を求めた。

 使いたい。話をしたい。友達が欲しい。

 そんな子供じみた願望を見てとった酒顛は、一考した後、笑顔で首肯した。ケンが軽率だと諌める視線を送るが、彼はどこ吹く風といった具合に躱した。

 エリは良かったねと誠の頭を撫でた。

 誠は顔を赤らめると、「レーン、大事に使うね!」

 突然の返事に目を丸くしたレーンだったが、すぐに瞬きをして、「あぁ、ありがとう」

 するとやはりシェイナが、いいないいないいなーと地団太を踏み、駄々をこねた。

 彼女を見かねたレーンが、「キミの名前は?」と訊くと、「シェイナです、シェイナ・ペレック!」とリュシーの制止を振り切り、最後のチャンスとばかりに言い放った。

 もう上体がカウンターを乗り越えてしまっている。彼女は肉食系女子というやつなのかもしれない。

 

「シェイナか。キミのアドレスも登録しよう。贔屓の店の、次期女主人とは仲良くしておきたいからね。顔を見せる時は連絡するよ」

 

 レーンの笑顔に、シェイナは鼻血を出して昏倒した。エリに身を預けながらも、彼女はスマートフォンを離さず、赤外線を彼に向かって発信し続けた。凄まじい執念だ。

 そんな彼女の母親は、レーンを睨んだ。


「坊や、あまり感心しないね」

「何がだろうか、ご夫人」

「ウチはこう見えて、しがない自営業だ。博打は禁物、電話一つで破産させられたなんて知れたら近所のお笑い種だよ」


 彼女のセリフに、それもそうよね、リュシーさんは面白いわと常連客が耳打ち合う。


「ご夫人、お気になさらずともよい。電話料金は僕が持つつもりだ。もちろん、マコトの分もね」

「そういうのが感心しないのさね。その金ってのも、アンタが身を粉にして勝ち取ったものばかりでもないだろう? こっちはアンタの親父さんがどこぞの金持ちだって噂は、芸能ニュースで知ってるんだよ!」

「そうは仰るが、その論理を通せば、遺産や宝くじというものはナンセンスになる」

「うん? 何の話だい」


 解らないかな?

 そんな風に小首をかしげたレーンは、腰に片手を当て、もう片方で手振りを加えた。


「確かに親から相続する遺産も、小額で当選した宝くじも、当人がそれに見合うだけの汗を流して手に入れたものではない。しかしご夫人の論理は、人の好意という歴史を否定している」

「…大袈裟に屁理屈を言うねぇ」

「そうさ、このフランスで育まれた、自由と平等に並ぶもう一つの義務さえも、ご夫人は排除しようとしている」

「おい、その辺にしとけよ、ガキ。今のは言い過ぎだ」


 ケンが止めに入った。

 愛国心の強いフランス人に対し、今の言葉はあまりに残酷だ。

 それでもレーンは耳を貸さずに口を動かし、「ご夫人、あなたのロジックは珍妙だ。考える力が足りていないように見受けられる」と一言も二言も多く、リュシーを挑発した。彼自身には、挑発している意思はないのかもしれないが、それでもこの彼の態度には誠も辟易していた。

 ついに堪忍袋の緒が切れたか、リュシーは年季の入った手動式のコーヒーミルを彼に投げつけようとした。それを酒顛達が羽交い絞めにして食い止めた。


「オ、オカミさん! 気持ちは分かるが抑えてくれ!」

「~~~~~っ!!」

「マコト、彼女は何を怒っている…?」

「レーンって天然っ!?」

「そこもカッコいい…」

「シェイナちゃん、好きだからって全肯定は危険なのよ!?」


 シェイナはとても幸せそうにうわ言を口走った。

 恋は盲目。憧れという妄信は、人の理性を容易に狂わせる。

 その大元が今目の前にいるのだから、効果は抜群で、絶大だ。

 そんなこんなの一悶着が終わり、「締めて二二〇ユーロだ。カードで良いんだな」とペレック家の女連中に代わり、サクスが会計を務めた。


もちろん(Bien sûr)

「二度とこんな面倒はやめてくれ」

「商人が、おかしなことを言う。一度の会計で客数十人分の売り上げがあるというのに、嬉しい顔を一つもしないとは」

「ショーケースの中をよく見てみろ。これから買いに来る客の分まで足りると思うか? ウチは大口契約はお断りだ…!」

「ご主人、心配召されるな。そうだろうと思い、別の箱を用意してもらったのだ」

「何?」


 確かにレーンは注文していた。全種三つずつを別の箱に入れてほしいと。他の誰かへ渡す為の物かと思ったそれは、こちらの意図とは違った。


「この箱のパンは、ここに並ぶ客への、僕からプレゼントだ。一度の会計につき、いくつかサービスしてやるといい」


 すると忽ち歓声が上がり、レーン様コールが店内をかき回した。


「何なのマコっちゃん、何なのこの子。私怖い、怖過ぎるわ…」


 エリは誠の腕を掴んでガクガクブルブルと震えた。そして片方の手でレーンのプレゼントを遠慮なく選び、頬張った。リスのようになった顔で、モフモフと擬音を散らしている。

 彼女の様子に苦笑していると、「マコト」とレーンが呼んだ。


「楽しかったよ。また逢えると良いね」

「あ……うん。また、いつか」


 踵を返す彼の背中は切なかった。

 居た堪れずに呼び止めようとした誠だったが、こんな時、どんな言葉が適切なのか分からなかった。手を伸ばすも、言葉が出ない。

 そうしてグズグズしているうちに、彼は出口へと向かっていく。黒い服の男が二人入ってきて、レーンの指示に従って買い物袋を持ち出していく。女性客が彼を取り囲んでサイン求めるので、彼の金髪だけが居所を伝えていた。

 何を言えばいい。こういう時の常套句は何だ?


「|悪いね《Je m'excuse》。僕のサインに価値は無いよ」


 その一言を最後に、彼は行ってしまった。女の群れが、彼のトレードマークを断片すら残さずに隠してしまった。

 途端、頭が痛んだ。

 不意に、〝早朝〟と〝ヨーロッパ〟という単語が脳裏に浮かび、誰かの声が聞こえた。

 呼び止めればよかったのに。

 たった数秒前のことを、誠は後悔した。

 無意識に立てていた小指が、空しく冷えていった。


*   *   *


 誠が第一実行部隊の面々に尋問を受けたのは、レーン・ハワードに出逢ったその日の夜になってからだった。

 酒顛は終始丸い頭を抱え、エリは他人事を楽しんでいるように微笑んで、ウヌバは相変わらず岩のような無表情をたたえて、ケンは赫然とした険相を誠に突きつけていた。彼の髪の毛を鷲掴みにしながら、ケンは巻き舌でこう言った。


「テメー、死にてぇーのか。あん…?」


 文字で書けばこんな感じで、怒りというものの表現に欠けている。

 しかしそれもそうなのだ。もうすでに、尋問の山場は越えたのである。証拠に誠は涙と鼻水でグシャグシャで、ひぐっえぐっとしゃくり上げている。

 さしものケンも怒鳴り疲れたようで、まくし立てていた言葉数も減ってきていた。

 暴力は無かった。今にも振るいそうだが、抑えていた。


「組織法、ある程度は覚えたよな。第四条、第二項、言ってみろ」

「ううっ…、組織の情報を――」

「それは第一項だろうが」

「あうっ、あの、えと、ヘレティックは戦闘状況下以外の、あらゆる局面において…センスを発動することを禁ずる……」

「反した者は」

「きょ、きょ、きょ、極刑に処すぅぅぅぅうぅうぅぅ~~~~~~!」


 わんわんと泣き出す誠の身体が重くなった。ケンが髪の毛を放すと、彼は膝から崩れ落ちた。

 一同がいるのは〈ペレック〉の裏にある貯蔵庫――の、地下だ。

 ここはシェイナもリュシーも知らない、サクスの秘密の部屋である。

 室内にはスーパーコンピューターが一台と、複数のモニターと同じ数だけデスクが犇めいている。他、冷蔵庫や洗濯機、簡易なキッチンが置かれていながらも、大人十人は雑魚寝できるスペースが設けられている。

 ここが、組織の隊員達を匿う為に造られた、本当のセーフハウスだ。

 電気やガスの支払いが組織持ちであるのがサクスの救いである。

 そんな組織が造ったセーフハウスの防音設備は完全で、現代科学が蔓延るこの表世界においては完璧だ。誠の泣き声は一切漏れないし、蟻の這い出る隙間があるとすれば、それは通風孔くらいのものだ。シェイナ達には、せっかくフランスにいるのだから観光がてら外食してくるとさえ言えば、不思議がられることもないし、下手に探られる虞もない。

 それでも、「なんてことだ…。なんてことだ…」と酒顛は頭を抱えた。

 誠が街中でセンスを発動したことを知るのは、今しがた聞いた第一実行部隊と、問題の目撃者――レーン、そしてベビーカーを押していた母親のみのはずだ。赤ん坊を除外したとして、目撃の有無を確認する対象は、ノーマルの二人だけ。

 しかし情報処理は第一実行部隊の専門ではない。通常、この手の作業は諜報部に通報するのが筋だが、それでは誠が組織の鋼鉄の法を違反したことがバレてしまう。

 誠はまだまだ素人で使いものにならないが、大事な戦力ではある。何せ彼のセンスは《韋駄天》だ。それだけで彼をこの部隊に置いておくだけの価値はある。しばらくは、足手まといも大目に見る。彼が裁かれるのだけは何としても阻止したい。

 その為には、自分達で後始末をしなくてはならない。二人の記憶から、今日の出来事を消し去らなければならない。しかしそれに必要な催眠薬と自白剤を、今は持ち合わせていない。脅迫では余計にこちらの立場を露呈させてしまう。

 中でも最もナンセンスなのは、口封じの為の殺害だ。

 裏世界を知らないノーマルを殺すのは、それこそ組織法に反する行為だ。

 この中で酒顛が唯一取れる方法は、「お前達、本件は俺に預けろ」目を伏せて、黙して語らず。事が公になるまで、事なかれ主義を貫き通すことだけだ。


「あ? オッサン、何言ってんだ」


 さらに顔をしかめるケンをよそに、「いいんですか?」とエリが呑気に訊いた。

「よかねぇーだろ」と彼はすかさず否定する。

 酒顛は眉間を揉んで言った。


「あぁ。事実を報告しなければ、それもまた極刑に相当する違法行為。第一実行部隊は、REWBSを前にせず――全滅だ」

「だったら!」

「なら、ケン、お前はどうする? 誠を殺したいのか」


 尻餅をついたまま、誠は後ずさった。

「……そうじゃねぇよ」まだ俺が怖いのか。俺は今まで、お前を憎いと思ったことはないんだぞ「ただコイツが、こんなにあっさり法を破ったのがムカついただけだ」

 これ以上、どう歩み寄ればいい?


「赤ん坊の命を救った。それは褒めるべきところだろう?」

「だからって、衝動で使っていいほどセンスは軽いもんじゃねぇはずだ」

「そうだ。だから組織法で発動条件を縛られている。だから我々は頭を抱えている。ここは俺に預けろ。お前達は何も聞いていない。事実を知るのは、誠と俺、そして二人のノーマルだけだ。いいな?」


 酒顛の命令に真っ先に首肯するのはウヌバだ。彼は酒顛に絶対服従なのだ。

 ケンやエリはそうでもない。自身の考えを持ち、自分の芯からズレる行動は起こさない。相手の思想のどこかに、自分の意見と同調できる部分がない限り、首を縦に振ることはない。

 だから不服があっても、それが誠の為になるならば従う。

 ようやく皆の同意を取りつけると、しばしの沈黙が訪れた。誠が鼻をすすっていると、「侵入者だ」とケンが身構えた。高い鼻と耳を器用にヒクヒクと動かし、「エリ、裏取り」

 エリは目を閉じると、全神経を脳の中枢に集めた。すると感覚が広がり、外へ通じる狭い階段を、ゆっくり足を忍ばせて下りてくる人型の赤い熱分布が見えた。その体形は、女のものでもなければ、肥満型の男のものでもない。


「細身の男ね。出てきなさいよ」


 エリの挑発に対し、「ブラボーブラボー。さすがは第一実行部隊、見事な連携だね」と若い男の声が返った。その声音は、皆が聞き覚えがある。


「いやぁー、鬼の目にも涙とは言うけれど、相変わらず酒顛さんは情に弱いねぇー」

「フリッツ…!」

「アロォー。皆さんお久しぶりだね。エリーも変わらずカワユイカワユイ」


 いかにもフリッツ。階級不明の諜報部エージェント。第一実行部隊の行く先々に現れては、彼らのバックアップを勤める謎の男。突けば倒れてしまいそうなほどひょろりとした外見の、どこか憎めない性格だ。


「テメー、何しに来やがった。つーかどうやってここに入った」


 この部屋は倉庫の地下にあるが、入り口は倉庫内の各所に設置した仕掛けを作動させ、最後にサクスの指紋と静脈、虹彩、認証コードを押してからでないと入れない、非常に面倒で高度なセキュリティで守られている仕組みだ。

 それを、フリッツは突破してきた。

 サクスの許可を得ているなら、彼から連絡が入るはずだ。それが無いということは、フリッツが自力で抉じ開けたということに他ならない。


「ほんっとゴアイサツだね、ケンちゃんは」


 フリッツは答えず、したり顔で言った。


「皆が待ちに待った待望の、メッセンジャーのご到着だよ」

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