〔一〕
香ばしい香りが、起き抜けの鼻腔をくすぐる。
少年――早河誠は毛布に包まったまま、目やにだらけの寝ぼけ眼で時計を見た。
午前五時半。
今日は時間どおりに何事もなく起きられたなと、胸を撫で下ろした誠だったが、生憎そう都合のいいことにはならなかった。
ガタガタと梯子を上る音が聞こえたかと思えば、「Levez-vous, Makoto!」というフランス語が彼の耳に届いた。それは寸秒の遅れを感じさせない理想的なスピードで、「起きなさい、マコト!」という日本語へと翻訳された。
誠が耳に付けているイヤフォンマイク型の万能翻訳機のお蔭である。
「もうっ、早く起きなって!」
声の主は少女である。
年の頃は誠よりも二つ下――十五歳であるが、同年代の日本人女性と比べれば彼女達西洋人は随分と大人びて見える。現に、彼女の身長は一七〇センチメートルと、すでに日本人女性の平均身長を大きく上回っているのだ。それは誠よりも五センチメートル下で、童顔なのだが、彼にとっては横に並ばれるだけで戦々恐々としてしまうほどの圧を感じてしまうものがあった。
そんな彼女――シェイナ・ペレックは、誠が隠れ蓑にしている毛布を力ずくでかっぱらう。
誠は、「うーー……」と唸りながら、まさしく芋虫のように床を這うと、部屋の中央で屋根を支える太く丸い柱にしがみついた。
彼が寝ているのは、ペレック家の屋根裏部屋だ。
仕様は、居住空間としての屋根裏部屋――アティックではなく、物置としての利用に重宝されるグルニエである。故に電灯は無く、天井は低く、埃っぽく、換気も採光も不十分なきらいがある。部屋の端にたった一つだけある小さな窓も、どこか無理矢理作られたようである。
光源と言えば、先程から彼女が嫌がらせのように近付けてくるキャンプ用のカンテラ一つだけだ。
そんな狭苦しい空間を蠕動する彼に溜め息をつきつつ、「何よ、起きてるじゃない。ならさっさと支度しなさいよ。まったく、居候のくせにグズなんだから」
彼女の悪態に彼は、「…ゃない」とつぶやいた。その声もマイクによって直ちにフランス語へ変換される。
彼らに言葉の壁は無い。
「うん?」
「ボクは、グズじゃない」
彼の強い瞳に、彼女はぐっと詰まった顔を滲ませた。だが柱にしがみついたままの彼の格好に苛立って、足を蹴った。
「あうっ」
「私よりも早く起きられないのに、何言ってるのよ」
「それはシェイナがボクよりも早く起きようと、毎日時間を繰り上げているからでしょ。この前なんて、徹夜しようとしたボクに睡眠薬を飲ませて、そのせいで寝坊したボクがケンさんに怒られているのを影で笑ったりしてさ…。シェイナって、性格悪いよね」
「人聞きの悪いこと言わないで。私は親切でしてあげたのに」
「っつ! そう言ってまた蹴るし。どこに親切があったのさ」
シェイナは両手の指を祈るように絡め、愛らしい表情で言った。
「ウチの大事な大事な従業員のマコト君が、一睡もせずに明日を迎えるだなんて、そんな馬鹿で無謀で愚かな行為に及ぼうとしていると知ってしまったら、とっても優しくて可愛いと評判の看板娘たるこの私シェイナちゃんは、黙って睡眠薬入りのジュースを差し出さずにはいられないじゃない」
年下なのに礼儀知らずで負けず嫌いの上に、恩着せがましいなんて…。
彼女の清々しいまでの独り善がりに呆れ返った誠は、床に顔を伏せた。
「何か言った!?」
床を踏みしめる彼女に、「起こしてくれてありがとうー、シェイナはとっても優しいナァー」と誠は自棄っぱちで返した。
「心がこもってないわね。もっとこう笑顔で――」
「シェーイナちゃ~ん♪ マコっちゃん起きたぁー?」
シェイナの恫喝を遮ったのは、彼女よりも軽やかな女の声だ。彼女はトランスレーターを使わない。誠と違って、一々機械を経由しなくて済むから、シェイナにとっては面倒が無くていい相手だ。
その彼女も、ペレック家の居候の一人だ。一ヶ月前に誠と共にふらりと現れ、家業の手伝いをしてくれている。
誠にしても、この女にしても、その素性は謎めいているが、シェイナとしては気のいい家族が増えたことを喜んでいた。特にこの女――エリとは、何かと気が合うのである。
何せ、以前誠に飲ませたジュースに睡眠薬を入れようと提案したのは、他ならぬエリだったのだ。
「あ、うん! 起こしたよー!」
「エリさんも起きてるんだ?」
誠は言ってから首をかしげた。いつもこんなに朝早くに起きるのは、自分とシェイナくらいのものなのである。
エリは、この家の主人達と夜遅くまで酒を酌み交わしているから、寝坊の常習犯だったのに…。それが今日になって早起きだなんて、どういう風の吹き回しなのだろうか?
「アレ、言ってなかったっけ? 今日からエリさんも一緒に、パン作りの練習するのよ」
パン作り。
そう。ペレック家の家業とは、ベーカリーである。
シェイナの父が主人であり、パン職人。母はバリスタとしてカウンターに立ち、レジと平行して店内で美味いコーヒーを淹れている。一人娘のシェイナは、学校から帰ればすぐに母とレジを代わる孝行娘――といった具合だ。
誠達が住み込みで働くようになってからは、このサイクルにも余裕が出てきていた。長年雇っていた弟子が独立したばかりだったので大助かりだ。
日本の中学校に当たる前期中等教育機関――コレージュに通うシェイナは、来年から日本の高校で言うところのリセに入る。リセでは入学時点から進路を選ぶので、彼女は実家を継ぐ為に職業リセでパン職人への道を専攻し、ゆくゆくは女性パン職人になるつもりだ。
そんな彼女は、気の弱い誠を捕まえて、早朝からパン作りの練習に勤しんでいる。俗に言う朝練というやつだ。昨日までは彼女ら二人きりだったが、今日からはエリが参加するらしい。
「聞いてないよ。まぁ、エリさんがいてくれたら安心……」
そう言いかけたが、じゃないかー! と誠は一人頭を抱えた。
エリはトラブルメーカーなのである。イタズラはするし、トンチンカンなセリフで人を困惑させるし、そして何より、シェイナよりもワガママだ。
そんな問題あり過ぎる二人を早朝から相手にするというのは、何の苦行だろうか。
誠は大息をついた。
そうして一人で一喜一憂している彼に、シェイナは訊いた。
「そう言えばさぁ、マコトがずっと耳に付けてるそれ、ドコで売ってるの?」
トランスレーターを指差す。
誠はギクリと肩を震わせた。そのままぎこちなく首をかしげ、「え、あー、いや、コレは~何と言うかぁ~…」と声を上ずらせて惚けてみせた。
売り物ではないとは言えない。どうして持っているのかも言えない。どこが、誰が開発したのかなんてことも、口が裂けても言えない。言ってはならない。
彼の脳裏に、〝情報漏洩〟と〝死刑〟の二つの単語がダブって見えた。
「日本にしか売ってないのかな?」
「え、何で日本?」
「だって、そういう麻姑掻痒って言うの? 痒いところに手が届くような画期的な発明って、日本の専売特許じゃん。いいなぁ~、早くフランスにも輸入されないかなぁ~」
「………」
そうだったー! ここはフランスだったー!
自らの頭の固さに、誠は心底落胆した。いくらインターネット全盛の現代でも、他国の全ての情報が個人に届いているわけではない。明らかでない限り、嘘の一つや二つついてもバレやしないのである。
「とにかく朝は時間が無いんだから、早く着替えて厨房に下りてきなさいよっ」
呆然としている彼を置き去りにして、シェイナはグルニエ備え付けの折り畳み式階段を下りていった。
祭りの渡った後のように静まり返った空間で、誠はボリボリと頭を掻いた。
早く支度しないとまた怒られるな。などと思いながら、誠はズボンを下ろした。
「マコト、それとね――」
「あ――」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
何が起きたのかは分からない。
ただ一つ覚えているのは、間近でカンテラを見た、それだけである。
* * *
「おはよう、マコっちゃん♪」
「……おはようございます、エリさん」
「おでこに湿布なんて張っちゃってー、ついに三つ目が開眼しちゃったのかな?」
「……そうだと良かったんですけどね。相変わらず足しか速くありません」
「…ワーオ。そのご機嫌、低血圧ってわけじゃなさそうね」
「分かってるくせに…」
「アハハハハー…」
エリ・シーグル・アタミ。
それが早朝にも拘らず、陽気に挨拶してくれる女性の名前だ。歳は二十一になる。
スレンダーな体躯の美女で、彼女曰く長いポニーテールがチャームポイントであるらしい。黙っている時の見た目とは裏腹に、言動はひどく感覚的で、理知とは縁遠い性格ではあるが、とても芯の強い人だということを、誠は知っている。
知っている。
知っていることが、他にもある。
彼女の素性だ。
彼女は、非政府組織にも属さない、この世の裏で息づく巨大組織――通称ネイムレスの一員なのである。
ネイムレス――構成員からただただ組織と呼ばれるそれは、俗に言う超能力者の集まりだ。彼らは独自の論理から、世界の概念を表と裏に分離し、自らを裏世界の住人――即ち七十億人が住まう表世界とは縁を切った者達であると定義して、活動している。
これだけを聞けば、彼らの電波っぷりに鳥肌が立ってしまうのも納得だが、彼らは本気で、そしてその考えの下に、今ある世界の循環を維持してきた。表世界の脅威となり得る超能力者を排除・拘束し、表世界に痕跡の一切を残さぬまま安寧を守ることが彼らの意義である。
また、まだ何者にも染まっていない超能力者の発見と保護も主任務に置かれている。それは超能力者――彼らの言うところのヘレティックが、この世界においては神秘そのものであることに起因している。
人の域を超えた力を持つ彼らは、言うなれば人外である。それは何も知らない一般人にしてみれば差別や虐待、ひいては虐殺の対象であり、宗教的観念をもってすれば異端である。
故に彼ら組織は、同属である全ての能力者――異端者を保護し、表世界から隔離する道を選んだ。表世界に混乱を齎さぬよう、表世界を恨まぬよう、恨まれぬよう、世界への反逆を企てるヘレティックを内々に処理してきたのである。
ヘレティックには、ヘレティックを、だ。
存在するはずのない者が、存在するはずのない力を使い、存在するはずのない物を作り、利用し、存在するはずのない者から存在する者を守り、さながら存在しないように姿を消す。
今ある世界を揺るがぬものとする為の集団。
それが、組織――ネイムレスだ。
「寝起きは最悪っぽかったけど、よく眠れたかな?」
「はい。睡眠時間は減ってますけど、疲労感でぐっすりです」
「そりゃーえがったえがった。あれだけ働いてるんだから、すぐに眠れるのは健康な証だよ」
「あの、少しいいですか?」
そう言ってシェイナの目を盗み、厨房から離れた通路の隅にエリを連れ出す誠も、ヘレティックであり、組織の構成員だ。
彼らは先の作戦――マデイラ諸島のとある無人島で遂行した任務の帰りに、マリアナ海溝にあった本部基地の放棄を聞かされた。帰る場所を無くした彼らは、組織のメッセンジャーが現れるまでの間、表世界のノーマルに扮して生活することになった。
今は、それからおよそ一ヶ月が経ったところだ。
「このトランスレーター、シェイナの中では日本製ってことになってるんですけど、大丈夫ですか?」
トランスレーターは、組織が開発した。
ヘレティックは個々によって発揮する超能力が異なる。中にはノーマルと違って、脳の一部に大規模な余剰領域を持つ者が存在する。そのほとんどが表世界では異端視されてきたほどの高次の頭脳を持った科学者で、彼らは現代科学の数十から百年先の技術を想像し、完成させてきた。
いわゆる、天才である。
ヘレティックの技術は表世界へ流出させてはならない。それも組織が掲げる規則の一つである。ヘレティックが開発した物は、ノーマルには手に余る代物ばかりだ。ヘレティックの科学者が世に出れば、確かに科学の進歩はより目覚しいものへと変貌することになる。しかしそのスピードはノーマルを置き去りにし、七十億人をヘレティックの家畜へと変えることにもなってしまう。
そして何より、優れた技術力は、戦争の火種になる。
組織はそれを恐れ、彼らが作ったこのトランスレーターでさえも、現時点開発不可技術として、流出厳禁のレッテルを貼っている。
トランスレーター一つで起きてしまう戦争というものを見てみたいものだが、組織法というものは、誠達構成員に定められた鉄の掟なのである。犯せばやはり、〝情報漏洩〟で〝死刑〟なのだ。
「相変わらずマコっちゃんは心配性ねぇ~。大丈夫よ、皆には私から伝えておくから。あ、ついでだし、マコっちゃんは日本の大手電子機器メーカーの製品開発責任者の息子ってことにしておこうよ」
「ボ、ボクがですか…!?」
「だってー、その方が何かと都合が良いじゃない。日本のことは、つい最近まで日本人だったマコっちゃんが一番よく分かってるでしょ?」
組織に入ったヘレティックに国籍は無い。元から存在しなかったものとして、組織に全ての個人情報を抹消させられる。
だから誠にも、日本国籍を証明するものは何も無い。残されていない。
しかし以前の誠ならいざ知らず、今の彼にはそんな話は些末なことでしかなった。
「でも…、ボクには記憶が……」
記憶が――無い。
早河誠には、記憶が無い。失った。
二〇一二年――つまり今年の五月の末。
誠は事故に遭った。脳の記憶野に傷を負ってしまった。それにより、健忘症――俗に言う記憶喪失になった。
誠の場合、彼自身が彼自身に関わることを分からない部分健忘と呼ばれる症例で、現在は一般常識だけが彼の記憶の全てとなっている。記憶はいずれ自然に戻る可能性が示唆されているものの、それが〝いつ〟になるかは、医者にも皆目見当がつかない難解な問題である。
しかし誠は、先の作戦において後頭部を強く打った。それが功を奏したのか、記憶の一部を取り戻すことに成功した。
それにより、自らの名前が確かに〝早河誠〟であることと、記憶を失う原因になった事故が何故起きたのかということを思い出した。
彼は、トラックに轢かれた。学校帰りの夕刻、三叉路で〝少女〟と語らっている最中に、トラックの暴走に巻き込まれてしまったのだ。
だが、それを思い出したところで、誠の自らへの苛立ちが晴れることはなかった。
そうして例によって例のごとく俯いて唇を噛む彼に、エリは言った。
「それでもさ、常識だけは覚えているんだったら、少しくらいは大丈夫なんじゃないかな。このセーフハウスも近い内に離れなきゃならないんだから、それまでくらいはさ」
セーフハウスとは、諜報機関等が短期的に利用する隠れ家を意味する。このベーカリー――〈ペレック〉は、組織のセーフハウスそのものである。
誠達は、組織のメッセンジャーが現れるまでの間、この場で待機するよう命じられている。
「…分かりました」
「顔は納得してないねー」
八の字を寄せてうなずく彼に、エリは肩をすくめた。
しかし彼は、「でも、やれることはやらないと」自らの胸の内に言い聞かせるように、さながら自己暗示のように、「ボクはこれでも、組織の一員ですから」
「仕事なら、しょーがない?」
「そういうものでしょう」
「でも、マコト君の本当の気持ちはどこにあるのかな」
「ボクの…?」
「ヘレティックというカテゴリー一つで、組織への参加を強制している私達が言えた義理じゃないんだろうけど、マコト君は私達とは違うじゃない。私達は誰かに強制されるよりも先に、進むべき道を私達自身で選択した。でも、マコト君は状況に流された結果、ここにいるでしょう? マコト君はまだ、自分で何も選んでいないんじゃないのかな?」
始まりは、そうだった。
日本のある日の夜、エリが属する組織の戦闘部隊――第一実行部隊は、さる病院に入院中だった誠を拉致した。
名目は、〝彼がヘレティックである可能性がある〟という漠然としたものだった。
その情報提供者はバーグという謎の人物だった。性別は判然としていない。
バーグは突如として組織の衛星にアクセスし、組織の長――ボスに対して、組織さえも知り得ていない情報を次々に無償で提供した怪人物だ。情報は全て、確かなものだった。
予期せぬ外部協力者の登場に、ボスが一抹の不安を抱いたのは言うまでもない。
中でも、誠の件だけは異例中の異例だった。何せ、彼を保護し、組織本部で検査した時点では、彼はヘレティックではなかったのだ。
つまり組織は、ヘレティックではない者を拉致してしまったということだ。
ヘレティックの最大の定義は、染色体の一部に覚醒因子と呼ばれる特殊な核酸が含まれていることにある。覚醒因子はセンスの源とされているので、ノーマルには決して存在しない。
当時の誠には、その覚醒因子が無かった。
しかし組織は、ヘレティックのセンスの上限を明確化する目的として開発した覚醒助長薬を彼に投与した。覚醒因子はアドレナリンの分泌と共に活性化するので、彼には激しい運動と、過度の恐怖による心拍数の上昇を促した。
奏功し、誠はヘレティックとして覚醒した。
そこで疑問が生じた。それは今まで抱いていた猜疑心を、より決定的にすることになった。
〝何故バーグは、覚醒前の誠を、ヘレティックであると断じることができたのか?〟
しかし分からないまま、エリ達は誠に組織への参入を強いらなければならなかった。
彼がヘレティックである以上、野放しにはできなかった。
彼女らの提言に、誠は当然拒否を主張した。
だがケンとの一悶着や、中国の山間部での任務を経て、誠は組織へ入隊することになった。
彼女らからしてみれば、酷く強引なお膳立てをしたつもりだ。彼の決意も、まんまと乗せることができたという気が、無きにしも非ずであった。
か弱い子供を戦場に連れ出して、良心が痛まないわけではなかったが、バーグの意図や、彼の力が絶大であると知った以上、こうする他に道は無かった。
選びたくない道を選ばしてでも、そうせざるを得なかった。
「…選びましたよ」
少年は、俯いたままそう言った。力強く拳を握り、エリの罪悪感を消し去った。
流れのまにまにここにいる彼だったが、先日の無人島での戦闘で、一筋の希望――彼が彼自身の意思で戦わなければならない理由を見出していた。
「それって――」
「二人共、何してんの! 始めるわよ!」
シェイナが厨房から顔をのぞかせ、二人の様子に怪訝そうに目を細くする。
エリがすかさず、「はいはーい、センセーお願いしまーっす♪」と手を振って陽気に答えると、シェイナは少しの間を置いてから首を引っ込めた。
「マコト君、行こうか」
「………」
* * *
金糸を織り込んだような艶やかな髪が風と戯れている。同じく長い時間をかけて研磨されたような金の瞳が、スマートフォンの画面に釘付けにされている。
早朝にセーヌ川を歩いて渡る中、画面を止め処なくスクロールさせる白い指がふと止まった。
止められたと言ってもいい。
画面が、着信を示しているのだ。
眉間にシワを寄せると、すぐさま拒否ボタンをタップして電話を切った。さらに相手の電話番号を着信拒否に設定した。
ウェブ画面に戻した途端、再び電話がかかってきた。知らない番号だ。すぐに相手が、今拒否したばかりの男だと分かり、別の人間の電話を使っているのだと推断した。
ギッと歯軋りを立てた後、仕方なく応答ボタンをタップした。
『どこへ行かれるおつもりですか?』
予想どおり、拒否した男の声だ。
相も変わらず、執拗で、無作法に肌にまとわりつくような、気色の悪い声音だ。
『車を向かわせます。あまり御一人で動かれるのは困ります』
「………」
『…これは、お――』
再度、切った。
続く言葉は分かっている。
それを聞けば、一息に動きが鈍ってしまう。地面に足を縫いつけられるようであればまだいい。問題は、心が言うことを聞かなくなってしまうことだ。
自らの意思を放棄し、打ち消し、忽ち隷従してしまう。
まるで魔法で、まるで呪いだ。心地好く、狂おしい、しがらみだ。
それを振り払い、歩を刻んだ。
時間に遅れると、余計に厄介なことに巡り合いそうな予感がした。
* * *
白い制服。腰から下にエプロン。頭にはバンダナ。
そんな格好で、男女が厨房でパン生地を捏ねている。
「そうそう、麺棒でそうやって生地全体を満遍なく伸ばしていくの。エリさんは筋が良いね」
「イエー♪ 両利きのお蔭かなぁー」
頬に小麦粉をつけてVサインするエリの横に、シェイナはジトッとした目を向けた。
「それに引き換え、マコトは全く成長しないわね。グズで無能って、救いようがないわよ」
誠のパンは捏ねこみが足りていないせいか、生地が上手く伸びず、無残にも麺棒と台にそれぞれくっついてしまっている。
鼻で笑う彼女に、誠は反論した。
「ボ、ボクは別にパンを作りたいわけじゃないよ! この朝練だって、元々はシェイナが一人の厨房は暗くて怖いからって――」
「こ、怖くないわよ! ただ何かで大怪我した時の為の保険よ! 厨房は戦場なの!」
「じゃあ、この前ボクが間違って厨房の電気を消しちゃった時、凄いスピードでテーブルの下に隠れたのは何?」
「そ、それはアンタ、アレよ! 成績優秀なシェイナちゃんは、防災訓練も手を抜かない優等生だから、ついつい反射的に隠れちゃっただけよ! アー、アレは間違ったナー!」
「へー知らなかったよ。ボクはてっきり、シェイナはポルターガイストと勘違いしたんじゃないかと思ってたよー」
「バ、バッカじゃないの!? この歳になって幽霊なんてものを信じるなんて有り得ないでしょ!」
「そうだよねー、有り得な……」
誠の言葉が不自然に止まり、シェイナは小首をかしげた。よく見ると彼の視線は彼女を見ておらず、わずかに右へ逸れているのである。さらに表情も変化。半開きだった口は次第にわなわなと震えだし、瞳もカタカタと揺れ動いて焦点が定まっていない。
まるで、目の前に突如として訪れた現実に当惑しているようだ。
「え…何よ……?」
その問いかけに答えるように、誠は足を引いた。
「ちょ、ちょっと、ちょっと何よ、え? いやいやいや何よ何なのよドコ見てんのよ!」
シェイナは身体を動かせなかった。
誠は確かに、自分の後ろにいる〝何か〟を見ている。その〝何か〟とは何だ? あの戦慄を覚えているような常軌を逸した相貌は、明らかに〝人間ではない何か〟に向けるそれだ。
〝人間ではない何か〟……。
〝人間ではない何か〟……。
〝人間ではない何か〟……。
いくら思い浮かべてみても、これまでの話の流れを考慮すれば、否応無しに、必然的に、展開的に、その正体をある一つの非科学的カテゴリーへと収束させてしまう。
ゴクリ……。
シェイナは目を閉じ、大丈夫大丈夫と念じた。そうしてようやく歯を食いしばり、潤む瞳を懸命に宥めながら、すっかり固まってしまった首で振り返った。
そこで見た光景に、言葉を失った。
失いました。
そりゃあもう、失うしかなかったよね。
あれだけ時間をかけて後ろを向いたのにさ、何も、なーんにもいなかったんだから。
アッハハー。ほんっと傑作、こりゃ赤面もんだよねー。
もう笑うっきゃない! 笑うっきゃないよ!
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
「ぶぷぷぷぷ! シェイナの首がギコギコギコって! ぶっぷぷぷぷーっ!」
「…! ……! ……~~~っ!!」
麺棒を両手に暴れ狂う少女と、逃げ惑う青アザだらけの少年。
そんな二人に、〝空気を読まない選手権代表〟に出場すれば間違いなく上位入賞するだろう女が、使い古されたセリフを一つ。
「よっ、御両人、仲イイねぇー! 付き合っちゃえばー?」
「「絶対イヤっ!!」」
仲良くハモる彼らは口々に言った。
「誰がこんなグズで無能でデリカシーの無い男と付き合うのよ!」
「ボクだって、シェイナみたいな子は趣味じゃないです! それにボクには他に、その、す、好きな子がいますから!」
衝撃の告白に、「え、そうなの…?」とシェイナは目を剥いて驚いた。
誠は耳まで赤くしながら、無言の行を貫く。
甘酸っぱい若人のやりとりにも、そろそろ暗雲が立ち込めてきていたので、「ま、まぁーね、マコっちゃんもこう見えて男の子ってことだよ」とエリがフォローを入れる。
誠はさらに顔を赤らめて、彼女らから距離を置いた。
そんな彼をよそに、「もうちょっとセックスアピールしたら、戦況は変わるかもしれないよ」とエリはシェイナの耳元でつぶやいた。
「な、何の戦況ですか!」
「さぁ~♪」
エリには二人の体温の高ぶりが、文字どおり一目瞭然だった。
彼女には《サーマル・センサー》というセンスの一種がある。それは彼女の瞳や、空間把握能力に付随された力だ。彼女は本来生身の人間が決して見ることのできない赤外線を目視・把握することができる。
目蓋を開けて眼球に力を込めれば、視界の全域にサーモグラフィーの熱分布のような光景を見ることができる。また、目蓋を閉じて意識を集中させれば、閉ざされた空間の外――限られた一定の距離まで、様々な熱量を把握することができる。
つまりエリには、肉体のある器官を外から見つめているだけで、それが激しく運動している様子がよく分かるのだ。
そうしてニヤニヤしている彼女の視界に、見慣れた熱分布が近付いてきた。熱源は、気だるそうに頭を掻きながら声を発した。
「テメーら、朝っぱらからウルセーぞ」
銀髪のウルフカットに白い肌、アンニュイな三白眼に高い鼻。
シェイナの中ではイケメンに分類される強面の彼の名は、ケン。涼やかな顔の割りに、鍛え上げられた肉体にはそそられるものがある。口の悪さもまた、不良っぽくてイイ感じだ。
エリ同様、ファミリーネームは知らない。
シェイナはふと頭をもたげた。
そう言えば、エリ達とここに現れた連中のファミリーネームは誰一人聞いていない。誠のそれさえも知らない。
自己紹介の時に、上手くはぐらかされた…?
「良いじゃないか、ケン。若者は元気に限る」
「ドウジ君、この店のルールブックはアタシだよ。主人が無口だからって、あんまり好き勝手にされちゃあ困るね」
「おっと、オカミさん。すまんすまん、いつもの癖でな」
ケンに続いてシェイナの母と現れたのは、ドウジという巨漢だ。アジアで言うところの、ボウズという頭をしており、頭部には太い眉毛と短い睫毛以外に毛髪と呼べるケラチンの塊が見当たらない。
珍妙と言えば、珍妙だ。
だが、彼の後ろにはもっと珍妙で、希少価値が高そうな巨人が無言で立ち尽くしている。
名はウヌバ。
黒い肌に、ピュアな瞳。眉毛は無い。それどころか、後頭部と襟足二つ――計三つの短いポニーテール、そして長く垂らした揉み上げ以外の髪は全て剃り落とされている。
初めて彼――ウヌバを見た時、シェイナは度肝を抜いたものだった。
しかし慣れとは恐ろしいもので、ひと月もすれば何とも思わなくなってしまった。不思議だ。
「サクス、アンタからも釘を刺しておいてよ。アンタが引き入れた居候なんだから」
サクス・ペレック――ベーカリー〈ペレック〉の主人であり、シェイナの父だ。
彼女が生まれた三十歳で独立し、パリ郊外のこの地で店を開いた。小さな店構えで、客足もそこそこ。妻のリュシー曰く、サクスのパンは、パリどころか世界に通用するとのこと。
生まれた時からそんな家でサクスのパンを食してきたシェイナは、幼い頃、リュシーの言葉に疑問を持っていた。
ある日、彼女は両親に後ろ暗さを覚えながら、パリの有名なベーカリー――それこそ海外からリピーターがやってくるような有名店に足を運んだ。今朝から続く行列に並び、〈ペレック〉でも一番人気のパン・オ・ショコラを買って食べた。
シェイナは一口齧って、それ以上口に入れるのを止めた。
美味しかった。
確かにこの店のパン・オ・ショコラは美味しかった。
でも、〈ペレック〉のパン・オ・ショコラと比べれば、反吐が出るほど不味かった。行列に並んでまで買う価値など無いほど、歴然の差があった。
その日シェイナは家に帰ると、母に抱きついて御免なさいと連呼して、泣きじゃくった。
彼女がそれ以来、ブーランジェールを目指しているのは言うまでもない。
そんな彼女の、そんな父サクスは、「……ドウジ」と巨漢に声をかけた。すっかり肥えた身体の前で腕を組み、「今夜のつまみは何がいい?」
「ちょっと!」
リュシーの怒声と裏腹に、早朝から笑顔が咲いた。
本日も〈ペレック〉は順調に稼動する。
* * *
「マコト、手伝ってくれー!」
「は、はいっ!」
「マコト、これ持ってって!」
「重いっ、重いよコレ!」
「マコっちゃん、ジュース欲しー!」
「マンゴーコーラで良いですよね!?」
「坊や、マーガリンどこに置いたか知らないかい!」
「目の前にあります!」
「おいコラ、マコト! チンタラやってんじゃねぇぞ!」
「これ以上は禁忌を犯しかねません!」
開店時間の七時が過ぎて、今朝から並んでいる大量の客が店内に雪崩れ込んできた。
昔は地元のしがないベーカリーだった〈ペレック〉も、今ではセレブ御用達の超有名店へとメタモルフォーゼしていた。というのも、地元出身のハリウッド俳優が、雑誌のインタビューで勝手にこの店を紹介してしまったことがきっかけだ。
対して、思わぬ店の大繁盛にリュシーとシェイナは歓喜していたが、サクスの機嫌は日に日に悪くなる一方だった。
何故かと言えば、理由は実に単純明快で、実に人間的だ。
面倒臭いのである。
サクスとしては、しがないままで良かったのだ。貧乏でもなく、金持ちでもない。ただ一定量のパンを作って、売れれば、それで良かったのだ。
そのサイクルを乱されては、逆に商売上がったりだとさえ思うほどだ。
だから本日もサクスの機嫌は悪い。
ひと月前に誠達が現れて、働き手となってからは良好の兆しが見えているが、それでもこの時間帯の彼は、旧友のドウジでさえも近寄りがたいものがあった。
そのただならぬ雰囲気に肝を冷やしながら、誠は厨房とレジカウンターを何度も何度も往復していた。
彼の役目は、有り体に言えば雑用で、平たく言えば使い走りで、俗に言うパシりである。
「な、何でいつもいつもボクばっかり…」
「まぁまぁ、これもトレーニングの一環だと思えば楽な方だよ」
汗を拭う為のタオルを取りにリビングへ戻った誠は、同情されるようにエリに肩を叩かれた。
「それはそうでしょうけど…。あの、ところでエリさんは、どうしてこんなに忙しい中、優雅にジュースを飲みながらテレビを観ていられるんですか?」
開店から二時間。すでにエリは、一仕事終えたOLのように、だらしなくソファに寝そべって、テレビニュースを観ている。ソファとテレビの間にある背の低いガラステーブルには、先程誠が渡したジュースの入ったコップと、日本製のポテトチップスの袋が口を開けた状態で置かれている。
彼女は白い目を向ける彼に、チップスの油でテカっている口元を拭いもせずに、「うん? だって私はホラ、情報収集が担当だし」
「初耳ですけど」
「そりゃあ初めて言ったもん」
本当にイイ性格しているなぁ、と誠は肩を落とした。
そこへ太い腕が伸び、「俺も初めて聞いたぜ、このヤロー」エリのポニーテールを鷲掴みにして引っ張った。
「アタタタタ! 私のポニーちゃんがぁっ、マイ・ベスト・チャームポイントがあああっ!」
ぬおおおーーーっ! 捥げるーーーっ! と悶える彼女を無視するケンは、さながら大根を引き抜いたように持ちながら、誠に言った。
「マコト、買い出しだ」
雪町ケン。
それがシェイナの知らないフルネームだ。
誠やエリが属する組織の第一実行部隊のサブリーダーである。
その性格は剃刀のようで、高圧的だ。自分の感性や感情に素直で、故に頑固である。
誠が知り得る人生で、初めて相対することになった男でもある。
「またですか…?」
「何だ、口答えかコノヤロー」
「いえ、どうしてボクばっかりなんだろうと…」
「ろくに仕事できねー奴が反抗してんじゃねぇよ」
言って、彼は舌打ちする。いつもの癖だ。気に食わないことがあれば、必ずやる。
その度に誠は萎縮してしまう。
彼の様子に〝自称・空気を読める女〟――エリが、後頭部を押さえながら呑気に言った。
「通訳するとね、買い出しはマコっちゃんにしかできないと言ってるのよ」
「通訳って何だ。外人扱いしてんじゃねぇよ」
「ボクにしか? これじゃあただのパシりじゃないですか」
「おい、無視してんじゃねぇぞ」
「パシりじゃないよ。だけど私は情報収集しなきゃだし」
「だからちげーだろうが。サボってるだけだろテメーは」
「それにリーダーは力仕事専門だし、ウヌバはお金の感覚分からないから警察沙汰になっちゃうし、居候の立場でここの家族をパシらせるわけにはいかないし、ケンはキャンキャンと吼えるばっかだし」
「やっぱりパシりなんじゃないですか…」
「そこじゃねぇだろうがっ」
怒鳴るケンは二人の頬っぺたをつねった。
そこへ、テレビニュースが新たな事件を伝え、一同は注目した。
『――先日白昼にパリで起きた発砲事件ですが、昨夜、事態は急展開を迎えました。モーリス記者と中継が繋がっています。モーリス!』
『私は今、パリの五つ星ホテルの一つ、オーランドホテルの前まで来ています。なんとあの発砲事件の被害者は、このホテルを経営しているアメリカの大財閥――オーランド・グループの現当主シューベル・オーランド氏だったのです!』
レポーターがやや興奮気味に伝える。
誠にはそれが分からなかった。
確かに一昨日か、一昨々日か、真昼間のパリで銃撃事件が起きたと言って、お客が騒いでいたのを聞いた。それにより二人が死亡したとも聞いた。中東のテログループによる無差別攻撃かもしれないという推測も、客同士の中で浮上していた。
怖いな。この辺りは大丈夫だろうか。
その程度の心配だった。
被害者が大物だったということを、このニュースは伝えているのだろうか。
誠の知らない常識が一人歩きしていた。いや、誠が常識の波から一人遅れているのだろうか。
「オーランドか。最近やたらと幅を利かせてやがる新興財閥だな」
「有名なんですか?」
「有名も有名、チョー有名よ。シェパードって会社は知ってる?」
知らないの? と言われないのは有り難かった。
誠はあくまで記憶喪失患者で、常識だけを覚えていると言っても、それさえも不確かなのだ。
知ってて当たり前じゃないかと言われないのは、心が痛まなくて済む。
「はい、アメリカの車会社ですよね。〝世界一のフェイスフルドッグを貴方に…〟って、前にCMで見ました」
警察犬として名高い牧羊犬――ジャーマン・シェパード・ドッグを模したデザインに、オーランドの〝OR〟の字体が重なった企業ロゴが、誠の脳裏に過ぎる。その映像は確か、記憶を失う前に観たはずのものだ。
自分の記憶が順調に回復していることに、誠は少し喜んだ。
「それそれ。その会社の創設者が、このシューベル・オーランドってオジさん。元々は彼のお父さんがオマーンで油田を発見したことがきっかけで大富豪になったんだけど、シューベルさんはその財力を利用して色んな事業に手を出して大成功を収めたのよ」
「シェパードの他にも会社を持っているんですか?」
「そうねー、有名どころでは、アメリカの破綻しかかった航空会社を買収して建て直したり、イギリスで電機メーカー創ったり、ドバイでカジノ開いたり、最近はここフランスの電力公社の次世代エネルギー開発事業に参画したりって、手広くやってるわね」
「その電力公社から出てきたところを狙撃されたらしいぜ。本人は無傷らしいがな」
「なーんだ、被害者って言うから本人が撃たれたのかと思ったのにー。スナイパー焦っただろうなぁ~」
「そんな呑気な…」
一同は今一度テレビに注目した。
今放映されているのは昨夜の会見の映像らしいが、誠達は昨夜、テレビを観ていなかったので初見である。
『つまり、殺害されたのはボディガード二名であると?』
『そうだ。二人共、私を庇い、力尽きた。私は彼らの為にも、何としても犯人を逮捕したいと願っている。フランスの警察諸君には、全力で捜査に当たって頂きたい』
ホテルのホールが連続するフラッシュで明滅を繰り返す中、シューベル・オーランドという恰幅のよい初老の男が、テーブルに備え付けられたマイクに向かって答えている。
彼の最後の一言に、記者達がわずかにどよめいた。
「ワーオ、またまた随分と大胆な脅し文句ね~」
「どういうことですか?」
「シューベルはアメリカとフランスのミックスだ。そしてこの二国の国籍を持つ多重国籍者でもある。これは組織独自の情報だが、野郎は米仏の政府へ資金援助を餌にコネクションを持つことで、事業を有利に繰り広げてきた。所謂、政治屋達のパトロンって奴だ」
「それって犯罪なんじゃないんですか?」
「献金の論議ってのは、どこまで行っても平行線だぜ。確かに賄賂とも取られるが、社会貢献だって言われればそれまでだからな。市民と政治屋との金銭感覚の違いだな」
「それでもこういう人に関わるのって、政治家にとってもリスクがありますよね。癒着を知られたら、バッシングの的ですよ」
「まぁね。でもさ、今、世界中の経済が混乱しているよね。そんな中、彼のような大財閥からの援助が断ち切られれば、両国共に大きな足場を失っちゃうんだよ。こういう人って、国にとっては大事な生命線なのよね。財力に物を言わせて何でもやっちゃってるってのは納得はいかないけどー」
「つまりフランスは、絶対にこの人には逆らえない…?」
「絶対にってことはねぇーだろうが、誰も好き好んで自分のアキレス腱を切ったりはしねーってことだ。ったく、政治家にとっても市民にとっても、不憫でならねーよ」
同情するようにケンは言う。
誠が首をかしげていると、『続いては、今日の深夜に出港予定の、あの話題の豪華客船についての特集です』とニュースが切り替わった。
「っと、早く買い出し行ってこい! また夜まで混み合うんだからよ!」
「そうだぞマコト。ここの馬鹿二人の面倒は、俺がしっかり看ておいてやるから、さっさと済ませて、さっさと帰ってこい」
一同に巨大な影が落ちる。
影の主の名は――酒顛ドウジ。
シェイナの知らない、巨漢のフルネーム。
第一実行部隊のリーダーであり、組織の作戦部実行部隊総隊長でもある。
そんな〝現代に生ける鬼〟の彼は、ゴキリゴキリと指の関節を鳴らすと、その巨大な掌でケンとエリの頭を包み込んだ。
誠はケンが落とした買い物メモを拾うと、生気を失った瞳をたたえてお辞儀した。ゆっくりと退室すると、断末魔の叫びが〈ペレック〉を劈いた。
* * *
〈ペレック〉から徒歩で三十分ほどの距離に、大きなスーパーマーケットがある。
買い出しというのはどう考えてもパシりということなのだが、買い物という行為そのものを誠は嫌っていなかった。むしろ途方もない懐かしさが、空っぽの胸に染み渡っていく気がしていた。
こうして買い物カゴを片手に、財布と相談しながら商品を手に取っていると、忘れている何かを思い出せそうな、そんな気持ちになるのだ。
あの少女が、いつも隣にいたような、温かい気持ちに……。
「えーっと、後は…オリーブオイル漬けのキャビアにフォアグラ!?」
メモをよく見ると、二品だけ筆跡の違う字でそのように書かれていた。誠はすぐに勘付いた。
「あーっ、またエリさんだ。この前買って帰ったらケンさんに怒られたんだよなぁ…」
先日は、店で新作サンドウィッチを開発するから、スモークサーモンを買ってきてほしいと頼まれた。案の定騙された誠は、『んなもん信じんなバカヤロー!』とケンにエリ共々どやされて、ペレック家の三人にジャパニーズ・ドゲザを披露し、何とか事なきを得た。
「でも、買わなかったら今度はエリさんの機嫌が悪いだろうし……」
それは非常に面倒なことだった。
食べ物の恨みは怖いと言うが、それを抜きにしてもエリという女は生来根に持つタイプで、事に触れては、『あの時は言うことを聞いてくれなかった』などと過去の話を持ち出すのである。そうかと思えば、そのセリフにドギマギしている誠の様子を見て愉しんでいるようでもあるのだ。
とても不思議で、とても変わった女性である。
そんな彼女に最も振り回されているのがケンだ。彼も生来の気質として短気な面を持っており、二人が出会えば――鉢合わせれば、それはもう読んで字の如し、一触即発だ。
あちら立てればこちらが立たぬ。
誠は大息をついて、キャビアがぎっしり詰まった小瓶を手に取った。賞味期限が間近のその商品は特別価格十一ユーロで販売されている。それでも高いが、手持ちの金で買えないことはない。フォアグラもパテで売っていて、案外安くで手に入る。
「……キャビアって美味しいのかなぁ」
誠がふとそんなことを思った矢先、背後に熱烈な視線を感じた。振り向くと、真後ろに真っ黒なスーツを着た強面の男が立っていた。
思わず陳列棚に寄りかかった誠は、「な、何でしょうか…?」とライオンを前にしたガゼルのような目で訊いた。
男は言った。
「何かお探しでしょうか? 宜しければお手伝いしますが」
「い、いや、いやいやそんなのはアレでして」
「アレと申しますと?」
いたいけな少年を追撃する男の耳には、SPなどが使うようなとても現代的なデザインのイヤフォンマイクが掛けられていた。この男を万引きGメンであると気付くのに、そう時間は要らなかった。
フランスのGメンは、日本と違って変装はしないのだ。
「アッハハハハハ、ノー・プロブレム! あい・ばい・きゃびあ・なう・ばいばい!」
空笑いを残し、誠はレジへと一直線に駆けていった。
結局買ってしまった。
誠は手に提げたエコバッグに目を落とした。バッグの底に、キャビアの小瓶とフォアグラパテの缶詰を隠してある。
はぁ…、と溜め息を一つついた後、細い路地に入った。赤茶の古めかしい石畳に、イル=ド=フランス地方の伝統的な石造りの家屋が軒を連ねている。それらゴシック様式の建築に見蕩れていた誠は、「……本当に、日本じゃないんだ、ココ」と独り言ちた。
ここはフランスである。耳に掛けているトランスレーターを外せば、言葉を通じ合わせる術さえ無くしてしまう異郷の地だ。
誠は思う。
未だに記憶が甦らないこんな重篤な自分が来ていい場所ではないはずだと。
両親が行方不明になった海外が何処だったのかも思い出せない自分がいていい場所ではない――と。
「流されちゃったのかな…」
エリの言葉が頭を重くする。
そんなつもりはないのだが、確かにその点は否めないのかもしれなかった。
記憶を失い、知らぬ間に拉致されて、テロに見せかけた騒動に巻き込まれ、センスに目覚め、ヘレティックとなり、その事実を聞かされ、家族の〝今〟を告げられ、自分は孤独であると思い知らされ、混乱した。
組織の都合とこちらの主張がぶつかり合った結果、ケンと一騎打ちを繰り広げることになった。一敗地に塗れると、そこからはまた泥沼に引きずり込まれ、気付けば砲煙弾雨の中にいた。
本物の戦場で組織の成そうとしていることに触れ、人の死を目の当たりにして、生きたいというよりも死にたくないと思い、それよりも早く、速く、足が動いて、自分にできること――やるべきことに勇気を出した。
戦う覚悟を決めたのも、流されたからなのかもしれない。その証拠に、覚悟は不十分で、新たな戦場では情けなくも踏ん切りをつけられず、駄々を捏ねた。
だけど、自分よりも苦悩している男がいたことを知り、臍を固めた。
我武者羅だった。
そんな自分に、組織を裏切った老人が言った。
〝私には解る。キミが、自身の存在を肯定させる為に、〝人間〟を諦めたということが〟
今でも彼の声が、耳の奥で反芻している。
よくよく考えれば、彼の言うとおり諦めたのかもしれない。同時に、人間か否かの是非などは、考えの外にあったのかもしれない。
ヘレティックになってしまったことに悩んだことはあるが、本当に悲しかったのは、記憶だけでなく、それまでの生活を丸ごと失ったことだ。そして、彼との戦いで、失ったものの大きさを思い出した。
喪失前の自分に最も近い場所にいて、最も心を通わせた、顔も名前も思い出せない少女が存在することを思い出した。
自分が表世界にいれば、必ず組織と敵対する者達――〝REWBS〟が自分を襲う。そうすれば身近な誰かが危険に晒される。少女を守るには、彼女の元へ帰るには、自分が強くならなければならない。
帰りたい。でも、今はまだ帰れない。彼女に会うには、まだ……。
それが、流れのまにまに辿り着いた、早河誠の答えだった。
だから誠は思うのだ。
ふと浮かんだ疑問を、即座に払いのけられるのだ。
「いや、ボクは選んだんだ。自分で、自分の道を…」
記憶は未だに戻らない。
それでも誠は、自分の道を、自分の意思で決めた。とても嬉しいことだった。
それを口にすると、どこか足が軽くなった。
今日は何か良いことが起きそうだ、そう思えた。
だから、こちらに向かって歩いてくる人影に対しても、ポジティブな気持ちでいられた。
「あ、すごいなぁ。金髪だ…」
金色の瞳に、少年の姿が小さく映る。すると肌が粟立った。
この気配は、何だ。
思わず足を止めて、彼に対して意識を凝らした。
奇妙だ。
そんな感性の欠片が彼の脳裏を駆けた瞬間、別のイメージが意識を支配した。
自分と彼が歩く道は、ちょうど中間距離で細い十字路になっている。この道を横切るのは緩く傾いた坂道だ。こちらから見れば、左手から右手へと下りていく。
そこを、ベビーカーが滑っていく――イメージだ。
間に合う。
そう思って駆け出すと、向かいの少年が驚いて腰を引いた。十字の中央で止まり、上り坂に向かって両手を押し出した。それと同時に、ベビーカーの前部フレームが掌に収まった。腰を入れ、踏ん張る。
イメージが広がる。車体の運動エネルギーはほぼ殺せたが、赤ん坊は飛び出そうになる。
先んじて左手で赤ん坊を支える。すると右手だけでは車体のバランスを維持できない。力を入れ過ぎたか! 右手をもっとフレームの中央に寄せなければ――
「!?」
左手のあった場所とこちらの背中を、誰かの手が支えている。
ベビーカーの動きは止まった。
思わず息が漏れる。
「と、止まった…?」
耳朶に触れたその声で我に返り、振り向いた。
真後ろに立ち、支えてくれていたのは、あろうことか先程の少年だった。
そうしてこの日、二人の少年は出逢ったのである。