〔プロローグ〕
「ネイムレス」の続編です。
2015/1/29
【第一章】及び【待ち人ラナウェイっ】の改稿に伴い、以降の作品は内容に齟齬が生じている可能性があります。今後改稿する際、本筋から外れることはないでしょうが、内容が一部変更される箇所が数多く出てくるかと考えられます。
以降の作品をご覧いただく場合は、上記の点に留意された上で楽しんでいただければ幸いかと存じます。大変ご迷惑をお掛けいたしますが、何卒ご理解ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
T・F
白昼。連続していた発砲音が止んだ。
ボディガードの肩越しに曇天を仰いでいた初老の男は、「ご無事ですか!」と駆け寄る長髪の男の声が耳朶に触れたのを皮切りに、フランスのオフィスタウンが騒然となっていることに気付いた。
彼と同じように腰を屈め、慌てふためきながら建物の影に隠れる老若男女の様子が、事態の深刻さを物語っていた。
初老の男は、倒れる自分を懸命に銃撃から庇い続けるボディガードと視線を交わらせた。
「……すまん」
主たる初老の男のその一言に満足したのか、ボディガードは左手の力を抜きつつ、文字どおり死力を尽くして、主の胸に被さらないように身体を崩した。ドクドクと背中から溢れる血が、石畳の溝を流れていく。
命の恩人の瞳が輝きを失っていく様を呆然と眺めていると、「頭を打ちましたか?」と長髪男の手が視界を遮った。
長髪男は初老の男を抱え起こすと、そっと彼の後頭部に触れた。傷どころか、瘤もできていない。ボディガードは課せられた責務――要人に傷一つたりとも負わせないという使命を果たしたらしい。
そうして安堵する彼の手を振り払った初老の男は、「わ、私のことはいい!」と周囲に視線を巡らせた。その挙動は、やや常軌を逸している。
「そうは仰いますが…」
「いいと言っている! それよりもアイツは何処に行った!? アイツを一人にさせるな!」
「すでに部下が追っています。今はこの場から離れましょう」
車のガラスというガラスに、蜘蛛の巣が張り付いたような弾痕が残っている。最新の防弾ガラスを採用していたお蔭で貫通はしていないようだ。
初老の男はそんな車の後部座席へ、半ば強引に押し込められた。
目の細いモンゴロイドと、唇の厚いネグロイドが彼の両脇を固める。コーカソイドの長髪男は助手席から、「車の下もチェックしたな」とハンドルを握る団子鼻のオーストラロイドに訊いた。
「問題ありません、出せます」
混乱に乗じて車体の底に爆弾を仕掛けておき、エンジンを掛けたと同時にそれが爆発。
よくある暗殺やテロの手口だ。
初老の男はそんな陰湿な手段から、何度も運良く逃れてきた。嫌になるほど――何度も。
「何処へ行くつもりだ」
走り出す車の中、主の問いに、長髪男は冷静に答えた。
「一先ずはパリの警視庁に向かいます。ホテルへ引き返すのは危険です。何せこれは、れっきとした〝暗殺未遂〟という大事件なのですから」
主は苦虫を噛み潰したような顔で、「…公人ならば当然の対応、か」
「万事抜かりなく事を進めていきましょう。それが、最後にはあなたのお立場をお守りすることになります」
「気に食わん物言いだな。立場を気にしているのはお前だろうに」
鼻で笑う長髪男が振り返る。腕が初老の男の顔へと伸びる。その手には、見慣れぬ形をした大きな拳銃が握られている。そして白手袋の人差し指がトリガーを引き――
「!」
バスッ バスッ バスッ……!
あまりに突然のことで、初老の男は眼球が乾いてしまうほど長い時間、厚い目蓋を見開いていた。視線を銃口に向けると、その仄暗い穴は彼を指していなかった。
では、今先程の、三度の銃声は誰に対して向けられたものなのだろうか?
その答えは、渋滞に捕らわれた車が止まると同時に明らかとなった。右隣に座っていたモンゴロイドが、座席からずるりと崩れ落ちたのである。脳天は弾けて原形を留めておらず、心臓と、下腹部にも一発ずつ撃ち込まれている。少し遅れて、間欠泉のように赤い飛沫が噴き出し、顔に跳ねた。
よくよく見ると、彼の右手にはスマートフォンが握られており、何故か肘を曲げる形で初老の男の脇腹に当たっている。それを長髪男は取り上げて、「危なかったですね」
「……仲間割れか?」
「正しくは、裏切りです。金でも掴まされたのでしょう。部隊の責任者として、不徳の致すところです。ですが、この男が真実裏切り者であるかどうか見極めるには、またアナタ様のお命を守るには、このタイミングが必要でした。汚してしまった衣装代は、私の給与からお引きください」
長髪男はスマートフォンのイヤホンジャックをモンゴロイドに向けた。そして人差し指をジャック下の電源ボタンに掛けて、押した。
パシッ!
小さな何かが死体の肩を穿った。破けたスーツから血が溢れる。
「極小四ミリ口径の銃弾ですが、このとおり殺傷力は折り紙付きです」
「随分と手の込んだ真似をしてくれる…。このまま車に乗っていて大丈夫なのか」
「…私共を責めないのですね。これは明らかに私の責任問題です」
「お前達のような者共を用心棒に選んだ時から、責任の是非など期待していない。それに、アイツが私一人を置いてお前に任せたのだ。今の私には、お前に頼る他に術が無い」
渋滞が続いている。ジッと前方を眺めていた長髪男は、おもむろにドアを開けた。ネグロイドも同様にして降り、初老の男を連れ出した。
「先に行く」
オーストラロイドにそう言い残して、長髪男は初老の男をモンゴロイドと挟むようにして走り出した。車同士の間隙を縫い、道路を横切ると、路地裏へと逃げ込んだ。
初老の男の頬に、一粒の雨が落ちた。
* * *
女はついに袋小路へと追い詰められた。
狙い澄ましたかのように降り注ぐ豪雨が視界を霞ませて、眼前にゆらりと立ち塞がる何者かの顔が見えなかった。そんな中、「そうか…貴様のせいだったのか!」と女はようやく理解したのだった。
――――殺しを生業にしている彼女の下に依頼があったのは、今から数えて丁度一ヶ月前のことだ。
破格の依頼料でターゲットに選ばれたのは、とある財閥の当主である。大金に見合うだけの価値あるその大物の顔写真を見て、女は背筋を粟立たせたものだった。
依頼を受けた時、いくつかの資料をクライアントから頂戴した。その内の一つに自然と目が留まった。〝失敗〟の二文字を意味するその内容について訊くと、クライアントは淡々と経緯を説明した。
〝私はこれまでに二度、アナタの同業者に依頼した。内容はどれも同じだ。しかし何故か、返り討ちに遭ってしまっている〟
クライアントは、五万ドルを依頼料とし、成功報酬はその倍額を払うと約束してくれた。それどころか、この業界から安全に手を引けるよう計らってくれるという誓約書も用意していた。
人殺しなど、生きる為に仕方なくやっているに過ぎない。
常々そうした葛藤の中にあった女にとって、このクライアントとの出逢いは、人生のターニングポイント足り得る大きな出来事だった。
だから彼女は了承した。
だから彼女はトリガーを引いた。
車に乗り込もうとするターゲットを照準器の中央に納め、開発からおよそ六十年間も使い古されてきた7・62×51ミリメートルのNATO弾を放った。瞬間に分かった。当たったというあの独特の手応えが、脳内麻薬の分泌を促した。
しかし現実を目の当たりにして、その快感は潮のように引いた。
ターゲットに押し被さるようにして、ボディガードが彼の盾となっていたのだ。
女は失敗した。だが高い成功報酬が脳裏を過ると、このまま引き下がることもできなかった。二度三度とトリガーを引いた。荒ぶる精神が、繊細な指先の感覚を狂わせる。車のガラスを割るばかりだった。
逃げ出した。暗殺の失敗は初めてではない。報酬がパーとなるどころか、逆にクライアントから命を狙われるという、ろくでもない喜劇に見舞われたことさえある。
そうして幾度となく辛酸を嘗めてきた彼女だったが、今回だけはこれまでとは別物の恐怖を覚えた。狙撃に失敗した瞬間、ボディガードの内の一人がこちらに気付いて走り出したのだ。目が合ったのである。
偶然だと思った。
長年愛用してきたライフルをその場に捨て置き、女は懸命に逃げた。狙撃位置だったビルの屋上から、ほとんど地続きの隣のホテルへと飛び移った。さらに手すりを乗り越え、最上階の一室のベランダへと降りた。拳銃でガラスを割って部屋に侵入し、驚く宿泊客を威嚇しながら部屋を出た。
そこで息を呑んだ。ホテルのエレベーターから、あの目が合ったボディガードが現れたのである。
女は威嚇射撃の後、エレベーターとは逆方向にある非常階段を下りた。最下階へと下りるのは一苦労だったが、その甲斐あってか上手く路地裏へ身を隠すことができた。
それがボディガードの単なる気まぐれだと知ったのは、すぐ後のことだった――――
「どうして私の居場所が分かった!」
女は冷や汗を降りしきる雨で流しながら、悲鳴に似た甲高い声を上げた。答えない相手に、一発見舞った。弾丸は無数の雨粒を撥ね退け、真っ直ぐ相手へと向かった。
それなのに相手は全く動じず、ゆっくりと歩を刻んだ。
まるで初めから、銃身が歪んでいることを看破しているかのようだ。
「お前は何者だ! 何者なんだ!」
空薬莢が次々と足元に転がる。いつしか相手は膝がぶつかるくらい近くまで寄ってきていた。
女の背中には冷たいコンクリートの壁がある。もう、どうすることもできない。相手の再度の気まぐれに期待するほかない。
しかし言うまでもなく、望み薄だ。
どうして。
その問いかけが口から紡がれようとした時、彼女の胸に穴が空いた。小さな穴を空けられた。すると力というものが全て抜き取られてしまったかのように、彼女は膝から崩れ落ち、その場に倒れ伏せた。
「ここにおられましたか。帰りましょう」
そんなセリフが、女の耳に辛うじて届いた。灰色の世界で無色の雨がアスファルトを跳ねる中、自分を殺した相手が踵を返す様子に見入っていた。
とりわけ相手の髪の色が、彼女の心を奇妙なほどくすぐった。
その色は、私が手にしたかった色。
私をしがらみから解放させてくれる、約束の色。
「綺麗な色……」
雨はしばらく止まなかった。
相変わらず主人公が登場しないという始まりで申し訳ありません。
やっぱりちょっとでも出し惜しみして、格好をつけたいんですよねw
今回も恥を欠(書)かないよう、頑張って連載していきます。
よろしくお願いします。
T・Fでした。